いやもう居並ぶ捜査員大爆笑。
ホントはカレの証言で事件が混乱して、笑い事じゃなかったんだけど」
そんなもんだよ。
笑顔を崩さぬまま厳徒は言った。
「人間の記憶なんてどうとでも変わる。どこでだって間違える。
――もしも。青影丈と戸鉢里恵の関係が『赤の他人』ではなく『ひき逃げ犯と
目撃者』であれば、動機が生まれる」

「殺人犯と、殺したいほどジャマな相手。という関係が。ね」

ぱん、と厳徒が手を叩いた。
「おキョウちゃん。青影丈は?」
「ワタクシの判断で、刑事をつけています」
「了解。引き続き青影の身辺を洗って。多田敷ちゃんとナオトちゃんもおキョウ
ちゃんの手伝いに。残りは引き続き所定の捜査を」
はい、と応える声は、今までになく晴れやかだった。
ようやっと光明が見えた。
事件解決への“道”が。


――見えたと。思ったのだ。


重たい足を引きずりつつ、巴は自宅のドアを開ける。雨で濡れた髪から水滴が
落ちた。嫌になる。
ただいま、を言うのも億劫で、無言のまま靴を脱いだ。
そもそも現在時刻は午前二時。茜はとっくに寝ている。

捜査は相変わらず難航していた。
進展はあった。容疑者を確定したのだ。
青影丈。
平凡な会社員で、凶悪な連続殺人犯──しかし証拠がない。状況証拠ならある。
曖昧なアリバイ。彼が事件現場付近に住んでいて、土地勘があること。
けれど、それらは『彼が犯行を“行えた”』ことの証明にはなっても、『彼が
犯行を“行った”』ことの証拠にはならない。
決定的な証拠はない。
証拠がないということは──犯行を行っていない、ということだ。
苛立つ。
彼が犯人だ、という確信がある。けれど裏付ける証拠はない。証拠がなければ
彼の犯罪を立証できない。

ひどく惨めな気分だった。
一向に犯人を逮捕できない警察への──巴たち特別捜査本部の捜査官に対しての
バッシングは日に日に酷くなっている。心が折れかけたのも一度や二度ではない。
それでも。
タオルで髪を拭きながら、巴はぼんやり考える。
批判の矢面に立たない分、厳徒よりはマシなのだ。
地方警察局副局長にして主席捜査官。いちばん地位の高い人間がいちばん目立ち
泥をかぶる。その対価として、事件解決のあかつきには厳徒海慈の地位は今までに
増して盤石のものとなるはずだ。
解決さえできれば。
できなければ?
出来なければ、厳徒は失脚。厳徒のパートナーである巴のキャリアも、検事になる
との目標を果たせぬままそこで終了となるだろう。
文句は言えない。
巴は厳徒の傍で、彼から学び、彼に利用され、彼を利用してきたのだ。今更他人
のフリをする気はない。

唯。
少し。
ほんの少し、疲れてしまっただけで。

そうして自分の考えに沈んでいたせいで、キッチンテーブルの上の“それ”に
気づくのが些か遅れてしまった。
「……?」
皿にティッシュペーパーが掛けてある。つまんで持ち上げると、裏にごはんつぶ
がくっついていた。
見る。
皿の上に、不格好なおむすびが、ふたつ。
皿の下に、可愛らしいキャラクターもののメモ用紙が一枚。妹の字でこう書いて
ある──『お姉ちゃんへ。お仕事おつかれさま! 夜食だよ。おなかがすいたら
食べてね!』――ぱた、とメモ用紙の色が変わり。それが水分のせいであることに、
正確をきせば巴自身の目から零れた涙であることに気づき。巴は慌てて指で目尻を
拭った。
嬉しい。
けれど嬉しいだけでは言い表せない、複雑な感情。
巴は天井を見上げ涙が引くのを待つ。
明日も早い。茜とは顔を合わせられない。夜食の礼のメッセージを書かなくては。
……泣きやんだら、そうしよう。
ほんのりと明かりの灯る天井を見上げ、巴はしばらくそうしていた。
キッチンには、冷蔵庫の唸り声と、雨音だけが響いていた。



