9

春美は、糸鋸の帰りを今か今かと待っていた。

夕食の支度はとうに出来ている。
いつもは6時。遅くとも7時には帰宅する糸鋸が、今日に限って9時を回っても連絡ひとつない。
少女は、だんだん不安になって来た。
一ヶ月前のように、また全てを失う瞬間が来るのではないか、と。
(もし、このままけいじさんが帰ってこなかったら…)
春美は、自分の想像の恐ろしさに空腹も忘れて震えていた。

あの時のような悪寒を感じているわけではない。
自分の霊力の報せにしたがうなら、糸鋸の身に危険が迫っているということはないようだ。
だが、いくら自分にそう言い聞かせてみても、孤独だけは打ち消せなかった。
(いやだ…)
春美は自分の肩を抱くようにして身をすくめた。
(ひとりぼっちは、絶対にイヤ!)
心が、ふとした拍子にひときわ大きく悲鳴をあげる。

気持ちを紛らわそうとTVをつけたり、宿題のノートを開いてみたりするのだが、
どんなふうにしても焦燥感は拭えなかった。
「あっ」
ふいにアパートの階段を昇る音が聞こえ、春美は待ちきれず戸の方に駆け寄った。
糸鋸からは「誰が来るか分からないので開けないように」と言われているので、
こっそり扉の陰に隠れて、戸が開いたら糸鋸を驚かせてやろうと思ったのだ。
(うふふ…)
春美はその瞬間が待ち遠しかった。

不器用に鍵を開ける音がして、やがて扉が開かれた。
かと思うと、
「うぅ…っ」
開いた扉から糸鋸が、倒れこむように部屋の戸口でうめき声をあげながら突っ伏した。
「きゃっ」
驚かすつもりが、突然倒れてしまった糸鋸に春美の方がギョッとして、
「け、けいじさん!けいじさん!大丈夫ですかっ!?」
と駆け寄った。

「は、ハルミちゃんッスか…ただいま」
一体何があったのか、息も絶え絶えといったふうである。
「お、お帰りなさい。…どうしたんですか、けいじさんっ。怪我をしたのですか?」
どうしたら良いか分からず、春美はオロオロするばかりである。
糸鋸は彼女を安心させえるべく、倒れたままニィッ、と少し無理な笑顔を浮かべながら、
「だいじょうぶッス…疲れただけッス。怪我も…あんまり無いッス」
と言うのだが、それはどう見ても尋常な疲労の仕方ではない。

「け、怪我っ!?怪我があるんですか?犯人にやられたんですか?」
必死な目で畳み込むように追求してくる春美だったが、
糸鋸はそれきり大きなイビキをたてて眠ってしまうのだった。

検事がふたたび狩魔冥になってから、糸鋸の生活は慌しいものになった。
この日のように遅くまで残されることはもとより、
とにかくミスに対する制裁(主に鞭)はますます厳しさを増し、
肉体的にも精神的にも負担は大きくなるばかりである。
さらに言えばこの検事、なぜか糸鋸とともに事件を担当することが多く、
量もさることながら、彼は毎日これまでの倍かそれ以上の密度で仕事をこなさなければならなくなった。

「なんで、けいじさんばかりそんな…」
春美は去年見た冥の姿を思い出す。
派手で、傲慢で、意地悪で…何ひとつ良いところが思い浮かばない。
そんな女性と仕事をしなければならない糸鋸が、子供心に哀れだった。

糸鋸は春美の料理を口に運びながら、
「さあ?他の刑事は狩魔検事と組みたがらないし…狩魔検事も、妙に自分と組みたがるッス」
と、ウンザリしたように言った。
この男が根をあげるとは余程の事である。
「自分としても、狩魔検事にはもっと優秀な刑事と組んでもらいたいッス」
お互いの平和と幸福のためにはそれが一番だと、この平凡刑事は思うのだった。

「ま、まさか…」
春美はちょっと怪訝そうな顔になって、
「カルマけんじは、けいじさんの事が好きなんじゃ…」
と、突拍子も無いことを言った。
「うへっ」
糸鋸は驚いて、咀嚼していた御飯粒が鼻に入ってむせた。
「ありえないし、あって欲しくないッス。…とにかく、もう鞭はこりごりッス!
 ああ、御剣検事ぃ……っ」
食事の最中、糸鋸は半泣きになって今は居ない男の名を口にした。
そう。
御剣さえ居てくれれば、少なくとも彼が仕事をするにあたって暴力がふるうことは無いし、
冥にしてもその苛立ちの矛先を糸鋸に集中させることは無いだろう。
…願わくば戻ってきて欲しい。
糸鋸は最近になってさらに強くそう思うようになった。

「それにしても許せませんわっ」
春美はタンッと箸を置いて、
「私のけいじさんに鞭を振るうなんて!
 警察署に行って、そのけんじさんをひっぱたいてやりますわ」
怒った時の癖で、春美は片腕の裾を捲り上げてそう言うのだった。
糸鋸はそんな少女の優しさと本気が嬉しかった。
「ありがとッス、ハルミちゃん。…でも、仕返しは自分に来るッスから、おてやわらかに…」
仕事のグチ言ってすまなかったッスね、と言って、糸鋸はいきり立つ春美の頭を撫でてやった。

