真田昌幸

  • 武田信玄に属し、その陣法や民政の方法を身に着けたとか。

  • 武田氏、さらに信長が滅ぶと、千曲川沿いに松尾城(上田城)を設ける。

  • のち、この千曲川沿いで徳川家康軍と衝突。
   徳川の大軍を少数の軍で迎え撃ち家康を退ける。
   真田方死傷40人に対し、徳川方死傷1300人余りという。

   これにより秀忠軍は関ヶ原に到着できなかったという。
   ただし石田三成が敗北したため子の幸村と共に高野山麓の九度山に流される。

(『街道をゆく9』司馬遼太郎)


最終更新:2012年03月07日 01:13