律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
『
新約聖書』「マタイによる福音書」
しかし、妖怪変化の類については、別に珍しいものでもないので、われわれはとりたてて訊いてみる気もしなかった。吠える六頭女怪(
スキュラ)だの、狂乱の半人半鳥女怪(セリーノ)だの、人を啖う人喰巨人(リーストリゴン)だの、こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民、となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはないのである。
トマス・モア『ユートピア』
ある人は、正義の本質は立法者の権威であると言い、他の人は、君主の便宜であると言い、また他の人は、現在の習慣であると言うことが生じる。そしてこの最後のものが最も確かである。理性だけに従えば、それ自身正しいというようなものは何もない。すべてのものは時とともに動揺する。習慣は、それが受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これがその権威の神秘的基礎である。それをその原理にまでさかのぼらす者は、それを消滅させてしまう。誤りを正すというたぐいの法律ほど、誤りだらけのものはない。法律が正しいという理由で、法律に服従する者は、彼の想像の正義に服従するのであって、法律の本質に服従しているのではない。それは全く自分自身のなかにこもっているものである。それは法律であり、それ以上のものではない。
パスカル『パンセ』
(zsphereコメント:理性により作られた「誤りを正す法律」も、所詮その同時代の社会通念に則っているに過ぎないし、
その社会通念は時と場所でいくらでも動揺する、という指摘)
最終更新:2017年05月10日 03:58