サイレンススズカ(競走馬)

登録日:2010/06/04 (金) 17:54:26
更新日:2024/04/09 Tue 10:49:29
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98年 宝塚記念

最速の機能美

サイレンススズカ

速さは、自由か孤独か


──2011年 JRA 宝塚記念CMより


サイレンススズカ(Silence Suzuka)(1994.5.1 - 1998.11.1)とは、1990年代後半に日本の中央競馬で活躍した競走馬
愛称は冠名から「スズカ」、あるいは他の「スズカ」名馬や父との区別等から「ススズ」など。

異次元の逃亡者」「稀代の快速馬」の異名で知られ、終始誰も追いつけないほどの圧倒的なスピードを持ち、その持ち味を活かした大逃げを得意としていた。
GⅠでの勝利は1回のみという成績でありながらも、日本競馬における「最高の逃げ馬」や「最強の中距離馬」の議論では、必ずと言っていいほど名前が上がる存在である。


生涯

■誕生

サンデーサイレンス、母ワキア。

ワキアには最初バイアモンという馬が種付けされたが不受胎であり、その次は社台スタリオンステーション(以下SS)で繋養されているトニービンが種付けされる予定だった。
しかし、ワキアが発情した時にSSを訪れたものの、トニービンは予定が空いていなかった。
そこで代わりにとSSが種付けを薦めたのが、サンデーサイレンス。アメリカのG1で6勝をあげ、その実績が評価され日本に輸入されたばかりの新種牡馬だった。


後に13年連続で日本のリーディングサイヤーに輝き、種牡馬としても大成功することになるサンデーサイレンスだが、当時は種牡馬としての実力は未知数だった。
なにせ、生まれた産駒たちはまだデビューもしていなかったのだから。
しかし次にワキアが発情するまでどの程度かかるのかは分からないうえ、この年に種付けできる時期ももうすぐ終わりに差しかかかっていたため、サンデーサイレンスを種付けし、無事受胎した。


こうして1994年5月1日、北海道平取町の稲原牧場において、美しい栗毛の馬が産まれた*1
後のサイレンススズカである。
母親の名前から取って「ワキちゃん」のあだ名で呼ばれたこの馬は、幼駒の頃は身体が小さく、まるで牝馬のような身体付きをしていた。
また、父サンデーサイレンスの被毛は、黒鹿毛よりもさらに黒い、眩しい日差しに青光りする青鹿毛
サンデーサイレンスが種牡馬としての名声を高めていくなかで、走る馬といえば、黒い馬というのが通り相場になっていた。
結局、彼の誕生から2年後にイシノサンデーという栗毛のサンデーサイレンス産駒が皐月賞馬となるのだが、それ以前は「この子は大丈夫だろうか」という目で見られていたという。
結果的に、第一世代のマーベラスサンデー(栃栗毛)も含め父の名の一部をも継承したサンデー産駒G1馬3頭はいずれも父に似ない毛色になった。単なる重賞馬なら同期のビッグサンデーの様に似た毛色の産駒もいるのだが…。

さて、彼を含むサラブレッドにとって最初の試練が乳離れである。
これは端的に言えば母馬と別れることで、概ね生後6カ月をメドとして行なわれる避けては通れない試練。
しかし、サイレンススズカにとってこれが大いにショックだったらしく、憂さ晴らしかそれとも寂しさを紛らわせるためか、馬房の中を勢いよく回ることを覚えてしまった。
所謂「旋回癖」である。
旋回癖の場合ほとんどの馬がいつも同じ方向に回ると言われており、サイレンススズカは左回り専門だった。
ただしサイレンススズカの場合は旋回_と言うよりは高速回転と言った方が正しかったようで、いつか事故が起こるんじゃないかと心配されていた。
牧場側は旋回癖を直そうと馬房の中に古タイヤを吊ったり、壁面にステンレスを貼ったりしたが効果は長くは続かずそのまま回り続けた。
2歳の冬に栗東トレセンの橋田満厩舎に入厩。
ここでも畳を吊るしたりとありとあらゆる方法を試してみたものの効果はなく、根負けして障害物を1つも置かなくなってからのほうが、むしろ落ち着いている時間が多くなったという。*2
のちに活躍してからはこの旋回癖は「自主トレ」と言われたりした。


■1997年 デビュー~香港国際カップ

誕生が遅かった事なども考慮されてか、デビュー戦は4歳(現在でいう3歳)時である1997年2月に行われた*3

このデビュー戦では上村洋行騎手が騎乗。スタートからハナを奪うと、最後には後続を7馬身離して完勝。
上村騎手は後年「レース前から馬なりで何馬身離せるかを考えていたぐらい自信があった」と語っている。
突然現れた期待の新星、「ダービーはこの馬だ」とまで評された。
同レースに出走していたプレミアートの騎手に「あの馬に皐月賞もダービーも全部持って行かれる。痛い馬を逃がしたと思った」と言わしめた。


