一式七糎半自走砲

登録日:2022/09/18(日) 18:08:36
更新日:2024/01/11 Thu 21:46:49
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一式七糎半自走砲 ホニ とは日本陸軍が第二次世界大戦前期に開発した自走砲である。

現代ではプラモデルや後述の誤解から一式砲戦車と呼ばれることが主流であるが、この名称は戦車部隊関係者内における非公式な通称である。
日本陸軍としては、あくまでも「試製一式七糎半自走砲」こそが公式の名前であり、実際の生産及び開発関係の書類上における名称は「一式自走砲」、「試製一式七糎半自走砲」、「一式七、五糎自走砲」という表記が使われていた。

一式砲戦車


一種の通称である、「一式砲戦車」の由来は、ホニの試作車が完成した1941年の6月頃にて、砲兵隊主導で開発が進められていたホニを、戦車隊側が砲戦車に改造し、自分たちの兵器として使用する構想を密かに考えていたことが始まり。この構想の中で正式には「試製一式七糎半自走砲」として開発が進められていたものを「試製一式砲戦車」と勝手に名付けた上、独自に試験も行ってしまっている。

なぜこのようなことを行ったかといえば、戦車隊にはホニ以前から、後にホイと呼ばれる砲戦車を作っていたのだが、その開発の初期段階にてソ連との国境紛争を通して対戦車戦闘の重要性が上がりつつあり、ホイの実用性に疑問符がつきはじめていた。ホイは大口径砲を搭載した中戦車というべき代物だったが、搭載予定の砲が戦車との戦いに向いていなかった。搭載砲の変更は当時の技術的に不可能ではないが、その完成に多くの時間が流されることになる。そこでこのホイに代わる砲戦車の開発・量産が決まるまでの繋ぎとして、非砲塔式ではあるが高威力の砲を搭載したホニに白羽の矢を立てたというのが理由である。

(ただし、戦車隊はこのホニをそのまま使うつもりはなく、砲戦車として使用できるように改良の手を加えるつもりだったといわれる。)

ところがここまで来て、この構想は同年の後半には戦車隊側の「遠慮」という形で自然消滅する。その際の情報改訂の遅れやもともと自走砲部隊の一部は戦車隊出身者だったなどの理由により、「砲戦車と自走砲は同じ兵器であり、所属部隊の違いでしかない」という誤った認識が一部の兵士らに出回り、そのまま現代に至る。

ホニという名称はこの構想出始めて付けられた名称であり*1、構想消滅後もその名残で、本兵器の派生型や発展型にもホニ(+番号)の秘匿名称がつけられている。
あと勘違いされやすいがホニとかホイとかという名前はあだ名ではなく、開発陣営などで使われる一種の偽名である。

開発までの流れ

近代戦において、軍の進軍には砲兵の支援砲撃が欠かせないものになっていた。しかし、火砲というのは、基本的に撃ちたい場所に到着してもすぐに射撃を開始できず、移動したい退却したいときにすぐに移動できず、射撃のタイミングを逃したり逃げ遅れたりしやすかった。なぜかというと、火砲には移動しやすい形態と射撃するための形態が別々にあり、形態を変えるためにはいちいち分解したり、変形させたりしなければならなかったからである*2

自動車技術がハッテンし、進軍の高速化が進んだ第一次世界大戦の段階では、従来の牽引して移動する火砲は味方の進軍速度に追い付けず取り残されやすいという問題点をいかにカバーするかが課題となっており、その解決案のひとつが射撃形態の火砲を自動車やトラクターの上に乗せることで、移動と射撃を迅速に行えるようにした自走砲という新兵器が考案された。

しかし同大戦中には既にそのようなアイデアは存在していたものの、大戦終結後に起きた未曾有の大不況などの要因もあり、欧米各国はそのような新型兵器へ予算を投入することには第二次世界大戦の直前まで消極的であった。

開発

欧米列強の動向などから自走式火砲の必要性を感じた日本軍は1939年(昭和14年)12月から自走砲の研究を開始する。(小型の牽引砲をトラックの荷台に搭載し、簡易的な自走砲として運用した例は1930年代初頭から行われているが、本格的な自走砲はコレが最初となる。)

