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・[[福岡県]]に所在。
・古代における、大和朝廷の西国管理の政庁が置かれていた場所。
平安時代末期までこうした体制が続いた。
・[[白村江の戦い]]による敗戦の後、大陸からの侵攻に備えて防衛用の軍事施設が多く作られた。
その際に作られた[[水城]]と呼ばれる長い土塁により、日本国内の古代都市としては珍しく
城郭(と山)に囲まれた大陸式の構造になっていた。これをもって「大宰府羅城」と呼ぶ研究者もいる。
・上記事情から、大宰府政庁の長は独自の軍事権を持っていたと見られ、壬申の乱の際、近江朝からの援軍要請を断っている。
・[[941年]](天慶四年)、[[藤原純友の乱]]の際に焼き討ちにあっている。
当初、焼き討ちを受けたまま放置されていたと考えられていたが、考古学調査の結果、この焼き討ちの後に
大宰府政庁舎が再建されていた事が判明した。
・[[1117年]](永久五年)、最後の太宰権帥[[源重資]]が赴任。
「この府は人物殷繁にして天下の一都会なり」(『続日本紀』神護景雲三年条)
「この府は九国二島の輻湊する所にして、夷民、往来し、盗賊も時なく、追捕拷掠、その備えあるべきなり」(『類聚三代格』天長三年条)
参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」 遠の朝廷 大宰府』杉原敏之
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[[大宰府関連年表]]
・[[福岡県]]に所在。
・古代における、大和朝廷の西国管理の政庁が置かれていた場所。
平安時代末期までこうした体制が続いた。
・[[白村江の戦い]]による敗戦の後、大陸からの侵攻に備えて防衛用の軍事施設が多く作られた。
その際に作られた[[水城]]と呼ばれる長い土塁により、日本国内の古代都市としては珍しく
城郭(と山)に囲まれた大陸式の構造になっていた。これをもって「大宰府羅城」と呼ぶ研究者もいる。
・上記事情から、大宰府政庁の長は独自の軍事権を持っていたと見られ、壬申の乱の際、近江朝からの援軍要請を断っている。
・[[941年]](天慶四年)、[[藤原純友の乱]]の際に焼き討ちにあっている。
当初、焼き討ちを受けたまま放置されていたと考えられていたが、考古学調査の結果、この焼き討ちの後に
大宰府政庁舎が再建されていた事が判明した。
・[[1117年]](永久五年)、最後の太宰権帥[[源重資]]が赴任。
「この府は人物殷繁にして天下の一都会なり」(『続日本紀』神護景雲三年条)
「この府は九国二島の輻湊する所にして、夷民、往来し、盗賊も時なく、追捕拷掠、その備えあるべきなり」(『類聚三代格』天長三年条)
参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」 遠の朝廷 大宰府』杉原敏之
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