2戦目は、3月のGII・弥生賞。ここで上位に入着できれば、最初の牡馬クラシックレースである皐月賞の優先出走権を得ることができる。
ところが、このレースでサイレンススズカは前代未聞の珍事を起こしてしまう。
サイレンススズカの厩務を務めていた加茂力厩務員がゲート内まで付き添い、前扉の下をくぐって退避した際
なんとサイレンススズカは加茂厩務員のあとを追うように、真似をしてスターティングゲートの前扉下を潜りに行ってしまったのだ。
同じ事をして後ろ脚の骨を折り、命を落としたサラブレッド*4もいる非常に危険な行動。しかし、幸いにもサイレンススズカは馬体検査でも異常が見つからず、レースの出走が認められた。無傷でゲートの下をくぐるという芸当は、他の馬とは比べものにならない体の柔らかさがあったからこそできたものだったと言える。

スタート仕切り直しで外枠発走となると、スタートで10馬身差の出遅れ。
並大抵の馬ならまず無理な差であり、誰もが諦めていた。
だがサイレンススズカは口を大きく空けて、懸命に引かれた手綱も、折り合いも無視して暴走し始めた。
そしてそのまま3番手まで追い上げたが、流石に力尽きたか結果は8着。皐月賞の出走は不可能になってしまった。
厩舎サイドでは素質馬の悩みばかりが深まり非常に焦りを感じていた。

その後、陣営は気を取り直し、6月に開催されるGI・東京優駿(日本ダービー)を目指し、トライアルである青葉賞への出走を目指すことになる。
しかし、調教中のアクシデントによって予定を変更。4月に条件戦、5月にプリンシパルステークスに出走し、共に勝利。これで、日本ダービーへの出走権を確保した。
日本ダービーでは、同じく逃げ馬であり、皐月賞を制したサニーブライアンを警戒したのか、逃げずに好位に抑えた競馬をすることに。
しかし、それが仇となったのか、レースでは道中掛かりっぱなし。抑えようとする騎手と、行きたがる馬がずっと喧嘩をするようなレースになってしまい9着惨敗。それを尻目に、サニーブライアンは逃げ切りで二冠を達成した。
この時の経験から、厩舎サイドは馬を抑えるのではなく、自由に走らせる逃げの戦法を選ぶようになった。


次は菊花賞のトライアルでもある神戸新聞杯に出走。
スタートから先頭を奪い、快調に逃げながら後続との差を広げ、そのまま最終直線まで先頭をキープ。
ここで上村騎手は勝利を確信したこと、そして次戦に向けて馬を追い込みたくないという心情から追うのをやめてしまう。
ところが、その隙をついて外から追い込んできたマチカネフクキタルに差し切られてしまい、サイレンススズカは2着に敗れてしまった。
デビューから鞍上を務めてきた上村騎手は、勝てたレースを自らの手で潰した責任を取り、降板することになってしまった。


次戦、菊花賞は距離や性格が合わないと判断され、天皇賞(秋)を目指す事になる。
上村騎手に代わりベテランの河内洋騎手を鞍上に迎えて挑んだ天皇賞(秋)。
前半1000mを58秒5のハイペースで逃げるものの、最後の直線で上位集団に捕まってしまい6着。
3着のジェニュインにこそ0.1秒差に食い下がるものの、勝ち馬のエアグルーヴからは1秒もの差をつけられしまった。
(ちなみにこの時見送った菊花賞を取ったのはマチカネフクキタルである)


次走は京阪杯の予定だったが、なんと香港国際カップに招待され、出場することに。
そこで急遽予定を変更して、マイルチャンピオンシップに出走。
しかし文字通り「急遽」の変更であったため調整不足やらアクシデントが重なり、15着と散々な結果となった。
おまけに、香港国際カップの週は、河内騎手が主戦を務めていた別の馬*5が日本のレースに出走する予定が入っており、河内騎手はそちらを優先することに。
そのため、サイレンススズカを管理していた橋田満調教師は、ここにきて鞍上をもう一度探さなければいけない状態になってしまった。


こんな調子で香港国際カップは大丈夫なのか…と思ってると思わぬ朗報が飛び込んでくる。
とある一人の騎手が「サイレンススズカに乗りたい」と頼み込んできた。
その騎手こそ、武豊1990年の有馬記念オグリキャップに乗り、後に三冠馬ディープインパクトの手綱を握った男である。
この頃は史上最速・最年少でJRA通算1300勝を達成したばかりであり、早い話が知る人ぞ知る若手の超有望騎手である。


時は遡りサイレンススズカのデビュー戦。
実は、同レースでプレミアートに乗っていたのがこの武騎手であり、あのデビュー戦以降もサイレンススズカのことをかなり気にしていた。
その入れ込みっぷりはすごかったようで、「ジョッキーは騎乗依頼が来るのをじっと待つしかない」という自身のポリシーすら蹴飛ばしてやってきたのである。
橋田調教師も馬に対する当りがいい武騎手の手腕を評価しており、チャンスがあれば乗ってもらおうかと考えていたため、その場で快諾した。
ちなみに、橋田調教師と武騎手に繋がりができたのはこのタイミングだったという。2人は後に橋田調教師の管理馬アドマイヤベガで武騎手が騎手として史上初のダービー連覇を達成するなど、多くの馬でコンビを組んでいる。


武豊を初めて鞍上に迎え挑むことになった香港国際カップ。スタートから先頭に立ちいつも通り逃げるが、結局残り100m程度のところで、追い込んできた馬たちに差されてしまう。
結果は5着だったが、先頭とは僅差であった上にマイルCSに負けず劣らずの不調っぷりの中でこれなのだから、かなり頑張った方である。


