- 同遺跡の最下層にあたる地層からは、インダス文明より先行する、紀元前3500年頃~紀元前2800年頃の
地域的村落文化であるラーヴィー文化の遺構が発見されている。
また、このラーヴィー文化期の地層からは、アラビア海産の貝を用いた腕輪などが確認されており、
この時期に既に広く地域間の交流のあったと考えられる。
- また、1946年(A)、ウィーラーの発掘調査により、インダス文明期のハラッパーには
19mの幅を持つ市壁の存在が明らかにされた。
- 西に城塞、東に市街地を持つ。城塞地区は市街地から見てやや北寄りの西。
- 城塞地区北側に、ウィーラーによって「穀物倉」と命名された建物跡が所在する。
縦14~15m×横6mの建物の基壇が2列に6部屋、計12部屋ある。
敷地面積は南北に50m、東西に40mに及ぶ。
ただし、これを穀物倉とする見解には異論も出ており、現時点では明確な用途は不明。
(また、
モヘンジョ・ダロ遺跡で穀物倉と呼ばれている建物跡と、構造が大きく違う事も指摘されている)
- 「穀物倉」前には、円形作業場と呼ばれる、レンガを同心円状に敷き詰めた施設が計18基見つかっている。
使用用途は不明。ウィーラーはこれを製粉のための施設と論じているが、「穀物倉」同様異論が出ている。
- ハラッパーの墓地で見つかった人骨の歯の部分をストロンチウム同位体比によって分析したところ、
非常なばらつきが見られたという研究報告が知られている。つまり、様々な出身地から来た人物が
ハラッパーに埋葬されている事が看取されると云々。
また、男女が並んで埋葬されている墓で、男性側の歯の分析結果が明らかに
ハラッパー以外の土地から来た者である事を示す事例が多く、この事から
ハラッパーの女性が非常に力が強く、地方から来た男性を婿にとっていたのではないかという
推測をする研究者もいる、とのこと。
同地に大きなマウンド(遺丘)がある事を記録する(ハラッパー遺跡の文献初出)
- 1854年(A)、イギリスの鉄道業者により、同遺跡から大量のレンガが抜き取られ、遺跡に深刻なダメージを与える。
- 1921年(A)、インド考古局のD.R.サハニーがハラッパー遺跡の再調査を行う。
翌
1922年(A)、同じインド考古局のR.D.バネルジーが初めて
モヘンジョ・ダロ遺跡を調査。
この時見つかった遺物が多く同形式であった事から、初めて同地域に広く文明が展開していた事が示唆された。
参考文献
『インダスの
考古学』近藤英夫
『インダス文明の謎』長田俊樹
最終更新:2014年08月01日 16:23