- 『将門記』に、「左右ノ大臣・納言・参議・文武百官・六弁八士、皆モテ点定シ、内印・外印、鋳ルベキ寸法、
古文・正字ヲ定メ了ンヌ。タダシ狐疑スラクハ、暦日博士ノミ」とあり、将門の勢力下に朝廷の役職が
およそ揃っていたものの、暦博士のみ居なかった、とされている。
これと同様の記述は、『平家物語』巻九「三草勢揃」にもある。
- 『将門記』の将門新皇即位の記述の中に、八幡大菩薩と共に菅原道真の名前が出てくる。
『尊卑分脈』などを見ると、道真の息子たちの多くが、東国の国司に任命されており、
特に菅原兼茂という人物は、将門が平氏一族や源護と戦っていた頃の常陸介を勤めていたと考えられる。
- 天慶三年正月十一日、「将門を討伐した者に恩賞を与える」旨の太政官符が発行された。
乱の首魁を討ち取った者には、「朱紫の品」、つまり五位以上の位階と、
税のかからない末代までの田地を与える、という内容で、
事実将門を討ち取った
藤原秀郷は、乱から七年後に、「功田を給わるべき事等」を奏上している。
(zsphereコメント:つまり、将門が事実上、日本最初の”賞金首”であった可能性)
- 将門は、史実として確認出来る限り、「晒し首」にされた一番最初の人物。
そのインパクトから、将門の首に関する後世の伝説が生まれた可能性。
- 『今昔物語集』に、将門の子孫に関する伝承がいくつか採録されている。
いずれも地蔵菩薩に関連した逸話。
- 将門の調伏修法を行った天台座主尊意は、都に将門敗死の第一報が届く前日に亡くなっており(『日本紀略』)、
そのため将門を調伏した代わりに落命したという伝承が生まれている。
- 将門には鉄身伝説もある(体は鉄でできていたが、こめかみだけは弱点だったという伝説)。
参考文献
『平家物語(九)』
吉川弘文館『戦争の日本史4 平将門の乱』
最終更新:2014年09月19日 17:12