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5. Beginning


帰国の直前に成歩堂から電話を受けたとき、彼はべつだん取り乱したふうもなく、ごく普通に待ち合わせ場所を決め、ごく普通に電話を切った。
腹に一物ありそうな声でもない。真宵の事情も察したのだろう。もう、お互い大人なのだ。
成歩堂より早く着いて、一足先に心の洗濯をしていると、カーテンの向こうから、
「御剣、いるのか」
と声がした。御剣が、「ここだ」と答えると、成歩堂はカーテンを引き、横たわった御剣の顔を見下ろした。
「ちょっと、老けたんじゃないか」と成歩堂は嬉しそうに言い、さっそく、彼のように、隣のリラキシングチェアに身を沈めた。
「お前は変わらないな」
「そうかな」
二人はしばらく会話をせず、目を閉じて足先の快楽に集中した。
「うう……。しばらくぶりだなぁ、この気持ちよさ」
「私も相当久しぶりだ」
「……真宵ちゃんから、まあ、だいたい話は聞いたよ」
御剣は目を開けて天井を見た。
「……わからないことがあるんだよ。どうしても」
「…………」
「お前、どうして結婚しないんだ?」
「なんだ。真宵くんから聞かなかったのか」
言ってから、気がついた。
〈倉院の里を『沈める』計画……私に対しても、ひどく言いにくそうにしていたな。
故郷に報いることを、後ろめたく思っているのだろう。……言いふらしては、かわいそうかもしれない〉
「たんに、私が彼女のお眼鏡にかなわなかったというだけの話だろう」
「そんなわけないだろ。真宵ちゃんは、君のことを好きだったんだぞ」
「あれは子どもらしい恋愛ごっこに過ぎないものだったし、そもそも、昔の話だ」
「ぼくは、両方とも、そうには思えない」
「過去として片づいているからこそ、種だけ分けてもらうのを頼むなんてことができたと思うがね」
成歩堂は言いよどんだ。「確かにそうかもしれないけど……なんか、釈然としないんだよ」
「君が釈然としなければならない理由がどこにある。君は真宵くんの親兄弟でも身内でもない、他人だ」
「でも、彼女は、ぼくのかけがえのない友だちだ」
「じゃあ本人に直接問い詰めたらいいじゃないか。言いにくいことまであれこれほじくり返して白状させるのが、かけがえのない友だちの証だとでも言うのならな」
横を向いた成歩堂と目があう。彼は薄く笑った。
「君は正しいよ、御剣。ただ……心配なんだ。それに、職業柄、納得のいかないことっていうのが、どうにも苦手でさ」
「ほう。じゃあ、私のほうが結婚を拒絶したとでも言えば、納得がいくのか?」
御剣はなぜか自分がだんだんと腹が立っていくのがわかった。
「旧友と久々に会ったら遊びたくなったから抱いてやって、後先考えずナマ中出しして、当然田舎の小娘相手に責任なんぞ取る気はないだけだ、と言ったら、貴様は納得して、それで満足なのか」
「……君さぁ……」成歩堂は苦笑した。「そんなこと言えば、ぼくが、テレビドラマみたいに君に殴りかかるとでも思ってるのか」
「……む」
「変わらないよな。隠したいことや守りたいことがあるとき、君の口ぶりは露悪的になる。いつものことだ」
「……ぐむぅ……」
挑発が空振りに終わって、彼は言葉を返せなかった。
「ははは。図星だろ。唸ってる唸ってる」
「こ、これは今、よく効くツボに入っているからだ。先生、今のは、どこのツボですか」
「生殖器のツボです。かなり疲れてるようですね」
「む……そ、それは」目を向けずとも、隣で成歩堂が、じっとりした視線を送ってきているのを感じた。
「先生、グイッとやっちゃって下さい。グイッと」と、成歩堂は御剣の足元で施術をしているマッサージ師に呼びかけた。
「今の話、聞いていましたよね。こいつはぼくの親友なんですが、ぼくの妹も同然の女の子を孕ませておいて、まんまと逃げおおせる気です。
司法が裁くことができない社会の闇に、先生、ぜひ血の制裁をお願いします」
「はいはい。血の制裁ね」
「なっ! ちょ、ちょっと待っ……ぐっ……ぐあ……お、おお……お……おおおお……ーッ!!」
御剣は上半身をよじらせて、足の裏から突きあげてくる壮絶な痛みに耐えた。
「どうだ、御剣、痛いか。それがぼくと真宵ちゃんの心の痛みだ。ちょっとは思い知ったかい」
「ちちちちが、ちが、違う。誤解だ。誤解なんだ。先生、そもそも、全ての元凶は、こいつにあるんだッ」
彼は半死半生で息も絶え絶えに成歩堂を指差した。
「そうだとも、貴様が全部悪いんだ、成歩堂。私は単に貴様の不始末の尻ぬぐいをしてやったに過ぎん!」
「な……何だよ、それは」
「私が今になって真宵くんを妊娠させようがヤリ捨てようが、貴様にだけは文句を言えた筋がないんだ! 成歩堂!
なぜ、貴様は、あれほど真宵くんが追い詰められる前に、もっと早く責任をとって彼女をもらってやらなかったんだッ!」
「おいおい……なんでそうなるんだよ!」
「当然だろう! 彼女には他に身寄りもなく、お前が保護者のようなものだった。これは普通腹をくくるだろうが!」
「お前の当然とか普通の基準がわからないよ! 結婚って、そんなものじゃないだろう?!」
「甘やかされて育った貴様にとってはそうかもしれないが、旧家の跡取り娘にとってはそうではあるまい!
それくらいのことは、貴様にもわかっていたはずだ。貴様はわかっていて真宵くんを見捨てたんだ。
彼女にとって結婚なぞ夢もロマンもない、避けがたい現実として立ちふさがる壁だった。
それを救おうともせずに、自分だけはさっさと初恋の人と結婚して家庭を築いて幸せヅラ下げてほっつき歩きやがって……
先生! どうか私に代わってこの輩に、天誅を。天誅を下して頂きたいッ!!」
「はいはい。天誅ね」
「……~~~ああああああぁぁぁぁ~っ、ギブッギブッギブッ!!」
成歩堂がもんどりうって椅子をバンバン叩くのを見て、御剣は満足して笑った。
「ぼ、ぼくだって……真宵ちゃんに、言ったことがあるんだ、結婚しないかって! でも……」
その話なら、真宵に既に聞いている。
「断られたから引き下がったのかね? 馬鹿の極みだな。私はなぁ、ずっと貴様が目の上のたんこぶだったんだよ、成歩堂。
貴様がいたから私はすっぱり諦めきれたんだ。もし私が貴様の立場だったら……迷うことはない。
保護者の名目を最大限にフル活用して、彼女を縛り上げてでも婚姻届に判子をつかせていた。
それが彼女の将来のために一番いいことだと信じてなッ!」
「そそそそそのとき、真宵ちゃんに他に好きな男でいてもかよ!」
「当たり前だ、何のための偽装結婚だ! どうせ家には帰らないんだ、好きなだけ間男を連れ込んでくれて構うものか!」
「君が真宵ちゃんのことをとても考えてくれてるのはわかったよ!
でも、でも……そんなにまで思ってるんだったら、やっぱり今からでも彼女を幸せにしてやればいいじゃないか!!」
「それが可能だったら今頃こんなところで貴様に恨み言をこぼしてなどおらんわーっ!!」
頭に血が昇ってめまいを感じて、御剣は口をつぐんだ。
しばしの沈黙が場を包む。
「……普通、逆だよな、立場が。ぼくが君を責めたっていいときなのに」
「この件に関しては君が言えることは何もない。私の八つ当たりの相手になるくらいしかできん」
「御剣。君は、本当に、ぼくが真宵ちゃんを見捨てたことになったと思ってるのか」
「なんだ、今さらになって反省しようというのか。ああ、当然、思ってるさ。どうだ、傷ついたか。反省する気になったか。
少しでも自分のしたことを後悔してるんだったら、今からでも取り返してみせろ」
成歩堂は、どういうことだとでも言いたげに眉を上げた。
「私を引き抜きたがって世界じゅうの検察局が札束を積んでくる。私にはまったく腰を落ち着けている暇がない。
そこに腑抜けた司法がありさえすれば、どんな信じられないくらい治安の悪い地域にも行って叩き直してくるだろう。
長い間、こんな狭くてつまらなくて、しかも地震が多い島国になど帰ってこないことも、充分ありえる。
貴様の所業はほとんどにおいてまったくの手遅れだが、だが私の留守の間に真宵くんと彼女の子どもを見守ることくらいはできる。
せいぜい、せっせと罪を償うことだな。さあ、これで自分のすべきことを理解したか、大うつけが」
「……素直に、『よろしく頼む』って言えばいいのに」
成歩堂は笑った。
「ぼくは君と考えが違う。ぼくは真宵ちゃんに対してせいいっぱいのことをしてきた。筋は通したよ。
君に言われなくたってぼくはいつでも彼女の手助けをしたいと思っている。でもそれは真宵ちゃんがぼくの友だちだからだ。
彼女に対して負い目があって、それに縛られてるからそうするわけじゃない」
〈……こいつはごくたまに、何かの拍子で痛い所を衝いてくることを言うから、始末が悪い〉
御剣は歯噛みした。
〈負い目に縛られているだと? いや、違う。ずっと、私は縛られているふりをしていただけだ。
縛られているふりをして真宵くんに近づき、あの契約を申し出た。わかっていたんだ、最初から、それは方便だった。
しかし、今や彼女は子を宿した。これで終わった。もう……私には、真宵くんとかかわる必要の何ものも残されていない〉
「それにしても、大人だよなー……真宵ちゃんて」
彼が、ふと呟く。
「それは同意できる。しかし、誰もがみな、大人になりたくてなる者ばかりというわけではない」
自分の腕の中で安心しきって体を預ける真宵の顔を思い出す。
彼女の強さを形成させたのは環境だ。それは彼女が望んで得たものではない。
真宵を抱くとき、彼女は時に被虐に魅入られる。それが父性への強い渇望が一因だろうということも、彼は気づいていた。
〈そういえば、平手やベルトで尻を打つなど、父親の折檻の類型をしようとすると、嫌がりながらも目を期待に濡らしていたものだ〉
変な方向へ進む思考を打ち消し、御剣は言葉を続けた。
「周囲の者はけして真宵くんの強さに甘えてはならない。そうすると彼女はいつか必ず無理をしはじめる。

 くれぐれも、あの子を買いかぶることがないようにしてくれ」
「言ってることはよくわかるけど、それをよりにもよって君が言うかな」
「……私は、彼女の望みをきいてあげただけだ」
「君の不在が真宵ちゃんを苦しめる気がしてならない」
「それは、……君たちが、なんとかして支えてあげてくれと言うしかない」
御剣は言った。
「図々しい願いだと言うのなら、床に手をついて、叩頭してみせてもいい。私では、もうあの子に対して何もしてやることができない」
「君も大変だなあ」と笑われる。「言われなくてもぼくは真宵ちゃんの力になるよ。安心して地球一周でも何でもしててくれ」
「……その。なんだ。……恩に着る」
成歩堂の目が笑うのを見て、御剣は照れ臭くて目を伏せた。
「いつになっても、また帰ってこいよ。絶対帰ってこい」
「それは、さすがに約束はできないな」
「口だけでいいから言ってくれよ。気を楽にさせてくれ」
「それでは約束の意味がない」
「言えよ」
「行ったろう、どんな治安の悪い地域でも行くと。志半ばで凶弾に倒れているかもしれない」
「お前、……まだ、自分が父親と同じ死に方をするとでも思ってるのか」
「少しな」
「いい年して弱虫の君なんか、別に帰ってこなくていい。ただ、約束だけはしてくれ」
「できない」
「しろよ」
「できない」
「しろよっ!」
「できないったら、できないんだ!」
「ぼくには約束しなくていいから、真宵ちゃんには約束しろ!」
「うっ……」御剣は目をそらした。「それは、無理な話だ、私には。だが、私にも私の筋の通し方がある。君に心配してもらうまでもない」
約束をしさえすれば、その時は真宵も少しは救われるかもしれない。
しかし、守れる気がしない約束をする蛮勇など、御剣の中にはない。
〈まして……私には、もう、彼女のもとへ帰る必然性などない!〉
ツボ押しが終わると、いつものように、あれほどの激痛の嵐のあとなのに、体が不思議と羽根が生えたように軽い。
「健康になった……」と成歩堂がため息とともに呟いた。
彼につづいて代金をカードで支払おうとすると、マッサージの先生はそれを手で制した。
「今回の代金は、次回までツケとくよ」
「む? しかし」
「お兄ちゃん、うちにツケを払うために、また必ず日本に帰ってくるんだよ、いいね。
いろいろ大変だろうけど、二人とも頑張るんだよ。先生も、お兄ちゃんたちのこと、応援してるからねっ」
先生の髭面がニッコリ笑うと、隣の成歩堂もすぐに、ニヤーッとうれしそうに笑いを浮かべた。
今さらながら、自分たちのアツい会話を人にすっかり聞かせていたことを思い出して、恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
顔を真っ赤にした御剣は、ただ、体を小さくし、財布をひっこめて、
「……い、いたみいります……」と洩らすことしかままならなかった。〈……さっきは、血の制裁を加えたくせに〉


