大宰府




  • 古代における、大和朝廷の西国管理の政庁が置かれていた場所。
   平安時代末期までこうした体制が続いた。

  • 白村江の戦いによる敗戦の後、大陸からの侵攻に備えて防衛用の軍事施設が多く作られた。
   その際に作られた水城と呼ばれる長い土塁により、日本国内の古代都市としては珍しく
   城郭(と山)に囲まれた大陸式の構造になっていた。これをもって「大宰府羅城」と呼ぶ研究者もいる。

  • 上記事情から、大宰府政庁の長は独自の軍事権を持っていたと見られ、壬申の乱の際、近江朝からの援軍要請を断っている。

   当初、焼き討ちを受けたまま放置されていたと考えられていたが、考古学調査の結果、この焼き討ちの後に
   大宰府政庁舎が再建されていた事が判明した。




「この府は人物殷繁にして天下の一都会なり」(『続日本紀』神護景雲三年条)

「この府は九国二島の輻湊する所にして、夷民、往来し、盗賊も時なく、追捕拷掠、その備えあるべきなり」(『類聚三代格』天長三年条)



       参考文献
『シリーズ「遺跡を学ぶ」 遠の朝廷 大宰府』杉原敏之



最終更新:2013年07月31日 02:43