搭載砲は九〇式野砲が選定された。選ばれた理由としては当時機械化が進んでいない日本軍にとって非常に重くて運用しづらく、砲身命数も短い欠陥が嫌われて配備も進まず、だが一方で野砲としては高性能という点は捨てがたく、自走化により、布陣・撤収の簡便効率化で運用の柔軟性を上げる為である。

車体部分は九七式中戦車チハのモノを使用した。

1941年(昭和16年)5月に試製砲が完成し、6月には試作車も完成、運行試験が開始され10月に陸軍野戦砲兵学校で実用試験を実施、同年内に「試製一式七糎半自走砲」として仮制式化された。

構造

ホニはチハの車体から砲塔と車体上部構造の一部を取り除き、正面や側面をカバーする防盾を設けた。これに車載用に後座長を30cm短縮する改良が施された九◯式野砲を搭載した。

いわゆるオープントップ或いは非砲塔式、まれに固定砲塔といわれる形式である。

砲塔式でないのは技術的な理由というよりも、ホニはあくまで九〇式野砲の一種であって、その役目も野砲そのものであったから砲は最低限上下方向に動かせればよかった。それに戦車とは違って、ごく短時間に数百発の砲弾を打ち込む使い方をするから、当時のショボい換気扇では到底換気できないほどの一酸化炭素が発生するので、乗員が常に外の新鮮な外気にさらされるオープントップのほうが都合がよかった。砲塔式はホニの本来の運用法からすると、その特性を生かす場面が皆無であり、ただ単に高価なだけで採用するメリットが少ない。火砲を搭載しているからといって、砲塔式が常に最良とは限らないのだ。

牽引砲時代にあった砲口制退器は反動の軽減のために備えられていたが、発射エネルギーを後方に発散する形式だった為、射撃のたびに砂塵を撒き散らし、連続射撃の場合は乗員に著しい健康被害を与える為取り外された。

高低射界は-15度~+25度、方向射界は左右あわせて22度であった*3、特に高低射界が制限されたことにより射程は7800mと原型となった牽引砲の半分近くまで射程が短くなり、交戦距離の短い太平洋では目立たなかったものの、想定戦場の満州なのもあわせて、自走砲として大きな欠陥を抱えている。
また、砲弾搭載数は元々狭い為車内に24発しか積めず、危険性を承知の上でエンジンルーム上に8発入りの弾薬箱を追加設置しても計32発しか搭載できなかった。

とはいえ、こちらの問題に関しては原則車内の搭載弾しか使えない戦車とは違い、ホニは本来、面制圧用の兵器であるため、数百発の弾丸消費は当たり前であり、その為弾薬牽引用トレーラーもしくは弾薬を積載したトラックとの行動が必須であるには変わらない。交戦距離も長いため、中戦車や砲戦車とは違いそこまで深刻に考えるべきものでもない。

以上の様に少し後に開発された自走砲と比較して中途半端な完成度となっているが、当時は日本は兵器運用の面では欧米列強の後追いの状態であり、その参考相手にしていた欧米諸国ですら自走砲の運用実績がなく、まだまだ試行錯誤の段階であったため、しょうがないといえばしょうがない。

防御面

車体正面装甲は41mm、防盾正面装甲は50mmと当時としては厚めの装甲であるが、南方作戦に向け歩兵直協の突撃砲として用いる構想だったためであるとされる。ただし、一般にイメージされるドイツの3号突撃砲とは異なる概念だったことや、単純な一枚の厚みではなく新たに別の装甲板を部分的に追加したものであるため、スペック通りの防御力はないことに注意が必要である。また機動戦闘は考慮しておらず後部、上面に装甲は無い為乗員は榴弾の破片、銃弾で負傷する可能性があった。

さらに砲身下にある箱形の物体は、射撃時の反動を吸収する複座駐退器であるが、(戦場では四方八方から飛んでくる)小銃弾や砲弾の破片が当たると備砲が使用不能になった。その為、諸外国の自走砲はこの部分を装甲板で保護していたが、ホニのこの部分は実質非装甲であった(ホニの発展系にあたる三式砲戦車は装甲で保護されている)。

