[13]
思えば。
17歳の時、この駅で「1人前になったら、帰ってくる」となるほどくんと別れた。
書置きしたメモを見て急いで飛んできてくれたなるほどくん。
自信をなくしたあたしに異議を唱えて、
こんなあたしでも役に立てたのだと証拠を見せてくれたなるほどくん。
3年経って、なるほどくんは名の知れた弁護士に。
あたしは、倉院流霊媒道、綾里家の家元に。
それから彼氏と彼女に。
時間はたっても、肩書は変わっても。思い出はちっとも色褪せない。
淡白なくせに、たまにすごく優しくて、その優しさがあたしに甘えを与えているのかもしれない。

「あ」

ホームから改札へと向かって歩いていると、
一際目立つギザギザ頭が目に入る。改札口の向こうで手持無沙汰に立っていた。
なるほどくんの視点じゃ人ごみの中、そんなに背が高くないあたしを見つけるのは難しいかなあ。
と思ってたら、人ごみが増えたのを感じたなるほどくんがこっちを見た瞬間、
あたしの姿を見つけて笑った。あたしも笑って手を振る。

「ごめん、待った?」
「ううん、ついさっき来た」
「へへ、なるほどくんはどこに居てもすぐ分かっちゃうねー」
「それはお互い様。真宵ちゃん自分の髪型と服装客観的に見たことある?」
「ううヒドイ…それが彼女に向かって言う言葉かなあ」
「……」
なるほどくんは目を丸くした。
あたしはつい自分で彼女、と言ってしまったことに気恥ずかしさがやってきて顔が赤くなった。
そんなあたしを見てないよ、と笑うようになるほどくんは目を細めた。
「あれ?」
また目を丸くするなるほどくん。
「春美ちゃんどうしたの?トイレ?」
「違うよ。もうすぐ新学期なのに宿題が残ってるから行けないって」
「…そっか」
じゃあ今日は二人っきりだね。なんて言われるかななんて一瞬思ったけど、
なるほどくんはそんなキャラじゃなかったのを思い出して、すぐにその考えは消えた。
「じゃ、いこっか」
「うん!」
少し前を歩くなるほどくんの広い背中を追いかけた。

[14]
「ここからすぐなの?」
「うん。歩いて10分くらい」
「え、じゃあ事務所からも近いんだ」
「そうだね、でも事務所とは反対方向だよ」
「なるほどくんの家はここから近い?」
「うん、こっちの方角に歩いて5分」
「公園より近い!でも、考えてみたらそうだよね、
なるほどくん免許も車もないから、仕事場には近いほうがいいもんね」
「ごめんね、お迎えが車じゃなくて」
「そんな意味で言ったんじゃないよー」
「ハイハイ」
「…」

あたしは立ち止まった。
なるほどくんは、すぐに気づいて振り返る。

「どうしたの?」
「…ごめんね」
「何が?」
「あたし、彼女になったのに…
なるほどくんのこと何にも知らなかったんだなって。
知ろうとしなかったんだなって。二人で会うことすらしなかったし…」
「なんだ、そんなこと気にしていたのか…」
なるほどくんは、やれやれ…って顔で笑ってまた歩き出した。
やれやれ、の真意が知りたくて追いかける。
「気にしてないよ、ボクは。
急に恋人らしく振る舞えって望んでるわけじゃないし」

気づいたらなるほどくんの歩幅は狭くなっていて、あたしを真横から見ていた。
ああ、今の利いた。
ダメだ…なるほどくんのこと、どんどん好きになっちゃうな…

「…ありがと」

あたしは勇気を出して、いつも異議を唱える時に突き付ける骨ばった人差し指をつかんだ。
掴んだ指先から、じわーって温かさが広がる。同時にあたしの顔にも熱が広がる。
この人差し指に、この声に。あたしは何度も救われた。

「手冷たいな。まだ夜は冷えるんだから気をつけろよ」

そう言ったと思ったら、大きな手はあたしの手を包み込んで、青いスーツのポケットに吸い込んだ。
初めて手をつなぐそのあったかさと、くすぐったさは、意外にも心地いいもので。
あたしは照れくさくて、赤面してたわけだけど。横から見上げるなるほどくんの顔も少し赤くて。