雨が降っている。
この季節らしい、土砂降りの雨。
巴は久々に自分のオフィスへと足を運ぶ。腕に捜査資料のコピーを抱え、直通
エレベーターで十五階へ向かった。
時刻は七時十一分。
今日は定時で帰る、というか帰された。連日働き詰めだと、却って作業効率が
落ちるから、というのが理由だった。
巴も資料の整理が終わり次第おとなしく帰宅する予定だったのだが、予想外に
時間がかかって今の時刻、というわけだ。それでもここしばらくの間では驚異の
帰宅時間だった。
IDカードを使いオフィスへ入室する。
資料を置いたらすぐ帰る予定だった。上司の命令に反するのは、誉められたこと
ではない。長居は無用だ。

――誰も居ないものと思っていたから。
帰宅命令を出した当人の姿を見つけ、巴は驚いた。

「あれ? トモエちゃん。帰ってなかったの」
命令違反はいけないなあ、と笑う厳徒へ、巴は謝罪を返す。
資料を自分のデスクへ片付け。そのまま帰っても、よかったのだろうが。
「……」
「……」
引き寄せられるかのように。窓の側に佇む厳徒へ、歩み寄り。
「……」
「……」
会話のネタは幾らでもあった。捜査のコト。天候のコト。自分が残った理由を
話してもいいだろう。厳徒が残っている理由を聞いてもいいだろう。
「……」
「……」
けれど。
無言。
巴は厳徒の視線を辿り、窓の外を見遣る。
曇天から雨粒が間断なく落ちてゆく。遠くで雷が鳴った。
「この下で」
「……?」
厳徒の視線を再度なぞる。
巴が空を見ていたのに対し、厳徒は下を──雨に煙る街を見ていた。
「連続殺人犯がのうのうと暮らしてる。“証拠”が見つからない。その程度の理由
で、一般人でございってカオして生きてて。そしてボクらは“証拠”がない、それ
だけの理由で苦労してると思うと、ホント」

続く囁きは雷にかき消され聞こえなかった。
唯、一瞬垣間見えた憎悪に、巴は息を呑む。深い深い憎しみの影。
それが何処からきたものなのか──捜査が思うように進まないことへの苛立ち
からか、自らのキャリアが危機に瀕することへの焦りか。それとも、この男の嫌う
“正義感”からか? ――候補は数あれど、巴には判別不可能だった。
もし当人に聞けば、笑って──もしくはあの疑問も否定も許さぬ口調で、最後
だけはないと答えるのだろう。巴に予測可能なのはその程度だ。

不意に。引き寄せられ。
唇が厳徒のそれで塞がれる。口腔に、ぬるりと這入ってくる生温かいモノの感触。
上顎を撫ぜ、歯列を犯すそれは、心地好さよりも苦しさの比重が高い。しかも、
ものすごく偏っている。
腰を抱かれ動くこともままならず、結局、巴は硬直したように蹂躙を受け入れた。

手前勝手なキスは始まった時と同様に唐突に終わった。
視界に入る男の顔に、何だか自分でもよく分かっていないらしい苛立ちと困惑が
浮かんでいるのを見。
先程まで自分のそれを塞いでいた唇が、笑みのかたちを取り、何事かを発生する
段になったところで。
ようやっと巴は動いた。
「――っ?!」
おそらくは「じゃ。また明日」とでも言いかけたのであろう厳徒の目が、驚愕に
見開かれる。
珍しい厳徒の表情だが、観察する余裕はない。
つま先立ちになり、派手なオレンジのスーツを掴んでキスをする巴にそんな余裕
はない。
厳徒からのキスに比べ、巴のは稚拙そのものだった。唇を合わせる、それだけの
行為。
それだけの行動にも関わらず、巴は緊張し、スーツを握る手が白くなる。
離れる。
視線が合う。
どちらかが普段の理性の十分の一でも通り戻して自分たちは何をしているのかと
考えればその馬鹿々々しさ、理不尽さに立ち止まることが出来た。
出来“た”。
過去形。
或いは仮定。
その時巴の頭の中は真っ白だった。
対する厳徒は見た目からは何の感情も読み取らせず。
結果。

キスはみたび繰り返された。

ひどく近いところに色付きレンズがあるのを眺め、(おむすびがふたつ。/メモ。
/『お姉ちゃん』)レンズに反射する自分を眺め、(私の妹。/ならば、厳徒海慈。
/貴方の、)脳裏に泡沫のような疑問が浮かび、(貴方は、何処に。誰に。)明確な
文章になる以前に消える。