なお、先述の1941年(昭和16年)に存在したとされる砲戦車化構想では、機動戦や対戦車戦闘を考慮して後部や上面に装甲を追加し、密閉式の戦闘室にすることになっていた上、車体を動かさずに砲を動かせる範囲の拡大が要求されていた。

対戦車兵器として

ホニは対戦車戦闘を考慮した兵器ではなく、「自走九〇式野砲」とも言うべき代物であり、あくまで主任務は野砲だった。*4
しかし、その備砲である九〇式野砲は比較的初速が683m/hと1930年に開発された野砲にしては初速が速く、大戦直前から一部から対戦車兵器として着目され、実際に大戦後半には対戦車火力の不足により対戦車砲として使うこともあった。

ホニの火力面では貫通力は一式徹甲弾*5使用時で1000mで約70mm、500mで約80mm、200mで約90mmの装甲板を撃ち抜けた。これはアメリカの主要戦車であるM4中戦車を正面から破るには力不足だったが、主力の戦車砲であった一式47mm戦車砲や一式機動砲より遥かにましであり、当の日本軍も戦訓報にて「M4戦車に対して極めて有効」と評価している。

ちなみに九○式野砲は射撃の際に縄を引いて発砲するが、照準を行う砲手は直接縄を引くことはできず、専任の兵士が引っ張って弾丸を発射した。ホニも同様の方式であり、「移動する目標へのタイミングがずれる可能性があり、不便であったのではないか?」という推測もある。しかしながら戦車部隊が砲戦車化構想の折に、ホニを移動目標に対する射撃試験を行っているが、意外にも不満は出ていない。後述の実戦においても、使用したのは砲兵隊であるという違いはあるものの、対戦車戦闘を難なく行っている。


徹甲弾以外には陣地攻撃用に榴弾や焼夷弾、破甲榴弾(ベトン弾)が使用できた。

派生型として、鎖栓式閉鎖機を備えた初速900m/s級の57mm戦車砲乙に換装した駆逐戦車も計画されている。
しかし1942年の計画改訂によって駆逐戦車の整備が中止されてしまい、開発着手には至らなかった。
チト一号車に搭載された試製57mm戦車砲(初速810m/s)や試製57mm機動砲(初速850m/s)よりも高初速で、九〇式野砲や三式七糎半戦車砲を上回る装甲貫徹力は期待できたが、
M4やT-34を中距離で正面撃破可能なソ連のZis-2(初速990m/s)よりも劣ることは明白で、計画改訂と同年に構想された試製75mm対戦車自走砲ナトの整備に注力したのは正解と言える。


配備

戦車隊の横やりもあったが、従来の予定どおり事実上の自走砲として採用されたホニは、量産されると機甲師団の自走砲大隊の兵器として配備された。機甲師団というのは戦車部隊を主役に据え、その行動を砲兵や歩兵、工兵などが支援する、いわゆる諸兵科連合であり、ホニの任務は中戦車や砲戦車で構成されていた戦車部隊の砲兵支援だった。しかし、太平洋戦争の末期になると、対戦車火器の不足から応急的な対戦車自走砲に転用されることになった。

本土決戦に備えた、優良戦車連隊の自走砲中隊にも配備されているが、この戦車連隊は歩兵や工兵が入り交じるの混成部隊であり、小さな機甲師団と言っていいような特殊な編成だった。

(通常の戦車連隊の編制は、軽戦車中隊×1・中戦車中隊×3・砲戦車中隊×1であるが、この連隊は中戦車中隊×2・砲戦車中隊×2・自走砲中隊×1と言うものである。)

