- 城塞と市街地という二つの区画から構成される。西側に城塞、東側に市街地が所在する。
城塞および市街地を囲む周壁は現在のところ確認されていないが、城塞地区の南東隅に
長方形の保塁が発見されており、城塞部が周壁で囲まれていた事はほぼ間違いないとされている。
(市街地についても、他のインダス都市から類推する限り、周壁が存在ていた可能性が高い)
- 城塞と呼ばれているが、軍事的な機能を果たしているらしい痕跡は希薄であると見られる。
- 城塞部の一番高い位置にドーム状の建造物があり、通称を「ストゥーパ」と呼ばれている。
発見者による呼称だが、これを仏教の「ストゥーパ」と同一視する事については異論もあるという。
(仏画や仏像が存在せず、建物の構造も他の仏教遺跡のストゥーパとは異なる、というのが論拠だとか)
- また、城塞部には「大浴場」と「穀物倉」と呼ばれる施設も存在する。
大浴場は縦12m、横7m、深さ2.5m。北側と南側に浴槽に降りる階段があり、
またこの大浴場に通じるレンガ造りの下水道設備がある。
- 穀物倉については、これを穀物を貯蔵する倉であると見る事については異論もある。
植物
考古学の見地から穀物倉一帯が調査されているが、穀物の痕跡は現在発見されていない。
また、すぐ隣に大浴場がある事から、湿気や水分の多い場所に穀物を置く事は不合理であると見られるため。
(zsphereコメント:個人的に、この反論の論拠はシンプルで気に入っているのだけれど)
- 街路沿いに下水溝、また各住居には水洗式を含むトイレが設置されるなど、高度な衛生管理を行っていたと見られる。
- 城塞地区には、大沐浴場や学問所、集会所など様々な大規模建築があるが、
王の威厳を示す目的の建造物や、大きな神殿らしき建物が発見されておらず、強大な権力者が存在したらしい
痕跡が見いだせないという。
- 最盛期の人口は3~4万人に達していたとする試算もあり、人口密度は極めて高かったと思われる。
- 家屋には、一軒で数十室を持つ大邸宅から長屋と見られる建物までが存在しており、
階層差・貧富の差が存在していた事が看取される。
- 遺跡内に土器を焼くための窯が発見されており、都市の中で土器の生産を行っていたと見られる。
参考文献
『インダスの考古学』近藤英夫
『週刊世界遺産 No.36』
最終更新:2014年07月25日 04:19