なんだ、余裕ぶってる割に、そうなんだ。

「顔赤いよ、なるほどくん」
「うるさいな」

夜桜に彩られた公園までの道のりは、あっという間だった。

[15]
「うわあ!なにこれ、すごいきれい!」

あたしが想像していたよりもはるかに大きくて華やかで、美しい桜。
電話でライトアップって言っていたのを
てっきりクリスマスツリーの飾りの電飾みたいなものだと勘違いしていたあたし。
桜を見上げるように照らす淡く色づいた光は藍色の空とマッチして幻想的だった。

「クリスマスツリーみたいな電飾だと思ってたよー」
素直に自分が勘違いしていたことを告白してみると
「あれ、そっちのほうが真宵ちゃんは良かった?」
なんだか、子ども扱いされた気分になったのでちょっと腹が立った。
すぐにごめんごめん、と笑ってくれたから、許すけど。

光にあたって、散る花びらがキラキラしている。
倉院の里にももちろん桜はいっぱいある。でも、こんな風にライトアップされた桜なんてどこにもない。
昼の桜の綺麗さなら倉院の里だって負けないと思うけど、これは、完敗かも・・・。
どの桜を見渡しても、絵になる。物より思い出とは言うけれど、この風景は形に残しておきたいと思った。
ふと、あちこちの桜を見ているとき、あたしは気づいた。

「……カップルだらけだね」

自分のことを棚に上げておきながらそんな事を言ってみる。

「たぶん周りも同じこと思ってるぞ」

ポケットの中で手を繋ぎ直して、なるほどくんは笑う。
「あたしたちってカップルに見えるのかな」
「見えてなかったらボクは立場的に厳しいものがあるな」
「え、なんで?」
「いや、また自分を弁護しないといけないような…何でもない」
あたしの姿や言動が幼い事を暗喩したのを、途中でやめる。
最初何のことかと思って数秒間考え込んだら、その意味がわかって、
あたしは頬を膨らませて、繋いでいた手を離し、なるほどくんの腕を叩いて異議を唱えた。
もうすぐあたしはハタチなのに。
そりゃ、ハタチまでカウントダウン入ってるのに、今まで恋愛経験ゼロってのは
たしかに人よりちょーっと遅いのかもしれないけど。
ちょっと面白くなくって、立ち止まって見る。

「真宵ちゃん?」

この間見ていたドラマを思い出して、
あの時感じたなるほどくんへの疑問をぶつけてみる。

「なるほどくんってさ、キスしたことある?」
「え」
「あやめさんとした?」

ぎくっていう文字がハッキリ見えた(気がした)。

[16]
「…そうなんだ。ふーん」
「昔の話だよ…それに、数える程しか…」
「数えられるくらいはしたんだ」
「うっ…」
いつもピンチの時ほどふてぶてしく笑うくせに、
あたしの誘導尋問にいつも簡単に引っかかる。
あやめさんと付き合ってたことは知っていたし、
半年も付き合っていれば普通のカップルならキスの一つや二つ、するのは当たり前なんだし。
それに、そーいうことから照れくさいっていう理由で遠ざかってたのはあたし。
なるほどくんが「したことないよ」って嘘突いたとしても、信ぴょう性にかけちゃうのに、
嘘でも否定してくれないっていうのが何故か寂しくて。
負けず嫌いなあたしは、あやめさんが手に入れたものをまだ手にしていない事実が悔しかった。
自業自得なのに、それを受け入れることのできないあたしは駄々っこそのものだった。

「…帰ろ。寒くなってきた」

あたしは無理やり怒ってないよと笑顔を作って、振り返った。
桜が舞い落ちるスピードより遥かに早く、下駄が地面をたたく音を響かせて歩きだす。
夏はとても涼しいこの装束だけど、4月に入って間もない夜を過ごすには寒くて。
さっきまで触れていたなるほどくんの手の暖かさが恋しい。
なるほどくんはあたしの名前を呼びながら追いかけてくる。革靴の音があたしの後ろで鳴っている。
夜桜がどんどん遠ざかる。
瞼を何度も閉じては開き、シャッターを切るように目に焼き付けた。
光が眩しくて、目の奥に突き刺さって、涙がにじむ。