その部隊に所属していた戦車兵は特殊であるという認識はなく、連隊内の自走砲中隊に配備されたホニIを砲戦車、ホニIIを自走砲と日誌上で呼び分けたという。

生産

ホニは搭載砲であった九○式野砲の生産数が少なかったこと、航空機に予算配分が優先されていたこと、本兵器はあくまで九○式野砲の延長にある兵器であり、牽引式の方を充足させることが優先されたこと、そもそも75mm級野砲というジャンルが斜陽だったなどの理由から生産数は約50門程度にとどまる。
姉妹兵器であった一式十糎自走砲が終戦まで生産が続けられていたこととは対照に、ホニの生産は1942~1943年(昭和17年~昭和18年)までの短い期間で終了している。

なお修理用の予備部品として生産されていた部材が、三式砲戦車の開発生産に流用されたといわれる。

実戦

ホニは、太平洋戦争開始間もない1942年(昭和17年)には南方の気候での試験目的でビルマ方面に送られているが、終戦まで目立った活躍はない(戦争後半には第十四戦車連隊の臨時の砲戦車として使用されているが、主砲の故障により牽引車として使われていたらしい)。

ホニが活躍した例は1945年のフィリピン防衛戦の中で行われたサラクサク峠での戦いであった。この時、ホニは戦車第二師団の機動砲兵第2連隊に4輌ほど配備されいる。同連隊ではフィリピン防衛戦でリンガエンに上陸してきたアメリカ軍をウミガン、ルパオで迎撃を開始、猛烈な砲撃を加えた。その砲撃戦の中で対戦車戦闘も発生、500mの距離でM4中戦車を正面から撃破したとされる。
この戦闘では連日数百発に及ぶ猛烈な砲撃により米軍に被害を与えている。
しかしムニオスを防衛していた戦車第6連隊、サンマヌエルを防衛していた戦車第7連隊、サン・ニコルスを防衛していた戦車第10連隊が壊滅し後退を始めると機動砲兵第2連隊もサンタフェへ後退しイムガン峠で壕を展開、サラクサク峠に進出した米軍と衝突した。この時ホニは夜間にイムガン峠にある砲撃陣地へ移動し、サラクサク峠への砲撃後、明け方には後退してサンタフェに戻るという戦術を取り、米軍を苦しめた。米軍もこの砲撃を阻止する為に連日一個連隊規模の航空機を飛ばしたが、機動砲兵第二連隊は樹枝を牽引、履帯の走行痕跡を隠した為発見できず、戦後米軍は同連隊の戦術を評価している。3月31日には15cm榴弾砲3門と機動九〇式野砲2門と共にホニ 4輌が大規模な砲撃を仕掛け、一日の間に1000発もの砲弾を撃ち込んだ。この砲撃によりサラクサク峠に展開した米軍の第32師団は多大な損害を受け、壊滅を避ける為退却している。
最終的にこの4輌はアメリカの砲爆撃により徐々に数を減らしていき、バンバン南部のジャンクションで最後のホニが砲爆撃により破壊された。

(1944年にもフィリピン戦に投入されることになっていたが、その輸送中に空襲で輸送船ごと海没していて実戦投入は叶っていない。)

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最終更新:2024年01月11日 21:46

*1 ホニの由来は「砲戦車第2案」の略である。ちなみに、砲戦車第1案は二式砲戦車ホイであり、両者は一時期、試作競争的な立場にあった。

*2 形態変更なしで押し引きできるタイプのものはそのような心配はなかったが、そういった火砲は軽量化と簡便さと引き換えに射程や榴弾威力などを犠牲にした上でのモノであり、普及したのは第一次世界大戦後になってからと、かなり歴史の新しい火砲であった。

*3 原型砲の方向射界は左右に25°ずつ

*4 実際、初陣のフィリピン防衛戦において対戦車戦闘ばかりが注目されがちだが、メインは従来通りの運用である、砲撃による面制圧であった。

*5 日本陸軍が1941年から量産開始した、本格的な対戦車用の徹甲弾。内部に少量の爆薬が仕込まれており、戦車の装甲を貫通した後に爆発し内部により大きなダメージを与えることを想定していた。これまでの日本製の徹甲弾は戦車よりもレンガや石造りのようなやや固めの目標を想定したモノで、戦車が持つ装甲は固いだけでなく粘りもあるため、従来の徹甲弾では性能が不足していため開発された。