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授業参観の日曜日。
父兄は10時までに学校へ行けば良いとのことで、糸鋸は春美が家を出た後、
めずらしく髭を剃り、こぎれいなスーツに着替えて家を出た。
いつもの習慣でコートに袖を通すところだったが、
考えてみるとこのコートはいつも女性陣には不評である。おまけに暑苦しい。
「春美の保護者として恥ずかしくないように」
というキミ子の言葉を思い出し、今日くらいはポリシーを捨てて行くことに決めた。
いつも左耳にかけている赤鉛筆も、便利だがあまり見目良いものではないのでやめておく。

そしてアパートの階段を降りたところで、糸鋸はふいに思い出して部屋に戻った。
(…大変な忘れ物を)
それは冥がアメリカから戻ってきた直後に彼女から渡された「リモート・ベル」である。
平たく言えばふた昔前のポケット・ベル(2018年現在、一般にこれを持っている人は皆無といっていい)なのだが、
医療機関内でも問題なく使用できること、
衛星通信と地下のケーブル・アンテナを使用しており地球上であれば大体どんな場所でも受信できること、
そして哀れなことに糸鋸自身には知らされていないのだが、
持ち主の位置がたちどころに分かる探知機の機能を備えていた。

「緊急のとき連絡がつかないのでは話にならないでしょう?」
という冥の提案で持たされることになったのだが、
実際携帯電話の通じない場所に居ることなど滅多にないので、連絡に使われたためしはほとんど無い。
そのくせベルを忘れて仕事に来ると、決まって冥の鞭が飛んでくるのだ。

それをポケットにつっこんでから、糸鋸は再び階段を降りビートルに乗り込んでエンジンをかけた。

…そうまでして身だしなみには気を使っていたにも関わらず、糸鋸の姿は場違いだった。
およそ授業参観には似つかわしくないモリモリとした筋肉質の巨体が、
普通のサラリーマン風のお父さんやご婦人方に混じり小学校のクラスの後ろで授業の風景を眺めているのは異様であった。
他ではPTAなどで顔見知りなのか、父兄同士「いつも子供がお世話になって」「こちらこそ」などという会話が聞こえるのに、
糸鋸に話しかけてくる親など居なかった。

(第一、世代がひとつ違うッス)
見たところ、20人以上いる父兄の大半が30代後半から40といったところだ。
見たところこの中で糸鋸はかなり若い方だろう。
実際はそれ以前の問題なのだが、とにもかくも鈍い彼でさえ自分がまずい場所に居ることだけは自覚していた。
(…あ)
そんな時、前に座っていた春美が振り向いて、小さく手を振ったのだった。

春美の後ろの席に座っていた活発そうな男の子がその目線を追って糸鋸を一瞥した後、
耳打ちするように春美に言った。
「…え?あれ、はみちゃんのお父さん」
「うん」
そんな囁き声が、聞こえてくる。
授業中のお喋りは感心しなかったが、どうやら友達とも上手くやっているようだった。
少し安心してその様子を眺めていると、
「お父さんに似なくて良かったねー」
という声まで聞こえてくる。

「こらっ、そこ!授業中にお喋りしないっ」
ガックリとうなだれる糸鋸をよそに、案の定クラス担任である女先生の注意が飛んだ。
糸鋸の耳に届いたということは、周囲の子供たちや父兄らにも聞こえていたのだろう。
ドッと笑い声が沸き起こった。
(ん…?)
糸鋸が顔を上げると、そんな中春美はこちらを向いてちろりとイタズラっぽく舌を出して笑った。
「ハハ…」
糸鋸も小さく手を振り返してからウィンクする。

「仲がおよろしいのですね。娘さんと」
そんなざわめきの中、
先ほどは怪訝そうな目で自分を見ていた婦人が、おそるおそる声をかけてきた。
「はぁ…。いい娘です」
糸鋸は照れつつ頭を掻きながら、「ッス」といういつもの口癖を押し殺してそう言うと、
その表情の感じの良さに婦人もいくぶん安心したのか、ホホホ…と上品に微笑み返した。