「真宵ちゃん!」

装束の裾をつかまれて、ぐいっと後ろに戻される。
バランスを崩したあたしの両肩を大きな手が包み込んで、あたしの進行方向を変えさせた。
目を閉じる前は流れるような夜桜の風景、目を開けたらなるほどくんの顔がドアップで映っていた。
あたしの唇には柔らかくて温かい感触が触れて、花びらが掠めていくようにそれは離れた。
まさに一瞬。「瞬く間」。あたしは、なるほどくんと…

「好きだよ」

胸の中で悶々と渦巻いていた感情はその事実と言葉で音をたててしぼんでいった。
夜桜の景色を形で残さないと忘れそうだって思ったけど、このことはもう一生忘れない。
瞼に焼き付いて離れない。一番きれいだと思った場所であたしは生まれて初めてキスをしたんだ。
なんとも言えない不思議な充実感と幸福感が湧きおこる。
そして、生まれて初めてこんなに好きになった人に、初めて、誰が聞いてもわかる言葉で、愛をもらった。

あたしも、その言葉に答えたい。真剣に…

「あたしも、」

そこまで言いかけたのに、あ…鼻がむず痒い…だめ

[17]
「ハックショ!」

周りの景色にあたしの大きなくしゃみの声が木霊しながら溶け込んだ。
なるほどくんの黒い瞳は丸くなった。
あんまり大声を出したもんだから、かえって沈黙がうるさく感じる。
綺麗な場所と思い出とシチュエーションと、
あたしの素っ頓狂な行動のギャップに思わず吹き出してしまった。

「…ッくく、あっはっはっはっは!!!」
「真宵ちゃん、今のはないだろー」
「ご、ごめーーん…ふふふふはあーーっはははは可笑しいーーー!」
あたしの笑い声に周りのカップルの視線が突き刺さる。
それに気がついて声のトーンを落として、なるほどくんに謝る。
「…柄にも無く、やきもち妬きました。ごめんなさい」
てっきり呆れられるかと思ってたけど、意外にもなるほどくんの表情はうれしそうだった。
なるほどくんは、手を差し出してあたしの手を自分の掌に招き入れ、歩き出した。
「こっちこそ、気の利いたウソも付けなくてごめん」
「いやー、よく考えたらその年でキスもまだだったら引いてたかも」
「こら」
軽くげんこつで小突かれる。
あたしは、正直さっきのなるほどくんの唇の感触を思い出してしまって、心臓が爆発しそうだった。
悟られるのがいやでいつものあたしを演じる。
意外とうまくいくもんなんだなと、実感する。

駅のほうに引き返す途中、
あたしは何度も肌寒さを感じ、くしゃみをした。
なるほどくんの手の温度が暖かいせいで、触れていない他のところが余計寒く感じた。

[18]
半分ほど来た道を戻ったところで、なるほどくんは手を放し、
「ちょっと待ってて」
と言って目の前に建っていたマンションの階段を駆け上っていく。
「なるほどくん、住居不法侵入で訴えられちゃうよー」
と小声で叫ぶと
「バカな事言うな。ボクの家だ」
と怒られてしまった。
ここが、なるほどくんの住んでる・・・
「ダウンジャケット取ってくるから、そこで待ってて」
なるほどくんは2階の踊り場から顔を出してあたしに言った。
あたしが寒がっていることを察してくれたんだ。
…でも、ここでじっと待ってるのも寒いなあ・・・。
あたしはそっと2階へあがり、ドアが開きっぱなしになっている部屋を覗いた。
奥のほうから、何やら物音と探し物をするなるほどくんの声を聞こえてくる。
真っ暗な中、何回も「いてっ」とぶつかる声。
電気くらいつければいいのに…。
そう思ってあたしは玄関の壁にあったスイッチを全部つけた。

