箸墓古墳

  • 三輪山の麓、大和平野に所在。


  • 現在は宮内庁の管理下にある。そのため、考古学上の調査は実施されたことがない。
 宮内庁では、「倭迹迹日百襲姫命(やまととびももそひめのみこと)・大市墓(おおいちのはか)」が正式名称。

  • 後円部上に石積みの円形壇が存在する。


  • 濠に囲まれてはいるが、古墳築造時は空濠であったと思われる。
 常時滞水され、周辺の農業用水に使用されるようになるのは江戸時代に入ってから。

  • 円筒埴輪に移行する過渡期にあたる、特殊器台と呼ばれる埴輪が出土する。
 宮内庁書陵部によれば、、主に後円部周辺から出ているという。
 なお、前方部周辺からは特殊器台はわずかしかでておらず、特殊大型壺の破片が少し出土したとのこと。

  • 南東部の濠の中から、輪鐙が出土している。
 4世紀初めごろの土器片と共に出土しており、儀式用ではなく実用品で、
 4世紀代に日本に馬が存在した可能性を示唆する。
(ただし、学界は否定的だった由)
 また、『魏志』倭人伝に「牛馬なし」と書かれていた事との整合性がつくかどうか。

  • 名前の由来については、文学者土橋寛(つちはしゆたか)により「土師説」が出されている。
 墓を作った土師氏の名前をとったのではないかという。
  • また、濠を階段状に作り、各段に橋(土橋)を作ったことから「橋墓」が元だったとの説もある。


      参考文献

『シリーズ「遺跡を学ぶ」035 最初の巨大古墳 箸墓古墳』清水眞一

日経電子版2014年4月15日記事


最終更新:2014年04月15日 23:23