風が吹く瞬間、にじんだ汗が冷えるのが心地よい。
けして涼しい日ではなかったが、さすがにこれほど人里離れた山中だと、暑さが気にならないほど空気がおいしい。
自分があげた線香の煙の香りに、なぜか懐かしさを感じる。
御剣はまぶたを開け、手を合わせたまま、隣で黙祷する真宵のほうをうかがった。
よく似合う着物を着こなし、髪を結い上げた彼女は、しかし美しいというより可愛らしくて、七五三におめかしした子どもだと言われても納得できる。
〈自分が孕ませておいて何だが……こんな子がもうすぐ、お母さんになるなど、やはりにわかには信じがたいものだ〉
顔を上げた真宵が、視線に気がついて、無表情のまま見返してくる。
「……今でも、君には、とても申し訳ないことをしたと思っている」と御剣は言った。
「検察局はご母堂ととうの昔から連絡が取れていたのに、黙っていた。私は君に対してずっと嘘をついていたも同然だ」
「いいんです」と真宵は迷いもせずに言った。
「それが、……おかあさんの望みだったから。あたし、もし、知ってたとしたら、おかあさんを困らせてたかもしれないし。
だから、今は、それでよかったと思ってる」
「すまない」と彼は言い、付け足した。「ありがとう」
「おかあさんは、インチキじゃないよ」
唐突に、真宵はぽつりと言った。彼は息を詰まらせた。
「……ごめん。こんなこと言って。今まで誰にも、信じてほしいなんて、思ったことなかった。
そんな気持ちになったのなんて……御剣検事が初めてだよ」
何と答えていいものか、御剣は逡巡した。
あの霊媒は、自分のまだ生々しい傷に容赦なく塩を擦り込んだ。
もう、わかっている。あれは、本当は失敗してなどいなかった。
しかし、だからといって、寝ても覚めても悪夢の繰り返しだったあの日々が帳消しになるわけではない。
「怖いな」と御剣は洩らした。「信じると言ってしまうことが」
「ごめんね」真宵は言った。
「なぜ、謝る」
「言いにくいこと、言わせようとしちゃって……」
真宵の瞳が揺れた。伏せられた目が、太陽光に反射して輝いている。
「きっと、おかあさんの霊媒で、御剣検事は、すごくつらい思いをしたと思うから……、なのに……」
「……君が私にそのように気を置く必要など、何もない」
「でも」
「あれから二十年経った。綾里舞子の霊媒は私を深く傷つけたが、今、私はほぼ立ち直っている。
二十年の歳月が必要だったが、たった二十年程度が、何だというのだ。君に比べたら。
君の母も、ありし日の故郷も、未来も、何もかも奪われ、君のもとへは二度と戻ってこない」
御剣は真宵の両肩を掴んだ。
「真宵くん。あの霊媒がペテンだったかどうかなど、私にとってもはや少しも重要ではない。
起こってしまったことはもう変えることができない。だから、今はもう、考えるのをやめている。
今とこれからのことだけで、頭がいっぱいなんだ。……不本意な答えしかできなくて、申し訳なく思う。
それに、……たとえ、今、信じると言ったとして、私の行いの免罪符にはなりはせんのだ」
よく意味がわからないような顔をする真宵に、御剣は訥々と続けた。
「墓前でもある。ちょうどいい。告白しよう。君と、綾里舞子とに。
君が私のために法廷侮辱罪をかぶって退廷した瞬間から、私はずっと悩み続けていた。
……自分の過去にいかにして向き合うべきかをだ。真宵くん、私を……軽蔑するなら、してくれて構わない。
綾里舞子のあの霊媒が暴き立てられ、彼女が破滅に追い込まれたとき、私は……私は……
私は幼かった。……地獄で仏に出会ったような心境だった」
真宵はうなずいた。わかっていたとでも言うように。
「地獄の底で一縷の光を私は見た。神に感謝し、それから祈り続けた。……この女がもっと苦しみますように。
人の死をもてあそんで私腹を肥やすインチキ霊媒一族に、罰を与えてくれ、と。
この女が死ぬまで生き恥を晒し続け、絶望の中で息を引き取りますように。
……綾里舞子だけじゃない。その一族すべてに……これ以上ないというほどの……屈辱と不遇を」
彼は自分を罰するかのように言葉を重ねた。
「この一族が……霊媒術が……一刻も早くに、滅びますようにと……」
御剣の指が真宵の肩に強く食い込み、着物に汗がにじんだ。
彼女は、その上に手を乗せる。
「思ったことは、たんなる思ったことだよ。御剣検事がそう祈ったからって、そうなるわけじゃない」
「それだけじゃないさ。私は実際に、君を沈めようとした。足を掴み、私のいる地獄の底まで引きずりこもうとした。
あのとき、君が本当に綾里千尋を殺したかどうかだなんてどうでもよかった。ただただ、その好機の訪れに震えた。
検死報告書に手を加えるよう指示したとき、私は歓喜の渦の中にいた。綾里舞子の娘を、地獄へ道連れにできることで」
「あ……そっか……」真宵は口に手をやった。「そうだったんだ」
「君はそんな私のために、なんの屈託もなく退廷の屈辱を引き受けた。そして……霊媒はどうやら失敗でもなかったらしい。
自分の醜い過去とどう向き合うべきかを模索しつづけた。君と接しながら、わびる言葉を探しつづけた日々もある。
疎遠になり、何もかも忘れようとした日々もある。……なんとも皮肉なことに、そんなことをしている最中に……
私は、自分でも気がつかぬうちに、いつのまにか、君を……君のことを、あろうことか」
御剣は言葉を切り、かぶりを振った。こめかみを汗が伝い落ちた。「……君に救われつづけた。それが、つらかった」
「……だいじょうぶ?」
「平気だ」
真宵はつま先だって、彼の額を拭った。心配そうに見やってくる。
「果たして私は君へ恩を返し、罪を償う方法を見つけた。だが、本当にそうだったのか、今でもときどき不安になる。
精一杯、君のことだけを考えて、こうしたつもりでいても、心のどこかで、二十年前の愚かな自分が喜んでいるのではないかと。
私は……ばかげた復讐を達成して満足しているのかもしれない。綾里舞子の一族を滅ぼす手助けをすることで」
「うれしいのは、普通なんじゃないかな」
真宵は抑揚をつけずに言った。「だって、御剣検事みたいな人に、うれしがってほしいから、決めたことだもん」
「しかし……」
彼はふと、あることに思い当たった。
真宵が霊媒術を闇に葬る決意は、霊媒術が人を不幸にしつづけてきたことがその理由の一つだった。
〈霊媒で不幸になった人々……なるほど、その中に、私も入っていたというわけか。
いや、入っていたどころか、まさか……私のことを重く受け止めて、この子は……〉
御剣は自分の考えを打ち消した。〈いや、そんなのはうぬぼれだ。……うぬぼれであってほしい〉
「ありがとう。御剣検事」
真宵は頭を垂れて、額を御剣のみぞおちにくっつけた。
「あたし、御剣検事が、子どもを作らせてくれるって言ってから、お願いするように決めるまで、すごく怖かった。
すごく悩んで悩んで、その最中、あたし一人だけがこんなにつらい思いをしてるみたいに思ってた。
でも今、御剣検事も、あたしと同じかそれ以上に、つらかったり、苦しんでたって知って、なんか……」
彼女の表情は伺うことができない。
「……あたしも勇気出さなきゃいけなかったけど。御剣検事もそうだったんだね。どうもありがと。それが、嬉しい」
「私は、自分が汚い人間だとは思いたくない」御剣は言った。
「しかし、私の申し出は、けっきょく一から十までエゴの塊でしかなかった。これでは罪滅ぼしになどならない」
「あたしには、よくわかんないよ」
真宵は、顔を上げた。
「でも、あたしは御剣検事に助けてもらったと思ってるよ。すごく感謝してる。……それだけじゃ、ダメなのかな」
「ありがとう」
御剣は口のはしを歪めて、つらそうに笑った。「そう言ってもらえると、少しは気が楽だ」
「しゃべったら、ちょっとはすっきりした?」
「今はまだ、話したことを少し後悔している。だが、きっとそのうち、言ってよかったと思える日が来る気がする」
「そっか……。ねえ。耳、かして」
と、真宵が彼のタイを引っ張るので、怪訝に思いながらも腰をかがめて、耳を向けてやる。
彼女は口を近づけてささやいた。「がんばったね。今まで」


