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入り口に飛び込み辺りを見渡して、並んだ郵便受けのひとつに成歩堂の名を見つけた。
(703号室!)
7階なら、飛び降りて死ぬのに充分な高さだろう。
そんな想像が脳裏をよぎり、真っ青になってセキュリティのキーボードに703を入力しインターホンを鳴らす。

……
………ッ
「…はい」
春美の涙混じりの声で返事が聞こえてくるまでの間、糸鋸はまるで生きた心地がしなかった。

「ここと部屋のロックをはずすッス!早まっちゃいかんッス!」
「え…?」
「と、とにかくここを開けるッス!早く!」
…ガチャ、と中戸の鍵が開くなり彼は脇目もふらず中に入った。
エレベータなど待っていられるかとばかり、物凄い勢いで非常階段を駆け上がる。

(なんて…)
息切らし二段飛ばしで走りながら、糸鋸は自分の馬鹿さ加減が腹立だしかった。
春美の親戚や児童課などに任せてはおけぬなどと偉そうなことを考えていながら、
今ひとりにしてはいけない彼女から目を離した自分の迂闊さが呪わしかった。

後になって考えてみると、糸鋸自身この時の彼はよくよく慌てていたと思う。
そこまで想像を膨らませることは無かったのだが、
春美の身に万が一のことを考えたこと自体は彼の純真さの表れと言っていい。

「…ゼイ、…ゼィ……」
7階を登りきり、肩を上下させるほどの荒い呼吸を整えもしないまま、
刑事は703号室のドアを開けた。

中は明かりが点いていない。
糸鋸は一瞬、顔から再び血の気が引いていくのを感じた。
…が。
息が収まっていくにつれ、暗い部屋の中ですすり泣く春美の声にやがて気づくのだった。
「…ハルミちゃん?」
糸鋸は壁にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばしたが、
「…だめ………ッ」
という春美の声に止められる。

「…点け……ちゃ、ダメです…………。
 ……ごめ、なさ…刑事さん……もう少し…待っ…」
春美はひとり、ダイニングルームの真ん中でうずくまって嗚咽を上げていた。
「…」
糸鋸は言葉を失った。

しばらくそのままだったが、やがて春美は震える声をあげる。
「…洗濯したって……たたんだって…もう…………」
暗闇に目が慣れてくると、春美は胸に何かを抱いているのが見えた。

真宵と成歩堂の服だった。
彼らの服に顔を押し当てながら途切れ途切れそう言って泣きじゃくる春美の姿が、
針のように糸鋸の胸を突き刺した。

霊媒道に生まれついた子として、常にひとの死と霊魂に接して育ってきたはずの少女。
しかし、こうして家族の死に打ちのめされる姿を見るかぎり、
そんな生い立ちとは関係なしに…ただの、普通の女の子でしかない。
なぜこんなにも過酷な運命ばかりがこの娘の身にふりかからなければならないのか。
(…神も、仏も無いッス)
糸鋸は唇を噛み締めて、心の中でそう呟いた。

「ひとりになっちゃった…刑事さん。私、ひとりになっちゃったよぅ……」
涙と鼻水でクシャクシャになった顔を上げて、春美は呻く。
(このコは…)
涙を見せまいと、ここで少し泣いてからクルマに戻るつもりだったのだろうか。
糸鋸はその健気さに胸に熱くこみ上げてくるものを感じて、春美の小さな肩を抱いた。

糸鋸の手は、まるで春美の体を全て包み込むかのように大きく暖かい。
「あ…あぁぁぁ……ッ!」
春美の、それまで堪えていたものが突如堰を切ったように流れ出た。
「わぁああああぁぁぁ………あぁぁぁぁ…ッ」
自分の胸にすがりつく少女の、悲痛な感情のほとばしりが糸鋸の耳を打つ。

糸鋸には、ただ黙って抱きしめてやることしかできなかった。

…春美は、クルマの中に居る間もずっと泣き続けていた。

やがて泣きつかれて眠ってしまった彼女を老父母の居る実家に預け、糸鋸は再び署に戻って来た。
実家は片道でクルマを2時間ほど飛ばした場所にある。
署に戻るころには既に夜が明けようとしていたが、彼はそのまま地下にある射撃場へと足を運んだ。
時間外の施設使用は規則違反だったが、そうでもしなければ気の高まりが収まりそうになかった。

(自殺じゃ、ないッス)
それは断じて違う、と糸鋸は考える。
(ふざけてて転落?………ま、まぁそれはあるかもしれないッスけど…)
生前の真宵の性格を考えると、このあたりは自信が無い。
(…けれど、恐らくそれも違うッス)
決して定かとは言えないが、彼の刑事としての勘が「それは違う」と言っている。
自分自身の勘があまり当てにならないモノなのは糸鋸自身理解していたが、
この場合はそう思わなければやりきれなかった。
この事件の裏には何者かの悪意があるのだ、と。

(もし誰かの思惑でこうなったというのなら…)
糸鋸はリボルバーの引き金を引いた。
マグナムの轟音が密閉された射撃場に鳴り響く。
(絶対に、犯人を捕まえてやるッス!…でなけりゃ、報われないッス!)
2発、3発と続けざまに撃った。
お世辞にも正確な射撃とは言えないが、ターゲットに弾丸が当たった箇所は例外なく吹っ飛んでいる。
むろん制式銃ではない。人一倍の体格と指の太さを誇る彼が、
自分で使いやすいものを申請した銃だった。
…その名にキングコブラという毒蛇の王者の名称を冠している。
最終更新:2006年12月12日 20:47