- 当初は名を吉田兼和といったが、1586年(天正十四年)に兼見に改称した。
京都の治安を万全にするよう伝えるべく足を運んでいる。
この時、天皇が正式の伝奏や女官を送らなかったのは、状況の不確定な中、
明智光秀に何かあった場合でも天皇に責任追及がおよばないようするためとみられる。
- 兼見の日記『兼見卿記』によれば、この時光秀は「今度謀反の存分」を雑談したという。
しかし、その具体的内容は記されていない。
この時、権大納言勧修寺晴豊からの贈り物を携えて行っており、
それに対する秀吉の礼状が
安土城考古博物館に所蔵されている。
参考
『信長と天皇』今谷明
『信長と安土城』滋賀県立安土城考古博物館図録
最終更新:2012年06月27日 00:03