- 「信長公記」によれば、信長は父織田信秀の葬儀の際、
異装で現れ、抹香をつかんで仏前へ向けて投げつけた、とのこと。
- 基本的に、信長は籠城策を一度としてとったことがない、とのこと。
「信長が
1582年(天正十年)、安土山の寺院(
摠見寺)の高所に自分の化身として
ボンサン(盆山)という石を置き、万人に拝させようとした」という記述がある。
いわゆる信長の自己神格化。
ただし、日本側の文献などにはこうした内容の記事は一切見られない。
- また、フロイスはこの記述のあと、「デウスはこのような信長を十九日しか
生かしておかなかった」とあり、宗教的観点から記述が客観的でない
可能性は否定できない由。
- 天正十年正月から、信長は暦の問題で公家たちと対立していたという。
陰陽頭
土御門家が天正十一年に閏正月を入れるとしていたのに対し、
信長は尾張・美濃の造暦者の説に従い、天正十年に閏十二月を入れることを主張していた。
この時、明智光秀は本能寺の焼け跡をくまなく探させたが、
信長の遺骸は見つからなかったという。
宣教師の報告にも「毛髪も残さず塵と灰に化した」とある。
(『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広)
- 二条古城(徳川家光がのちに造営した二条城とは別)の造営に対して、
ルイス・フロイスの書簡に「用うる石なきを以て多数の石像を倒し、
頸に縄を付けて工事場に引かしめ」などとあり、また
ジャン・クラッセ『日本西教史』にも
同様の記載があり。
日本側の文献にはこうした記述のない事から疑問視されていたが、
1974年(昭和四十九年)の発掘調査でその石垣の一部と見られる遺構が見つかり、
石材として石仏、板碑、五輪塔など仏教関係の遺物が転用されており、
石地蔵・石仏のほとんどが腹部で真っ二つに断ち割られていたことが確認された。
(もっとも、廃れた石仏のこうした石材利用は当時さほど珍しくなかった、という指摘もある)
『日本西教史』にはこの後、「釈徒」がこの件を議するため「凡千五百人程集会せり」とあり、
おそらく
延暦寺による衆議があったものと思われる。
(『信長と天皇』今谷明)
- 若い頃、その側に伊束法師(意足法師)という呪術的軍師を釣れていた事が各種史料に見える。
1560年(永禄三年)の桶狭間の戦いの頃には信長の側にいたことは確実とのことで、
桶狭間の戦い当日の大雨を予測(観天望気)していた可能性があるという。
しかし、その後は伊束法師の活躍は見られなくなる由。
- 『信長公記』に、ある年の七月十八日、信長が津島神社の祭礼の輪に加わり踊った、
という記事が載る。
家臣たちが赤鬼、黒鬼、弁慶などに扮する中、信長は天人の姿で小鼓を打ち、
女おどりを踊ったとある。
この記事に年代の記載はなく正確な時期は分からないが、踊り終わって
清須に帰ったとあることから、
1555年(弘治元年)から
1563年(永禄六年)、
信長二十代のころの事と思われる。
相撲会を開き、優勝した官居眼三衛門に褒美として秘蔵の重籐の弓を与えている。
今日、相撲の結びの一番の後に行う弓取りはこれが起源だと云々。
(『信長 徹底分析十七章』小和田哲男)
- 信長以前には、背丈以上の高さまで石を積み、積んだ石で隅や角を作る技術は
寺院だけが保有していた。
(例えば、
観音寺城を建てるにあたっては、湖東山三の名刹といわれる
金剛輪寺から、金銭を払って石垣職人を雇っている事が
史料上に残っている)
信長の寺院攻撃は、結果的にこうした技術の解放の意味も持っており、
城郭の土台に石垣を積む事をスタンダードとしたのは信長であったと言える、と云々。
(『シリーズ「遺跡を学ぶ」002 信長の天下布武の城 安土城』木戸雅寿)
信玄が「
天台座主信玄」(仏教界の最高権威)と騙った書状(の封書)に対して、
「諸宗派に反対する悪魔の王」と応答する意味で用いた。
(『魔界と妖界の日本史』上島敏昭)
最終更新:2012年03月30日 17:43