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 それから二人で夕食まで食べたが、会話は終始ぎくしゃくして気まずいことこのうえなかった。
〈あーあ……これじゃ同じだよ。あの、最後に会ったときと同じになっちゃう〉
もったいないことに、料理の味もろくにわからなかった。
「鬼門だな」と彼は言った。
「何が?」

「私にとって。ひょうたん湖が」
もちろん、真宵はなんといっていいものやらまるでわからない。
御剣は駅まで送ってくれた。
電車の時間が迫っている。別れは近い。
〈はぁ。終わったな……〉
とてつもなく名残り惜しいが、しかし、帰らずにいたとしても、状況の何がよくなるというのだろう。
〈やっぱ、あんなにきっぱり拒絶するんじゃなかったかもな〉と真宵はぼんやり思う。
〈もうちょっと気を持たせるような言い方をしてれば、あたしも晴れて魔性の女の仲間入りだったのかなぁ……。
そういえば、御剣検事、私が頼みさえすれば、ロマンチックにプロポーズしてくれるって言ってたな。
……どんな方法、考えてたのかな。今となっては、真相は永遠に闇の中って感じだけど。
御剣検事のことだから、笑いころげちゃうくらいくさーい演出とか考えてたかもな。
はは、ありうるありうる。でもでも、そういうのってちょっと憧れてたりするんだよねー。
そうだなぁ、ホテルのスイートルームで夜景を見ながらワインで乾杯とか?
たはーっ! ありえないー! 絶対ありえないけど、充分ありうる! 御剣検事ならやりかねないよー〉
と、むなしい想像をあれこれ膨らませているあいだに、
「真宵くん」と声をかけられた。
「あ。はい」
「帰る前に夜景でも見ていかないか」
「え、夜景、ですか」
「うム……上のほうの階の部屋しか取れなかったんだが、値が張るだけあって眺めがいい」
御剣はまるで後ろめたいことでも言うかのように、言葉をしぶった。「そのぅ。部屋にはいいワインも揃っているし」
「え、えあ、あ、あう」
真宵は金魚のように口をぱくぱくさせた。
いつもならきっと、思わず笑ってしまっているのだろう。
しかし、まるで、真宵の考えを読んだ御剣が自分に気を遣ってそんなことを言い出しているような錯覚に陥って、彼女はむしょうに申し訳なかった。
そんなことは思い込みだとわかってはいる。
だが御剣の思いつめたような顔を見ていると、想像の中とはいえ、笑い飛ばしてしまったことが真宵の良心をぎゅうぎゅう締めつけた。
でも……それでも、どうしても首を縦に振ることができなかった。
「あ、あうあ」
「どうした、おかしな顔をして」御剣は不意にニヤリと笑った。「まるで、ごはんの気分だというのにパンを食べてしまったような顔をしてるじゃないか」
「……えうあ。わ、わかる?」
「だいたいな。……あまり気にやまぬように」
「はい。あの……、すいません」
御剣はきびすを返した。「それでは私は失礼する。道中、気をつけてな」
ためらいもせず去っていく御剣の背中が遠ざかっていく。
心臓が内側から激しく叩きつけてくる。
これでよかったのだろうか。
これで終わってしまうのだろうか。……嫌だ!
真宵は駆け出して、御剣の腕を掴んで引きとめた。
「あ……あのっ! ちょっと……!」
御剣はぎょっとして振り向き、次に、掴まれた自分の腕に目を落とした。
「……ほう。自分から触るのは平気なのか」
気づいた真宵が慌てて手を引っ込めると、「すまん。何だったろうか」と彼が促した。
「えっと……そのぉ」
言いたいことなら、山ほどある。
しかし、端から並べていくことなんてできないし、だいいち時間が足りない。
何を言おう? いま、いちばん、言うべきこととは何だろう……!!
「あの。あのあの」
「うん」
「すいませんでした。……三年前」
「三年前?」
「公園で……ええと。手を」
御剣の顔色がさっと変わる。「……あたし。引っ込めちゃって。ホントにごめんなさい。繋げれなくて」
彼の表情は少しも動かず、何も言葉を発さない。
怒っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見える。何も感じていないようにも見える。
「あの! すいません。こんなのもう、今さら、だよね。でも……思い出しちゃって。
そしたら、頭から離れなくて。ごめんなさい。もう……遅すぎるかな」
御剣はふと、うっすらと笑みを浮かべた。
許してくれたのか、と思った瞬間だった。
「ああ、その通りだ」御剣は言った。「もう遅すぎるよ」
それから彼は再び真宵に背中を向けざま、サディスティックなほど凄絶な流し目を見せ、微笑んだまま彼女に言ったのだ。
「さようなら」


窓を見ていた。
電車の窓に映る自分を。
昔のように髪を結って、装束を着ている自分がいる。10代だったころと、なにも変わらないように見える。
御剣検事は変わっていなかった。
あたしが好きだった人の好きだった部分は全てそのままだった。
あたしも変わっていない。今日、何もかもわかった。
年だけとって体は痩せこけたけど、その中身は、無知で無神経で無分別で、愚かだった10代のころのまま、すっかり成長を止めていたのだと。
〈御剣検事〉真宵は予感のようなものを覚えた。これからは、昔に戻りたいと願うことは二度とないだろう、と。
〈教えてください。あたしはどうやったら大人になれるんですか〉


