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・幕府直轄の最高教育機関。
・元は、[[1630年]](寛永七年)に創設された[[林羅山]]の家塾。
当初は上野忍岡(しのぶがおか、現在の東京都台東区)に置かれたが、
[[1690年]](元禄三年)に神田湯島に移転、昌平黌と呼ばれるようになる。
・[[1797年]](寛政九年)、[[松平定信]]の寛政異学の禁を受け、幕府直営の学問所となる。
昌平坂学問所と改名されたのはその後のことという。
・幕臣はもちろん、藩士や浪人も入学することが出来、また庶民に対しての公開講釈も行われた。
幕末期においても、医学所、蕃書調所と共に、幕府教学の中心機関となる。
・『旧事諮問録』によれば、入学試験はごく初歩の知識で突破できたのに対し、
卒業試験は問題数も多く、問題管理も厳重で、総じて難関であったとする。
つまり、入るに易しく、出るに厳しい学校であったという。
また同書は、試験内容は暗記中心の問題であり、また賄賂は通じなかったとする。
(『江戸の教養』大石学編)
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・幕府直轄の最高教育機関。
・元は、[[1630年]](寛永七年)に創設された[[林羅山]]の家塾。
当初は上野忍岡(しのぶがおか、現在の東京都台東区)に置かれたが、
[[1690年]](元禄三年)に神田湯島に移転、昌平黌と呼ばれるようになる。
・[[1797年]](寛政九年)、[[松平定信]]の寛政異学の禁を受け、幕府直営の学問所となる。
昌平坂学問所と改名されたのはその後のことという。
・幕臣はもちろん、藩士や浪人も入学することが出来、また庶民に対しての公開講釈も行われた。
幕末期においても、医学所、蕃書調所と共に、幕府教学の中心機関となる。
・『旧事諮問録』によれば、入学試験はごく初歩の知識で突破できたのに対し、
卒業試験は問題数も多く、問題管理も厳重で、総じて難関であったとする。
つまり、入るに易しく、出るに厳しい学校であったという。
また同書は、試験内容は暗記中心の問題であり、また賄賂は通じなかったとする。
・なお、[[湯島聖堂]]周辺の道を指す「昌平坂」は、[[孔子]]の生地の地名から取られている。
参考文献
『江戸の教養』大石学編
『平賀源内を歩く』奥村正二
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