重なり合う死をかわして  ◆j1I31zelYA



暗い。

漆黒の闇が、2LDKアパートの一室に充満していた。
夜の闇は人間の姿を隠し、家具の存在を隠し、生活臭の暖かみを消滅させる。
部屋にあるはずのベッドとかデスクとか衣類収納ケースとか、そういった生活の痕跡が全て闇に埋没している。
それはそのまま、安らぎの欠如を意味していた。
人間は体外から得る情報の9割を視覚に頼っているのであって、
だから『見えない光景』というのは安心感を大きく損なうのであって。

ありていに言えば、
一言で言えば、
簡単に言えば、

それは、とても、
……………怖かった。

先刻まで高坂といた住宅街を照らす灯も、建物の内側までは届きようがない。
ましてや、ここに至るまでには『できるだけ建物の外から見えないルート』を選んできたのだから当然だ。

こういう暗闇は苦手だな、と神崎麗美は思った。
IQ200の麗美は、常人よりずっと知っている事が多い。
それでも『分かっていること』と『分かった振りになっていること』の間には厳然たる壁がある。
『一寸先も見えない闇』という状況は後者だ。
夜歩きにはなれているけれど、そこは必ず人間の気配がある街だった。

けれど、だからこそ、臆してはいられない。
ほふく前進ぎみに身をかがめながら、カパリと携帯を開く。
身をかがめて開閉を行うのは、少しでも灯りを漏らさないが為だ。


『[マンション2階]
北西のアパートに移動中。敷居をまたいで3歩目のところに暖房器具のコード。
転ばないように気をつける。
マリリンの接近音はしない。』


予知に従って、3歩目でまたぐ。
他に障害物の予知はないので、踏み出す足は躊躇わずにスタスタと。
走り出したいのをこらえて、早歩きで『ぬき足さし足』を維持。
『敵』にはどのみち、『短い時間を長い時間に変える』という反則な能力がある。
ならば、『距離を空けること』よりも『捕捉されないこと』を心がけるべきなのだ。

予知によると、マリリンの接近する気配はない。
でも、この『接近音はしない』という予知はネックだ。
『マリリンが音をたてずに近づいてきている』という未来までは読み切れない。
あるいは『麗美がマリリンの接近音を聞き逃しただけで、すぐ近くにいる』という未来だって。
それを思うと、心臓のあたりがぞっと冷たくなるけれど、だからこそ立ち止まってはならない。

いわばこれは、猫とネズミのゲーム。
下手な巣穴から外に出れば、猫の爪が待っている。
見つからないように。捕まらないように。鍵爪にひっかからないように。
その上で、迅速に逃げ切らなければ。

『[二階の窓→隣家のベランダ]
マリリンが迫ってくる気配はなし。』

「よし。進路はオールグリーン」

音をたてずに窓を開け、一メートルは距離のあいたベランダに向けて軽々とジャンプ。
ついでに、室内の水槽からくすねた石を上方に投げつけ、アパートの4階窓ガラスを割っておく。
少しは時間稼ぎになるはずだ。

こういう身軽な動きに慣れているのは、鬼塚たちや4組の仲間と夜の学校でサバゲーをしていたりした杵柄でもあった。
先生から教わったことが生きてるな、と思う。
普通は、学校の先生から教わるようなことじゃないけど。


◆   ◇   ◆


神崎麗美は、決して勝算のない勝負を挑んだつもりはなかった。

麗美の勝算はふたつ。
ひとつは、マリリンが未だ閃光弾のダメージを引きずっており、視力と聴力が衰えていること。
いまひとつは、麗美が『逃亡日記』の契約を交わしていること。

だから麗美は、『鬼ごっこ』という形の勝負を提案した。

マリリンには『短い時間を(自分にとっての)長い時間に変える』能力があるらしい。
そんな相手に徒競争を挑んだところで、勝敗は見えている。
現に、高坂との一戦では、閃光弾を食らっておきながら、先に逃げ出した麗美たちの進路に回り込んでみせたのだ。

しかし『徒競争』ではなく『鬼ごっこ』ならどうか。
この場合、『速く走れば勝ち』ではなく『捕まらなければ勝ち』になるのだ。
『3,2,1』と、よーいドンのカウントをしながら、麗美は既に逃げる方向を見定めていた。

『ゼロ!』の合図と同時、麗美は全速力で歩道を逸れて、そこに駆けこんでいた。
そこは、近隣の市街地でもひときわ高くそびえる、25階立てマンション。

幸い、麗美の方が直線距離にして近かった。
この時点でマリリンが『時間を延ばす能力』を使っていればゲームオーバーだったが、それはないと麗美は読んでいた。
ほんの数分間、交戦しただけの関係でも、マリリンの性格を読み取ることは容易い。

――あなた方となら――私は、今までにない戦いを……生きているという充実感を得ることが出来るでしょう!