2. Aquarius


流れる水のなかで、二人の人物を俯瞰していた。
ひとりは、まるで世界でたった一人だけ生き残ってしまったかのような顔をしている小さな少女。
もうひとりは……だれもが目を背けたくなるくらいに醜い男。
〈終わった。今度こそ。全部……何もかも〉
御剣は顔を覆ったが、見たくないものは消えてはくれなかった。
少女に背を向けて歩き出すその男は、薄汚い、いやらしい笑いを浮かべている。
自分の思い通りにならなかったからと、最低の方法で少女を傷つけ、ざまあ見ろ、一矢報いてやったぞと悦に入っている、ちっぽけな男がいた。
〈何を言えば正解になるのかはわかっていた〉
彼は自分を痛めつけるかのように、青いコックを思いきり回した。シャワーは徐々に温水から水に変わり、声を上げるほど冷たくなる。
〈私は来年三十歳になる。恐ろしいことに。なんてこった。あとほんの少しで親父の年齢を追い越してしまうじゃないか〉
それを考えるだけで御剣は芯から震えた。
父は偉大だった。
年齢を重ねて父の享年に一歩一歩近づくたびに、御剣は少しだけ恐怖を覚えていた。
あの父の息子であることが誇りであり、だから、いつだって唯一の目標だった。
自分が三十五歳の誕生日を迎えたとき、果たして父と同じくらい立派な男となっていることができるだろうか。
普段だったら、それを思うとき、自然と背筋が伸び、襟を正す心持ちになれた。今はまったく逆だ。
〈いいさ。彼女との縁も終わったが、それはつまり長年の気がかりだって晴れたということだ。
あの子との間のことは、もう完全に真っさらだ。ペンペン草一本生えやしない。すっきりしたってもんだ〉
そんなふうに考えようとして、考えられるはずもない。
体を拭きながらバスルームを出たあと、ふと思い出して、デスクの引き出しを開け、開封していないコンドームの箱を手にとった。
馬鹿馬鹿しい。何を期待していたというのだろう。
御剣は窓を開けて、忌々しいほど煌びやかに星がまたたく地上に向かってそれを投げ捨てた。


無意識のうちに携帯電話の着信履歴を確かめてしまい、自分にあきれ返った。
その勢いであやうく電話まで窓から投げ捨てるところだったが、すんでのところで思いとどまる。
ハルシオンをがぶ飲みしてなんとか眠り、翌朝ホテルをチェックアウトした。
もう少し長く滞在する予定だったが、もはや、とてもそんな気分ではない。
帰りのチケットを取るのは大変だったが、人には言えない裏技を使ったのち、なんとか座席につくことができた。
アメリカに帰りさえすれば、変わらない日常が待っているはずだとばかり思っていて、じっさい生活自体はそれまでとまったく同じだった。
〈違うな〉
御剣は彼らしく暇があるごとに自分の感情を分析した。水が漏れ広がるように、日常の隙間に入り込んでくる感情を。
〈これは、ふられ男の湿っぽい感傷や憐憫とは違う。
かといって、あの子の処女を奪えずに終わってマチズモをへし折られた屈辱とも、やはり違う〉
御剣は目に疲れを感じて、眼窩を軽く揉んでから、再びノートパソコンの液晶を覗き込んで、担当事件の資料を読み返した。
最近やけに視界のピントを合わせるのに疲れる。父のように眼鏡がいるようになるのかもしれない。
〈まだなのだろうか〉
ウイスキーの瓶は、いつのまにか空になっていた。
〈まだ、終わりではないのだろうか? ……たしかに、私の恋は終わった。それも、最悪の形で。
しかし私と綾里真宵という少女は、もとから不思議な縁があった。二人が実際に出会う、もっと前からだ。
それは、こんなにつまらない結末を迎えるために、用意されたものだったのだろうか〉
御剣は若い頃の一時期、運命論にいたく魅入られた時期があった。
自分の不遇の人生が、唯一神によってあらかじめ筋書きを用意されたものだと思うと、何か気が楽になるようだったからだ。
その反動で、縁などという運命論めいたというか、オカルティズムめいた考え方には抵抗があるはずだったが、彼はごく自然にそう思考していた。
〈おそらく、あの子の存在自体がオカルティズムの塊といっても過言ではないから、だろうな。
……恋は終わったとしても、まだ他の何かが終わらないのかもしれない。
なにしろ、彼女は、明らかに……助けを必要としていた。
救援信号を受け取っておきながら、愚にもつかぬ惚れたはれたの騒ぎで、私は彼女を無視しようとしている。
……それはきっと、夜の公園で手を振り払われるよりも、ずっと残酷なことに違いない〉
御剣は自分の内なる声に耳をすませた。もう少しで、どうすべきか分かるような気がした。
〈いや、本当は、最初から分かっていたんだ。だが、恐ろしくて、分からないふりをしていた〉
「だって、いったい、どんな顔をして再び会えばいいというんだ?」
つぶやいてから、彼は笑いを浮かべた。自分を奮い立たせねばならなかったから。


滝打たれの修行に入ると、まず、すぐに轟音で耳が遠くなり、しだいに何も聞こえなくなる。
水を打ったように静まり返るという言葉がある。世界じゅうから音が消えたかのような静寂。
視界は闇。皮膚はとっくに麻痺して感覚はない。静けさすら存在しないほどの静けさ。
真宵の肉体はばらばらになって消失する。かけらひとつすら残らない。すると、真宵と同じように肉体を持たない様々な者たちが語りかけてくる。
彼らはみな口々に話しかけてくるが、そのどれひとつにでも耳を傾けてはならない。
真宵はめったにその誘惑に負けることなどなかった。
しかし、彼らの中のひとりが、彼女の耳に口をおしあてて、そっとささやいたのだ。
「真宵くん」と彼は言った。
「私は、君のためだと言われたら、沈没船にだって乗り込むことができるのだよ」
真宵ははじかれたように現実に引き戻され、自意識を取り戻した。
〈いけない。……あぶないとこだった〉
迷いがある心で修行に臨んだって、いい結果が得られないことはわかっている。
それでも彼女はそれに打ち込まずにいられない。
そうしているときが一番、自分を見つめることができるから。
〈バカだな、あたしは。もし、万が一にでも、御剣検事もあたしのことを好きだったとしても、もう関係ないのに。
終わったことは忘れるべきだ。後ろを向いてる暇なんか、ない〉


