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摠見寺 - (2012/06/27 (水) 00:55:58) の編集履歴(バックアップ)
- 安土城炎上の際にも消失を免れたが、江戸時代末に伽藍を焼失。
現在、楼門と三重塔は現存しているが(いずれも重要文化財)、
楼門は
滋賀県水口町の近江柏木神社から、
三重塔は同甲賀郡石部町の長寿寺から移築したものであると判明している。
- 1854年(嘉永七年=安政元年)十一月十六日朝、堂内からの出火により本堂焼失。
伽藍配置等
- 現存する二王門、三重塔のほか、本堂、鐘楼、総門、また本堂の東側に
鎮守社と拝殿があった。これは中世の密教寺院にもっとも普通に見られる構成とのこと。
(zsphereコメント:鎮守社があった? そして密教寺院? 摠見寺って禅寺じゃないの?)
- 伽藍は通常の寺院と同じく南面しているが、参道が慶大を東西に横切る特異な配置。
この参道は安土城の百々橋口道でもあり、城と城下町を結ぶ地点で、
江戸時代の絵図にはここに高札、下馬札が立てられ、
馬繋(=馬屋)があったことが確かめられる。
- 安土山の、城としての構造上、西曲輪もしくは西の丸と呼ぶべき
防御上の重要な場所に建っており、
本来守りの要となすべき場所になぜ寺を建てたのかは不明。
本堂
- 本堂内部は、礼拝場所である外陣(礼堂/らいどう)と、本尊を安置する内陣(=正堂)に
仕切られたもので、近江の密教寺院本堂に数多く残る形式。
特に甲賀郡石部町にある
長寿寺本堂と酷似している。
- 本来、密教寺院は一重の仏堂だが、フロイスの「諸仏の上に仏龕を設けて~」の記述や、
江戸時代の記録に「本堂の上に二間半四方の閤(=閣)があった」とされていることから、
二重仏殿(=二階建て)だったと考えられる。
おそらく、甲賀から移築された際に大きく改造されたのでは、とのこと。
- 信長の死後は本尊が二階に移され、一階には信長の木造が安置されていた模様。
二王門
- 二王門は二階建ての楼門。安土城炎上以前からの姿を留めるが、
有事の際に城の防衛に役立つような設計ではない。
その他の建物
- 本堂西側、桃山時代には豊臣家によって庫裏と書院が建っていた地点に、
能舞台が建っていたと見られる礎石がある。
『信長公記』などに、摠見寺内の能舞台について言及があるが、
江戸時代の記録や絵図には見られず、おそらくこの場所が能舞台であったのを
改修されたものと考えられる。
盆山
『信長公記』では、天主一階部分、信長の日常生活スペースである御書院に関する記述で、
「是には遠寺晩鐘の景気かかせられ、其前にはぼんさんををかせられ……」
という記述で触れられている。
参考
『信長と天皇』今谷明
『信長 徹底分析十七章』小和田哲男
『安土城・信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所編
『信長と安土城』滋賀県立安土城考古博物館図録