香港国際カップが開催された沙田(シャティン)競馬場は力が必要で、逃げ馬には極めて厳しい馬場であった。
そんな中で、「勝てるかも」と思わせた粘りに武豊は驚いた。
更に驚くべきことは、同レースでサイレンススズカが1600mを通過した際のタイムが、同日に開催された香港マイルの勝ち馬のタイムより速かったことだろう。*6


■1998年 バレンタインステークス~宝塚記念

香港国際カップの後、武騎手は「サイレンススズカは抑え込まずに走らせた方がいい。自分は次もそう乗るつもりです。」と橋田調教師に進言していた。これは、単に馬の走らせ方について意見していただけでなく、次のレースでもサイレンススズカに乗せてほしいという意思表示でもあった。


そして1998年。武騎手の熱意は伝わり、この年の主戦騎手を任されることとなった。


古馬となっての1戦目はオープン競走のバレンタインステークス。武騎手は関西の栗東トレセン所属でありながら、重賞でもないこのレースに出走するため、わざわざ東京への遠征を敢行していた。
サイレンススズカはそんな彼の期待に応えるかのようにスタートから大逃げを見せ、そのスピードに任せて4馬身差で逃げ切る圧勝を披露。
続くG2の中山記念でも同じようにスタートから逃げ、1と3/4馬身差で勝利、ついに重賞での初勝利を飾る。
その後のG3小倉大賞典でも3馬身差で逃げ切っての勝利、どんどん調子を伸ばしていく。


そしてこの年4レース目のG2金鯱賞、そこには神戸新聞杯で苦汁を舐めさせられた4連勝中のマチカネフクキタルが出走していた。
他にも5連勝中のミッドナイトベット、4連勝中のタイキエルドラドなども出走するというハイレベルなレースだった。
だがフタを開けてみれば、そんなもの関係無いと言わんばかりにいつも通りスタートから先頭に立って逃げ、一時は10馬身程度のリードを築いた。
残り600mを過ぎたあたりからいったんペースを落とし、残り300m程度となって直線に入ろうというころには、後続との差が5馬身程に縮まっていた。
ところが直線に入った瞬間、サイレンススズカはペースを上げ、なんと前半にスタミナを温存し、全力で追ってきている後方の馬たちを引き離し始めた。
終わってみれば10馬身以上の差をつけての大差勝ち。
武騎手もゴール手前50m程でガッツポーズし、実況していた東海テレビの植木圭一アナも「圧勝」やら「大楽勝」などとゴール前100m辺りから言い始める横綱相撲。油断してると外から追いこんでくるぞ
当然のようにレコードまで叩きだすというあまりの強さに、直線に入る前から観客席は笑いと拍手に包まれていた。


逃げ馬はレース前半で他馬より早いペースで走るため、その分スタミナを多く消費する。
その分レース終盤のタイムが他の脚質の馬に比べて遅くなるのは当然のことである。
特にサイレンススズカのように後続を引き離す「大逃げ」はそれが顕著。
しかし、金鯱賞の最終直線で後続をさらに引き離したこの馬には、その常識が全く通じなかったのだ。
武騎手もサイレンススズカに関するインタビューでこのことに触れ
「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」
と口にしていた。


金鯱賞を取りそろそろ休み…の予定だったが、調子も良さそうだしファンの期待に応えるためにも急遽宝塚記念への出走を決定。久々にG1の舞台へ戻ってくることとなった。
しかし、このレースは今までと比べ、サイレンススズカにとって不利な条件がいくつか重なっていた。


 まず、元々は回避予定だった所に急に予定をねじ込んだものだから、武騎手のスケジュールが既に埋まっていた。前年の天皇賞(秋)を制したときに乗っていた「女帝」エアグルーヴと宝塚記念に出走することが決定済みだったのだ。
そこで既に出走予定だった同厩舎・同馬主の僚馬ゴーイングスズカの騎手である南井克巳に乗り換えてもらい、ゴーイングスズカが別の騎手を探す事になった。


 また、宝塚記念が開催される阪神競馬場のコースは右回りなのだが、サイレンススズカが記録した重賞3連勝のうち、最も着差が小さかった中山記念は右回りのコース(中山競馬場)であり、圧倒的なパフォーマンスを見せた金鯱賞と、3馬身の余裕をもって勝利することができた小倉大賞典は左回りのコース(中京競馬場)での開催だった。
*7これらの事からもわかるように、サイレンススズカは左回りのコースが得意であるために、右回りのコースでは、パフォーマンスが相対的に低くなってしまう。*8
 そして、このレースの出走馬には、エアグルーヴ以外にも、この年の天皇賞(春)を制したメジロブライトや、前年の有馬記念を制したシルクジャスティスなど、古馬GⅠで既に勝利を上げているメンバーがひしめいていた。
3頭とも以前のレースでサイレンススズカに先着した経験があり、*9そんなハイレベルなレースで、これまで連勝を重ねていたレースからの距離延長に対応できるのかもわからない状況であった*10


