当初は上野忍岡(しのぶがおか、現在の東京都台東区)に置かれたが、
1690年(元禄三年)に神田湯島に移転、昌平黌と呼ばれるようになる。
昌平坂学問所と改名されたのはその後のことという。
- 幕臣はもちろん、藩士や浪人も入学することが出来、また庶民に対しての公開講釈も行われた。
幕末期においても、医学所、蕃書調所と共に、幕府教学の中心機関となる。
- 『旧事諮問録』によれば、入学試験はごく初歩の知識で突破できたのに対し、
卒業試験は問題数も多く、問題管理も厳重で、総じて難関であったとする。
つまり、入るに易しく、出るに厳しい学校であったという。
また同書は、試験内容は暗記中心の問題であり、また賄賂は通じなかったとする。
- なお、湯島聖堂周辺の道を指す「昌平坂」は、孔子の生地の地名から取られている。
参考文献
『江戸の教養』大石学編
『
平賀源内を歩く』奥村正二
最終更新:2013年10月29日 04:55