困ったことにいくら電話をかけてもまったく通じない。
最初は、無視されているのかと思ったが、これほどしょっちゅう鳴らされていれば、普通はとっくに電源を切っているだろう。
「……修行かな」
とうとう、連絡が取れないまま、車は倉院の里に着いてしまった。
その少し前から、ここまで来れば、いきなり押しかけて驚かせるか着信履歴の山で驚かせるかのどちらかしかないとは思っていたから、諦めた。
ちょっと考えて、結局運転手は帰らせることにした。長い話になりそうだったからだ。
邸宅の前の門で呼び鈴を鳴らす。
待っている時間がやたら長く感じられた。当然だ。時間感覚は意識の持ちように左右される。
門が開いた。しかし、顔を出したのは真宵ではなく、小学生くらいのかわいらしい女の子だった。
「まあ!」
少女は御剣を見るなり、目をまんまるにして、「早く! 早く中へ!」と乱暴に門の中へ引きずり込んだ。
「むうっ……」
「ああ、失礼しました。申し訳ありません!
その、真宵さまのお屋敷に、花束をかかえた男性がいらっしゃっているところを、だれかに見られでもしたら、と思うと」
「あ」
確かにそう取られても仕方がなかったかもしれない。本当は、墓前に供えてもらおうと思って持ってきたのだが。
「君は、春美くんだね」
「はい。みつるぎ検事さま」
春美は馬鹿丁寧におじぎをした。「おひさしぶりです」
なるほど、あの、おしゃまで天真爛漫の子どもが、ひとまわり大きくなると、こうなるのか、と御剣は感慨深かった。
いまのところ、至極まっすぐに育っているようだ。
「見違えたな。数年見ないだけで、すっかり大人の女性になってしまった」
御剣はこう言えば機嫌をよくしてくれるだろうというのがなんとなくわかった。
真宵もまた、たまに大人の女性扱いしてやると、首を掻いてもらった猫のように喜んだものだからだ。
「ええ、もちろんです。わたくしも、もう十二歳ですもの!」
「何か君にも手土産を持ってくるべきだったね。気のきかない男ですまない」
「そんな。とんでもないことです。あの、じゃあやっぱり、その花束は、真宵さまに?」
〈……まあ、いいか〉
「ああ。そうだ」
「まあ! 真宵さまはきっとすごくお喜びになります。でも、その。今日の修行はまだ、もうしばらく終わりそうにないのです」
「待たせてもらってもいいだろうか」
「もちろんです。申し訳ありません」
「いや。突然押しかけたこちらが悪いんだ。朝から電話が通じなくてな」
「そうだったのですか。真宵さまは、夜明けから修行に出ていらっしゃってましたから。
……お花がいたんでしまわれないでしょうか。さしでがましくなければ、わたくし、いい花瓶を探してきましょうか」
「春美くんはよく気が回る。お願いしていいだろうか」
「はい! では、中へまいりましょう」
通された客間はやや小ぢんまりとしていた。御剣は淹れてもらったお茶をすすりながら、春美が花瓶にきれいに花を生けていくのを眺めた。
「ああ、うれしい。真宵さまは、お花と、みつるぎ検事さまを見て、きっと元気をお出しになられます」
「普段はそんなに元気がないのかね」
「え。あ……いえ、そんなことはけして。たとえば、一ヶ月まえ、みつるぎ検事さまとおデートに出かけられたときなどは、そりゃもう」
「ほう。帰ってきたあとに、真宵くんは何か感想など言っていたかね」
「まあ、どうしましょう、わたくしが告げ口してしまっていいものか。でもとても幸せそうにしていらしてましたよ」
「頼む。どうか教えてくれないか」御剣は冗談めかして春美に迫った。「男というのはデートの感想が一番気になるものなんだ」
「だめですわ、みつるぎ検事さまったら」
「二人だけの秘密にするから……」
「真宵さまにも、二人だけの秘密だと言われてますの」
「そこをなんとか!」御剣は膝を崩して春美に寄って、彼女の口もとに耳を近づけた。
「ほんとにもう……」春美は含み笑いをして、御剣の耳を両手で覆って、そっとささやいた。「みつるぎ検事さまは、とてもカッコよかった、と」
「ふむ。あとは?」
「ま。これ以上はご勘弁下さいね」
「なんだ。つれないな」
「もうおよしになって下さいませ。わたくし、何でもしゃべってしまいそうです」
春美は年のわりに驚くほど艶っぽい笑みを浮かべて、席を立った。「まだ夕方ですからお夕飯には早いですね。冷や奴でもお持ちします」
昔から、ませた子どもだと思っていたが、もうあんなにも女の表情をするなんて。
やれやれ。彼女が男を泣かせるのもそう遠くないに違いない。その天然の媚態が真宵にも備わっていればよかったのだが。
「すみませんが、わたくし、真宵さまをお迎えにいかなければいけません」
冷や奴を運んできた春美は、座りもせずに再び客間を出ようとする。
「修行が終わるのかね」
「まだ終わらないと思いますが、いつも早めに行って待っているのです。みつるぎ検事さまはここでお待ちになっていてください」
「私も一緒に行ってはいけないのだろうか」
「だめというわけではありませんが、退屈をすると思いますよ」
「君ともう少し話していたいんだよ」
「まあ、みつるぎ検事さまったら、お上手ですのね」
御剣は、意外なことに自分にも結構女たらしの素質があるのかもしれないな、と思った。


