- 1672年(寛文十二年)、江戸の水戸藩邸に彰考館を開設し本格的な修史事業を開始、
1676年(延宝四年)には史館員を関西に派遣して本格的な史料探訪をさせるなど事業を進め、
1683年(天和三年)に『新撰紀伝』全百四巻が出来上がる。
しかし光圀はこの出来に満足せず、「易稿重修」を命じたという。
- 『新撰紀伝』に対して光圀が出した指示が、のちの水戸学の学者藤田幽谷の『修史始末』にあり、
特に「皇后紀を皇后伝に改める事」などを指示したとされる。
(zsphereコメント:つまり、本紀は皇帝・天皇のみの事績を記すべきで、皇后のそれは列伝に属すべきとしたという事。
編年体と違って紀伝体は、歴史記述に君臣の上下を明確に組み込む事でもあるわけだ)
- 同じく藤田幽谷『修史始末』に、光圀の修史方針に関しての「三大特筆」を以下のように記す。
神宮皇后を后妃に列し、
大友皇子を本紀に掲げ、正朔を南朝に繋ぎ、三神器、京都に入るに及びて、始めて統を後小松帝に帰す。皆、公の卓見なり。正統の議、忠臣或いは公を規むる者有り。公、聴かずして曰く、唯だ此の一事は、某の為に仮借せよ。天下後世、我を罪する者有りと雖ども、大義の存する所、我豈に筆を曲げんや
(zsphereコメント:神宮皇后は本紀に加えず、大友皇子は天皇の列に加えた、と)
- 藤田東湖『弘道館記述義』によれば、ある時光圀が江戸城内に登城した際、史書を編纂している者がおり、
その中身を見ると呉の
太伯をもって「神洲の始祖」(天皇家の祖先)としている記述にあたって驚愕、
急遽その刊行をとどめたというエピソードを伝える。
安藤為章『年山打聞』の記載から、この「史書」が林家の『本朝通鑑』である事が知られるという。
同書によれば、光圀は「はやく林氏に命じて、此魔説を削り、正史のままに改正せらるべし」と主張したと云々。
また、藤田幽谷『修史始末』によれば、この出来事は『本朝通鑑』が幕府に献上された
1670年(寛文十年)の事であったとか。
(zsphereコメント:まさに「その時歴史が動いた」である。いろいろと分かりやすいエピソード)
切り口部分に元禄癸酉=元禄六年(
1693年)、光圀がこれを修繕させた旨が刻まれている。
以降、代々の水戸藩主はこの首級を必ず上覧したと云々。
参考文献
『江戸の歴史家』野口武彦
『日本伝奇伝説大事典』
最終更新:2014年01月07日 00:51