木村蒹葭堂

1736年(元文元年)、大阪北堀江に生まれる。
1802年(享和二年)没


  • 15歳の時に、『本草綱目啓蒙』の著者津島桂庵に入門して本草学を学んでいる。
   他、12歳までの間に、絵は狩野派の大岡春卜や黄檗山の鶴亭和尚に。
   儒学は柳沢淇園に、
   中国書画を趙陶斎に学び、
   漢詩の混沌社主催片山北海とも出会っている。
   23歳で蒹葭堂を名乗る。

  • 本業は酒造業で、坪井屋吉右衛門の名で営んでいたとか。

  • 木内石亭『雲根志』(日本初の鉱物化石事典)に仮名序を付すなど、様々な書籍の序を書いたりしている。


  • 大阪に根を張っていた商人で文人。
 膨大な蔵書と珍物を集めていたコレクターであり、また自亭にサロンを開いていた。
 上田秋成松浦静山司馬江漢与謝蕪村円山応挙大田南畝など、当時の主だった文人のほとんどと交流していた。

  • 漢詩サロン「蒹葭堂会」は1758年(宝暦八年)ごろから、1764年(宝暦十四年)ごろまで続いたと推定される。
   集まって漢詩を作る同好会だが、開始・終了時間を厳密に定め、詩作中の雑談を禁じるなど比較的厳しい規則のある会だった。

  • 1765年(明和二年)結成の大坂の詩社「混沌社」のメンバーでもあった事が知られる。

  • 中国の技術書『天工開物』を所持していた。蒹葭堂の蔵書を元に大坂の書林菅生堂が返り点、送り仮名をつけて
   1771年(明和八年)に日本で初めて『天工開物』が公刊されたとか。


  • 頼春水の回想録『在津紀事』によれば、蒹葭堂は来客の際には必ず妻と妾を傍に控えさせており、
   妻妾は文雅を解しており、蒹葭堂の言うままに書物や珍物を持ってきたとか。
   またこの妻妾は、蒹葭堂が長崎に遊んだ時にも同行したという。



      参考文献
『江戸の文人サロン』揖斐高

松岡正剛『千夜千冊』
最終更新:2014年06月11日 00:03