「……驚いたな。真宵くんのやっている修行が、あの、滝に打たれるっていうやつだとは」
「お客様はみんな驚かれますね。本当にやるのかと」
里から少し山道を歩いた先に渓谷があり、真宵がそこで滝に打たれているとのことだった。
そこへ向かう道中で、着替えなどを入れた籐の衣装箱は御剣が持ってあげた。
「明け方から修行に出ていると聞いたが、その間じゅう、ずっと滝に?」
「ええ」
「ぬぅ……とんでもないな。そんなことをいつもやっているのか」
「はい。ここのところは毎日です」
「な、なにっ」御剣は驚いて箱を落としそうになった。「ま、まいにち。いくらなんでも、それは体に障りはないのか」
「あります」
春美は憂鬱そのものといった顔でうつむいた。
「最近の真宵さまは修行に打ち込みすぎていて……あ。あの、わたくしがこんなことを言ったことは」
「わかっている。彼女には喋らないよ」
「ありがとうございます。……わたくしが見ていても、痛々しいほどなんです。
時々、とてもつらそうな顔をなさるのを見るのですが、でも、自分では、助けになれなくて……。
このままでは、体を壊してしまわれるのではないかと、心配で」
真宵のがむしゃらな修行の原因を作ったのが、自分の心ない言葉であるのかもしれないと思うだけで、ゾッとした。
〈くそ。何がもう遅すぎるだ。二度とはすまい〉御剣は今の苦しさを心に刻んだ。
〈あんな、洟たれのティーンエイジャーみたいな意地の張り方など〉
彼はある強い信念のために意を決してはるばるここまでやってきたのだが、いきなり威勢を削がれる気分だった。
「みつるぎ検事さま。率直にお聞きします。……あなたは、真宵さまの『大切なかた』なのでしょうか」
御剣が怖気づいたのも知る由もなく、春美は至極真剣に尋ねてきた。彼は少し考えて答えた。
「悪いが、私と真宵くんは、君が考えているような関係ではない。おそらく今後も、そうなることはありえないと思う」
彼女の顔が失望に沈む。
「しかし、私は全力で彼女の支えになりたいと思っている。できることならなんでもする心構えはある」
「ああ……よかった! みつるぎ検事さまがそう言ってくださるのなら、これでもう百人力です。
でも、あの。わたくしの見たところ、きっと、真宵さまは、みつるぎ検事さまのことをお慕いになって……」
「そんなことまで言う必要はないよ」
「あ! わ、わたくし」春美がすっかり青ざめてしまうのを待たず、御剣は付け加えた。
「私が勝手に思っていることだ。だから、真宵くんが私を好いていようが、嫌いでいようが、なんら関係はないというわけだよ」
道は坂にさしかかり、見下ろした先には、確かに大きな滝があった。
思っていたよりもけっこう流れが速く、激しい勢いだ。そして、確かに滝のその中央には人が立っているのが見える。
「……一日じゅう、ああやっているとはなぁ」
「みつるぎ検事さま」春美はおずおずと口を開いた。「先ほどはすみません。過ぎた口をきいてしまって」
「ん? ああ。大丈夫さ、何も聞かなかったことにするよ」
「わたくし、怖いんです。また、同じ轍を踏んでしまうのかもしれないと思うと」
「何だって?」
「なるほどくんのこと……」
御剣は押し黙った。
「わたくし……真宵さまが非常におくてで、それでこの先、真宵さまが苦労なさるのではないかと……、
そう思って……いてもたってもいられず、お二人にさしでがましいことをしてしまっていました。
わたくし、馬鹿でした。なるほどくんは結局、他の女性と将来を誓い合って……、
それだけならいいのです。わ、わたくしのしたことで……お二人の仲がぎくしゃくしてしまったり、
真宵さまが気おくれなさったのではないか、と思うと、とても、悔やんでも悔やみきれなくて……!」
「春美くん」彼は春美の肩を抱いてやった。
「君はかしこい子だね。そうであるだけではなく、人の痛みがわかる、心の優しい子だ。
そして、それは私よりも真宵くんのほうがよく知っているはずだ。
君のせいではない。だいいち彼女は君を恨むどころか、その心づかいをうれしく思うはずだ」
「……みつるぎ検事さま……お願いします。真宵さまの力になってください……」
「できる限りのことはする」
御剣は心から二人を不憫に思った。
〈お互いに大切に思いあっているからこそ、相手の思いまで背負い込まねばいけなくなるときもある。
かわいそうに。春美くんも真宵くんも、一人で二人分の気持ちを背負って、押しつぶされそうになっている〉
そのとき、滝の中の人影が、ふとゆっくり動くのを見た。
「あ……おしまいのようです。わたくし、行ってきますね。ここにいてください」
春美は衣装箱を受け取って、坂道を下りていった。
どうやら、いよいよ再会がせまっているらしい。緊張で胃が収縮をはじめる。
……さて、なんと挨拶したらいいものやら。


さまざまなまやかしを見ることくらい、いつものことだ。
真宵の肉体を欲しがる悪霊たちが仕掛けてくるのか……あるいは自分の心が生み出すのかは、今でもよくわからないけれど。
それにしても今日は恐ろしい体験をした。足をすべらせて急流に呑まれるまぼろしだ。
鼻と耳と口にいっせいに水が入り込んで、わけがわからないままもがいて、必死になにか掴むものを探す。
その手が強く握られる。彼は笑っていた。笑うときの、眉を寄せて皮肉っぽく片方の口角を上げる癖を真宵は見た。
でも川はいつのまにか沼に変わっている。底なし沼だ。真宵は引きずり込まれていく。手を離さなければ。
離さないと、御剣まで引きずり込んでしまう。しかし、どういうわけだか離すことができない。
離して、と真宵は叫んだはずだったが、沼の水を飲んでしまってむせ返り、どんどん肺が泥水に満たされていくだけだった。
やっと手を振り払うことができたとき、真宵はすっかり頭の上まで沈みきっていた。
彼もまた同じように完全に水中にいた。目が合った。御剣は微笑んだまま何かしゃべったが、もちろん、水の中だから聞こえるはずもない。
そこで我に帰った。
〈……まやかしでよかった〉真宵は滝の中で重たいまぶたを少し開けた。
〈御剣検事か……ひさびさに出てきたな。もう、迷いはなくなったと思ってたんだけど〉
一ヶ月まえ、真宵は手ひどい失恋を味わった。彼女は努力して今ではその出来事から立ち直りつつある。
いま真宵を襲ったまやかしが、あのデートの直後にやってきたらと思うと、身が震え上がる思いだ。
きっと、やすやすと肉体を乗っ取られていただろう。
〈そう思うと、修行の成果は確かにあったのかもしれない〉
真宵は本当に足をすべらせないよう慎重に滝から上がった。脇にある小さな洞窟の中で、春美が待っているはずだ。
修行を終えてもしばらく神妙な心持ちが消えないし、滝の轟音で耳が遠くなっているということもあって、たいてい二人はしゃべらない。
だから、春美は今日も黙って、体と髪を拭くのを手伝い、着物の着付をしてくれた。
しかし彼女はなぜか、真宵の袖をひいて、衣装箱から取り出した化粧道具入れを見せて、
「真宵さま。きょうは紅をさしましょう」と話しかけたのだ。
不思議に思うが、真宵はかなりぼんやりしていて、口を開けることすら面倒だった。
むろん、先ほどのあの鮮明なまぼろしの余韻のためである。
〈子どものころ、底なし沼の底はどこにあるのかって、考え出したら止まらなかったな〉
春美はアプリコットピンクの口紅をひいたあと、まだ乾ききっていない髪の毛をアップにまとめてくれた。
〈でも底なし沼には、そもそも底があるのかな。ないわけないよね。でもだとすればなんで底なし沼っていうんだろう〉
そんなことばかり考えて、夢うつつのまま洞窟を出たものだから、当然だ。
坂の前で、背を向けて、落ち着かなげに体を揺らしていた男が自分に気づき、彼の顔を見たときに、
〈ああ。またか〉としか思わなかったとしても。
〈まだまやかしを見てるんだな。何か、こっちの心を揺さぶるようなことを言ってくるに違いない〉
「……すまない」と御剣は言った。「休みを取れるかどうか直前までわからなかったんだ。一応、連絡は入れたのだが」
「はあ……」と真宵は返事した。
既に日が落ちて、相手がどんな顔をしているのかよく見えない。
「真宵さま。みつるぎ検事さまは真宵さまのために、とても素敵な花束を持ってきてくださったのですよ」
いやだな、今回ははみちゃんまで出演か。
でも、ちょっとおかしいな。まやかしだって見破ったら、普通は、ほどなく意識が戻るのに。
「こんなところまで突然押しかけて、申し訳ないと思っている」
御剣は更に続けた。「どうしても会って話したかったんだ。来てもかまわなかったろうか。迷惑だったかな」
〈やれやれ、しらじらしいなぁ。しっぽは掴んでるっていうのに。これは、現実なんかじゃない〉
真宵はなおも猿芝居を続けようとする悪霊を少しからかってやりたくなってきた。だから、
「ううん」と、とびきりの上目遣いで薄く笑いかけてあげた。「会いたかった。すごく」
しかし、帰り道を歩けば歩くほど、これがまやかしではないという確信が強まり、比例して、真宵の顔から血の気がどんどんひいていった。