「うわっ」

突然電気がついたことにびっくりするなるほどくん。
あたしが部屋まで着いてきたことに気づいていなかったみたい。

「待っててって言ったのに」

なるほどくんの声は慌てていた。

「だって、じっと待ってると余計サムいよー」

あたしの声に、そうだそうだと加勢するように冷たい夜風が通り過ぎる。
ひざ丈の装束のおかげで、あたしの足はもうひんやりしていた。

「…部屋汚いから上げるの嫌だったんだよ。
でも、風邪引かれちゃまずいから、あがって」

「お邪魔します」

と、控え目な声で断って下駄を脱ぎ、ドアを閉める。
生活感のある、自分の家とは違う匂いが漂ってくる。
こんなこと思ってると変なやつって思われるかもだけど、
これがなるほどくんの家の匂いかーと、勝手に納得。
未知の領域に一歩一歩踏み入れる。
部屋が汚いからって言ったのは、てっきり謙遜してるのかと思ってたけど
お世辞にもそうじゃないということが分かった。
玄関のすぐ傍のキッチンは、いやでも目に飛び込んでくる。見るなって言われても無理なほどに。
電気コンロの汁こぼれは拭いてないし、排水溝には空になったカップめんが無造作に捨てられている。
おまけに洗われていない食器類がたまっていた。
混沌としたキッチンを通り過ぎて、なるほどくんがいる洋室へと向かう。

[19]
「きゃっ」

足元を見ずに歩いていると、何かの山に引っ掛かってこけそうになる。

「…あ、本とか箱とか積み上げてるから気をつけて」
「(もー!なんで法律の本より雑誌のほうが上にあるのー!)」

書籍のジャングルを突破して、やっと部屋に入ることができた。

「…なるほどくん、お客さんが来る来ない関係なく、もっと整理整頓しようよ…」

6畳くらいの洋室に、蒲団が一枚、クローゼットが一つ、テレビとミニテーブル。
それだけでもかなり狭いと思うのに、洋室には
脱ぎ散らかした服なのか、それとも洗濯済みの服なのかはわからないけど
衣類が散らばっていた。

「これでいいかな、はい」

あたしのアドバイスは聞こえてるくせに聞こえていないふりをして、
なるほどくんは黒いダウンジャケットをクローゼットから引っ張って無造作にあたしに渡す。
たっぷりと羽毛が入ったそれはずっしりと腕に乗っかる。

「それが多分、一番小さいやつ」
「え、これで?」

改めてあたしとなるほどくんとの体格差を実感させられる。
試しに袖に腕を通すと、まさにブカブカ。
あたしの指先はすっぽりとダウンジャケットの袖の中、それどころかまだ余ってしまっている。
その姿を見てなるほどくんは笑っている。きっとまた子供っぽいと思ったに違いない。
でも、おかげでサムさは吹っ飛んだし、許してあげようかな。
あたしはお礼を言って、帰ろうとしたとき

「ハックショ!」

またひとつ、くしゃみが出た。
いけない、もしかしたらもう風邪をひいてしまったのかもしれない。

「あったかいお茶でも入れようか?」

となるほどくんが聞いてくれたので、甘える事にした。
なるほどくんは混沌のキッチンを適当に片づけながら、鍋に水を張り沸かしている。
その間することもなく、手持無沙汰になってしまったあたしは、
足の踏み場もない洋室を片付けようと思い、壁に持たれて座り込み
散らばった衣類に手を伸ばしたたみ始めた。
…たぶん、洗濯済みだよね・・・。
そんなことを思いながら1枚1枚片づけていく。
適当に手に取っていくと、この季節にしては薄い生地の衣類だと触れた感触だと思い、
顔の前で広げるとソレは…

[20]
「わっ」
「ま、真宵ちゃんッ!」

湯呑を両手に持って慌てて走ってくるなるほどくん。
お茶の香りが漂ったかと思うと、あたしの手からソレを分捕った。

「な、何もしなくていいから!お茶飲んで!」
「ごめん…」

トランクスだとは気付かず、そんなものを顔の前で広げてしまった…。
何やってるんだろ、あたし…。
なるほどくんの顔が赤い。あたしもつられて赤くなる。
二人してひたすら無言でお茶をすする。…うう、気まずい。

なんとかその場の空気を明るくしようとあたしは適当に喋る。

「…キ。キスって味が付いてるかと思ったら違うんだねー!」

きゃわああああ!何を口走ってるのあたしはー!
なるほどくんはますます黙ってしまう。なんてバカなんだろう、あたしは…
また気まずくなって湯呑に口をつけ、熱いお茶で喉と心を潤す。
無言。沈黙が耳に刺さる。
先にお茶を飲み終わったなるほどくんはミニテーブルに湯呑を置くと

「…確かめてみる?」

と、真剣な眼差しで訪ねてきた。
何を?と言おうとした瞬間、なるほどくんはあたしの背にくっついた壁に両手をつき、
あたしを逃がさないような体勢で、あたしの唇を奪った。
それだけじゃない。あたしの上唇と下唇の境界線を割いて、ぬめりとした感触が侵入してくる。