彼が持ってきた大きな花束が墓石の前で風に揺られるのを、御剣は見た。


綾里邸に戻ると、春美が客間まで麦茶を運んできてくれた。
「今日は、ちゃんと終バスに遅れないようにするよ」
「そうだね。っていうか、始発と終発しかないんだけどね」
「では、そろそろ、おいとましなければならない時間だな」
真宵は、真剣な話をしているような顔で言った。
「あたしも街まで一緒に行く。お祝いに、ごはんに連れてって」
御剣は眉を上げて答えた。「そういえば、お祝いをしてやる約束だったな」
「いいかな」
「ああ。しばらくは、日本に帰ってくることもないだろうしな」
「ありがと。じゃ、すぐ、動きやすい格好に着替えてくるから、ちょっと待ってて」
真宵と春美が一緒に退室したあと、少ししてから、再び襖が開いた。
戻ってきたのは、春美だけだった。
「あの。もう少しで、真宵さまの準備も終わりますので」
「そうか」
御剣の正面に膝を折った春美は、落ち着かぬようにもじもじした様子でいる。「あの……」
「何かね」
「……真宵さまは、お腹の赤ちゃんの、お父上の名前を、まだ教えてくださりません」
彼は目を細めた。
「あの。あの。でも、あの、わたくし……なんとなく、その殿方がだれだか、わかるような気がするんです」
「ほう」とだけ言って、麦茶をひと口飲んだ。
「……みつるぎ検事さま、あの、わたくし……わたくしは……」
口を挟まず、春美の言葉の続きを待つ。
「あの……ま、真宵さまの、赤ちゃんは……この里みんなの赤ちゃんです。
ずっと、わたくしたちが、真宵さまと、お子様をお守りしますから……みつるぎ検事さまは、どうか、ご心配なさらないで下さい」
万感の思いが胸を衝いたが、だからこそ、言葉は最小限しか出ない。「ありがとう。とても心強い」
春美はうつむいたまま、くるりと背を向けた。
その様子のいじらしさに、まいったな、と御剣は天を仰いだ。
「たまには、来てくださいますか」
「ああ。いつになるかはわからないが、折を見ては、お邪魔させていただこうとは思ってる」
「よかった。あの。ずっと、待ってますから」
「その日まで」と御剣は言った。「……どうか、よろしく頼みたい。私の大切な人を」
「はい、あ、あの……しょうち……いたしまし……すみません、失礼します」
春美は顔を覆って、足早に部屋を出ていった。
〈しまった。ちょっと、口がすべったな……今のは〉
心になんのやましさもないのは本当だった。
先日、親友に会ってきたときでさえ、ふてぶてしい態度でいたが、やはり子どもを泣かせてしまったとなると、途端に後ろめたく胸は疼く。
面と向かって極悪人と罵られたり、鼻血が出るまで殴られるほうが、どんなにか気が楽だったろう。
〈春美くんも、薄々気がついているのだろう。私のほうがフラれたんだということくらいは。それで、私に優しいんだ〉
「あれ。はみちゃんは」
「君の部屋へ戻らなかったのか? どうやら帰ってしまったようだな」
戻ってきた真宵がそれを聞くと、さっと顔色が曇った。
「……はみちゃん、勘づいてたみたいだった?」
「多分にな」
「うう。やっぱ、そっか……」彼女はがっくりとうなだれた。「ショックだろうなぁ。あとで、慰めてあげなきゃ……」
「君が元気な顔でいて、元気な子どもを生むのが何より慰めになるだろうな」
「うん。そうだね。……わかってる」
真宵までもが落ち込んでしまったのが丸わかりだ。
バス停の椅子に座って、二人で待っているあいだも、彼女は憂鬱そうな表情のままだった。
「そういえば、成歩堂に会ってきたぞ。昨日」
「ええっ。そ、そうだったの?」真宵は目を丸くしたあと、不安げに眉をひそめた。「……それで。だ、大丈夫だった?」
「刺された傷が見たいか?」と、彼はスーツの前のボタンを外しだす。
「う、うそっ!」
シャツの腹の部分のボタンを開けると、真宵があわててその中を覗き込んだ。
やがて、その腹筋に傷ひとつないことがわかって、
「……って、やっぱり嘘なんじゃない!」と、パンチを食らわせた。
「当然だろう。別に話がこじれることも、拳と拳で語り合うこともなかったよ」
「はー、よかったぁ」真宵はほっと胸を撫で下ろす。「ホント、心配させないでよ……。……二人で、どんなこと話したの?」
「当たり障りのないことを。終始、しごく穏便に」


食事をすませたあと、御剣は思い出したことがあって、慌てて時間を確認した。
「どうしたの?」
「取りに行くものがあったんだ。うむ、まだ、店は開いてる。ちょっと付き合ってくれ」
店に入ると、真宵はものめずらしそうにきょろきょろする。
椅子に座ると、店員に、頼んでいた眼鏡のサイズを最後に調整してもらう。それを見ていた真宵が、盛大に噴き出した。
「……そんなに変だったかな」レンズごしに真宵を見ると、彼女はぶんぶんと首を振ったが、まだ顔が笑っている。
「ううん、そうじゃないそうじゃない。似合ってるけど、なんか、べ、別人みたーい」
眼鏡をかけたまま店を出てからも、何がおかしいのか、まだ真宵は笑い続けている。
「それほど笑われると、少しヘコむのだが……」
「ごめんごめん。でもさー、なんでいまどきコンタクトレンズにしなかったの?
あ、わかった。御剣検事、コンタクトをハメるの、怖いんでしょー」
「それもあるが」と御剣は苦笑いした。「眼鏡をかければ、親父と同じになるからだよ」
「あー……そっか」真宵はほんと手を打った。「うん。確かに、今の御剣検事って、なんか、お父さんって感じ」
〈『お父さんって感じ』か……やれやれ〉
御剣は肩をすくめた。
「……それでは、駅まで送っていこう」
「えー。一軒くらい、飲みにいこうよ」
「飲みにって……もう君は妊婦だろう。酒はやめておきなさい」
「あたしだけノンアルコールのカクテルでも飲んでれば大丈夫じゃない」
「私だけ酔わせるのか? それはちょっと、ズルい気がするんだが」
「うーん、そうかな? なんで?」
「なんでと言われれば、説明はむずかしいのだが……」彼は口ごもった。
酒が入ったら、いらないことを口走ってしまうかもしれないと危惧していた。
それに、口走るだけなら、まだましだ。こんな夜は、みっともない飲み方をしそうな予感がひしひしと湧き上がってくる。
「だめかなあ?」
「……君のその顔には何度も言いなりになってきた。今夜を最後にしばらくそれもないと思うと感無量だ」
御剣は顔を崩さず心にもないことを言った。
「じゃあ、いいの?」
「仕方ない。その代わり、かなり悪酔いするかもしれんから、覚悟しておくように」
「わーい」と真宵は万歳をした。「大丈夫、大丈夫。一緒に酔ってあげるから」
〈……飲まないのではなかったのか?〉
もちろん、彼女のぶんはちゃんとアルコール抜きのカクテルを注文してあげた。
バーの椅子に並んで座ると、ぐっと距離が近づく。
断続的にだが数ヶ月も乱れきった生活を共にしてきたが、もう、その日々は帰ってくることがない。
もう彼はけして真宵の手をとらないし、肩を抱いて寄り添うこともしない。彼女に夜の愉悦を教え込む前に戻ったのかように。
そう思うと、こうやって肩を並べているだけで、一緒に公園を歩いたあの日のように、胸はもどかしく疼く。
〈一体、どんなつもりで誘ったのやら〉
「なあに?」
「何って、何がだ」
「なんで、そんなに顔ばっか見てるの?」
「ああ……」と御剣は答えた。「さっきからなんだが、君は少しふっくらしてきたようで安心だ、と思ってたのさ」
「わかった? 最近、元気なんだ。ごはんが食べれるようになったし」
二人は小さく音を立てて乾杯をした。
「そいつはよかった。正直、君の体型では、子どもを生むのが心配だったからな」
「御剣検事のおかげだよ。すっかり元気になれたの」
「ほう。それは、どうしてかな」
「なんでかなあ? あたし、むかし御剣検事のこと好きだったから、夢がかなってうれしかったんだと思う」
「そうか」
「うん。ありがとう、御剣検事。……すっごく楽しかった」
その笑顔には、およそ屈託のひとかけらもない。
危険を感じずにはいられなかった。罠が待っているかもしれない。それも、めいっぱい甘い罠が。
罠を仕掛けていると本人がわかっていないのなら、もっと危険だ、と彼は思った。
落ち着き払って、探りを入れた。「私も楽しかったよ」
「ほんと? それ、すごくうれしいな」
本当だとも。これから一生、あれほどセックスの相性がいい女性とめぐりあえることなどあるまい。
口を開きかけて、あわてて抑え込んだ。
〈……今日でお別れになるのかもしれないんだ、そりゃあ少しは本音をさらしたいところだが……慎重に行かないと、自殺行為だな〉
「出産まで、修行もお仕事もお休みするんだ。しばらくは、ゆっくりできそうだよ」
「それはいいことだが……その間、生活は大丈夫なのかね?」
彼は眉をひそめた。「その。君さえよければ、いくらか生活費を送金することに、私はまったくやぶさかでは……」
「おっと。御剣検事、あの契約書の内容、忘れたの? 契約違反だよ」
「忘れてなどいないが」彼は一瞬だけためらって、続けた。「しかし、あんなものは紙きれだ」
「う。それはそうだけど、思いっきり、身も蓋もないね……」
「あれは、君をではなく、私を縛るために作成された書類だ。君がそうしろというのなら、私のほうはいつでも、あれを破り捨てる準備はある」
「それ、喜んでもいいのかなあ……」と真宵は苦笑いして小首をかしげた。
「まあいいや。どうも、ありがとう。でも、あたしはそういうお願いは、する気はないよ」
きっとそれは当然の返答だ。御剣が金を出せば、真宵はずっとそれを気にしつづけるだろう。
そのつもりがないまま人を恩で縛ってしまうことを考えただけで、こんなにも嫌な気持ちになる。
しかし自分のほうは、おそらく今もなお束縛されたがっているのに間違いない。
「真宵くん」
「何?」酔いがまわるのには早すぎる。アルコールのせいというより、それのせいにできる状況が、御剣の枷を緩めていた。
「あえて、今、君にたずねたいことがある」
「うん」
「君はまだほとんど実感はないようだが、実際に、子どもを宿したわけだ」
「うん」
「……状況に進展があったところで、君の気持ちは……変わってはいないのだろうか」
「気持ち?」真宵には話が見えないようだ。
やむなく彼ははっきりと言った。「結婚の話だ」
「……え?」真宵はきょとんとした。「どうしてそんなこと言うの?」
「む……どうして、と言われても……」
「あたしのことを考えて、そう言ってくれてるの?」
「ま、まあ、そうだ」と御剣は言った。
彼女は寂しげに笑った。「悪いけど、気持ちは、変わってないみたい」
御剣は肘をついて頭を抱えた。
「ごめんね」
「いや、いいんだ。もう酔っているらしい。ただ、君のこれからを考えると、君が不憫で……そう思うと」
「ありがとう、御剣検事。やっぱり、優しいんだね。ホントにうれしいよ」
本当は、君と繋がっていたいからで、それだけなんだ、と彼は言いたかった。
言ってはならないことを言いたかった。地雷を踏みたかった。二人とも取り返しのつかないほど傷ついてしまっても。
「……ありがとう。ほんとに」真宵は御剣の肩にそっと頭を預けてきた。
「気にしなくていい。慰めもいらないよ」
「そうじゃないよ」
〈早く部屋に帰ろう。ああ……早く帰ってシャワーを浴びて……いっぱい酒を運ばせて、ベッドの上でつまみを食べながら、くだらんテレビ番組を見て、前後不覚になるほど飲んで飲んで……そのまま寝て、朝になったら全て忘れてしまっていたい〉
「御剣検事。きいてほしいことがあるんです」
「何だね」彼は顔を上げぬまま、興味のなさそうに返事した。
「あの。こんなお願い、図々しいと思われるかもしれないけど……もう少し、お祝いしてほしくて、それで」
「……何だろうか」
「あのその。つ、付き合ってほしいんです。一日だけ」
御剣はゆっくりとおもてを上げて、真宵を見た。「何にだ」
「そ、そうじゃなくて」真宵は顔を赤らめて、視線を合わせようとせずに首を振った。
「あの。前にも話したけど、御剣検事と、え、エッチしてるあいだ、何度も、ほんとの恋人同士になったような気分になれたの。
でも、それはすごくいけないことのような気がして、そういう気持ちになっても、すぐ、そうならないようにしてた。
だから、それだけが、……心残りだったの。だから」
真宵は意を決したように御剣の目を見た。
「恋人ごっこ、してください。これから。朝まででいいから……」
彼は遠く自分の名前を呼ぶ声で我に帰った。
真宵が心配そうに顔を覗き込んできている。夢の中にいるように音が遠く、全ての動きがスローに見えた。
「いや、失礼」御剣はウォッカをがぶ飲みした。「軽く気を失っていたようだ。あまりの展開に」
最後の一夜をねだってくることは予想のうちだった。スマートな断り方だって文案を練りに練って準備してきていた。
それとはまるで話が違う。よりにもよって恋人ごっこをしてほしい、と。言葉に詰まるのも無理はない。
「その、なんだ……ま、真宵くんね。君のお誘いは、し、至極光栄だが……」
「あの。さっき、御剣検事も、楽しかったって言ってくれたから、言ったの」
彼女は真面目ぶって唇をへの字に曲げ、御剣のほうに向き直る。
「御剣検事には本当に感謝してるから、だから、今日くらいは二人で一緒に楽しくなりたいなって……楽しくなってほしいなって。
だから、あたしに気を遣わなくて、ぜんぜんいいし、ことわるのが悪いとか思わなくていいし。
ただ……ホントに、御剣検事の好きなようにしていいから」
御剣はテーブルに力なく突っ伏した。真宵が驚いて背中をさすってきてくれる。
「だ、大丈夫?」
「すまない……平気だ」
「ごめん。あたしが変なこと言ったから……あの、あの」
真宵がおろおろして、必死に取り繕うとする。
「ゴメンなさい。忘れてください。あの。あたしばっかりわがまま言ってるから、じゃあ、こうしましょう。
御剣検事がやってほしいことをやってあげるっていうのはどうかな。なんでもいいから……」
「……私の望み、か」御剣は今にも死んでしまいそうな目で彼女を見やった。
「私の望みは……、救われたい。楽になりたい」唇が震えた。「……助けてほしいんだ。とても」
「あ……」真宵は狼狽したように激しく目を泳がせた。「あ、あ。あの。それって。あたしじゃ……無理ですか?」
「ああ。無理だよ」
「ううう……」真宵はがっくりと肩を落とした。
「……あ、あたしにとって、御剣検事はいつも、遠い人だから、あたしなんか、力になれないのかもしれないけど」
彼女は垂れ下がった御剣の右手をとり、両手で包んだ。
「ちょっとの間、忘れさせてあげることくらいも、あたしにはできないのかな……」
真宵の手は熱かった。彼はあの夜の公園を思い出していた。見栄を張って平気な顔をした肝試し。
あのあと御剣は二度と真宵への淡い思いをおくびにも出さぬことを誓った。
何重にも鍵をかけて、心の一番深いところへしまい込み、誰にも立ち入らせなかった。
大事なものを守り抜かねばならない戦いに、もう、疲れきっていた。へとへとだった。
理窟を越えて、ただただ、真宵の体温がいとしく、ありがたかった。
〈……底なし沼にも底があるのだろうか。底は、いったい、どのようになっているのだろうか〉
離すまいと、ぎゅっと握り返した。


