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それから一ヶ月あまりが過ぎた。

春美が「行ってきます」という元気な声とともにドアを開けると、今日も良い天気だった。
朝の涼しい風とともに、小鳥たちのさえずりが流れ込んでくる。
春らしいうららかな日和だった。
うれしくなって、春美は思わず戸口でピョン!と飛び跳ねた。
赤いランドセルが揺れる。
「ご飯作っておいたから、起きたらちゃんと食べてくださいねっ」
糸鋸は夜勤明けに潜りこんだばかりの布団の中から、
「…ッス。行ってらっしゃい…気をつけて」
と眠たげな言葉で春美を送り出した後、再び大きなイビキをかき始めた。

この春から転入した学校だが、新しいクラスの友達とは上手くやっているようだ。
これまでほとんど地元の「倉院の里」から出たことがなく、多分に世間知らずの子ではあるが、
気持ちの素直さが街の子供に好まれるのかもしれない。
「学校が楽しくてしかたないです」
春美は夕食の度に言う。
最近になって、ようやく元気を取り戻したふうだった。

あの事件から紆余曲折を経た後、糸鋸は保護者として春美を引き取ることにした。
今は彼のアパートにふたりで暮らしている。 「まあ、お前のいいトコなんだろうけどねぇ…」
春美を引き取る話が決まったとき、母親の漏らした言葉だった。
「お前ももう30超えたんだ。親としては、そろそろ本気で嫁さんのこと考えて欲しいものだよ」
人助けもいいが、こんなことをしていてはますます結婚が遠のくのではないか、と言うのである。
未だ息子の結婚を諦めていないのは、むしろ当人にとって意外だった。

「春美ちゃんはうちらで引き取るから、お前はまず一緒になってくれる慈悲深い人を探しなよ」
子供の居ない姉夫婦もそう言った。
「大体、お前さんが人様の面倒を見るなんて絶対できっこないんだから」
少なからず傷つく一言だったが、まあ彼らの指摘は概ね正しい。
糸鋸自身、最初から春美と上手く暮らしていける自信があったわけではない。

ただ、糸鋸には生活についてのことよりも、この一点のみが気にかかっていた。
(もし、ナルホドくんと綾里真宵が何らかの方法で『殺された』のだとしたら…)
動機が怨恨であれば、この後春美の身にも危険が及ぶ可能性があるのだ。
だとすれば、父母や姉のもとに春美をやったところで安全を図れるかといえば定かではない。
施設に入れるにも気にかかる。
自分のそばに置いておくのが、一番気楽だった。少なくとも、腕っぷしには自信がある。
春美の身ひとつを守るくらいなら容易なことだと考えたのだ。

もっともこの男、
やはりと言うべきか生活というものの重大性が認識として欠けているところがあった。

春美がこうして部屋に来て以来、
掃除・洗濯・炊事など、家事一般は全て彼女の一手に任されていた。

当初は気を紛らわす意味もあったのかもしれないが、とにかく春美はよく働くのだ。
おかげで朝は作りたての味噌汁の香りで気持ちの良い目覚めを迎えるし、
仕事から家に帰れば暖かい夕食が待っていた。
風呂まできちんと沸いているという、出来すぎの(しかもふた昔前の)女房ぶりだった。
部屋も常にキレイでいたし、その日着た服などは洗濯カゴに放り込んでおけば良かった。
春美が自主的にしているのでなければ、ほとんど児童虐待であろう。

糸鋸にはそういった仕事を彼女に押し付けたつもりは全く無いのだが、
掃除機など2~3ヶ月に一回かければ良いという不精者の彼と、
窓サッシの溝に埃が少し溜まるのさえ許せない春美とでは、自然そうならざるをえなかった。
むしろ糸鋸の方が強制的に規則正しい生活に修正されたようなものである。
これではどちらが世話を焼く方なのか、分かったものではない。

さすがに悪いと思い、最初は糸鋸も当番制で家事を手伝ったのだが、
料理といえばソウメンと肉野菜炒めばかりで、掃除の仕方も雑だった。
また、子供のくせに自分の下着などを見られるのが嫌なのか、洗濯などさせてもらえない。
糸鋸が洗濯カゴを手にするたび、春美は真っ赤な顔をして洗濯機の前で立ちふさがるのだった。

…結局、彼が頑張ったところでかえって手間が増えるだけだということが判明し、
それからというもの糸鋸はこの8歳の少女の生活力に甘えっぱなしである。

この街の学校に転入するにあたり、春美には「糸鋸 春美」を名乗らせることにした。
一時期ワイドショーを賑わせた綾里の名ではまずいだろう、という配慮だったのだが、
少女はこの名がどうも気に入ったらしく、何だか嬉しそうな顔をしているので、
「綾里だって、良い名じゃないッスか」
と言うと、
「糸鋸だって、良いお名前ですよ」
と切り返された。
気に入ってくれたのは何よりだったが、糸鋸にはそれがなぜだか分からなかった。

「うふふ…糸鋸。…イトノコギリ ハルミですよ、お父さん!」
奇妙なことだが、そう言って無邪気に笑う春美の姿がまるで本当の娘のような気さえしてくる。
(父親の真似事ってのも悪くないッス。…胸がときめくッス)
まあ生活の面では半ばその責任を放棄しているようなものなのだが、
この少女の存在は思いのほか彼の毎日に張りを与えてくれている。
この街で一人暮らしを始めて以来、長らく忘れていた家族のぬくもりだった。

糸鋸はこの笑顔を大事にしたい。

今はもう成歩堂や真宵への義理とか人情などではなく、純粋にそう考えるようになっていた。
せめて春美の母キミ子が出所するまでの間は、春美にとっても大切な家族でいよう。
照れもあって、言葉にしたこともするつもりも無いが、糸鋸は密かにそう心に決めていた。
最終更新:2006年12月12日 20:47