夕食の準備で春美と一緒に台所に立つようになるまでには、やっと、現実を受け入れる姿勢にもなってきた。
しかし、自分の理性はいまだ、夢ではないのかとさかんに唱えている。
「……ニセ御剣検事じゃないのかなぁ」
「何を言ってらっしゃるんですか、真宵さま。素直にお喜びになればよいのに」
「お、およろこびになれないよ……ありえないよ……ここに御剣検事がいるなんて……」
真宵はハッと気づいて春美に尋ねた。「は、はみちゃん。あたしのこと、なんか言ってた? 二人でどんな話、してたの?」
「ど、どんな……と言われましても」春美は明らかにうろたえている。
「そ……そうですね。みつるぎ検事さまは、とても紳士的で、おやさしくて、世間話に花が咲きました」
微妙に話をそらす春美に、かくしごとの匂いを嗅いだ真宵は、それ以上きかなかった。
〈まあ、なんの用事で来たのかくらいは、すぐにわかると思うけど……〉
なにぶん予定外の来客なので、たいしたご馳走は作れなかったが、春美がありものをなるべく活用するこんだてを一生懸命考えてくれた。
真宵はというと、まだ現実感を取り戻すことができず、始終ぼんやりとしていて、包丁を持つのを春美が許してくれなかったほどだ。
二人で、客間で待っていた御剣のところに皿を運び終えると、春美はにんまり笑って、
「では私は居間で晩御飯をいただいていますので、これで失礼します」と言って、行ってしまった。
膝くらい崩していればいいのに、御剣は正座のままでいて、馬鹿丁寧に手を合わせて
「いただきます」と言って頭を下げた。
真宵もつられて、一応いただきますをしたが、当然、箸が進むはずもない。
「あ。この花」
「うム」御剣はみそ汁を啜りながら返事した。「春美くんが飾ってくれたんだ。真宵くんに持ってきたものだと勘違いしたらしい」
「え。てことは……」
「墓前に案内してくれると言っていたじゃないか」
「え。……あ! う、うん、言った……じゃあ、お母さんに?」
「春美くんにもそう言おうと思ったのだがね」彼はふと真宵の顔をうかがった。
「あの子の前で、君のご母堂の話題を出していいものやらと思ったもので、言い出せなかった。
……また今度買って持ってくることにするよ」
御剣にしてみればなにげない会話でしかなかったろうが、真宵は、浮いていた足が急に地につくような気分だった。
彼らしい気の遣い方を目のあたりにして、ほっとしたのだろう。
「よかった。ニセモノじゃ、ないみたい」
「なんだ、それは」
「だって、急にこんなところまで来たりするなんて……」
「……まあ、それはそうだな。悪いことをした。それに……前回、あんな別れ方をしてきたしな」
彼女はビクッとなって、お箸を取り落としそうになった。
「心ないことを言った」彼があっさり謝るので、真宵は拍子抜けしてしまった。
あんなに自分を苦しめることを言っておいて、それほど簡単に前言をくつがえすつもりなのかと思うと、唖然とすらした。
手のひらの上で踊らされている心地だった。
「もう、私のことは嫌いか」と言って、御剣は挑戦的に笑んだ。
〈……ズルい〉やっぱり、手玉にとられている。はい、そうです、嫌いですとでも言ってやりたい。
しかし、そんなふうに憎たらしげに聞いておきながら、そう答えれば、きっと、あの悲しげな目つきで自分を見るに違いないのだ。
ああ、やはりあれは大失態だった。会いたかった、だなんて漏らしてしまった!
あんなことを聞いたから、今さら、嫌いだなどと言うはずもないと、たかをくくられているのだ。ズルい、絶対ズルい!
「まあ、そんなことは別にどうでもいい」真宵の逡巡を彼はその一言で一蹴した。
「そ、そんなことって……」
「まさかそれを問いただすためにこんな山奥までやってきたとは、君も思っていまい」
「そうだけど、じゃあ、じゃあ、何しに来たっていうのよ!」
「どこから話そうかな」
御剣は別にもったいぶったようもなく、至極まじめそうに眉を寄せた。
「まずは、前置きからだ」
「うん」
「これを君に尋ねるのは本当にこれで最後にする」その言葉をきいただけで、なんのことを言われているのかすぐにわかった。
真宵はただでさえゆっくりだった箸の手をぴたりと止めた。胃がしくしく言い出したからだ。
「じっくり考えてくれたかね。……将来の話は」
「か、考えてなんかないです……。てっきり、嫌われたのかと思ってたから」
「では、嫌われてないとわかったら、考えることができるか」
「…………」
「その顔を見て答えがわかった。くだらん話をしてすまない。最後に確認しておこうと思っただけだ」
「最後って?」
「本題に入る前の最後の準備ということだ」
「……本題って、なんですか」
「まあ、箸を進めたらどうだ。おいしい御飯が冷めてしまう」
「ちょっと、早く話してくださいよ。本題ってなんなんですか!」
「ごちそうがたちまちまずくなるような話だよ」
今でも充分喉を通らないのだが、それを、夕食が片づくまでは口を割らないと受け取った真宵は、抵抗するのを諦めた。
なんとか全部たいらげて、二人で後片付けをしていると、居間の春美が声をかけてきた。
「お風呂を沸かしておきましたが、どちらが先にお入りになりますか」
「いや、晩御飯をごちそうになったうえ、風呂まで借りていくわけにはいかないよ」と御剣がことわると、春美は当然のように、
「え。でも、今夜はお泊まりになっていかれるのでは?」と聞き返した。
「はみちゃんっ! なんで、そうなるのよ!」
「え。え。え。だって、もう終バスは行ってしまいましたし」
「だって、御剣検事なんだからクルマとかで来てるんじゃないの?」
「そういえば、ハイヤーは帰らせてしまったな」御剣が考え込んでいるあいだじゅう、真宵は絶句していた。
「野暮を承知でたずねるが、近辺に宿泊施設かなにかは」
「あ……あるわけないよっ」
「母屋のすぐ近くに使っていない離れがありますよ」
「それはよかった。いくら私でも、嫁入り前のお嬢さんと一つ屋根の下で寝るのには抵抗がある」
「……ちゃんと自分のことわかってるんだね。『いくら私でも』っていうあたり」
彼女がうらみがましく睨むのを、御剣はまぶしそうに目を細めて見返した。