御剣の広い胸に石鹸を塗りたくる真宵を見下ろしていた。
彼も真似をして、真宵の小さな胸を両手で揉み洗いしてあげると、くすぐったそうに、体を反らせた。
「かわいいな」と彼は頬を緩めた。
「ほんと? ねえねえ、どこらへんが?」
「いや、どこらへんと言われても……」
苦笑しながら、抱き寄せる。〈なんで、私は吹っ切れてるのだろう……。また、この子とこんなまねをすることになるとはな〉
「えへへ。御剣検事も、カワイイよ」見上げた真宵の頬に泡がついてる。
〈……まあいいか。楽しいから〉
「なんだ、その呼び方は」
「え? 何が?」
「今日だけは、付き合ってるんだろう、私たちは。なのに、その呼び方はないだろう」
「えーっ」と真宵は目を丸くして首を振る。「でも、もう五年もずっとこうだもん。御剣検事は、御剣検事」
彼はしゃがんで、子どもに接するように、視線を低くしてから言った。「駄目だ。ほら、ちゃんと言ってみろ。『怜侍さん』って」
必死に笑いをこらえながら、真宵は言った。「……れっ、怜侍さん」
真宵の胸に頬を寄せ、抱きしめた。「真宵……………………くん」
「ほらね! 恥ずかしいでしょー?」と彼女ははじけたように笑い出した。
「まったくだな。この問題は、棚上げということにしておこう」
真宵は笑い転げながら御剣の顔を上げさせ、唇をついばんだ。
「うらやましいな。御剣検事とほんとの恋人になれる人が」彼女は言った。「こんな人が、自分のものになってくれるなんてねー」
そう言われて、彼はちょっと困った。「そんなことはない。言っておくが、私はけして君が思っているほどの男ではない」
「質問。どんなふうに思われてると思ってるの?」
「どうせ勝手に、王子様みたいだとでも思ってるのだろう」
「えええっ! なにそれ、しかも、すごい自信まんまんー」
おかしくてたまらないらしい真宵の笑い声に、少し不安になる。
「……じゃあ、実際はどう思っているんだ」
「そういうふうに思ってればいいんじゃないですかー? そのほうが幸せだと思うし」
「うぐっ……」
思わぬ仕返しをされ、言葉をなくす。
「ごめんごめん。でもまあ服装は王子様っぽいと思うよ。少なくとも服装はね」
「そもそも君の話は最初からおかしい」と、御剣は話題を変えようとした。
「私たちは本当の恋人同士だ。うらやましいも何もない」
「そうだけど、ん」舌と唇を使って、反論をふさいだ。やや強引に舌を絡め、いたぶってやると、真宵は苦しげに鼻を鳴らす。
口を離したあとも、ぼんやりとした顔でこちらを見つめている。
「……あたしのもの?」
「ああ」彼はうなずいた。「君も、私のものだ」
「嬉しいな……」
〈真宵くんの恋人になれる男がいたら、私も、羨ましさで……頭のネジの一本や二本は外れるかもしれないな〉
せつなげに吐息をついたが、不思議と、気持ちはおだやかに幸せだった。
「真宵くん。やっぱり、私は君が嫌いだったようだ。私の言う意味はわかるね」
「あ」彼女は目を伏せた。「うん。あの、あたしが、御剣検事にとって、重要だから、でしょ」
「そうだ。君がずっと憎かった。私にとって君は戦うべき敵だった。そして、戦いつかれていた」
「戦い……」
「今日だけは戦わなくてもすむと思うと……それに、こんなにかわいい子が彼女になってくれると思うと、気が楽になった。
君には感謝している。ごっこ遊びにも、効用があるものだな」
背中にまわされた真宵の手から、石鹸が滑りおちた。 
彼がもう一度舌を伸ばすと、真宵も口を開け、そっと舌をその先に触れさせた。
〈最後の最後。今夜ばかりは、沈むかもな……私の最後の砦も〉