 こうして不安材料を抱えたまま迎えた宝塚記念
しかしここまでの連勝を評価され、サイレンススズカは1番人気に推される。
そんな中、南井騎手はこれまで武騎手が行ってきた大胆な大逃げをいきなり実行するのはリスキーと考え、先頭を切ったら離し過ぎず寄らせすぎずに逃げるという正攻法の「溜め逃げ」を選択。
サイレンススズカの大逃げを期待していたファンから不満が出たりゲート内で2番人気のメジロブライトが暴れて外枠発走になったりとまあ色々あったが、最後の直線でステイゴールドに3/4馬身辺りまで迫られたところでムチを入れられると一気に加速、そのまま逃げ切り、晴れてGI馬の栄誉を手にした。
これまでのレースと比べると他馬との差は小さかったが、前述の通り不利な条件が多く重るなか、ハイレベルなこのレースで勝ったことで、サイレンススズカの評価は更に高まることとなった。

ちなみに、武騎手が手綱を取ったエアグルーヴは上がり最速の差し脚を伸ばして3着。*11
最終的に南井騎手の前に主戦を務めていた芹沢純一騎手が騎乗したゴーイングスズカは4着と共に好走した。

そしてサイレンススズカにようやくの休みが訪れる。
目指すは天皇賞(秋)、かつて敗れたあの場所へ。

1998年第49回毎日王冠

休み開けの秋初戦、再び武騎手を鞍上に迎え、最大目標である天皇賞(秋)のステップとして「GII・第49回毎日王冠(芝1800m)」に出走。

そしてこの毎日王冠は、今なお伝説として語られるGIIレースとなる。

その要因となったのは、サイレンススズカに加えて、当時注目を集めていた4歳(現3歳)のGⅠホース2頭が無敗のまま出走を決めていたことにある。

この年のNHKマイルを圧勝し、秋の目標をジャパンカップを定めていたエルコンドルパサーと、昨年の朝日杯3歳ステークスをレコード勝ちし、その後の骨折からこのレースで復帰することになったグラスワンダーである。

2頭はいずれもアメリカで生産され、日本に輸入された外国産馬、いわゆるマル外であった。

あいにく当時はマル外がクラシックレースと天皇賞に出走することは認められておらず、よってこの2頭も同世代の内国産馬と違い、皐月賞や日本ダービーには出走できず、この後控えている菊花賞と天皇賞(秋)の出走権も得られなかった。

本来であれば、どちらもクラシックレースで十分勝利狙える実力を持っており、無敗でG1を制した事実も、それを裏付けていた。

そこで、この毎日王冠に出走し、中距離で古馬最強の座を手にしていたサイレンススズカに挑むこととなったのだ。

このレースはサイレンススズカとマル外2頭を合わせた3強の構図となり、彼らに対して勝ち目が薄いと考えたのか、出走馬はわずか9頭。しかし、そのうち8頭が重賞を勝っており、間違いなくハイレベルなメンバーが揃った。ファンの注目度も非常に高く、GⅡのレースを見るために、13万人の観客が東京競馬場に押し寄せていたことがそれを物語っていた。

レースがスタートすると、サイレンススズカは、いつも通り先頭に立ち逃げをはかる。しかし、2番手集団も1〜2馬身程度の距離を置いてついていく。後続が離れずいつもよりペースが遅いのか…と思いきや、1000m通過のタイムは、なんと57秒7。金鯱賞や宝塚記念を超える超ハイペースである。

そんな中、3コーナーの終わりでサイレンススズカの外にグラスワンダーが並びかけてきた。サイレンススズカは序盤の大逃げと終盤のスパートのために、中盤にスタミナを温存するため一時的にペースを落とす。そのことを知っていた的場騎手は、中盤にペースを落としている隙にサイレンススズカを捕らえる作戦に出たのだ。
ところが、グラスワンダーが馬体を完全に合わせる前にサイレンススズカはスパートを開始してしまったため不発。序盤のハイペースでスタミナが尽きたのか、あるいは怪我明けで万全な状態ではなかったのか、グラスワンダーは最終直線で後退していった。

一方、それと入れ替わるように最終直線でスパートをかけてきたのが、3馬身後ろで脚をためていたエルコンドルパサーだった。的場騎手から鞍上を引き継いだ蛯名騎手は、これまでのレースで同馬が勝ち続けていた時と同じようにレースを組み立て、サイレンススズカに真っ向勝負を挑んできた。

しかし、エルコンドルパサーが左右によれるほど必死に追っているにもかかわらす、サイレンススズカは2馬身以上先をノーステッキで逃げ続けていた。1600mの通過タイムは、1分32秒8。エルコンドルパサーがNHKマイルを制した時のタイムより1秒近く速かった。しかし、サイレンススズカのペースはその後も落ちることなく、ゲートから1800m先のゴール板前を最初に駆け抜けた。

エルコンドルパサーは上がり3ハロンを最速のタイムでまとめて2着に入ったが、サイレンススズカはそこから0.1秒落ちのタイムで同じ区間をまとめており、2馬身半まで詰め寄るのが限界であった。また、3着のサンライズフラッグに至っては、2着から5馬身も差をつけられており、1着馬がいなければ、エルコンドルパサーの圧勝でこのレースは終わっていたことがわかる。これらのことから、勝ち馬の強さがひたすら目立つ結果となった。

