- 15歳の時に、『本草綱目啓蒙』の著者津島桂庵に入門して本草学を学んでいる。
他、12歳までの間に、絵は狩野派の
大岡春卜や黄檗山の鶴亭和尚に。
儒学は
柳沢淇園に、
中国書画を
趙陶斎に学び、
漢詩の混沌社主催
片山北海とも出会っている。
23歳で蒹葭堂を名乗る。
- 本業は酒造業で、坪井屋吉右衛門の名で営んでいたとか。
- 木内石亭『雲根志』(日本初の鉱物化石事典)に仮名序を付すなど、様々な書籍の序を書いたりしている。
- 漢詩サロン「蒹葭堂会」は1758年(宝暦八年)ごろから、1764年(宝暦十四年)ごろまで続いたと推定される。
集まって漢詩を作る同好会だが、開始・終了時間を厳密に定め、詩作中の雑談を禁じるなど比較的厳しい規則のある会だった。
- 1765年(明和二年)結成の大坂の詩社「混沌社」のメンバーでもあった事が知られる。
- 中国の技術書『天工開物』を所持していた。蒹葭堂の蔵書を元に大坂の書林菅生堂が返り点、送り仮名をつけて
1771年(明和八年)に日本で初めて『天工開物』が公刊されたとか。
- 頼春水の回想録『在津紀事』によれば、蒹葭堂は来客の際には必ず妻と妾を傍に控えさせており、
妻妾は文雅を解しており、蒹葭堂の言うままに書物や珍物を持ってきたとか。
またこの妻妾は、蒹葭堂が長崎に遊んだ時にも同行したという。
参考文献
『江戸の文人サロン』揖斐高
松岡正剛『千夜千冊』
最終更新:2014年06月11日 00:03