ベッドの上で、真宵の髪にドライヤーをあててやっている最中、ふと気がついて、尋ねてみる。
「その、大丈夫なのだろうか。いや、まだお腹も目立たないから失念していたが、つまり、君を抱いてしまっても」
「え? あ……うん」真宵は顔を伏せた。「まだ大丈夫だと思うけど。でも、優しくやってね」
「わかった」
髪を乾かし終えると、すぐに、彼女は胸に飛びこんできた。「ねえねえ」
「何だ」
「もう一回、眼鏡かけてみてよ。なんか、気に入った」
枕によりかかって、サイドテーブルの上の眼鏡をとり、その通りにしてやる。彼女は満足げに笑った。
「うん。やっぱり、御剣検事のお父さんにちょっと似てるよ。あたしは写真でしか知らないけど」
「そうかな」
「……あのさ」
「何だ?」
「生まれる赤ちゃんさぁ……弁護士になったりしてね」
セックスの前にたわいもなくいちゃついて、楽しさと期待と高揚で幸せな心地だったのが、一気に冷え切った。
「やめてくれ。なんだか、すごく、ありえそうで怖い」
「ははは。ごめん。やっぱり、検事のほうになってほしい?」
「なるのは家元だろう、家元!」
「冗談だって」
人の気も知らず、真宵は面白そうに笑う。
アッパーシーツにくるまって、彼を見上げて続ける。「御剣検事は、子どもが欲しいとか思ったことないの?」
「考えたこともなかったな。結婚だって、必要がない限りは考えたくもない問題だ」
「ふうん。ちょっともったいないね。御剣検事の遺伝子を持ってたら、弁護士でも検事でも好きなほうを選べるのにねー」
「……真宵くん、遺伝子に関する君の知識は、少々偏りがあるように思える。だいいち」
御剣はふーっとため息をついた。「子どもの将来を親が決めると、子どもは苦労する。身近でそのいい例を見てるんだ」
「だあれ?」
「狩魔冥」
「ああ……」と真宵は納得した。「ん。ごめん。変な話して」
「かまわない」彼は笑いかけた。「まあ、彼女の場合は、結果的に天職だったわけだ」
「ホントにそうだよねぇ」
「前に何かの機会で食事をしたことがあるんだ。話の流れで、彼女ともそんな話題になったことがあった。
もし子どもを持っても、検事になるよう強制することはけしてしない、とメイは言っていた」
「そりゃ、そうだろうね」
「しかし……」御剣は続けた。「子どもが自発的に母に憧れ、目標としてほしいから、そのために検事職を全うしたい、と」
「うわ。かっこいいなー。なんかすっごい、冥さんらしい」
「ああ。まったくだ」
自分のことのように自慢げに鼻の穴を膨らませる御剣に、真宵はふと起き上がって、その肩に頭を寄せる。
「ねえねえ。御剣検事ってさー、もしかして、冥さんのこと、好きなの?」
いきなりそんなことを訊くか……とやや呆れながら、しかし、すぐに答えた。「違うよ」
「あれ? そうなの?」
「私は、メイのことは、この世に残されたたった一人の私の家族だと思っている。
普段は離れて暮らしているし、向こうはどう思っているのだか、知れたものではないがね」
「あたしとなるほどくんみたいな関係かな」
「そうかもな。あれも昔からずっと、男に対してはなかなか人見知りするから、私より気心の知れた男友だちはいないと思う」
「ああ、そっか……あれって人見知りだったんだ……」
〈……成歩堂か〉
その名前をきいたせいで、嫌なことを思い出してしまった。〈まったく。あいつと、一緒にするな。あんなやつと〉
「彼女は魅力的な女性だが、知っての通りに、相当はねっ返りだ。ボヤボヤしてると、君みたいにすっかり結婚のチャンスを逃すかもな」
「ううーん、冥さんって、美人だけど、照れ屋さんみたいだもんね。確かにちょっと心配かもね」
「私は成歩堂の二の舞にはなりたくないと思っている」
真宵は彼の肩から顔を離し、彼の顔を見据えた。「それって……あの。やっぱり」
「そうだ」と御剣はうなずいた。
「まあ、彼女にも相手を選ぶ権利はある。隠し子のいる男だなんて最初から問題外かもしれない。
それでも……もし、メイの周りに、彼女の美点を見る目がない男しかいなかったとしたら、きっと私は……」
唐突に胸にしがみつかれて、御剣は途中で口をとめた。
「ごめん」と、真宵は謝った。その肩が震え出し、洟をすする音が聞こえてくる。
御剣は失敗に気がつき、すぐに、強く彼女を抱き返した。〈……つい頭に血が昇っていた。私らしくもない〉
「すまない。今日は恋人どうしだったな」真宵の背中をさすってあげる。彼女はだんだん大きく泣きじゃくりだす。
「ごめんね」嗚咽をあげながら彼女はもう一度謝った。
「いいんだ。こんな夜にするべき話ではなかった。悪かった」
彼のほうがたまらなく心苦しくなってくるほど、真宵は泣き続けた。
御剣は黙って胸を貸してやった。そろそろ気が済んだかのように彼女が静かになったころ、顔をあげ、無言で唇を求めてきた。
真宵の舌が熱い。甘く噛んで、戯れた。
「あたしね……」唇を離して真宵は言った。まだ、顔から赤みがとれない。
「何だろうか」
「御剣検事のこと、好き」
御剣は息を飲んだ。
「……昔からずっと、今まで。今でも好き」
それを聞いて、自分はいったい、どんな顔をすればいいというのだろう。
「ずるいな」彼は表情を変えずに言った。
「そうかな……」
「ああ。今になって、そんなことを言い出すのは、ずるい」
「知ってたくせに、ずっと知らないふりしてた御剣検事のほうが、ずるいと思うよ」
御剣は眉を寄せてかすかに苦笑した。「確かに、そうかもしれない」
せつなそうに顔を歪めて、再び真宵は唇を痛いほど強く吸ってきた。
激しく舌を絡め合いながらも、彼女はシーツの中をまさぐり、まだ柔らかい御剣のものの上に手を置く。
彼女のてのひらの中でそれは急速に硬さを増していく。真宵はシーツをめくり上げ、股間に顔をうずめた。
愛しそうに彼自身に頬を擦りよせる。いつになく積極的な真宵のその様子に、ますます熱く屹立するのを感じる。
〈どうやら、吹っ切れたのは、私だけではないらしい〉
真宵の後ろ頭を撫でた。彼女は鈴口を吸う。さっきまでしゃくり上げていたからか、その口内はかなり熱い。
小さな口の中はあっというまにいっぱいに埋まり、苦しそうなほどだが、真宵は懸命に尽くそうとする。
「ん……く」
その舌づかいの全ては御剣が教え込んだものだ。彼から教えられたことをありったけ使って、真宵は彼のものを愛している。
「……上手になったな」御剣は彼女を促すように言った。
赤く上気した顔で見上げてくる。濡れた瞳が、満足そうに笑った。
性感の高まりにつれて、されるがままが物足りなくなって、真宵の体に手を伸ばした。
こちらだって、相手の体を思うぞんぶん愛撫したいことには変わりはないのだ。
「あのね……」真宵はしゃぶるのを止め、唇だけを先端につけて喋った。
「うん」
「きょうは、顔か口に、出してほしい……」
今まで、一滴たりとも精液を無駄にしたことはない。どれほど堪えがたく刺激されても、膣外射精だけは自らに禁じていた。
種付けをするためにセックスしているという大義名分とそれにまつわる信頼関係が、彼が真宵の蜜泉の外で気をやった瞬間に、跡形もなく消えてなくなるような気がしてならなかったから。
だから、時には器具の助けも借りて、相当過激なこともしたが、それだけは一度もしたことがない。
これから、本来は精を出して然るべき場所ではない場所に出すのだということを考えると、背徳感が急激に芽吹く。陰茎の痺れる快感が体全体に広がるような気がした。
「わかった」御剣が了解すると、真宵は嬉しそうに、裏筋に吸いついた。
真宵のかわいらしい顔を、今から自分の精液で汚そうとしている。まるで、人格そのものを汚し、蹂躙するような心地さえ覚える。
そんなことよりももっと手ひどく辱めを与えたことがいくらでもあるというのに、おかしなものだ。
御剣はたまらず熱く吐息を洩らした。既に真宵はくわえながらも茎を握りしめて上下にしごき始めていたが、その上から手を添えた。
彼が真宵の手ごと自分自身を握って、手助けするように動かす。
真宵は舌と唇を使うことに集中できるようになり、首を唇で優しく絞め回しながら、溢れる先走りを絶えず洗い流していく。
「うっ……あっ」
もう一方の手で真宵の後頭部を押さえ、逃げられないようにする。支配欲を満たされたことが、手綱を放させた。
「口を、少し離してくれ……真宵くん」彼女はその通りにし、伸ばした舌だけで先端をもてあそんだ。
その光景がたまらなかった。「ああ、……あぁっ」
「やっ」
白濁液が勢いよく飛び、真宵は驚いてぎゅっと目を閉じた。眉間から頬にかけて、粘度のある不透明の液で濡れる。
断続的に吐き出されるそのどろどろが滴り落ちる前に、彼女は手でそれをすくった。
射精のカタルシスで頭がぼんやりし、汗と荒い息の温度で眼鏡がかすかに曇る中、顔を汚された真宵の姿を眺める。
「あったかい……それに、すごい匂い」
自分の中から漏れた残滓としてではなく、それを彼女がまじまじと観察するのは初めてだ。
征服感と罪悪感が彼を酔わせていた。拭いてやろうとティッシュを引き寄せる。しかし、ふと魔がさして、頬に垂れた精液を親指ですくいとって、そのまま赤い唇の中に無理矢理割り入れてやる。
「むく……っ、んんっ、けほっ」真宵はすぐにむせてしまった。
「あ……す、すまない」我に帰って、背中を叩いてやり、顔もティッシュで拭ってあげた。
咳をやっと止めた真宵は、しかし満足げに微笑みながらおもてを上げた。
「嬉しいなぁ……。ずっと、これ、やりたかったんだ」
「そうならそうと言えばよかったじゃないか」
「そんなこと、言えないよ」
おそらく、真宵も、彼と同じようなことを恐れていたのだろう。「……そうか」
「ちょっと顔洗ってくる。もう、かぴかぴってなってきちゃった」
真宵の背中が浴室に消えたあと、御剣はしばらく目を閉じて倦怠感に浸った。
起き上がって、冷蔵庫の中を探っていると、帰ってきた真宵がベッドに倒れ込む音が聞こえた。
「おつかれさま」と声をかけてから、滋養強壮剤の蓋を開けて、一気に飲み干した。
「御剣検事もおつかれさま。……なんでそんなの飲んでるの?」
彼は答えないままベッドに上がり、真宵を背中から抱きしめ、折った膝を挿しいれて真宵の股を割らせた。
「わっ。ちょっと待って」
「どうして」
「だって、御剣検事、もうすっきりしちゃったじゃない」
「あのなぁ……」御剣は真宵の髪をかきあげ、彼のお気に入りの場所である生えぎわに唇をつけた。
「まだ君を満足させてないだろう。私が一発抜いたぐらいでへばるとでも思ってるのか。今まで私と過ごして何を見てきたんだ」
「でっ、でも、でも、あれは」真宵は口ごもった。「あたしを妊娠させるために頑張らなきゃいけないから……」
「教え忘れていたことがまだあったようだね。義務感や努力だけでは、男は勃起しない」
「あっ……」御剣は自分の腿をゆっくり揺すって、密着した真宵の柔らかいひだを押し潰して刺激した。
「気持ちよくさせてほしいくせに」
いつものようにもっと抵抗するふりをするかと思ったら、顔を伏せただけで、反論してこようともしない。
そのうえ、もどかしそうに自分から腰をくねらせて、陰核と御剣の腿とをこすりあわせてくる。
その素直さを、可愛いと思った。
「今日は、乱れてもいいんだぞ」
御剣の頭が真宵の二の腕の下をくぐり、その口で胸のふくらみに吸いついた。
「でも……」
「そんなことで、嫌いになりはしない」
「ほんと?」
「本当だとも」
乳輪に舌が触れ、真宵の背筋が伸びた。「よかった……あたし……やっぱり御剣検事のこと、大好き」
「光栄な話だ。君みたいな子にそんなことを言ってもらえるだなんて」
「そうかなぁ……」
「ああ。嬉しいよ」
真宵は幸せな夢でも見ているかのように満面に笑みを浮かべたが、目尻に涙が光っている。
「えへへ。うれしがられちゃったよ……」
注意深く舌の先で乳輪だけをなぞり続けると、焦れた真宵が体をずらし、しかしそれでも御剣はその愛撫を登頂には与えてやらない。
「やだぁ……っ」
両手が彼の頬を包み、誘導しようとする。彼は頑として抵抗しつづけた。
「欲しい……」意地悪に音を上げておねだりするのも、今日は早い。「……てっぺんに」
「まだまだだ」
太ももの内側をまさぐると、真宵は一度、びくりと体を震わせた。
秘唇の膨らみと腿のあいだの窪みに指を添わせてくすぐるだけで、それ以上、進めようともしない。
「だめ……、はやく」真宵は苦しげに眉を寄せ、涙声で懇願する。
これはこれで、なかなかいじめがいがあるな、と御剣は思った。
指での刺激をおあずけにしたままに、そこを覗き見た。「いい反応だ」
ごく軽く割れ目に舌の先を落とし、上下に優しくなぞる。いつまでたっても本当に真宵が欲しい箇所には舌を進めぬままでいる。
「ひどいよ……!」ひだがふんわり開き、熟れた果実のように紅く色づいている。そこが物欲しげに蜜を垂れ流す様子に見惚れている御剣には、非難の声は気にとめようがない。
「いや、もう……こんなの」
真宵は文字通りに足掻き、やり場のないもどかしさに体を震わせた。「……なんで、そんなに、するの……ひどいよ……」
「こんなに嬉しそうにしてるじゃないか」
彼女がやがて目を覆って嗚咽を上げはじめ、さすがに焦らしすぎたかと思って、顔を上げた。
「真宵くん。悪かった。ちゃんと、いいようにしてあげるから」
「……おねがい。きて」手をよけて、真宵は真っ赤な瞳で許しを乞うように御剣を見上げた。
「私の言うことをきけるかな」
彼女はこっくりとうなずいた。
「足を大きく開いて、腰を浮かせて突き出しなさい。そうしたら、望むものをあげよう」
しばらくぼんやりと命令の意味を考えて、それから、せつなげに首を振る。
「で、できないよ。……そんな格好」
「それでも私は構わないが……欲しいんだろう?」御剣は薄く笑んだ。「正直になったほうがいい」
いつもなら、このあとたっぷりためらってから、やっと言うことをきくところだ。
今日の真宵は自分の欲望に忠実だった。恥じらいをなくしたわけではない。渇いた者が水を必要とするように、いま、真宵にはただただ御剣が必要だった。
「仰向けで、するの」
「そうだな。顔が見えるほうがいい」
彼女が膝を折り、ゆっくりと腰を浮かすと、御剣は太ももを掴んで限界まで広げさせた。
「んっ」と真宵は恥ずかしそうに一瞬顔をそらしたが、抗議をしようとはしない。
御剣の次の動作を待ちきれないように、熱く見つめてくる。
いつも童女のように気まぐれで、めまぐるしく表情が変わる真宵が、これほど必死になって一途に視線を送る相手はこの自分なのだ。そう考えるだけで、腹の下が熱くたぎった。
彼は手を放し、その景色に見入った。御剣の欲情を掻きたてるために、普通なら絶対にしない格好をとっている真宵を、目に焼きつけようとした。
「指で、ひだを広げてごらん」
「え……」真宵は目を見開いた。
よく見ようと御剣がそこに顔を近づけるたび、貝の奥がひくり、ひくりと収縮する。
「そ、そうすれば……してくれる?」
「ああ」
右手を伸ばして、真宵はおずおずと股のくちびるを割った。
御剣がむきだしのクリトリスに口を近づけ、だがけして触れない距離で、
「よくできました」と言った。息が吹きかかるたびに、真宵は、悲鳴のような声をあげて悶えた。
「ちゃんとお願いするんだ。『下さい』って」
「あっ……ああ、ああぁ」甘美だが微弱すぎる刺激に、彼女はもう耐えられなかった。「くっ、ください……あ、やぁぁっ……!」
舌が真宵の陰核をはじくと、真宵の腰が大きく跳ねた。
「はっ、あ、あぁぁっ!!」
御剣が舌を二三度上下させただけで、真宵は、いつも彼女がその場所で絶頂に昇りつめるときのように痙攣を繰り返した。
体を支えきれなくなった膝が崩れて尻をつき、舌が離れるが、まだぴくぴくが収まらない。
「なんだ。もう……」
のけぞって震える真宵が愛しくて抱きしめると、また、幾度かの大きな痙攣が彼女を襲った。
直後にひどく敏感になるのをわかっていて、首筋に唇の吸いあとをつける。乱れきった吐息にまじった悲鳴が尾を引いて、いつまでも終わらない。
「もういってしまったのか? つまらない」
「ぃ、みつるぎけんじ……」 
抱き返してきた真宵の爪が肩に食い込む。「あの……欲しいの。入れて……ほしい」
「早すぎる」彼はささやき返した。「この調子だったら、あともう三四回は、いってからじゃないと」
「やだぁ……やだよ。早く……」
彼女の手が御剣のものへ伸びてきて、硬さを確かめるように、ぎゅっと握りしめた。
「泣くほど、入れてほしいのか」
御剣はてのひらで真宵の頬を濡らす涙を拭った。
こんな顔で催促されたら、どう料理してくれようかとますます意地悪をしてやりたくなるに決まっている。
だが、今日に限っては、彼は迷った。
普段だったら気が済むまで好きなようにいたぶるところだが、自分のペースで引きずり回していいものかどうか。
〈今日こそは、オーガズムを味わわせてあげたい〉
プレッシャーを与えぬためけして口には出さなかったが、真宵が結局まだ女の歓びを知らないままでいる心残りを今夜こそ晴らすつもりでいた。
〈楽しみはできるだけ先に引き延ばしたいものだが、仕方あるまい〉
真宵の尻を掴んで高く上げさせる。後転してしまいそうになると思ったのか、彼女は慌てた顔でシーツをぎゅっと握ったが、御剣が腰をしっかり抱えているのがわかると、やがて力を抜いた。
目の前に飛び込むのは、色濃く濡れそぼった肉の割れ目。先ほどまではぴたりと閉じた一本筋だったそこが、ゆるゆると扉を開け、おもらしでもしたかのようにぐっしょりと湿り、肉棒を誘っている。
駄々っ子のような幼い泣き顔と、それを並べて眺める。
「絶景だな」と御剣は感じたままを言った。
真宵はもはや、そんな言葉にすら反応しない。ただ御剣が自分を刺し貫くことだけを待ちわびて、呼吸困難に陥りそうなほど肩と胸を上下させ、息を引いて、彼を見上げている。もう、耳にも入っていないのかもしれない。
「エサを目の前にして、おあずけされてる犬みたいな顔をしている」
彼は笑った。「私としてはまだまだずっと楽しみたいところなんだ。挿入してほしいなら、さっきのように、お願いしてみなさい」
「下さい……」声が震え、語尾が消える。「おねがい……入れてください……」
「どこにだ。ここか」
左手の親指でお尻の肉の中に割り入り、奥の蕾に軽く触れる。
「違うっ、だめ……」真宵はいやいやをした。
「じゃあ、どこに欲しいのか、ちゃんと言うんだ」
「ぃ……」また、彼女の目が涙をたたえる。「いえない。そ、そんなこと……」
「そういえば、こちらのほうは、まだ処女だったな」
「……っ!!」
お尻を犯せば、真宵は、初体験のときと同じかそれ以上に苦しみ、泣き叫ぶだろう。
想像すると、たちまち熱く高揚するのを感じる。どくどくと男根が脈打った。
「やっ、や、やだからね。……絶対、やだ」
「決めた。君が欲しい場所をしっかり口に出して言えないうちは、私が自分の好きなところにねじ込んでおこう」
驚愕に目を見開く真宵の顔が、たまらなく愛しい。
「うそだ……無理だよ……」
「そう無理でもあるまい。アナルストッパーを入れて遊んだこともあるじゃないか」
「だめっ、だめぇ……!」
彼女は激しくかぶりを振った。
「やだ、そっちは、やだ……そっちじゃなくて……あ、あ、あたし。あたしの……あたしの……」
真宵の足をつかせ、浮いたままの腰を抱えた。
怒張したものの先端を真宵の濡れた果にあてがうも、ごくごく優しい。
物足りずに腰を埋めようとしてきた彼女の太ももを押さえて、それを制す。
「どこだ。どこに欲しい」
「あたしの……」真宵は呻くように言った。
乱れた息でしゃべる言葉はかすれてよく聞き取れないが、その時、彼女のような可憐な少女が絶対に発音することのないだろう単語のかたちに口が動くのを確かに見た。「……、に……、くださぃっ……」
ゆっくりとうずめていこうと思っていたのに、予想以上にその蕩けた花びらは御剣をあつく歓迎し、受け入れていく。
ピストン運動で蜜をからめて慣らす必要もなく、ずぷり、と一気に亀頭が呑まれた。
真宵が、震えながらも深く息を吐く。喉まで肌が火照っている。
わざと、ぷちゅぷちゅと水音がたつように、浅くかき回す。背筋を痛いほどの快感が駆け抜けた。
〈熱い。今まで一番……〉
「ああ」御剣は早くも自分が情けない呻き声を洩らしてしまったのに気づいた。
〈……やっぱり、真宵くんのここは……良すぎる。あまりに良すぎて……いつも、いまいち辛抱がきかないのが難点だが〉
真宵の喘ぎは御剣が今まで知っていたそれとは違っていた。
回数を重ねて、彼女も挿入でまったく感じないということはなくなった。が、今日のは、あきらかに異質だった。
「は……あ、やぁ。あ、あ……っ!」
その声は、鼻にかかって甘ったるい。身も心も、安心して御剣に預けきった、完全な屈伏状態。
いやでも御剣に予感させた。今夜こそ、一緒に……同時に、溶け合えるかもしれないということを。
そう思うとまた、下から津波が突き上げてきた。毛穴が開いて汗がぷつぷつ噴き出る。
〈さっき、一度射精したばかりなのに〉
溺れぬようにと、彼は用心を強めた。
最初は小さく、やがて、大きく揺り動かしていく。深く埋まっていくたび、真宵は喘ぎを大きく、速くしていった。
「はぁっ……、いぃ」彼女が陶然と呟く。
「上のほうに……あたるのが……、気持ちいい」
「上? 上って、体の表か」
「うん……」
その方向へ強めに擦り上げてやると、真宵は声にならない声をあげ、体をよじらせる。
「み……あぁっ、御剣検事……やぁ……っ、あ、あ、あたし、自分で、動きたい……」
「下になろうか?」
こくりと真宵がうなずいた。
横たわった御剣の腰の上に、彼女はまたがった。御剣がほんの少しだけ上半身を起こすと、真宵が彼のものを握って、今まさに花弁の中に挿していくところを眺めることができる。
ごく薄い茂みのむこうのひだが、太い男根によって限界いっぱいまで広げられ、大きく変形させられている。
これが、自分と真宵が結合している景色なのだと思うと、今さらながらたまらなく興奮してしまう。
先が埋まると、彼女は男根から手を離し、腰を小さく揺らしながら、ゆっくり呑みこんでいく。
真宵の背筋がぴんと張った。息づかいを荒くさせながら、長い髪をかきあげる。
御剣はあらためて彼女のプロポーションを眺め見て、嘆息を洩らした。
薄すぎるウエストの上においた両手をすべらせて、小さめのやわらかい胸を握り、揉みしだく。
「体のラインに丸みがついたな」
「ほんと……?」
「ああ。すごく色っぽい。もう、すっかり大人の女だ」
真宵は一瞬だけ、嬉しそうに照れた笑顔を浮かべた。
〈この笑顔も〉と御剣は思う。〈この体も……その内面も。そして、ここも〉
腰を突き出して下から律動を始めると、真宵の顔が歪む。陰茎は、あっという間に根元まで埋もれていった。
〈何もかも、オーダーメイドでぴったりにあつらえたかのように、私好みだ〉 
突き上げられることに翻弄されるままだった真宵が、やがて、その動きにあわせて、自分も腰を動かしはじめた。
「自分が気持ちいいように、やってごらん」と彼は声をかけた。
懸命に快感をむさぼろうとする真宵が可愛らしかった。
「んっ……ああ……はぁんっ……!」
一際大きな声をあげてしまって、ハッとした真宵が、口を手でふさいで耐える。
腕を掴んで、それを退けさせた。
「我慢を、するな」
「でも……ぉっ」真宵が頭を振ると、頬を涙が落ちた。「おかしくなっちゃう……」
「おかしくなれ」
全ての理性を真宵から引き剥がしてやりたくてたまらない。誰も知らない彼女の顔を知りたい。
なりふり構わず泣き叫び、はしたなく乱れる真宵の姿こそが見たいのだ。
律動のピッチを上げる。
「や、んああぁぁっ!」
快感で腰に力が入らなくなった彼女は、御剣の胸に手をついた。
御剣は体を起こして彼女を抱きかかえた。痛いくらいに強く首にしがみついてくる。
互いに汗をかいていたためにぬるぬると肌がすべった。それが、むしろ心地いい。
「気持ちいい……」摩擦に耐えかねて、そう洩らす。
「あ……はぁ……っ、あたしも……」見上げてくる真宵の瞳が、どろどろに蕩けている。
「あたしも……もうすこし……もうすこしで……!」
もう少し、か。
激情は既に危なっかしく熱く込み上げてきている。
真宵が絶頂に達するまでに根負けしてしまわないか心配だったが、彼女のためを思って忍耐に徹するしかない。
「焦らなくていい。……ゆっくりのぼりつめなさい」
絡みあう舌が、風邪を引いているときのように熱い。
「んーん……」と真宵は首をちいさく振った。「も、もう……あっ、あ……んっ……」
腰を振ったまま彼女の体を勢いよく押し倒すと、眼鏡が真宵の顔の横に落ちたが、かまわなかった。
大きく突き出すたびに真宵の声は激しくなり、ほとんど助けを求めているかのようになる。
「あ、あああっ……御剣検事っ……!」彼女は心底せつなそうに喘いだ。
「……好き……やぁっ……大好き、今でも……すごく……あいしてる……っ、あああ……ぃやぁぁ……」
「ああ、知ってるよ……真宵くん」
「いきたいの……」
頂上が、すぐそこに迫っているのだろう。それは御剣も同じだった。
「大丈夫だ。いかせてやる」
目を閉じてただ体の中心の感覚に集中すると、しだいに気が遠くなっていく心地すらした。
激しい息づかいが絶えず聞こえるが、もう、どれが真宵のものなのか自分のものなのかもわからない。
欲望を抑えつけて、御剣の喉が低い呻きを垂れ流す。
「い、いっちゃぅ……はぁっ、あっ、あっ、あぁ……あああぁぁっ!!」
「ああ……真宵くんっ……真宵くん……!」 
覆いかぶさって抱きしめた瞬間、溶解した自意識が快楽の洪水に跡形もなく流された。
視界は白く塗りつぶされ、音は急にひどく遠くなる。夢中で自分がなにか口走っている内容すら聞くことができない。
ただペニスだけを除いて皮膚感覚がふっと掻き消え、肌が溶け落ちて真宵のそれと同化したように感じる。
全ての五感を削ぎ落とされて研ぎ澄まされた下半身の快感が、ついに彼の鉄の自制心を打ち砕いた。
堰を切って溢れた思いのたけを真宵の一番奥に与え続けるのを感じる。
恍惚とその余韻が御剣を支配し、震わせた。
内側から叩きつける激しい動悸の苦しさに身を任せ、それがだんだんと穏やかになっていく。
「……あ……」
柔らかく元通りになった彼自身が、真宵のいまだ収縮する膣の圧力に負けて押し出される。
そのとき御剣は、体の半分をもぎとられたような気がした。
それが錯覚にすぎないのだとわかったとき、急に意識が現実に帰った。
真宵のすぐ横に体を倒す。肩を息をしつづけるあいだ、色々な事実が御剣のもとへ帰ってきた。
〈今、私は日本にいる。ここはホテルの部屋で、時刻は深夜〉
たしかめるように、心の中でとなえる。
〈私の名前は御剣怜侍。この子の名前は綾里真宵。二人は、それぞれ完全に独立した、別個の人間〉
そう思い出すと、彼は絶頂のタイミングが真宵のそれと合っていたかだけが心配になってくる。
真宵の瞼は閉じられ、目尻からはまだ涙が流れつづけている。
ピンク色に火照った胸が上下している。御剣は彼女の肩を抱こうとした。
「……真宵くん……君は、ちゃんと……」
肌に触れた瞬間、真宵はぶるんと震えた。半開きになった口唇から、一拍遅れて、かぼそい喘ぎ声が洩れた。
違う、と彼は勘づく。彼女は、今もエクスタシーのさなかにいるのだ、と気がついた。
御剣はぼんやりとしながらも、耳たぶをやんわり食んだり親指で唇を割ったりして、真宵をもてあそび、腕の中で彼女が痙攣するのを楽しんだ。
「いつまで、泣いてるんだ」
「だって……」
胸にすがる真宵の頭を撫でる。
「御剣検事のこと、大好きなんだもん」
「そうか」
「気持ちよすぎて……死んじゃうかと思った」
「それはよかった」と御剣は笑いを浮かべた。「私も死んできたよ」
「ほんと? 気持ちよかった?」
「ああ」
「そうなんだ……へへ。嬉しい」
目を閉じた真宵が早くも寝息をたてはじめるのを見て、寂しく思いながらも、好きなようにさせた。
痛む腰をかばいながらも起き上がり、真宵の股を汚している残滓を拭き取ったあと、椅子にかけてあったバスタオルを体の上に掛けてあげた。
汗だくの体をシャワーで洗っていると、ようやく頭がはっきりとしてきた。
一瞬だけ味わった、宗教的浄化体験にも似た恍惚を思い出す。
あっという間に到達し、あっという間に過ぎ去っていった。
胸が寂寥に疼く。
一時の快楽など終わってしまえばそれきりだ。でも、いい思い出にはなってくれるだろう。
寝室に戻ると、その気配で真宵を起こしてしまった。
「ごめん。あたし、寝てた……」
「疲れたろう。寝ていればいい」椅子に座って、煙草をくわえる。
「御剣検事は?」
「私は……そうだな。なぜか、まだ、眠くはない」
「じゃあ、あたしも起きてるー」
「無理をすることはないさ」
「だって、もったいないもん。今日はせっかく御剣検事がカレシなんだし」
「確かにもったいないかもしれないな」
「でしょー」真宵は笑いながら、もぞもぞとタオルで足先を拭いた。
「ああ、すっごい、喉かわいた……バッグの中にお茶入ってるから、ちょっととって」
言う通りに、テーブルの上の真宵のバッグを探って、ペットボトルを投げて渡してやる。
「ありがと。……ぷはー。じゃ、あたしも汗流してくる」
「ちょっと待った」と彼は制した。「もう一本、ボトルが入ってる」
「え? ……あ」
しまった、という顔をして、真宵の動きが止まる。
「なんだ……。やっぱり、最初から抱いてもらうつもりで来たのか」
「違う!」と真宵は首を振った。「それはあくまで、念のため。万が一の備え!」
バッグから取り出したローションと真宵とを見比べて、薄く笑む。
「で、万が一の時が来るようにと期待していたわけか」
「いやいやいや、そうじゃないそうじゃない。だって、どうなるかもわかんなかったし。一寸先は闇、っていうし」
「可愛い」と御剣は言った。
「え。なんで?」
「いや、こんなものをバッグに詰めて、期待しながらいそいそ準備してる君の姿を想像すると、そう思った」
「だからっ、別に期待は……」
ローションを持ったままベッドに乗りかかってきた御剣の顔を見て、真宵は口をつぐんだ。
彼が自分のバスローブの前をはだけると、彼女はあわてて、
「じゃ、あたし、お風呂入ってくる」とベッドから降りかけたが、腕をぎゅっと掴まれた。
「行くな。万が一の事態が発生した」
「えええぇぇ~~っ……」真宵は呆れはてて肩を落とした。「いくらなんでも、それはないよ! 無理、無理!」
「やってみなきゃわからない」
御剣は彼女を自分の下に難なく組み敷いた。
「ダメだよ、あたしはもう、そのぉー。体力に限界が」
「関係ないさ。君のほうは四つんばいになって私を受け入れてるだけでいいんだから」
「いや、そうでもないよ! ぜったいそうでもないから! ほら、眼鏡!」
真宵が自分の顔の横に落ちてあった眼鏡を御剣に渡すと、彼は落ち着き払って受け取り装着したあと、
「眼鏡は眼鏡、セックスはセックス」と言った。
「え? 何? ……って、こ、これは……」
太ももに押しつけられたものの感触で、真宵の顔が青ざめた。「み、御剣検事、ヘンだよ……絶対」
「だったら、なんだ?」
「だから、なんで、こんなになってるの……」
「つい、興奮してしまって」御剣は笑んだ。「また、君の初めてをいただくと思うとね」
「え、え……ああーっ!」
体を引っくり返されてお尻を握りしめられると、ようやく彼の目当てがわかったのか、じたばたと暴れだした。
「ぜぜぜ絶対だめぇぇぇっ!」
「そう暴れるな。もちろん急には入れない。ちゃんと指で慣らしてからにする」
「それでもやだ! そういう問題じゃないよーっ!」
「わかったわかった。じゃあ、最初は舌を入れてあげるから」
「全然嬉しくない!!」
二人はしばらくプロレスの技でもかけあっているかのように、ベッドの上で猛烈に戦った。
「どうして? 私は嬉しかったぞ。私にそうしてくれたときのことを忘れたのか。君の顔の上に腰を下ろしたら、君が」
「やだやだやだやだやだそそそんなこと忘れた忘れた、完璧に忘れましたぁーっ!」
「君だってずいぶん嬉しそうにしてたじゃないか。あのあと、ずっと興奮しておねだりばかりしてて大変だったな。
大好きな御剣検事の、そんな場所にキスできたのが嬉しかったんだろう?
だったら、同じことを自分がされたらもっと嬉しいはずだ。君の大好きな男に、君の……」
「御剣検事」真宵は下から涙目で睨んだ。「そういう言い方は、ひきょうだと思うよ」
「そうかもしれない」と彼はあっさり引き下がった。「すまない。少しずるかった」
「別に、いいけど……」
「じゃあ、今度はまともに頼もう」真宵の耳に唇をつける。
「私の中の男の部分が、君を欲しいと言ってる。どうにも、我慢できそうにないんだ。
君の全ての処女を私に捧げてほしい。手に入れるまで、帰りたくない」
「……なんか、もっとずるいよ」
「そうかな。だったら、駄目かね」
「う……」
いつもだったら、真宵が屈服して承諾の言葉を言うまで粘るところだが、もう、待ってはいられなかった。
ひどく抵抗しないのを了解の証とみて、真宵の腰を高く掲げる。
「あ……やだよぉ」
「肩を低くして、お尻を突き出してくれ」
「あ、ああ……待って、ちょっと……ちょっとぉ!」
お尻の肉を広げられてむきだしになったそこに唇を押し当てると、真宵の体は飛び跳ね、逃げ出そうとしたが、腰を掴んで阻止した。 
そのとき彼は意識と体とが乖離するのを感じた。少し離れたところから自分を眺めている、もう一人の自分になっていた。
自分がその背徳的行為に没頭してやまない姿を目撃したとき、後頭部を鈍器で殴られる衝撃にすら似た快感が御剣を支配し、いつまでも終わらなかった。
我知らず足腰が震えるのもかまわず、夢中で舌を伸ばし、動かしつづけた。
「もう……いや……っ!」
ついに真宵が彼の腕をふりほどいて倒れ込んだ。
体を震わせてこちらを恨めしそうに睨みつけてくる。
「悪かった」と彼は先に謝った。
「悪かったじゃないよ! 謝るくらいなら、最初からしないでよ!」
「すまん。だが、自分でもどうしたのかと思うほど、欲しくて、欲しくて」
その言葉に嘘はない。しかし、驚くほど落ち着いて狡猾に計算している自分がいた。
どんな表情をして、どんな声色を使って、どんなことを喋れば、真宵がその手に落ちるのかを一瞬で考えつくす自分が。
「……そんな顔しないで」案の定、真宵は戸惑ったように視線をそらす。
「もう、恋人ごっこは、終わりにしてよ……」
「恋人ごっこなんかじゃない」
御剣は彼女が望むような答えを返した。
「これは、正直で純粋な欲望だ。君の体に刻みたい。君を私で埋め尽くしたい。その体が、私をそんな気持ちにさせるんだ。
……君のほうは、いいのか、このままで? せずに帰っていいのか?」
「み。御剣検事……。あたし」
答えを待つまでもなく、その目はもう、御剣に魅入られきっている。
たとえそこに情がなくとも、愛している男にこれほど激しく求められたら、だれだって嬉しいはずだ。
「あたし……あたしも……」
お腹の下に枕を重ねて敷いてやり、指先にローションをたっぷり垂らして、真宵のお尻の穴に塗りこめる。
〈駄目押しに、甘い愛の言葉でも囁いていれば、完璧だったな〉
あるいは、そこまで悪人に徹することができていれば、今までずっと、楽であったに違いない。
第一関節まで呑みこんだだけでも、真宵はもう苦しげに声をあげて呻きはじめた。
「まだ指先が入っただけだぞ。そんなことで大丈夫か」
前後にゆっくり進退を繰り返すのに合わせて、彼女はせわしなく息を引いたり吐いたりした。
「これから、もっと、太くて長いものを受け入れるというのに……」
自分の言葉に、自分が煽られるのを感じた。
もう少し広げて慣らす予定だったが我慢ならず、怒張しきったものの先を彼女のそこに押しつけた。
「待って。早いよ」
「すまない。もう辛抱できないようだ」
わずかに腰を進めて、ごく優しくそこを押し開いたつもりだった。
しかし真宵は体を激しくよじらせ、火のついたように泣き叫びだす。
「くっ……はぁあああーっ!! ……だめ、気持ち悪い……っ!!」
挿入の前から、既に限界いっぱいまで硬くいきり立っているのだから、当然の反応かもしれない。
だがそれも、初めて経験するアナルセックスの味に、酔いしれるどころか意識が混濁してくる境地にさえ達していて、気にかける余裕もなかった。
「腰が逃げている。ちゃんと突き出してくれ」
「でもっ、でもぉ!」
「大丈夫だ。それほど深くは入れない……怖がらなくていい」
まだ鈴口も完全に入らぬうちに、凄まじいまでの快楽が全身を包んでいた。
痛いくらいの強烈な締めつけに加え、真宵が後ろの初めてをも自分に許してくれた事実が、彼を快感の渦の中に叩き落とす。
「真宵くん……、ああ……凄い。とても」
「あああっ! 待って、もうダメっ! 動かさないで、もう、嫌だよ!」
「すまない、真宵くんっ……すまない。もう少しだけ……ああっ」
脳味噌を掻き回されるような、圧倒的な快感だけがそこにあった。
真宵の悲鳴と抵抗が、満たされたはずの征服欲を更に増幅しつづけ、止まることなど、もはやできない。
「いやぁぁ……く、あっ、はぁっ、ああ、ああぁっ」
浮き沈みする真宵の肩甲骨だけをぼんやり眺める。
彼女がいま苦痛に耐えているのは、生殖のためではない。ただ、自分のためであるだけなのだ。
「嬉しいよ……真宵くん。真宵くん……っ!」
御剣は陶然と腰を使い続けた。腹の底からこみ上げる幸せを感じた。
〈もう、死んでもいい〉と思うくらいの幸せを。