今夜がちょうどよい涼しさでよかった。縁側の存在をありがたく思うのはこういうときだ。
部屋の明かりで向こうから大きな人影が近づいてくるのが見える。
御剣は浴衣が着慣れないのか、妙な歩き方をしているが、思ったとおり、ちゃんと似合っている。
真宵が頬を緩めているのを勘違いしたのか、彼は、
「やっぱり、変じゃないのか」と訊いてきた。
「よく似合ってるけど、少し丈が短いね」
「春美くんから聞いたのだが……このような大切な物を借りてよかったのかね」
彼が着ているのは真宵の父の遺した浴衣だったのだ。「いいよ。どうせもう、このさき誰も着ないもん」
御剣は真宵のとなりに座った。「ずるいな。先に一杯ひっかけてるなんて」
白い顔が赤く火照っているのがいかにも風呂上がりで、妙に色っぽい。
「これ、お客さんが来たときに出してる日本酒。ふだんは、呑まないんだけどね」
「そういえば、君と酒を飲むのは初めてだ」
彼は猪口についでもらった日本酒をあおった。
真宵は嚥下にあわせて上下する喉仏を眺めていた。彼はいつもアスコットタイを締めているものだから、見たことがなかったのだ。
そういったたわいのないことまでが真宵の心をくすぐるのは、飲みなれないアルコールのせいでもあるのだろう。
「最初から、泊まってくつもりだった?」彼女は無表情のまま訊いた。
「心外だ。そこまで下衆な男だと思ってるのか」
「そうじゃないけど……」
「けど何だ。それとも、そのつもりだったほうがよかったかね?」
「もしかして、そうかも」
御剣は目を丸くした。「なんだ。急に素直になって。もう酔っているのか」
「うん。酔ってるかも」
御剣は最初は目が合ってもすぐに自然にそらしていたが、真宵がじっと見つめてくるのをやめないことに気がついたらしく、まっすぐ視線を返してきた。
「調子が狂うな。いつものことだが」
「そうかな」
「ああ。君といると、どんどん、自分がイヤになっていくほどだ」
「…………」
「考えてみたんだ。どうしてそれほどまで、君は私を掻き乱すのか。答えは、何てことのないことだった」
彼はそこで酒を飲み干し、猪口をさしだして無言でおかわりを催促した。
「……私にとって、君が非常に重要な人物だからだ。大切だと言っても、まあ、いい」
「じゅうよう?」
「そうだ。おそらく、真宵くんが思っている以上にだ。
君はもしかしたら、今まで、有事の際には幾度も私に救われたと思っているかもしれない。しかしそれは違う。 
私のほうこそ、何かあるたびにずっと君の強さに救われてきたんだ。だが実際は何ひとつ恩を返せないままでいる。
ご母堂の件もあるし、私の君への負い目はいまだ拭いきれないままだ。しかし」
「そんな」
「まあ、黙って聞くのだ。問題は私が、それほど重要な人物をどう扱ったものか、はかりかねているというところだ。
いまだ失われていない人物の重要性を、そんなにまで実感したことはかつてなかったものでな。
君が一番よく知っているだろう、君の前に出ると、私がどれほどみっともない男になるかは。
真宵くん。そんなものだから、正直言って、私は君を嫌いなのかもしれない。時々、驚くほど憎く思うときもある」
「あ……」
彼の言いたいことはまったくわからないでもなかったが、嫌い、という語感の強烈さに、真宵は酔いが覚めるような心地だった。
御剣の歯に衣着せぬ物言いを好ましく思っていたのは確かだ。しかし、
〈そ、そりゃないよ……いくらなんでも……〉と、容赦なく胸がぺしゃんこに潰れていく。
「そんな顔をしないで最後まで聞きたまえ。
要は、そういうつまらん感情すら問題にならないほど、絶対的に重要で、大切な存在なのだと言いたいのだ。
私はずっとずっと、君の力になりたい、力にならなければと思っていた。離れていた三年の間にもだ。
そして先日、君と再会して、今こそその時なのだとわかったのだ。今こそ君の恩に報いる時なのだと。
さあ……、そこで、『本題』に入るわけだが……」
御剣は改まって、真宵の方に向き直った。恐い顔で真宵を見ているというより、ほとんど睨みつけている。
だが彼女はふしぎと目をそらすことができなかった。なんとなく、聞くのが恐いな、と真宵は思った。
何を言われるのかはわからないが、聞いてしまったら最後、後には引けないような予感だけが、激しく彼女を襲った。
「これは真面目な話だ。この期に及んで、言いしぶるようなことでもないから、はっきりと言う。
……真宵くん。落ち着いて聞くように。私は、君に、私の精子を提供したい」
「セーシ?」真宵は御剣がひるんで唇を噛むほど素っ頓狂に大きな声で聞き返した。
突拍子のない話だからでも、日本語にはその同音異義語が多すぎるからでもある。
「……そうだ。言い換えるなら子種だな」
「はあ。こだね……」
「つまり、私が君のために種馬になるということだが、どうだ、ここまで言ってもまだわからないか」
いくら真宵でも、だんだん事態が呑みこめてくる。
すべてわかったとき、完全に酔いが覚めてしまった。
「み、みみ御剣検事。あのその。自分が何を言っているのか、わかってるんですか?」
「わかっていないとでも思ってるのか」
「だってだって、し、知ってるんですか、こっ、子どもの作り方」
「知っているが何か問題でも? 男女がまぐわうんだろう」
「きゃわっ」
真宵は御剣の隣から飛びのこうとして縁側から転げ落ちて、どしんと尻餅をついてしまった。
「おい。大丈夫か」
「こ、腰が。腰が」真宵はなんとか立ち上がろうとするも、膝と腰にまったく力が入らない。
情けなく手足をバタバタさせてのたうち回るしかなかった。
「少しは落ち着いたらどうだね」
「お、お、お……おちつけるわけ……!」
「今どき吉本新喜劇でもそんなリアクションはありえんぞ。そんなに馬鹿げた話をしているつもりはないんだがな」
「だだだだって、だって……!!」真宵は反論した。「こ、こないだ言ったでしょ。あたしは、男の人が……」
「男性恐怖症か。格好の言い訳だな」
「言い訳なんかじゃ……」
「じゃあ聞くが、君はいつまでそれを自称しつづけるつもりなんだ。いつまで男性恐怖症のままでいるつもりだ?
まさか、ある日突然君の家にヒーローみたいな完全無欠の男がやってきて、君の問題を何もかも解決してくれるとは思ってはいまい。
あるいは、一休さんがやってきてとんちをひねり出してくれて、一件落着するとでも?」
真宵は押し黙った。さすがに御剣は、真宵にとって何が耳の痛いことかをわかっている。
「かつて君は私をつかのま癒し、安らぎを与えてくれた。いつでも前を向いている、君の強さがそうさせたことだ。
私は今でも真宵くんの最大の美点が変わっていないことを信じている。失望させるな」
「そ、そりゃあ、御剣検事のい、いってることは……もっともだけど……」
御剣は真宵のまえに片膝をついてしゃがみ込んだ。
「手を貸すかね」
「い、い、いいです」
「絶対そう言うと思ったよ」彼は何も感じたふうでなしに、ただ真宵の考えを読もうとするかのように目をのぞき込んだ。
「み、み。御剣検事の言ってることは、正しいと思うけど、でも、やっぱりおかしいと思うよ……」
「なぜだろうか」
「だって。たったいま、言ったばっかりじゃない、御剣検事はあたしのこと……キライだって。
わかんないよ、キライな人と、そんなことするなんて……信じらんないよ、そんなことして平気だなんて」
突然、御剣は真宵に覆いかぶさるように身を乗り出した。
押し倒されるか、キスでもされるかと思って、ぎゅっと目を閉じて顔をそらすが、いつまでたっても何もない。
おそるおそる至近距離に迫った御剣の顔を見ると、見たこともないくらい眉間にしわを寄せて、三白眼に拍車がかかっている。
たぶん今までで一番、本気で怒らせてしまったのだと思い当たるのに、時間はかからなかった。
「言うに事欠いて、『そんなことして平気だなんて』、かね……」
膝の震えが止まらない。
「……だったら、なんだというのだ、ばかものッ!!」
真宵は飛び上がった。「あ、あ、あたし……」
「いったい人が何のためにあれほど回りくどく、順序だてて話をしたんだと思ってるんだ。
何のために、わざわざ貴様のためだけに日本に帰ってきたと思ってる。
くそ。何のために、この私が、この私が……貴様のためにどれだけ……
貴様のことを、私がどんな思いで……いかに貴様のことを……どれほど……ああ。くそっ。やっぱりだ。
やっぱりこうなるんだ。やっぱり、私は、君の前だと、こうだ」
御剣は真宵からよろよろと離れたが、彼女と同じ目線で話したいのか、真宵と同じように隣に腰を下ろした。
「私が恐いか」
真宵はまだ体を震わせながら、「……うん。恐かった」と、かすれるような声を出した。
「私も君が恐いよ」
「…………」
「それでも、私はせねばならないんだ。君を助けなければいけないんだよ。わかるね」
「なんとなく……わかると思います」
「やれやれ。君相手だと法廷のようにはいかないな。よく順序を組み立てて話を用意してきたんだがね。
どこまで話したかな。そうそう……君が私を種馬役に選ぶときのメリットを考えておいた。
第一に、現時点で、真宵くんの一番身近にいる独身者の男が、私であるということ。
第二に、私には霊感というものがからきしない。あんがい、一代で倉院流霊媒術も途絶えるかもな。
それから最後だが、……私には覚悟がある。君のためならなんでもする。どんな努力もいとわない」
普通なら、それはどんなにか甘く魅惑的な殺し文句だったろう。
「私の気持ちは、重いかね」
「重いよ」真宵は吐き出すように言った。
「重たすぎるよ。こんなの……最初の村を出たばっかりのレベル1の勇者の前にいきなり大魔王が出てくるようなもんだよ!」
「真宵くん……君は頭がいい。今は混乱していても、よく考えれば、自分にとってどうすれば一番いいかきっとわかるはずだ」
「御剣検事は、ひどすぎるよ」
真宵は膝の中に顔をうずめた。「ひどいよ……そんなこと言うなんて。今になって……」
「どういうことだ」
「昔、あたし、御剣検事のこと、好きだったんだよ」
「ほう……」彼はさして驚かない。「では、私は結局うぬぼれていたのではなかったわけだ」
「ほら、やっぱり、知ってたんじゃない……。知ってて、ほっといたんだ。三年も。
確かにあたしは公園で手を離して、御剣検事のことを傷つけちゃったのかもしれないけど、でも……
だって……あたしだって、どうしていいか……あたしだって、わかんなかった」
言葉に嗚咽が混じり始め、その頻度が多くなっていく。
「三年かけて必死で忘れたのに……どうして今になって、あたしを抱くとか、なんでもするとか、言い出すのよ。
なんでそれを、三年前に言ってくれなかったのよ!」
真宵は堰を切ったように泣いた。子どものように声を上げてわんわん泣いた。
もう、何が悲しいとかやりきれないとかもわからなくなって、ただ感情だけに押し流されていた。
肩でも抱いてくるかと身を硬くしていたが、何を考えているのか、いつまでも指一本触れてこない。
「バカ……御剣検事のバカ。死んじゃえ、死んじゃえばいいんだ」
驚かせようともどうしようともしたわけではない。ただ、心からそうしたいと思ったから、御剣の胸に頭を預けた。
少したってから背中に回されたその手つきがひどくぎこちない。
「すまない」とだけ彼は言ったが、真宵はなんだか余計悲しくて、いっそう激しく泣きじゃくった。
御剣はそれきり口を閉ざした。しかし、真宵の気が済むまで胸を貸していてくれた。
彼女がしぜんに泣きやんだとき、何もかも涙と一緒に流してしまったかのように、放心状態の中にいた。
御剣の顔を見上げても、どんな感情も生まれない。何も考えることができない。
「……御剣検事」
「うむ」
「……そろそろ……案内、しますね。離れまで」
立ち上がった真宵を御剣はしばらくそのまま見やっていたが、やがて、けだるそうに立ち上がった。
あの、悲しげに揺れる瞳を見ても、真宵はもう、ずるいなとも思わない。