熱が全てを曖昧にする。
もつれ合うように樫材のデスクへもたれかかったことも、厳徒の腕がデスク上の
資料やら何やらを払いのけ、それらが甲高い悲鳴を上げ床に跳ねたことも、広く
なった其処にほぼ押しつけられる格好で尻を載せたことも。硬さも。痛みも。遠い。
巴の膝を割り、厳徒が逞しい身体をねじこんでくる。必然、脚が開かれる。

恥ずかしい格好だよりも、背の高い男を見下ろす体勢になっていることの方が
気になった。

立ったままの厳徒の右手、黒い手袋に隔てられた体温が、巴のこめかみを、頬を
かたちの良い顎を通り。マフラーの結び目で止まる。
「――」
結び目を解いたのは巴本人。
誰に言われるわけでもなく、震える手で、しかし自分の意志でマフラーを解く。
赤い生地が落ち、対照的に白い喉がむきだしになった。
やわらかな其処に刺激が与えられる。
「っ、あ」
強く、鬱血するまでに吸われて、巴は喘ぎ声を洩らす。敏感な肌を乾いた唇と
濡れた舌と硬い歯と、整えられた顎鬚が這う。
手がジャケット越しに乳房をわしづかみ、乱暴に弄ぶ。
痛みに巴は眉をしかめ、
縋るように両の腕を厳徒の背に回した。
或いは。左腕を机につけ支えとする厳徒の負担を減らしたかったのかもしれない。
身体が密着する。互いの動きを阻害し合う。恋人同士ならば互いの体温を感じ
幸福を甘受するのだろうが、生憎とふたりは恋人ではなく、抱擁も熱も服越しの
ものだが。
「主席捜査官、あの、あまり、アトが残る、のは」
「マフラーで隠れるよね?」
隠せるか隠せないか、ギリギリのところに歯を立てられる。アトが残る。白い肌
に朱色の糸が浮き、内側からの熱にまぎれて見えなくなる。
胸から手が移動する。
ジャケットをなぞり、スカートへ。スカートの裾へ。そして、その中へ。
黒手袋と、ストッキングを隔て、肌が重なる。そしてその先。

「破ってイイ?」
「脱ぎますっ!」
トンモデナイことを言いだす男へ顔を真っ赤にして答え、慌ててスカートの中に
手を、
手を──。
自分で下着を脱ごうとすればスカートに手を突っ込んで裾をまくり上げなければ
ならない、しかも他人の見ている前で。
脚を開くどころじゃないトンデモナイ格好に固まっていると、
「意外と面白い子だったんだねー。や。発見発見」
「――っ?!」
笑われた。
口を虚しく閉口させ、イイワケのひとつもしようと必死になる。
「――悪いけど」
そこに。
汗ばむ額に唇が落とされる。
優しい仕草。口調。身構える。
この男が優しくする時には必ずウラがある。
「ボク。そんなに気の長い方じゃないから」
分かっていたから、下着ごとストッキングを掴まれ引きずり下ろされた時も不満
よりも諦めが先にきて、あまつさえ脱がしやすいようにと腰さえ浮かせた。
ずるずると、汗でまとわりつく化繊が太腿を滑ってゆく。
布のカタマリが膝上に出来て、厳徒の手はそこで止まる。これ以上脱がせるなら
ひざまずかねばならず、面倒になったのだろう。
巴は細く、息を吐き。
片脚を折り曲げた。
「──へえ」
厳徒が洩らした感嘆は、何に対してのものか。
考えると手が止まってしまうので、考えない。下着とストッキングから片脚を
抜くことだけに専念する。
かん、と高い音が響く。
床に靴が転がっている。
巴のクツ。右だけ。片方だけ。
むきだしの右足と、布地をまとわりつかせた左足。巴は自身のだらしない姿に
目を覆いたく「イヤラシイ格好だ」
羞恥を煽る言い草に、素肌をなぞる手袋の感触に、巴はうろたえる。
「ホント驚いたな。そんな誘い方、どこで覚えたんだか」
誘い。
(誘っている? 私が?)
最初からおかしかった。雨。厳徒。自分。高い天井。此処での性的接触を忌避
してきたのは他ならぬ巴だった。
「『どこで』──?」