〈あのとき私は確かに強く思った。もう死んでもいいと〉
しがみついて離れない真宵の頭を、ずっと撫でていた。
ハードなことをしたあとはそのぶん好きなだけ甘やかしてやるのが、二人の暗黙のルールだった。
いつも子どもに返ったように真宵は甘えたものだが、しかし今回は今までで一番それは激しかった。
〈死んでもいい、か。そんなことを思ったのは、たぶん初めてだ〉
電気を消して暗くすると彼女は寝息をたてはじめたが、それでも、御剣が頭を撫でるのをやめたり、煙草を吸いたくてベッドから起きようとすると、きまって、小さく「だめ」と呟き、彼を自由にはさせずにいた。
すっかり疲れてはいるものの、そんな真宵を可愛く思ったから、黙って従った。
〈だから私は知らない。人が、死んでもいいと思ってからも、生き永らえてしまうとき、いかにして生きていくべきなのかを〉
我に帰った御剣が謝罪の言葉を繰り返したとき、真宵はぐしゃぐしゃの泣き顔のまま、彼に笑ってみせた。
あたしだって、嬉しかったもん。そう言って、彼女は胸にすがりついてきて、またしばらく泣いた。
明日からどんな顔をして生きようか。
この美しい思い出を抱えたまま、これからどうやって生きていけばいいのだろう?
「平気なのかね。明日から」
と彼は言った。
「こんなことで、これから、ひとりでやっていけるのか」
真宵に問うたつもりでもあったし、自分に問うたつもりでもあった。
眠ったと思っていたのに、真宵が、不意に口を開いた。
「……ひとりじゃ、ないよ」
しばしの間を置いてから、御剣は満足げに笑った。
「大変よろしい。百点満点の解答だ」
そう言って、最後に一回くしゃっと強く頭を撫でてやってから、目を閉じ、おだやかに眠りについた。