真宵はその小さな離れを物置に使っていたが、布団一枚ぶんの空間くらいは残っていた。
二人で押入れから布団を下ろして、敷き終わったとき、それまでの沈黙を御剣が破った。
「すまなかったな。……きつい言葉を色々使ってしまって」
用事が済んだら、さっさと母屋に帰ろうとしていた真宵が、動きを止める。
〈……そういえば、あたし、言われたんだっけ。『キライ』って〉
「わざと、だったんだ。突き放すようなことを言ったのは、な」
「……なんで?」
真宵は興味がなく、相槌をうつかのように、儀礼的に尋ねた。べつに故意だろうが何だろうが、本当のことに変わりはない。
「嫌われたくなかったんだ」
真宵はとっくに御剣に背を向けていて、彼の顔を見ることができない。
「もっともらしい理窟をこねくり回してでも、どうしても君の体が欲しくてしょうがない男だと思われるのが、嫌だった」
「……よく……わかんない。なんで、そう思われると、思うの……?」
彼女の疑問は心底からのものだった。
「御剣検事があたしを抱きたがるなんて……そんなこと、思うわけないじゃない。
だって、御剣検事って、女の人には不自由しなさそうだし……」
「そう思っているなら、そうでいいんだ」
「わかんない。男の人ってそういうものなの? キライな相手でも、抱きたいって思うものなの?」
彼が即答できずにいたから、真宵は返事を待たず、部屋を出ていった。その背中に、
「君だからだ」
という言葉が投げつけられたが、振り向きもしなかった。