サイレンススズカはこれで重賞5連勝。目標に向けての前哨戦として、この上なく完璧なレースを見せ、全ての世代を含め、中央競馬における現役最強中距離馬としての地位を確立した。

なお余談ではあるが、この日京都競馬場で行われたGII・京都大賞典でも、この年の皐月賞馬セイウンスカイが逃げ切り勝ちを決めた。
菊花賞トライアルを蹴り、メジロブライト、シルクジャスティスら古馬GⅠを制した馬たちに挑んで勝ち取った大金星。
この日は東西での逃げ切り勝ちに多くのファンが沸くこととなった。






■第118回天皇賞(秋)

年が明けてからのサイレンススズカは絶好調だった。
出走したレースは全て一番人気、一着、初GI勝利。
強豪ひしめく毎日王冠での勝利。
そんな文句のつけようがない状況で、いよいよ一番の目標レースである天皇賞(秋)に挑むことになった。
レース前、多くの人々はサイレンススズカの勝利を確信していた。それは、馬の状態が万全だったことに加え、レースの条件を見ても、サイレンススズカに強い追い風が吹いていたからである。
毎日王冠で戦った強敵2頭は、前述の外国産馬規制の影響でこのレースに出走できず、前年優勝馬のエアグルーヴはエリザベス女王杯に出走するため回避。
結局レースで戦う有力馬たちは、メジロブライト、シルクジャスティス、ステイゴールドなど、宝塚記念で直接対決が済んだメンバーばかり。
この中で対抗勢力を敢えて挙げるなら、先述のようにゲートで暴れて自滅したメジロブライトがちゃんと走れば、と言ったくらいのものだが、同馬が得意としているのは、宝塚記念以上に長い距離のレース。しかし、今回のコースは芝2000mの左回り。この条件ではサイレンススズカに分があるのは明らか。それどころか、彼が最も得意としている条件と言っても過言ではない。
そして、レース前に発表された枠順によって、これら前評判が更に極めつきのものとなった。サイレンススズカは1枠1番ゲートからのスタートが決定。後ろからレースを進める馬にとっては、身動きが取りにくくなり嫌われることもあるスタート位置だが、単騎先頭でコース内側を走り続けるこの馬にとっては、むしろ最内にある1番ゲートからスタートできることの優位性は非常に大きい。これ以上を望むことができない最高の枠順である。
そのため、アクシデントがない限りサイレンススズカの勝利は盤石である思われ、競馬のテレビ番組の特集や雑誌・新聞の記事は「一番の注目は、サイレンススズカがどんな勝ち方をするのか」という内容が中心になるほどだった。
当然1番人気を獲得し、ついたオッズは単勝1.2倍。
史上最も勝ち馬の分かりやすいGⅠレースとまで呼ばれた。


そこに天皇賞(秋)の後には、距離延長の挑戦を兼ねてジャパンカップに出走し、翌年にはアメリカへ遠征するというプランが発表された。
この時から、サイレンススズカの夢や希望に溢れた未来を思い描いていた関係者やファンは多かった。


しかし秋の天皇賞にはあるジンクスがあった。
府中の魔物。
「一番人気は勝てない」、そして「逃げ馬は勝てない」。
どちらもこの時の直近の達成馬は11年前(1987年)のニッポーテイオーまで遡らなければならない。
ちなみに前者は2000年のテイエムオペラオーを皮切りに払拭されてきているが、後者は現在でも現れていない。





そして、運命の日。

第118回天皇賞(秋)

1998年11月1日
東京競馬場第11レース
1枠1番1番人気

不気味なほどに「1」が並んだ

そして誰もがもう1つの「1」が並ぶと信じていた
今日はサイレンススズカの日なんだ。と





ゲートが開くと、サイレンススズカは抜群のスタートを切り先頭に躍り出た。その後も快調に飛ばし、スタートから1000mを57.4秒で駆け抜ける。
後続は突き放される一方で、第3コーナー手前では2番手のサイレントハンターに10馬身差、3番手以降にいたっては15馬身以上の差をつけるという、とんでもない大逃げを見せる。
テレビの中継カメラは目一杯引かないと先頭から後続まで映らなくなり、あまりにも引きすぎてスタンドの屋根が画面に入ってしまうほどだった。
「一体どれだけの差がついてゴールするのだろう」
ほとんどの観客が勝利を確信していた。



しかし...



ああっとサイレンススズカ!サイレンススズカに故障発生です!

なんという事だ!4コーナーを迎える事なくレースを終えた武豊!


沈黙の日曜日!!