お別れのような雰囲気にしたくはなかったが、それでも、真宵は思いきって、空港までついていくと申し出た。
御剣は表情を変えずに承諾したので、どう思ったのかまではわからない。
身じたくをするとき、彼はいつもそうするように、真宵の髪にブラシを入れてくれた。
真宵も彼にそうしてあげた。御剣の形のいい後頭部を目の前にして、そこに頬を寄せたい衝動にかられてしまう。
御剣の体ならどの場所も好きだったが、とりわけ、うしろ頭がとても好きだった。
スーツに身を包んで、先を歩く彼の広い背中を見ていると、昨夜のことが夢の中の出来事のように思える。
〈でも、これが、もともとの関係なんだ〉
足の長さの違いで、普通に歩いていれば、決まって、だんだんと引き離されてしまうのが常だった。
いつも、距離は近くない。
いつも、遠いところにいる人だった。
だが、遠いところから、助けに来てくれる人だった。助けを呼んだときには、必ず。
特撮番組の主人公みたいに、颯爽とやってきてくれた。
誘拐されたときも、伯母と従姉妹に命を狙われたときも、今回も。
ヒーローみたいな完全無欠の男がやってきて、君の問題を何もかも解決してくれるとでも?
いつだったか、彼はそんなことを言って、皮肉っぽく笑った。真宵も、思い出して笑う。
〈ちょっと、完全無欠のヒーローっていうには、いろいろ難があるけどね〉
語るべき言葉を探しつづけて、道中、真宵は沈黙した。
いくら感謝しても足りないくらいだったが、湿っぽいムードにはしたくなかった。
ハイヤーの中で並んで座っているあいだ、彼女はふと、思い出して、隣の御剣に話しかけた。
「あのさぁ」
「何だろうか」
御剣は、ずっと、無表情のままだった。
「すっごい今さらなんだけど」
「うむ」
「アイスクリーム、ありがとうね」
「アイスクリーム?」と彼は眉を寄せて聞き返した。
「家元に就任したとき、お祝いで送ってきてくれたでしょ」
彼はぽかんとした。「……そうだったかな。覚えていない」
「そうなの? すっごいおいしかった。ありがとう。あんまりおいしいから、もう死んでもいいって思った」
御剣はそれを聞いて、今日では初めて、笑いを見せた。
天をあおいで心底おかしそうに笑うのを、いつまでもやめなかった。
「うう……そんなにおかしい? ……やっぱ、遅すぎだよね。ゴメン」
「いいんだ」と彼は言った。「どういたしまして」
真宵も笑った。空気がなごんだことで、ほっとした。
相変わらず、それからも言葉少なのまま、空港に着き、彼はさっさと手続きをすませた。
搭乗口の前に立つ御剣の姿を見て、怯みそうになったが、なんとか踏みとどまる。
「体に気をつけるように」
彼はいつもどおりのせりふを言った。
「……御剣検事もね」
「うむ」
訊くべきではないのかもしれないとも思いつつ、真宵は結局、たずねることに決めた。
「訊き忘れてたんだけど……。また、帰ってくる?」
御剣は目をそらした。どうも、やはり、訊くべきではなかったことだったようだ。
「わからない」と彼は答えた。
「そっか……」
「真宵くん」
と、御剣は彼女を見つめた。「私も訊き忘れたことがあった。私は……」
「なに?」
「私は、自分を、君がこれから生む子どもの父親だと、思ってもいいのだろうか」
「え?」真宵は目を丸くした。
「あ……そうだね。戸籍には何も書いてないけど、実際、血はつながってるんだし、思ってもいいんじゃないかな」
「なぜ、こんなことを訊くのか、不思議なんだろう」
「う、うん。結構」
「私は、生まれてからずっと、父親の背中を見つめて生きてきた人間だ」
御剣は言った。
「父の教えを守りたい。父のようにありたい。今に至るまでずっと、父が、人生の指標だった。
だから……、自分がそうであるから、まったく、想像がつかない。
……父親のいない子どもがどのように生きていくのか、私にはわからないのだ。もちろん……」
彼は言葉を切ろうとせず、続けた。
「君は早くに父を亡くしている。自分のことだから、君は知っているのだろう。父親がいなくとも、こんなにも、君は立派に育った。
だから、君もまた、きっと子どもにそうしてやれる。そして、むろん、周囲の誰もが君を手助けしてくれるだろう。
いくら私が自分をその赤ん坊の父親だと思いたくても……、そうする理由もなければ、資格もないのかもしれない」
真宵は、しばらく唖然としていた。
やがて、糸が切れたように、ふっと笑う。
「御剣検事ってさー……」
「やっぱり、重いか」
「うーん、なんか、いつもいつも、大変そうだよね。御剣検事って。でもさあ」
彼の肩を、ぽんと叩いてみせた。
「そんなふうに、考えなくてもいいよ。気が向いたら、遊びに来ればいいじゃない」
「どうやら私は君への恩を返し、罪を清算したらしい」彼は言った。
「もう、君に会いにくる必要も残ってはいまい」
真宵には、それはまったく、拒絶の言葉などには聞こえなかった。
「必要とか理由とか、別にいらないんじゃないかなあ」
「…………」
「だってさ、あたしと御剣検事の仲でしょ」
冗談めかして真宵は笑ったが、御剣は笑わなかった。怖い顔をしたままだ。
「ごめんごめん、いやいや。それにさ、色々考えなくても、やっぱり、赤ちゃんは、御剣検事の子どもだよ。実際そうなんだから。
御剣検事はさ、父親が子どもに会いにくるのに、ほんとに、理由なんかいると思ってる?」
彼は眉間にしわを寄せて、あさっての方角に顔をそらした。
大きな嘆息をひとつ。「確かに、君の言うとおりなのかもしれない」
「でしょ。もうちょっと、カンタンに考えればいいんだよ」
御剣の小腹を肘で一発つつく。
「今までずっと、あたしがピンチの時には、助けに来てくれてたけどさ、別に、ピンチでなくても来ていいんだからね」
ついに、彼は一瞬だけ、ふっと笑いを洩らした。
「真宵くん。……ありがとう」
「まあまあ、ほら、そんな顔しないの」
「わかっては、いる」
「ほらほら。笑顔、笑顔」
背中を叩いてやっても、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔でうつむいたまま、動こうとしない。
仕方なく、携帯電話を取り出し、背伸びして御剣の首に腕をまわした。
「はい、はい。笑って笑って~。はい、チーズ、サンドイッチ」
撮れた写真を確認して、真宵はたちまち笑いころげる。「はははは。何これー。御剣検事すっごいイヤそうな笑顔」
「見せてくれ。……うむむぅ。なんだこのひどい表情は……」
「いやー、これはちょーっとケッサクだねー。へへへ、一生、宝物にしようっと」
「しないでいい! 私はこんなヘンな顔じゃない。撮り直しだ、撮り直し。……む」
ちょうどそのとき、アナウンスが、来るべき時間が迫っているのを告げた。
「不本意だが、しょうがない。時間のようだ」
御剣はニヤッと笑った。「君にはいくら感謝しても足りない」
「あたしも感謝してるよ」
背伸びをして、彼の耳に唇を寄せる。
ぼそぼそと小声で、最後にもうひとつだけ訊き忘れたことを訊ねると、御剣は苦笑いした。
「まったく、君という人間はこれだから……。今は、今のことだけ考えなさい」
彼は笑ったまま、歩きはじめた。
ちらりとだけ振り向いて、かるく手を挙げてみせる。
真宵も笑顔で手を振ったのを見ると、御剣はまた背を向け、消えていった。