春美に叩き起こされて、ろくに身支度もしないで居間に行ったとき、御剣はすでに朝ごはんを食べはじめていた。
彼は悪びれもせずに、おはよう、と声をかけた。何事もなかったかのように。
真宵もそれにならって、つとめて何も考えないようにした。コツはわかってきた。修行だと思えばいいのだ。
加えて、寝不足で頭がぼんやりしていて、思考能力が落ちていることも幸いだった。
昨夜は物音や木材のきしむ音がするたびに、御剣が真宵の寝室までやってきたのかもしれないといちいち目が覚めていたのだ。
寝込みを襲われるのかと恐れて、結局杞憂に過ぎないことがわかるたび、彼女はそれを期待してしまっている自分を見せつけられた。
久々に、小学生のころ意味もわからずに耽っていた悪癖を、我慢することができなかった。
〈御剣検事がとんでもないこと言うからだ。あたし、御剣検事に犯されるとこ想像して、あんな……〉
向かい合って朝食をとりながら、つい考えて、罪悪感と下腹部の疼きが再び襲ってくる。
真宵はあわてて、無我の境地を思い出した。〈修行だ。修行だ、これは〉
バス停まで送っていって、一緒に座ってバスを待っているあいだ、いつものことだが他にだれも道を通っていない。
世界で二人きりになってしまったような錯覚。
「今週いっぱいまでは、こちらにいる」御剣は不意に口を開いた。「もしそれまでに腹が決まったなら、電話してくれ」
真宵は、いちおう、「はい」とだけ返事した。
「そうそう。そのときは印鑑を忘れぬように」
「印鑑?」
「契約書を作るんだよ」
「ああ。なるほど……」
御剣は近づいてくるバスを目で追いながら、つぶやくように言った。「焦ることはない。いつまででも待てる」
彼がバスに乗り込んで、行ってしまってからも、なんとなく真宵は立ち上がることができなかった。
しばらくして、とぼとぼと家に帰ったあと、帰りを待っていた春美に、
「今日は、修行はお休みする」と声をかけて、布団の中にもぐりこみ、眠ろうとした。


小さいころ見たテレビの映像で、しばらく眠れないほど恐かったものがある。
その形をとどめたまま滅び、水に沈んだ都市。
独りで寝ることができるようになった矢先に、真宵はそれを見て、すぐに再び姉に添い寝をねだるように戻った。
千尋は不思議がった。真宵にもわからなかった。なぜ、自分がこんなにも恐怖しているのか。
あの、どこのものともわからない、哀しいながらも凄絶な美しさをたたえた水中都市。
今では、もう理由はわかっている。
あのとき見た水中都市は、この倉院の里の未来に他ならなかった。
真宵はすでに霊媒の依頼を引き受ける数を減らしはじめている。いずれ、本当に困った者にしか手を差し出さなくなるだろう。
生活を切りつめなければいけなくなる。子どもを養うことを考えると、苦しい人生になるのは間違いない。
自分は死ぬまで里の人間になじられつづけるだろう。霊媒のしない霊媒師なんて、たんなる穀潰しだと。
春美もいつまでも味方でいてくれるとは限らない。
〈それが……あたしの選んだ道なんだ。これが、たったひとつのあたしの道〉
その道程の中に、御剣の姿はないはずだった。
〈わかってる。御剣検事は、迷っていたあたしの手をひいて、前に連れていってくれようとしている。
うれしい。うれしいよ。ずっと……心細かったもん〉
でも。
〈お願い……こっちに来ないで。あたしにかかわっちゃいけない。
ここは消えていく場所。でも、御剣検事はきっと、これからも世界屈指の検事として名前を轟かせていくだろう。
世界じゅうどこに行っても、同じ世界なら空は繋がってる。でも、ここだけは違う。繋がってはいない〉
しかし真宵は思う。
その腕に抱きあげたわが子に、父親の面影を見ることができるなら。
みじめな晩年を迎えたとき、若き日つかのま夢叶った思い出が、自分を支えてくれるなら。
〈……たった、それだけのことで、あたしは……、あたしはきっと……とても……〉

 

最終更新:2020年06月09日 17:44