サイレンススズカ は、第3コーナーの辺りを過ぎたところで突然の失速。そのまま後続の馬たちに抜かれながらコースを外れて止まってしまう。


『何が起こったかはすぐにわかった。ジョッキーにとっては、一番嫌な瞬間ですね』
――――武豊


観客席はどよめきに包まれる、サイレンススズカはどうした?大丈夫なのか?
しかしカメラが写したのは、鞍上から降り、痛みに耐える愛馬をなだめている武騎手の姿と、グニャグニャに折れたサイレンススズカの左前脚だった。

その後レースを制したのは、オフサイドトラップ
「競走馬のガン」とまで呼ばれる屈腱炎を三度乗り越え、8歳にしてG1タイトルを掴むこととなった同馬は、何の因果か、エルコンドルパサーのオーナーである渡邊隆氏の持ち馬で、また、サイレンススズカの母のワキアへ種付け予定だったトニービンの産駒だった……。

■怪我とその後

怪我は左前脚の手根骨粉砕骨折であり、予後不良……すなわち回復の見込みなしと診断された。
それでもなお、折れた方の足で賢明に踏ん張って後方集団が押し寄せるコースを外れて武を無事に下馬させていた事が故障発生直後の映像からも見てとれた。
診療所で安楽死の処置が取られ、あまりにもあっけない形で、競走馬生活はもとより、その生涯にまでも幕を降ろしてしまった


怪我の詳しい原因は約四半世紀が経とうとしている現在でも不明であり、様々な説が唱えられている。
一例として橋田満調教師は、「走るスピードがあまりにも速すぎたために骨が金属疲労のような症状を起こし折れた*12」という説を唱えたが、確たる結論は出ていない。
武騎手もレース後、怪我の原因を聞かれた際に「原因はわからないのではなく、ない」とコメントしている。
その後、滅多に酒に酔わないことで知られる武騎手が、号泣しながらワインを何杯もあおって泥酔している姿が目撃されたという。
サイレンススズカの厩務員を務めていた、加茂厩務員はその後間もなく厩務員の仕事そのものを退いてしまった。


サイレンススズカは死後、この年のJRA賞特別賞を受賞した*13
またあの日毎日王冠で戦った2頭が活躍しサイレンススズカの評価も上がっていくのだが、それはまた別のお話である。


ちなみにこの翌年、彼の2歳下の半弟にしてワキアの末息子であるラスカルスズカ(父コマンダーインチーフ)がデビュー。同じ馬主、調教師のもとで競争生活を送り、やはり武豊騎手が最も多くのレースで手綱を取っていた。
中距離レースでの大逃げを得意としていた半兄とは違い、先行と差しを使い分けるオーソドックスな脚質のステイヤーで、デビューから三連勝し、G1でも4回掲示板に入るなど一定の活躍はしたものの、残念な事にテイエムオペラオーら強力な同期達や故障が彼の足を引っ張り、結局16戦4勝(重賞未勝利)にという成績に留まった。
それでも血統背景と成績が評価されて種牡馬入りし、ささやかながら子孫を残した。2010年に種牡馬を引退してからは功労馬として余生を過ごし、2020年に24歳でこの世を去った。
兄と肩を並べる成績こそ残せなかったが、早逝した彼の代わりに種牡馬入りし、天寿を全うしてくれたことは、この兄弟の関係者やファンにとっては大きな救いだったと言えるだろう。


評価

ファンの間ではその強烈すぎるレース内容から今でも根強い人気を誇るが、反面「悲劇で美化されている」なんて声が上がることも*14
だが、その数少ない走りが生んだ感動、インパクト、そして唯一無二の走りは誰も否定出来ないだろう。


スタート直後から馬群の遥か前まで大逃げをうち、ゴール前でも仕掛けてくる馬たちと同等かそれを上回るスピードで走ることができる。
それは他馬にとって「序盤に競りかければ確実にスタミナ切れを起こし、末脚をためて終盤に差し切ろうとしても追いつくことすらできない。」ことを意味する。
馬群での位置取りや他馬を確認しながらのペース配分といった要因が着順に直結するのが競馬。
しかし、この馬の「いきなり先頭に立って後続を引き離し、最後もいい脚を使ってそのまま逃げ切る。」という走りは、それらを全て無視することができる。
そんな理想的だが常識では不可能と考えられていた走りをトップクラスのレースで何度も見せ、勝利を重ねていける程の力を持っていた。それは、サイレンススズカが『伝説の名馬』と呼ばれるに値する充分な理由となるはずである。


サイレンススズカの晩年の主戦騎手だった武豊は、天皇賞の翌週に行われた新馬戦でアドマイヤベガの鞍上を務めた際は斜行によって降着になってしまい、騎乗停止の処分を受けるなど、しばらく精彩を欠いたレースを続けた。


それでも、翌年には因縁の天皇賞(秋)をスペシャルウィークと共に勝利。「サイレンススズカが背中を押してくれた」彼はレース後のインタビューでそう口にした。
武騎手は愛馬の死を乗り越えて、そのまま競馬界で多くの偉業を成し遂げていくことになる。
その中には奇しくもサイレンススズカと同じく武騎手との出会いで大逃げに覚醒し、ダートの絶対王者として君臨した「砂のサイレンススズカ」スマートファルコンもいた。


しかし、こうして立ち直ってもなお武騎手はその後ディープインパクトと巡り合い数々のGIを制覇するまで、サイレンススズカについてコメントすることはなかった。
後に武騎手は雑誌のインタビューでそれが意図的なものだったと認め、同時に彼がどれだけサイレンススズカに期待を寄せていたかが分かっている。
悲劇から10年以上の時を経てスポーツ誌でサイレンススズカのインタビューに答えた際