どんなに疲れていても参っていても、糸鋸の手は大きく暖かい。
…そして、包み込むように柔らかかった。
春美は少し照れたように顔を赤くして、自慢のニラ玉スープを一口すすった。

食事のさなか、糸鋸は久しく耳にすることの無かった言葉を聞いた。
「授業参観?」
それが、春美のクラスで来週の日曜日にあるのだという。
「…なんですけど」
少女は上目使いで糸鋸の様子をうかがっている。
糸鋸は手帳を取り出してスケジュールを確認し、
「あ、大丈夫。非番ッス。自分で良ければ行くッスよ」
と言うと、春美は目を輝かせて「ホントにっ!?」と大きな声を上げた。

「まあ、保護者の務めッス。
 いい機会だから、ハルミちゃんがきちんと勉強してるか見ておくつもりッスよ」
自分なんかの参観が思いのほか喜んでもらえたのは光栄だが、そこはそれ。
一応のクギは刺しておく糸鋸だったが、春美はどうも糸鋸が来てくれるということだけで、
舞い上がっているようだった。
その話を終えてから、皿洗いをしている最中も春美はずっとニヤケッ放しで、
時々「うふふ」と楽しげな笑みを漏らす。
むろん悪い気はしなかったが、糸鋸には正直どうしてそこまで嬉しいのか分からない。

風呂から上がると、春美は布団を敷いて待っていた。
「どうぞ、うつ伏せになってください」
湯上がりのポッポと上気した顔をそのままに、糸鋸は恐る恐る「何が始まるんスか?」と尋ねたが、
春美は「いいですからっ」と言って、大の男を強引に寝かせるのだった。
「今日はお疲れのようですから…いつもお世話になってるお礼ですよ」
春美は、言うが早いが糸鋸の山のような背中に跨ってくる。
「マッサージして差し上げますねっ」
春美は両の手のひら全体に体重をかけて、背骨にそって糸鋸の背中を押していく。
「やっぱり凝ってる…。けいじさん、ここですね?」
…ぎゅっ!
「うおぅっ…ス」
ふいに的確なツボを押される感覚に、糸鋸は思わずため息をついた。
…ぎゅっ、ぎゅっ………
春美の親指が、糸鋸の疲れて固まった筋肉を次々と揉みほぐす。

「あ…あぁ…」
糸鋸は疲労しきっていた自分の体に、まるで精力が吹き込まれるような錯覚を覚えていた。
指が背中の筋肉に押し込まれると、そこからブワッと熱い何かが吹き上がるような感触だった。
こんなマッサージは、ついぞ受けたことが無い。
…ぎゅっ!
「あぅ…」
…ぎゅっ!
「おふぅっ……」
それにしても、何でもできる子だ。
春美の絶妙な指圧を受け、みっともなく女みたいな喘ぎ声(?)を上げながら、
糸鋸は彼女の万能さに舌を巻くほかなかった。

「あんっ。動かないでください!」
春美は跨っている両の脚にキュッと力を込め、糸鋸の悶える体を挟み込んで動けないようにすると、
指圧の指にさらに体重をかけてくる。
「うーっ…」
糸鋸はもうそんなささやかな抵抗すら止めて、ただただ自分の背中に乗っている娘のされるがままになっていた。


……
………
予期せぬマッサージが始まってから、一体どのくらいの時間がたったのだろう?
まさか30分も40分も経ったわけではあるまいが、その間ずっと糸鋸にはまさに至福の時だった。
背中のツボというツボを押された後、
虚脱したように全身の筋肉を弛緩させ、目をトロンと半開きにさせて寝転んでいる。

「私、お母様にも時々こうして差し上げるんです。どうでしたか?けいじさん」
マッサージの後も春美は糸鋸から離れない。
むしろますます甘えるようにして、ペタリと張り付くように彼の背に乗ったまま抱きついてくる。
春美のヒンヤリとした頬っぺたが背中のパジャマごしに押し付けられるのを感じながら、
「良かったッス…」
快楽の余韻のため息まじりに、そうとしか言えない糸鋸だった。

「疲れは取れましたか?」
「取れたッス…」
「明日から、また頑張れそう?」
「ふぁい…」
リラックスしている内に眠くなってきたのか、糸鋸はボンヤリとまるで阿呆のような受け答えしかしない。
だが、春美にはそれで充分だった。
小さな体を精一杯糸鋸の巨体に絡めながら、彼の体温を感じている。
この暖かささえあれば良かった。

「…ぁん」
抱きつきながら、春美は何かを言った。

「へ?」
夢見心地に糸鋸は声を上げる。
「い、いや…何でもないです」
糸鋸は「しまった」と思った。考えなしに聞き返してしまったが、この少女は確かに言ったのだ。
「お父さん」と。
もう後の祭りだった。
こういう時、上手いタイミングで「自分を父親だと思っていい」とか、
「娘同然に思っている」などと言って聞かせられるほど、この男は流暢ではない。
照れもあったし、どちらかといえば口はばったかった。
そういう気の利かせ方というか、口の上手さは自分の領域ではないような気もしている。

(だから、これでいいッス…)
いちいち言葉になどしなくても、
自分が大切に思い始めていることはこの少女に伝わっているのだと糸鋸は信じている。
そして糸鋸自身もまた、この娘が自分を父として慕っているという自覚を持ち始めていたのだった。
最終更新:2006年12月12日 20:48