- 1079年(承暦三年)六月、祇園検校の人事をめぐるトラブルで「叡山僧徒千余口」が
祇園社に集結、訴えへの応答なくば「天神」参詣のため入洛すると迫る。
『大御記』六月二日条によれば、このうち二百人ほどが甲冑、弓箭を
着用していたという。
嗷訴における武装を明記した初見。
- 1082年(永保二年) 史料上で確認できる神輿動座の初例(紀伊国熊野社のもの)
- 1093年(寛治七年) 春日神木動座の史料上の初見
- 1095年(嘉保二年) 日吉神輿動座の史料上の初見
- 1176年(安元二年)八月 加賀国で白山系の末寺を焼き討ちした近藤師経が京都へ逃れ、
この件に対する抗議のため白山中宮(
長滝白山神社)の神輿が比叡山に到達。(『平家物語』「鵜河イ軍」)
- 1177年(安元三年)四月 上記加賀の事件をきっかけとした嗷訴。その際、武士の放った矢が神輿に刺さる事件が起こる。
四月二十八日、京都大火。内裏も焼亡する。この際、人の夢に、山王の使いの猿が二、三千降りて来て
松火をともして京中を焼いたと見た、という記述が『平家物語』「内裏炎上」の段にある。
『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁
『平家物語(一)』
最終更新:2013年07月05日 20:19