- 七重の天守には、天人影向図のほか、三皇・五帝、釈迦・孔子の十大弟子、
商山四皓(しょうざんしこう)、竹林七賢人以下が描かれていたという。
(信長はこれら東アジアのどの偉人よりも上に立つ、というアピールの意図があったのではないか、と著者)
- 城下町には街道が強制的に引き込まれており、往還の承認は出自を問わず寄宿が義務付けられた。
また、商人の来住を奨励した。
(『要説日本歴史』)
- 『信長公記』をはじめ、イエズス会側史料、『日葡辞書』なども含め、
「安土城」という表記は同時代史料には見られない。
基本的には「安土山」と表記されている。
- 安土山の大手道は、路肩幅で6メートルを超える事が発掘調査でわかった。
また、その石段に、石材として石仏が使用されているのも発見される。
(ただし、こうした石材利用は、当時一般的によく見られた、と著者)
- 安土の諸施設には、金箔を貼った瓦が使用されていた。
特に信長の金箔瓦は、凹んだ部分のみに貼るという高度な技術が用いられており、
また金の純度も高い(この点で
豊臣秀吉の金の使い方と対照的である、と著者)
また、安土以外で、金箔瓦の使用が信長の長男、次男、三男の城などに限られており、
織田の親族という象徴として使われたことが察せられる。
- 屋根瓦には、天皇や朝廷の紋である菊紋・桐紋を用いた瓦も使用されていたことが
発掘調査により判明している。
(『シリーズ「遺跡を学ぶ」002 天下布武の城 安土城』木戸雅寿)
最終更新:2012年06月27日 01:14