「…っ!?んん・・・ーっ」

あたしはまだ熱いお茶の入った湯呑を両手に持ったまま、どうすればいいのか分からなくなった。
混乱しているあたしを無視して、侵入してきたソレはあたしの口の中を動き回る。
闇雲に動くわけじゃなく、あたしの舌を捕らえるように。
初めて経験する感触に、あたしは息をするのも忘れそうになる。
ひんやりしているのか、あたたかいのかどちらともつかない、不思議な感触が少し怖くなり、
ソレに捕らえられないように必死で舌をひっこめたり、逃げたりする。
口からの空気の供給が間に合わなくて、鼻からの呼吸に変わっていた時は、
すっかり籠絡されていて、唇と唇の結合部分からは粘液が泡立つような音を立てていた。
さっきまで二人して飲んでいた為か、ほのかに緑茶の味がする。
やっと解放されたとき、なるほどくんと吐息とあたしの吐息、それから緑茶の香りが混ざり合っていた。
キスというのは、唇と唇が触れるものだとしか認識がなくて、
今自分に起こった出来事が何なのかを理解できずにいた。
酸素不足で血圧が上がったのと、その他諸々で顔が集中的に赤くなる。

[21]
「…な、なるほどくん…?」
「ご、ごめん、つい…」
「…緑茶の味がした」
「さっきまで飲んでたからね。ふたりとも」
「…今のも、キス?」
「…一応は」

あたしは困惑していた。
確かめてみる?と聞いたあの時のなるほどくんが急に男らしくて、それからオトナに見えてしまって。
あたしの知らないなるほどくんがいるのかもしれないと思うと、
知らないのが悔しいのと、怖いのと、それから好奇心という感情が湧いてくる。
あたしは何も知らないお子様なんだと身をもって知らされてる気がして、ちょっとムカつく。

「なるほどくん。あたし、今日キスするのが初めてで」
「…ごめん。反省してるよ」
「2回したじゃない?でも2回とも、違うキスだったでしょ」
「ううん…何と言えばいいのやら…」
「今のって…オトナのキス?」
「ぐっ…!」

なるほどくんの喉もとで言葉が詰まる。否定しないってことは、そうなんだよね。

「ふーん…さすが、オトナは物知りだなあ」

と、自分の動揺を隠しながらイヤミを言ってみる。
正直なところ、あんなキスが毎回続いたらきっと身が持たない。恥ずかしくて死にそう。
動揺してる時ほど人間って口が回るもので。あたしの口はまさに外郎売に出てくる透頂香を飲み干したみたいに。
なるほどくんはまだあたしの両サイドに腕を伸ばし、壁に手をついたままの体勢。
早くこの恥ずかしい構図から解放してほしい。
さっきの濃厚な口づけは、月9のあのシーンを思い出してしまって。
キスをして、それからソファベッドに倒れこむ二人のシルエットが異常に目に焼き付いてしまっている。

「そ、それもあれでしょ!あ、あ、あやめさんと付き合ってる時に覚えたんでしょ。
あーあこれだからオトナの付き合いはイヤラシイんだから!
ちょっと自分がケーケン豊富だからってさ。あたしはまだヤングだよ!ティーンだよ!」
「い、いやあのさ真宵ちゃん…」
「あたし、認めるの嫌だけど、何も知らないんだよ。
そっちはそりゃ、今まで付き合ってきた中の一部の彼女かもしんないけど…
あ、あたしは付き合うこと自体初めてなんだから…キスするだけでも精一杯で…
すでに何もかもケーケンした人にとっては、あんなキス…大したことないかもしれないけど…
う、うう…あたし、あたしはえーっとその、ま、まだ…い、いろいろ、初めてな訳で…
あ。あれ。何言ってんだろあたし…うーーー…い、今のはナシ…」
「…ま、待った」

[22]
なるほどくんが顔を真っ赤にして、あたしの唇に人差し指を押しつける。
その真っ黒な瞳といったら、泳ぎっぱなしで今のこの状態ではとても法廷で勝てる様子じゃあない。
何度も口ごもらせながら、なるほどくんはゆっくりと口を開く。