「この馬だったら、GIをとんでもない、ありえないような勝ち方ができる……そんな馬だったのに、全てが突然消えてしまいました。」

と語ったその心中は如何ばかりの物であっただろうか。
サイレンススズカの死から15年後の週刊誌のインタビューに答えた際にも、天皇賞(秋)のレース後の出来事について

「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。夢であって欲しいな、って。」

と語っていた。それ以上を語ることは拒んだが、やはり前述の目撃証言は事実だったのだろう*15

サイレンススズカの死は、数多くの一流馬に騎乗してきた武豊にさえも、それほど強烈なトラウマとショックを与えたのだ。

「ディープインパクトが最も苦手な馬、理想型のサラブレッド」と語り「もしディープインパクトに乗った自分に挑むなら?」という質問に対してもサイレンススズカの名前を挙げた。
豪快な追い込みを身の上とするディープインパクトはサイレンススズカを差せるのか?
サイレンススズカは逃げ切れるのか?というのは今でもよく議論される。
「左回りならサイレンススズカが勝つ」とか「距離が伸びればディープインパクトが勝つ」とか、競馬にタラレバはご法度とわかっていてもそれが尽きることはない。
武騎手は別のインタビューでも『全盛期ナリタブライアン・トウカイテイオーを含めた古今東西の名馬を集めても勝てる』『何十年に一頭の馬』と称するなど、やはりこの馬を非常に高く評価していた。
それは令和になった今でも変わっておらず、彼がどれだけサイレンススズカに大きな可能性・未来を見出し、そしてそれが失われたことを憂いているかを物語っている。


三冠馬ナリタブライアンの背中を知る男・南井克巳も、宝塚記念で騎乗した際「ナリタブライアンと同等の馬」と語っている。
エルコンドルパサーはジャパンカップを勝った後フランスに長期遠征を敢行し世界を目指したが、その理由は「日本に戦う相手はもう存在しない」というものであった。
この馬の陣営が中距離戦線で挑むべき相手と見ていたのは、毎日王冠で彼の全力の正攻法を破天荒な戦術で突っぱねた音速の貴公子サイレンススズカである。
こういったファクターが示すように、彼と共に駆けた者からの評価は概ね良好のようだ。

また、種牡馬としての価値も高かったと思われる。
父は前述の通り競走馬・種牡馬の双方で大きな成功を収めており、母ワキアは彼の他にも長距離戦線で活躍したラスカルスズカを輩出するなど名牝。
また、ワキアの半弟(サイレンススズカの叔父)には英ダービーを制したベニーザディップがいた。
一方で、ワキアは1996年に早世している上にサイレンススズカには全兄弟がおらず、この馬の血統は既に替えの効かないものになっていた。
当時、日本で飽和状態にあったノーザンダンサーの血が入っていないという点でも期待されており、社台ファームの吉田照哉も種牡馬としてのサイレンススズカには太鼓判を押していた。


繰り返すようになるが1998年に入ってからのサイレンススズカは絶好調だった。
もしあの怪我が無ければ、この馬にどんな未来があったのか、誰もが夢見ることだろう。
天皇賞(秋)をどんなタイムで駆け抜けたのか、再びエルコンドルパサーと相まみえていたであろうジャパンカップでは、どんなレースを見せたのか、アメリカ遠征で海外の強敵とどのような戦いを繰り広げていたのか、そして、種牡馬入りした後に、どんな産駒を残してくれたのか…。

だがサイレンススズカは”期待”や"未来"、そして"夢"といったもの全てを置き去りに、あまりにも早くその一生を駆け抜けていってしまった。
今やターフに残っているのは、見ることの叶わない"幻想"だけである。




【創作作品での登場】

一見してどこか儚げでクールな美少女だが、その実態は先頭に立って走る事に並々ならぬ執着心を見せるトレセン学園きっての戦闘民族ならぬ“先頭”民族
モチーフ馬の人好きで落ち着きがないパブリックイメージとは違い大人しい性格の持ち主だが、走ること以外に興味が薄くそれのみに執着があるタイプで、ゲームではそれがド天然な行動になって出力されることも多く、ひねった形で反映されているともとれる。
『沈黙の日曜日』はアニメやゲームの各シナリオでもそれぞれ違った形で描かれる、大きな山場になっている。
多くの関係者とファンに深く刻まれた悲劇とその先の夢はご自身でプレイしてみていただきたい。
アニメ1期では裏主人公とも言える立場で、主人公であるスペシャルウィークとは同室の親友。

ドラマCDでは苦手だと言及していたマチカネフクキタルにゲーム内では振り回されている事が多い。だが彼女を嫌っているわけではなく、なんだかんだ言いながらも仲良しでよく一緒に行動している。
その他詳しい事は当該項目を参照。

リアルタイム連載だった事もあり、デビュー直後にやらかしたお笑いキャラのイメージが強い。
本人もその点は気にしており、金鯱賞の大逃げ勝ちで観客に笑われた事で悩んでいたが、預言者に扮した父の「タケユタカが乗って重賞に勝ったSS産駒はG1馬になる」「SS産駒の“お笑い馬”は走る」というお告げを受けて吹っ切る事に成功、見事宝塚記念での勝利を飾った。
その後は休載期間に沈黙の日曜日が直撃したため生前の出番は少ないが、その生き様はタケユタカを通じてとある馬に大きな影響を残す事となる。
また、死後は第43回京成杯回にて、暴走するブルーイレヴンに振り回されるタケユタカの悲鳴を聞きつけて降臨。
物理的に重しになってブルーイレヴンを抑えつつ、どさくさに紛れて同父かつ甥にあたるスズカドリーム*16を勝たせて行った。

