悪路王

  • 『吾妻鏡』、文治五年(1189年)奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が田谷窟(たっこくのいわや、現在の水沢市達谷窟)に立ち寄った際の記事にある。坂上田村麻呂・利仁らの将軍に対抗して、賊首悪路王・赤頭らがこの場所に塞(砦)を築いたという。

  • 後に、窟前に精舎を建て、鞍馬寺に模して多聞天像を安置し西光寺と号した、と伝える。

  • この記事の利仁とは、延喜十五年(915年)に鎮守府将軍となった藤原利仁のことと見られる。
 利仁については、『鞍馬寺縁起』にも、鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を討ったという伝承が見える。

  • 『元亨釈書』の清水寺延鎮伝では、奥州の逆賊の名前は高丸となっている。その他、『義経記』『神道集』『諏訪大明神画詞』では悪事の高丸という名で載っている。

  • 茨城県東茨城郡桂村高久に所在する鹿嶋神社には、かつて坂上田村麻呂が納めた悪路王の首級のミイラがあったといい、
   現在は失われているがそのミイラを模造した木像がある。
   首の切り口部分には元禄癸酉=元禄六年(1693年)に徳川光圀がこの木像を補修させた事が刻まれており、
   以降代々、水戸の殿さまはこの木像を上覧しているともいう。
   1833年(天保四年)には徳川斉昭もこの像を上覧、修繕させたと云々。

  • また、茨城県鹿嶋郡の鹿島神宮にも同じく悪路王の首級とされるものがあり、
   やはり坂上田村麻呂が凱旋の途中で納めたとされている。


  • アイヌの族長で反乱を起こしたアテルイがモデルではないかという説もある。
(ただし、中世の文献上でこの両者を習合したような記述は見当たらない、とのこと。)



      参考文献
『日本伝奇伝説大事典』


最終更新:2013年12月28日 04:34