「…息子が失礼しました」
さきほどの少年の父親らしい真面目そうな中年が、申しわけ無さそうに頭を下げる。
「いや」
腹を立てるのも大人げないし、糸鋸はそれ以上授業の妨げの原因になるのも嫌だったので、
「子供は素直が一番ッス」
とだけ言ってニィと愛想笑いを浮かべた。

(…本当、いい娘ッス)
糸鋸は春美の気づかいを感じながら、心の中で反芻するのだった。

そんな事があったものの、あとは終始なごやかな雰囲気のまま授業が進んでいった。

先生の少し難しい質問に春美がハキハキ答えるのを見て、糸鋸は何となく誇らしげな気分である。
友達にも好かれ教師からの信頼も厚い。冥の言葉ではないが正に「完ペキな」子供ではないか。
(ウチの自慢の娘は掃除も料理もできるッスよ!)
と胸を張って言いたいくらいだったが、
同時にそれは保護者としての自分の恥でもあり、そのことについては複雑だった。
自分は果たして、この立派すぎる子供の父親であるに足りているのだろうか?と。

到底、春美の手本とは言いがたいのは自分でよく分かっていた。
むしろ生活面では糸鋸が春美に叱られることの方が多いのである。
父親として果たしている役割といえば、せいぜい安月給を稼いでくることくらいだろう。
実母の綾里キミ子が溺愛するのも改めてよく分かる。
(…綾里、か)
ふと糸鋸はその名を思いとどめた。
今こうして春美に寄せられている多くの人の好意も…もしこの少女が綾里キミ子の娘であることが世間に知られれば、
一体どうなってしまうのだろうか。

考え始めると止まらなかった。
キミ子が出所すれば、春美は彼女のもとに返さなければならない。
そうなればおそらく、(倉院の里かどうかはともかくとして)再び霊媒道の修行を再開させられるに違いなかった。
だが、春美自身はそれを望んでいるのだろうか?
自分との今の生活を捨て、あんな山奥に閉じ込められてひたすら一本の道を歩ませられる事を…
糸鋸は頭をふってその疑念を打ち払おうとした。
(なに考えてるッスか?自分は…)
子供は実の母親のそばに居たいに決まっている。
それはもう何度も考え、幾度も結論付けたことではないか!何を今さら…

その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「…では、今日はここまでにします」
そう言って女性教諭は手にしていた教科書を閉じ、
「お忙しいところとは存じますが、この後ご父兄の皆様には懇談会に出席していただきたく思います。
 それではみなさん。今日来て頂いたお父様お母様に挨拶しましょう。…起立ッ」

子供達は「終わったー」「どっか遊びに行こうっ」などと言い合いながら席を立つ。
そして、それぞれちょっとはにかみながら後ろに並ぶ父兄と向き合った。
やがて子供達が静かになって、
「それでは皆さん…」
教師が「礼」と言おうとしたその時、
糸鋸のリモート・ベルがけたたましく鳴り響いた!
「!」
懐からベルを取り出しつつ、顔の色を変えて教室を出る。
無論、出て行くまでに静まり返ったクラス中の注目が彼に集まっていたのだが、
糸鋸は構わず出入り口を塞いでいた父兄に「…すまねッス」とだけ言ってどいてもらい、
バタバタと駆けて行った。

(何て…間が悪いッス!!)
せめてこんな日くらいは、最後まで春美の良い父親でいたかった。
いたかったが、しかし彼の任務は殺人事件の捜査という人の命に関わる仕事である。
春美には悪いと思いつつ、中途半端な父親の真似事のために誰かの命を犠牲にするわけにもいかなかった。
もっとも、春美が実の娘であったとしても、根っからの刑事である彼の行動に変わりはないだろう。

学校の廊下を走りながら音を止めたベルをポケットに突っ込んで、
今度は携帯電話を取り出す。
階段を駆け下りつつ電源を入れ、急いでベルの発信者にかけ直した。
余談だが、リモート・ベルは官給品ではなく(でなければ内緒で探知機能など付けられるはずがない)冥個人が購入した装備である。
むろん、電話の通話先は冥であった。
最終更新:2006年12月12日 20:49