座席に座ると、背もたれを倒し、水も飲まずに睡眠導入剤を嚥下した。
とにかく御剣は眠ろうとして、目を閉じた。
〈聖域は、死守した。約束は、とりつけなかった〉
自分が再びあの霊媒の谷の土を踏むことなど、あるのだろうか。
今はまだ、考えられない。
自分はそれができるほど、強くはない。
〈あの子の顔を再度見てしまったら。あの子の子どもが父親を見る目で私を見たなら〉
今は、ひどくもろい自信しか持ち合わせていなかった。
〈私はきっと沈みたがる。あの地で、彼女と一緒に沈みたがってしまう。
何もかも投げうって、再び彼女の手を取り、離してしまいたくなくなるだろう。
尊厳をかなぐり捨て、自分の心の何もかもを明け渡して、自分を自分ではなくしてしまっても。
きっと、真宵くんとともに、溺れ死にたくなってしまうんだ〉
その思いを内に秘めたまま、大人の顔をして、真宵と会えるほどに、強くなることができるだろうか、と自問する。
わからない。今は、皆目見当もつかない。
〈だが、いつかは〉
「すみません。お客様……どうかいたしましたか」
目を開けると、白人のスチュワーデスが、紙ナプキンを差し出し、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
彼はゆっくり自分の頬をさわる。
そのとき初めて、自分が涙を流していたことに気がついた。
「大丈夫ですか。お飲み物でも、お持ちいたしましょうか」
「失敬」と御剣はナプキンを受け取って、頬を拭った。「結構だ。どうもありがとう」
「何があったかは存じませんが……」彼女は続けた。「どうか、お気を落とさずにいて下さい」
「いや失礼。そう、たいした話でもないんだ」
御剣は自嘲的に笑った。
「好きな女をタイタニック号の中に残してきただけだ」


夏が、終わりかけていた。
「はみちゃーん。やっぱり……ダメ? ひとくちでいいんだけどなー……」
「ダメです。もう、一つお召し上がりになったでしょう?」
真宵には、春美の手の中のバニラアイスが、宝石のようにキラキラ光って見えた。
「うー。そうだけどー……」
「食べすぎてお腹を冷やさないように、って、みつるぎ検事さまも、お手紙でおっしゃっていたではないですか」
「そうだけどー、そうだけどー……こんなのゴーモンだよ」  
「真宵さま、おつらいでしょうが、今は耐えて下さい。なんといってもみつるぎ検事さまの元気なお子様を産むため……あ」
「お」
はっとして、春美が口をふさぐ。
「なんだ、はみちゃん、知ってたんだ」真宵は笑った。「なるほどくんあたりが、チクった?」
「い、いえその……もうしわけありません」
「なんで謝るの? 別にいいよ」
「実は、真宵さまが、『家元の護符』から写真を取り出して嬉しそうに眺めているのが、気になってしまって……おフロの最中にこっそりと」
「ああ」と、真宵は腑に落ちた。「そうだったんだ。よく、あんな写真でわかったね、御剣検事だって」
「はい。メガネをかけているし、なんだかよくわからない表情をされてましたが、ヒラヒラしていたので、わかりました」
「ははははは。そっかー。ヒラヒラかぁ」
「真宵さま。お二人は、愛し合っていらっしゃるのですよね?」
春美は真剣な顔をして真宵を見つめた。「わたくし、わかりません。どうして、ご結婚なさらないのですか」
「うーん……」
首をかしげて笑う。「まあ、おいおいね」
まあ、単なる片思いだったんだけどな、と思ったが、それは言わないでおく。
「おいおいとは、どういった意味でしょう」
「はみちゃんも大人になればわかる日がくるよ、ってことかな」
「う! わ、わたくし、もうすっかり大人のつもりだったのですが……まだまだ、ということでしょうか……」
すっかり肩を落としてしまった春美を慰めているうち、彼女は、こんなことを言った。
「あの、でも、みつるぎ検事さまは、また、真宵さまに会いにきてくださりますよね?」
「どうかなあ? わかんない。御剣検事って、ズルいから、イエスもノーも言わなかったんだよねー」
「それは、またお会いになる約束のことですか」
「うん。一つは、そう」
「一つはと言いますと? まだあるのですか」
「えへへ。もう一つはね……」
ニヤニヤしてばかりでいて、なかなか口を割らないことに業を煮やして、春美は詰め寄った。
「な、な、なんですか、いったい。気になります」
「ごめんごめん。もう一つはね……イイとも言わなかったんだけど」
真宵は、御剣の真似をして、大げさに肩をすくめて、言った。
「でも、断りもしなかったんだ。『赤ちゃんが男の子だったら、二人目はどうしようか』って訊いても」


もう、日暮れが早い。
ほどなく、秋が訪れる。


(了)

最終更新:2020年06月09日 17:43