「ま、真宵ちゃんはその…ボクがあやめさんと、い、色々経験済みだと思ってる?」

意外な言葉が出てきた。
あたしはきょとんとしながら、どういうことと意味を含ませて見つめてみた。

「…た、たしかにボクはキスなら…その。したことはあるよ。それは認めるけど…」
「………え…」

なるほどくんのギザギザ眉毛がどんどんハの字に変わってくる。
耳まで真っ赤な顔を見ているとだんだん申し訳ない気分になってきちゃった。

「…こんなこと言ったら引くかもしれないけど…」
「う、うん」

だんだん、なるほどくんが言おうとしていることが音をたてて近付いてきた。

[改行]

「…キスしかしたことないんだけど、ボク」



***

[23]
お互い、冷汗ダラダラ。
何と声をかけていいのか分からず

「………お、大人のキスは?」

また変なことを聞いてしまう。

「………………恥ずかしながら、さっきのが初めてです」
「うそぉ!?」

声が裏返ってしまった。
なるほどくんは情けない、といった感じでますます赤くなりあたしもそれにつられる。
キスしかしたことがない、という証言に対し尋問開始。

「その。そのキスの先は…?」
「グハァッ!」

いきなりとどめを刺してしまった。

「つ、つまりその…これはいわゆる…どっ…ドー…」
「ギャアア!」

なるほどくんの心のゲージがどんどん減っていく。

2年ほど前クラスの男の子が悪ふざけで男同士でじゃれてる時に
≪こいつまだ童貞だって!≫と言っていたことがあり、その時まであたしはその意味を知らず
≪ねーねー、何?ドーテーって≫と聞いてしまったことがあった。
女友達がすっごく遠回りに控え目な言葉でその意味を教えてくれた。
色恋沙汰にまったく興味がなかった当時のあたしからすれば、まさに別にいいじゃん、だったんだけど
どうやら年頃の健全な少年少女からすれば、いつまでも童貞っていうのは
あまりカッコいいものと言い難いものらしい。

すっかり落ち込んでしまったなるほどくんをなんとか元気づけてあげようと思って

「だ、大丈夫だよなるほどくん!あたしも童貞だよ!」
「真宵ちゃん、それ間違ってるから!!
…で、でもまあ、その…真宵ちゃんの年なら許容範囲だとは思うけど…
ボクのほうはカンゼンに笑い物だよ…」
「あははははは」
「笑うな!」

「…でもさ、経験無い割にはさっきは結構その…積極的だったよねえ」
「せ、積極的というか…半分理性が飛びかけてたわけだけど」
「な、なんで?」
「……真宵ちゃん。今キミはかっこうの餌食なんだぞ、男からして」
「へ」
「ここどこか分かってる?」
「なるほどくんの家」
「ここにいるのは?」
「なるほどくんとあたし」
「他に人は?」
「二人っきり」
「さて、キミの横にあるのは?」
「布団」

[24]
しばらく沈黙が続き、なるほどくんは鬢のあたりを掻きながら、溜息をつく。
あたしが持っていた湯呑を片手でつかんで、なるほどくんが飲み終わったそれの隣に音をたてて置いた。
そして、あたしの頭をポンと一撫でし、あたしの背中に両手を回した。

「きゃっ」

世界が反転する。抱きあげられたかと思うと、気づけばなるほどくんと天井が見える。
背中にはさっき自分が答えた物が敷かれている。

「経験がなくても、したいと思ってしまう生き物でさ、男って。
…好きな相手とならなおさら」

心臓が跳ね上がる。
また、あの顔だ。男の顔をしている。オトナの表情を浮かべている。
あたしを見下ろすその顔は余裕を浮かべているようであり、
切羽詰まった感じでもありとても不思議な表情だった。

「ボクにだって我慢の限界はある」

あたしの髪を指で掻きあげながら呟いた。
その仕草が…意外にも考えられないくらい色っぽくて、またひとつ新しいなるほどくんを発見した。
月9のドラマの主人公たちが、キスを交わした後抱き合いながら倒れこんでいった事を思い出した。
そもそも、なぜ恋人はキスをするのか。抱き合うのか。交わるのか。
手をつないだとき、夜桜に囲まれてキスをもらった時、
言葉では言い表せない不思議な幸福感があった。
そう、言葉で伝えきれない分、温もりを通じて愛情を注ぐためにそうするのだと今頃になって気づいた。
突然された大人のキス。恥ずかしさはあったけど、嫌悪感はあったかな?
「否」それこそが答えなんだ。

