- 天文得業生から、陰陽師、天文博士、主計権助、大膳大夫などを経て、従四位下左京権大夫に至る。
40歳でいまだ天文得業生と前半生は不遇だったが、50歳ごろに陰陽師から天文博士とすすみ、貞元二年(
977年)に賀茂保憲が没したころから次第に
陰陽道内で頭角を現す。
陰陽頭に就任することはなかったが位階は当時の陰陽頭よりも上であり、60歳頃から85歳で死ぬまで陰陽道の位階第一の上首としての地位を保つ。
- 安倍氏の系図によれば、父は大膳大夫益材。陰陽道上の師は『今昔物語集』では賀茂忠行、『続古事談』では忠行の子息の保憲とある。いずれにしろ、賀茂氏の門下生だった。
- 『中右記』において、既に陰陽師としての地位を確立していた晴明は、天徳四年(960年)の内裏火災で焼損した霊剣の「護身剣」「破邪剣」について、自分が天皇の宣旨を賜って霊権の図を勘申しこれを作らせたと主張する記事が見える。また、その際の祭祀と鋳造のことを記した「大刀契事」なる文書を子孫に残した。
が、『左大史小槻季継記』安貞二年(
1228年)一月十一日条によれば、これを指示した村上天皇の日記に「賀茂保憲に命じて鋳造させた」と記されていることから、実際にはこの行程において晴明は補佐であったと考えられる。
こうした事例から、晴明を「自信家」で、「自身の功績を誇張」するような人物であるという説がある。
- 『今昔物語集』で、晴明は式神を使うのか、誰も居ないのに蔀(しとみ)の上げ下げや門の開閉がされ、その土御門の屋敷もそのまま子孫に伝わり、子孫たちはつい最近まで式神の声を聞いていたと述べる部分がある。
こうしたことから、晴明の説話形成にその子孫たちが関わっていたことが推測される。
- その後説話化が進み、『ほき内伝』(正式名称は『三国相伝陰陽管轄ほき内伝金烏玉兎集』)の序文において、清明(晴明)は入唐して伯道上人から金烏玉兎集を伝えられるが、晴明の妻と密通していた弟子の芦屋道満がこれw写し取り、清明は道満との争論に敗れて首を取られる。異変を察知した伯道上人は日本に渡って清明を蘇生させるとともに道満の首を取ったとある。
- 『臥雲日件禄抜尤』応永元年(1394年)十月二十七日条に、晴明は天王寺で烏の話を聞いて天皇の病の原因を知り、これを療治して名をあらわした話や、晴明に父母はなく化生の者でその廟は奥州にある、と載る。
- 『ほき内伝』の注釈書『ほき抄』(室町末期成立)では、晴明は常陸国猫島に住み、母は摂州信田の狐とする。
- 寛文二年(1662年)浅井了意作とされる仮名草子『安倍晴明物語』が刊行され、その影響から狐の母の子別れを主題とした「信田妻もの」といわれる演劇台本が作られる。古浄瑠璃『しのだづま』など。
また、竹田出雲作の義太夫節『蘆屋道満大内鑑』が享保二十年(
1735年)から歌舞伎の演目に取り入れられる。
(『ミネルヴァ日本評伝選 安倍晴明』斎藤英喜)
- 『ほき抄』によれば、吉備真備が唐より『ほき内伝』を持ち帰り、
常陸国の筑波山麓の猫島(茨城県筑西市明野町)にいた、
阿倍仲麻呂の子孫の幼童に与え、その息子が晴明になったとする。
- 江戸時代の講釈本『阿倍仲麻呂入唐記』では、仲麻呂の霊魂も吉備真備とともに
日本に帰り、和泉国(
大阪府)信太の森に籠り、のちにこの森に住む狐と
安倍保名とが契って晴明が生まれたとする。
上記二例、いずれにせよ阿倍仲麻呂を晴明の祖であると見ている事に。
(上島敏昭『魔界と妖界の日本史』)
最終更新:2011年08月08日 11:04