おかしい。
何もかもが何処かでずれてしまっている。
だからこの発言もきっとその“ズレ”のせいだ。

「貴方と、以外に。ない」

──もっと甘くてもいい台詞だった。不貞を疑われたとなじるのも相応しい。
なじるではなく、悲しむのも結構だだろう。

どれでもない。
巴の声は、どれとも違う。淡々として、切実な、絞り出すような。

言葉が相手に何をもたらしたのか。何も与えなかったのか。確認は不可能だ。
無言で避妊具を取りだし、パッケージを破る。一連の動作の間に、厳徒の表情は
すっかり元に戻っていた。
「事件」
「え?」
雑談めいた口調で、今とは全く関係のない話題を振られて、巴は混乱する。圧し
掛かる体温が、冷たい。
「もしもさ、このままナニも見つからなかったら。何も見つからないまま、事件
が終わったら。トモエちゃん、どうする?」
その時は──失職はなかれども、上級捜査官としてのキャリアは終わりだろう。
巴の検事になるユメも終わるか、困難なものとなる。
厳徒は。
彼は。
警察局副局長。主席捜査官。最も次期地方警察局長に近い男。
政敵の多い男。
「――見つけます」
服越しの体温を見つけようと、震える手で探る。
「必ず、“証拠”を。私たちの手で、この事件を解決します」
だから、どうか信じて欲しい。――そこまでは言えた。『私を』とは、余りにも
おこがましくて口にできなかった。
返答は。
「――宝月捜査官」
ひどく。嘲るような。
「キミは──いいさ。つまりキミは“正義の味方”だ」
意味を、意図を問う暇もなく、性器をねじこまれる。
悲鳴を噛み殺す。僅かに湿り気を帯びただけの場所には、乾いたゴムの感触が、
辛い。

乱暴に引かれ、また叩きこまれる。身体が軋む。
声を堪えているから制止も出来ず、代わりに厳徒のスーツ、胸襟を掴んだ。真っ白
になるまで握りしめた拳の中で、光沢のある生地がしわくちゃになる。
奥をこすられて、身体が跳ねた。
痛みを緩和しようと、とろとろと体液が滲みだしている。ようやっとの快感と
継続する痛みとで、頭がどうにかなりそうだ。
涙で滲む目で、厳徒を見遣る。
――容赦のない。けれど、快楽をもたらすには的確ではない行為。
そこに、彼自身の快楽が見つかれば、多少なりとも納得がいったのだが。
「――イタくされる方が好きとは知らなかったな」
「ちが──っ!」
突き上げられて否定の後半は鼻にかかった喘ぎに変わる。
雨とは違う水の音が、巴の内側で響いている。かきまわすモノの存在が、男が
性的な興奮を覚えている証拠だ。熱。服に染み込む汗。ピッチが速くなる。深く
ねじり込まれ、硬く張ったカサで狭い場所をこじあけられて、呼吸が止まった。
瞬間。
ぬるりと剛直を包み、貫かれて悦んでいた場所が、きゅうっと窄まり奥へと呑み
こんで繋ぎとめる。ゴムの被膜の向こう、逞しいモノを愛撫し、裏筋を舐め上げ、
くびれを埋めるべく襞が絡みつき、亀頭を強くなぶる──射精を促す。
細い背が仰け反る。抱きかかえられる。
下腹部から脊椎をさかしまに伝い、脳へと至るしろいナニか。

巴のナカ、避妊具の中に、厳徒の体液が注がれるのを、そんなこと有り得ない
だろうが感じた。
被膜越しのそれが何かの“証拠”になるのか。巴には分からなかった。


電子音で互いに我に返る。身を離し、手早く身づくろいをする。
電子音はまだ続いている──厳徒のポケットからだ。携帯の呼出。厳徒が電話に
出る。「もしもし。厳徒だけど」巴はマフラーを手に取り──「トモエちゃん」
冷やかな呼びかけに、弾かれたように厳徒へと目を遣った。
通話は終了したらしく、厳徒の手の中の携帯電話は沈黙している。

「“SL-9号”の、四人目──ひき逃げも入れるなら五人目かな?
被害者、出たって」

「――?! まさか──!」
「現場の勇み足だといいね。服。着替えたら、現場に行こうか」
血の気が引くのを感じながら、巴はどうにか首肯する。

「ホラ」
独白が、誰に対してだったのか。
「言わんこっちゃない」
考える余裕は、巴には無く。
唯、そこに重い澱を感じ──何か。取り返しのつかないモノが噛み合ってしまう
音を、聞いた。

最終更新:2020年06月09日 17:39