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話は列車事故があった日の夜までさかのぼる。

彼らの死を春美に伝えるのは、糸鋸の仕事だった。
本来は事故を担当した警官のすることだったが、
見も知らぬ他人にそんな事実を突きつけられる幼な子のことを思うと、糸鋸は居ても立ってもいられなかった。
逃げ出したい気持ちも無いわけではなかったが、かといってこんな春美を放っておけるような男でない。
そういう役回りをかって出なければならぬ損な性格だったが、そんなことは本人にはどうでもよかった。

糸鋸にはただただ目を見開いて呆然としているこの少女に、かける言葉が見つからない。
(元気を出すッス)
(いつかはいいことあるッス)
(ふたりもハルミちゃんを見守ってるッス)
…どれもこれも薄っぺらい。
何を言っても彼女の傷口を拡げるばかりだということは、いくら彼でも分かっていた。

「…」
「…」
その事実を告げてから、しばらくふたりは沈黙の中に居る。
もっと泣いたり喚かれたりする覚悟を糸鋸はしていたのだが、春美は思いのほか大人しかった。
(いや…)
おそらくは、身内が同時にふたりも死んだという現実感が湧かないのだろう。
事件のことを糸鋸が口にする前から彼女には既に分かっていたようだったが、
春美はずっと塞ぎこんでしまっている。
(一体どうすりゃ…いいんッスか?)
帰る家に家族が居るなら家に送ればいいだろう。
だが、母親が獄中に居る今…死んだ真宵が残されたただひとりの肉親だったと聞いている。
こんなとき母親に会わせるにしても、面会時間はとうに過ぎている。
そもそも綾里キミ子が投獄された直後は実家のある「倉院の里」で遠縁の親戚が面倒を見ていたハズだが、
後に真宵のもとに飛び出してきたところを見る限り、それもうまい話ではない。
犯罪者の娘として、その家で何があったのかは想像に難くなかった。
だいたい、真宵の死が連絡されているのに署に出向きもしない連中になど任せておけるものか。

身寄りがなければ児童課にまわし相応の施設を手配させるべきなのだろうが、
糸鋸は、成歩堂龍一のもとで共に同じ事件に立ち向かったことさえあるこの娘を、
「ハイそうですか」と投げ出すことも出来ずに居る。
春美自身のこともあったし、また成歩堂への義理にもとることはしたくなかった。

御剣検事にも相談したかったが、彼が同情というものを人一倍嫌う性格なのは分かっていたし、
何より御剣は御剣で成歩堂の死を受け入れることで精一杯だろう。
少なくとも先ほど見た帰宅する彼の背中はそう言っていた。
実際彼は後に消息を絶つことになるのだが、糸鋸にはとうにその予感があったし、
その気持ちもよく理解できるものだった。

蛍光灯の切れかかった薄暗い面会室の中でふたり、ただただ重い沈黙が続くばかりであった。

「刑事さん…」
「ん?」
やっと、春美は声を上げた。
「あの、私…お家に帰ります。ベランダの洗濯物、片付けなきゃ」
と言うことは、彼女のいう「家」とは倉院の里ではなく、
事務所近くにあるマンションの一室だろう。しかし、そこには誰も居ないはずだ。
…そこに「帰る」と言う。
「こんな遅くまで…ごめんなさい」
そう言って、春美は力なく椅子から立ち上がった。
フラフラしているようだった。
「…送っていくッス」
これからどうするかは、明日から考えれば良いだろう。今ひとりにさせるのは心もとなかったが、
かといって糸鋸にはどうすれば良いか皆目検討もつかぬ。
むしろ、一晩くらいそっとしておくべきなのかもしれない。
「出口脇に駐車場があるッス」
子供の足で歩くには少し距離があるし、この時間ならクルマの方が早いだろう。

おもてに停めていた灰色のビートルを見て、春美は一言、
「刑事さんの…コートみたい」
と言った。
「ぼろいッスかね」
なるほど確かに古臭く色も形(ぶつけた跡がある)も垢抜けないクルマだが、
それでもコートと同じで彼が気に入って使っているものだった。

(そういえば…この子、最初は自分の名前『おひげの けいじ』だと思ってたッスね)
おそらく狩魔冥の「ヒゲコート!」という罵りが、春美にとってよほど印象が強かったのか、
初対面からしばらく彼はそう呼ばれていたのを思い出した。
自分はこのクルマやコートと同じで、いつでもそういう野暮ったいイメージなのかもしれない。

ちょっと決まり悪そうに糸鋸がボリボリ頭を掻くと、春美は初めてクスッと笑みを漏らした。
だが、その瞳は未だにどこか虚ろだった。

ふたりは、車内でも口を開かなかった。
バサバサ…という癖の強い空冷エンジンのこもった音だけが聞こえている。
やがてマンションの前に到着し春美が降りようとした時、糸鋸は言った。
「ハルミちゃんは、もう眠いッスか?」
「えっ?」
春美には糸鋸の言う意図が分からない。

「もし眠くなければ…洗濯物を取り込んだら夜のドライブ行くッス。
 こういう時は、疲れるくらい遊んだ方がいいッス」
「…」
春美は少し考えてから、
「ありがとう、刑事さん。でも、私…」
糸鋸はチッ、チッ、チッ…と御剣検事の癖を真似て指を立てて舌を打った。
「遠慮はいらんッス。自分も今夜はジッとしていられないッス」
と言ってウィンクする。
本当は、書類整理の仕事がまだ残っていた。

春美は笑いながら(それも力ない表情だったが)、
「それじゃ、お願いします…」
と言った。
「ッス。ここ駐禁だから、クルマの中で待ってるッス」
「はい。じゃ、すぐ戻って来ますね」
ビートルのドアを閉め、春美はトタトタとマンションの中へ駆けて行った。

……
………
15分以上が過ぎた。
(ベランダの洗濯物と言っても…けっこう量があるんッスかね?)
最初のうちは呑気に構えていたが、
灰皿に吸殻が2つ3つと増えていく間に、糸鋸はだんだん不安になってきた。

まさか…たかだか8歳の子供が、いくら打ちのめされているとはいえ自殺なんて考えはすまい。
(…自殺!?)
糸鋸はハッとなって立ち上がろうとして、クルマの天井に頭をしたたかにぶつける。
(まさか…いや、しかし!)
痛む頭をおさえ、糸鋸は必死に考えた。

一度そう思い始めると、不安はどんどん募るばかりである。
たまらずクルマを飛び出して、刑事は一目散にマンションの中へと駆け込んだ。
最終更新:2006年12月12日 20:46