「したい?」
「………真宵ちゃんがいいなら」
「あの、あたしどうすればいいのかあんまりわかんないんだけど」
「大丈夫リードするから」
「初めてのくせに見栄はっちゃってなるほどくんはー」
「…待ったしてもやめないぞ」
どうぞご自由になんて小憎たらしい態度をとって、もうちょっとからかおうかと思ったけど、
その行動は未遂に終わってしまった。
なるほどくんがあたしに覆いかぶさり、お仕置きと言わんばかりに覚えたばかりの大人のキスをお見舞いする。
心なしかさっきよりも濃厚で、それでいて攻撃的で。
あたしの口の中で、まるで生き物のように粘液にまみれた舌が蠢き、あたしのそれを絡めようと執拗に追いかける。
捕まってたまるかと口の中で逃げようとしても、逃げる前に絡めとられて
吸いつくすようにあたしの舌を攻略する。舌が動き回るたびに先ほどと同じ水分に富んだ音が
あたしとなるほどくんの唇の境目で奏でる。
まるでお互いの唾液を交換しているみたい…。
そんな風に思うと、このキスがとてもイヤらしいものに思えてしまって、顔が、体が熱くなる。

[25]
そうなると不思議なことに、舌が触れる感触がくすぐったいに近いものに変わり、体が竦む。
更に、あたしとの口づけの間、先ほどせっかく借りたダウンジャケットはなるほどくんの手によって
肌から剥がされ、さらに、装束の帯がするりと音をたてて、装束から離されていく。
帯がほどけた音とともにあたしの腰まわりのかすかな締め付けは緩くなり、
代わりに装束の前面の解放を許す。
わずかに空いた肌と布との隙間にまだ冷え込みの強い春の夜の空気が流れ込む。
人前で肌を晒すことなんてない。
なるほどくんの手によってあたしの肌が露出されると思うと、急に恥ずかしくなってきた。

「ん…んん…ーッ…」

服のほうに意識を集中させていると、舌の感触で呼び戻される。
ぴちゃぴちゃと音を立てながら、なるほどくんの舌が絡んでくる。続けているうちに
全身が火照り、全神経が過敏になっていく。
腕や首筋、脇腹、下肢にかけてぞわぞわとくすぐったさに似た鳥肌のようなものが駆け抜ける。

「(なにこれえ…)」

自分の体になにが起きているのかわからないけれど、解放された装束の全面から、
なるほどくんの指が滑りこみあたしの胸の頂を撫であげた時、甘い電流が突き抜けた。

「ん…ッは!」
反射的に、せき込むような声を上げると、なるほどくんの大人のキスが終わった。
あたしの唇は解放された。お互い、息が上がっていて、少し潤んだ瞳で見つめあった。

「…なるほどくん…」
「……何」
「…はずかしい」
「……実は、ボクもだ」
「…あっあのあの、あの…電気消してほしい
でないと……恥ずかしくて死んじゃうよぉ…」

あたしは今たぶん人生で一番か細い声を出したと自分でも思う。
かくいうなるほどくんも、その表情は情けないほど真っ赤だった。
でも、暗闇を望んだ時気のせいかな、少しだけ残念そうな顔をしたのは…。

「…ちょっと待ってて」

今度は夜桜を見た時のような触れるだけのキスをして、電気のスイッチを切るためにあたしから退く。
洋室の入口に一つだけある壁のスイッチが乾いた音をたてて、暗闇が訪れる。
ベランダの窓には薄いカーテンがしてあって、そこからわずかに入る月明かりだけが、お互いの姿の確認を可能にしていた。
なるほどくんが再びあたしに覆いかぶさった。

「…じゃ、改めて失礼シマス」
「へ、変なこと言わないでよ!」

なるほどくんは驚くほど緊張してて、その緊張があたしにもうつってしまう。
改めて、なんて言われると今あたし達がよっぽど恥ずかしい事をしようとしているんじゃないかと思ってしまう。
もちろん始まったばかりなのは分かるけど、あたしにはこの行為の終わりは知らなかった。
暗闇の中でなるほどくんの大きな手のひらが、あたしの髪を何度も撫でる。

最終更新:2020年06月09日 17:44