  • 『優駿たちの蹄跡』
記念すべき100話目から3話に渡って掲載された『激逃サイレンススズカ』の主役馬として堂々登場。
担当厩務員の加茂力氏と出会ってから沈黙の日曜日を迎えるまでの生涯が描かれている。

  • 『ウイニングポスト』
コーエーより発売されているゲームソフト『ウイニングポスト』シリーズでは、逃げ馬最強格の競走馬として登場。

ただ史実準拠な設定なので、1994年に史実産駒馬として登場するが1998年の天皇賞秋で予後不良診断を受けてしまう。
それを避けるのであれば、事前に母のワキアを所持してサンデーサイレンスと交配させて自家生産馬にするか、幼駒の時点で御守りを使用して購入する必要がある。
ステータスは高ステータス値のスピードと勝負根性がS評価と新馬戦の時点で無類の強さを誇る。反面、健康がF+と非常に低く、高密度のレーススケジュールを組んでしまうと一気に故障のリスクが高まってしまう。
史実では産駒がいないが、本作で種牡馬にしておくと隠しステータスの優秀さからか産駒の活躍がかなり見込める。

■第40回宝塚記念(1999年)


全国の競馬ファンの皆さんどうでしょうか?

いつまでも、そしてどこまでも先頭だった一年前のサイレンススズカのゴールが思い出されます。

そして今年もまた、あなたの、私の夢が走ります。

あなたの夢はスペシャルウィークか、グラスワンダーか



私の夢はサイレンススズカです
*17



夢叶わぬとはいえ、もう一度この舞台で、ダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。

――――杉本清 (関西テレビアナウンサー)








先頭を、どこまでも先頭を。

ヒーロー列伝 追悼ポスター






追記・修正は2000mを2分以内に走ってからお願いします。

















































サイレンススズカという存在は、もういない。
それでも、人々は時に彼の幻想を抱き、いないはずの彼の姿を追い求める…




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最終更新:2024年04月09日 10:49

*1 なおこの日はF1において「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトン・セナイタリア・イモラのサンマリノGPで事故死した日でもあり、勝負服が「緑」と「黄」のブラジルカラーで、ポールポジションからいち早く飛び出し逃げ切るレーススタイルだった事もあって、少なからず「スズカはセナの生まれ変わり」説が上がる事がある(実際にはスズカの方が早く産まれてはいるが)。

*2 資料によっては「効果があり旋回癖が直ったケースもあったが、旋回できなくなったことでストレスを溜め込みレースに悪影響が出た」という話もあるが、結局何も置かずに自由に旋回させたほうがいいという結論に至った部分は同じである

*3 各年の新馬戦は通常3歳(現2歳)の夏の初めごろから翌年の夏ごろまで開催される。2歳限定重賞もあるため、3歳初勝利はともかく3歳デビューは遅め

*4 シンボリインディがこれにあたる

*5 後に1999年高松宮記念を制したマサラッキ。

*6 香港マイルの距離は1600m、香港国際カップの距離は1800m

*7 本来であれば小倉大賞典が開催されるのは、右回りの小倉競馬場なのだが、この年は工事中だったため、代替として中京競馬場が使用された

*8 人の利き腕のように馬にも得意な旋回方向がある。

*9 サイレンススズカが大敗した日本ダービーでは、シルクジャスティスが2着、メジロブライトが3着に入っていた

*10 3連勝した重賞は1800~2000mの中、宝塚記念は2200mとやや長めの距離。そもそも、当時の神戸新聞杯は2000mの距離だったため、宝塚記念前の時点では、2000mより距離の長い重賞は、ダービー以外走っていない。

*11 結果的にサイレンススズカが勝利したG1はこれだけだったので今でも武はこのレースに関しては口が重い

*12 中距離走でも短距離走並みのハイスピードを長時間維持して走れることがサイレンススズカの強みであったが、その長距離全力疾走が脚への負荷となっていた

*13 死後に特別賞を授与された競走馬は他にもテンポイントとライスシャワーがいる。なお、サイレンススズカの後、死後に特別賞を授与された競走馬はいない。

*14 もっとも、悲劇が美化されている例は少なからずあり、怪我による引退から僅か2年後に急死した三冠馬ナリタブライアン、数々の名馬たちの大記録を阻み、ヒールと呼ばれながらも奇跡の復活を遂げヒーローとなった直後に淀に散ったライスシャワーなどもいるのでサイレンススズカに限った話ではない。

*15 武騎手と親交があり、サイレンススズカの最期のレースではテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一騎手も、「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している

*16 父サンデーサイレンス、母はワキア産駒のワキアオブスズカ

*17 杉本氏は1969年~2004年まで宝塚記念の実況を足掛け30回担当したが、実際に出場していない馬の名前を「私の夢」として挙げたのは、この年のサイレンススズカが最初で最後である。そのため、この実況がいかに同馬に思い入れがあったかを伺わせるエピソードとなっている。