マリリンは、『戦うこと』そのものを楽しむような人種だ。
加えて、麗美は何らかの『勝算』があることを事前にほのめかしている。
ならば、初手から『短い時間を長い時間に変える力』は使わずに、まずは麗美の出方を見守ろうとするはず。
しかも、麗美はマリリンに対して『捕まえてみろ』という勝負を挑んだ。
『鬼ごっこ』という勝負は、『子どもにある程度、逃げる時間を与えてから鬼がおいかける』のが暗黙の了解だ。
もちろん、麗美とマリリンは同時にスタートのカウントをしたのだから、今回の場合はなんら問題にはならない。
しかし、己の力量に自信を持っているマリリンなら、『ある程度距離を離したところから追いかけて捕まえる』ことこそに、勝利の喜びを感じるはずだ。

その読みは当たった。

後方から追尾する足音は聞こえた――振り返る余裕はなかった――けれど、その脚力は麗美よりやや速い程度のペースだ。
まず、『マリリンから逃げきろう作戦』の第一段階は成功。

迫りくるマリリンの気配を感じながら、麗美はマンションの敷地内へと駈けんだ。
住人用の玄関口ではなく、共用施設であるコンビニへと走る。
自動ドアをくぐり、減速せずにレジの裏側へ。
従業員ルームから裏口を出て、マンションの管理室へと侵入。

本来なら無謀極まりない行為だ。
初見のコンビニの間取りがつかめなければすぐに捕まってしまうし、
そもそもコンビニの裏口から管理人室に出られるか分からないし、
管理人室の鍵がふさがっているかもしれない。
三つ目の可能性が一番高い。

けれど、麗美には『逃走日記』があった。

携帯は片手。ザザッと未来が書き変わる。
麗美が逃げれば逃げるほど、先の逃走ルートを予知してくれる。

『[コンビニ裏口→マンション事務室]
鍵が空いてる!ラッキー!』

管理室のドアを開け、ベレッタM92を牽制として発砲。

マリリンが「あらあら」と呟き、素早くそれを避ける。

べつに、相手への攻撃は禁止してないもん。
一瞬だけつくった時間を利用して、ガチャリと内側から鍵を締めてしまう。
管理人室の灯りを点け、監視カメラのスイッチを発砲して破壊。
これで建物の内部を把握する術はない。

ここまでの時間、スタートからおよそ三十秒弱。
もう一度やれと言われても、ここまでスピーディーにはできない。
全力疾走とか日記の確認とか発砲とかを全て同時進行で処理したおかげで酸欠になってフラフラしたけれど、立ち止まっている時間も惜しい。
再び灯りを消して、走り出す。
ステンレスのドアの向こうで、マリリンのはずんだ声が聞こえて来た。

「どうやら、貴女個人も何らかの『能力』を有してはいるようですわね。
でなければ、ここまで大胆かつスムーズに逃走ルートを選択することはできなかったはず。
現時点では、それが『神候補の能力』と違うものとしか分かりませんが……素晴らしい!素晴らしいですわ! 
神の座を決める戦いでも、これほどまでに知勇を兼ね備えた選手には出会えたかどうか(ry」

いちいち聞いてやっている暇はない。
聞き流しながらマンションの内部へと走り込み、セントラルラウンジを駆け抜ける。
管理人室の方角から、轟音が響きわたっていた。


――ドゴオオォォォォン! ドゴオオォォォォン!


(ちょ……どんな破壊力の攻撃よあれ!)

状況からして、あれは『マリリンが扉をこじ開けようと格闘している音』なのだろう。おそらく。
しかし、とても『人間が分厚いステンレスの扉を開けようとする音』には聞こえなかった。
能力に頼っているだけでなく、純粋に身体能力も高いのだろう。
あの調子では扉も一分と持たないことは、想像に難くない。

(あんな方法でオートロックを粉砕できるのは、鬼塚先生ぐらいだと思ってた…!
あーあ、あれで少しは時間が稼げると思ったのに!)

しかし、一番の狙いは達成した。

『[セントラルラウンジ→エレベーター]
エレベーターが二つ。一階で止まっている方に乗り込む』

それは、『視覚の効かない空間』へと逃げ込むこと。
いくら『常人の何倍も速く動ける』としても、麗美の姿が見えなければ捕まえようがない。
ましてやマリリンの視力は、閃光弾により著しく低下している。
麗美よりもずっと、闇に慣れるのに時間がかかるはずだ。

もちろん、『視界が効かない』ことによるディスアドバンテージは、逃げる側も同じだった。
むしろ、本来ならば逃げる側の方が致命的なのだ。
いくら敵から見つかりにくかったとしても、逃げる方向がおぼつかなければすぐに捕まってしまうのだから。

しかし麗美には、『逃走日記』があった。
逃走日記は、あらかじめ塞がっているルートを予知してくれる。
逃走経路に転がっている障害物も、ある程度は予知できる。
名前の通り、『逃げ続ける』ことに特化した日記なのだった。

そして、そこまで計算した上で勝負を持ちかけるのが、神崎麗美という天才少女なのだ。


◆   ◇   ◆


――それからも、エレベーターと階段を併用して身を隠しつつ逃げたり、
地下駐車場の抜け道を使ってこっそりマンションから脱出したり、
人目につきにくい侵入口を選んで、幾つもの建物の中を経由したり……

そして、

(今、ここ。F-1とG-1のエリア境界付近にいるってわけ)

大学新卒でサラリーマンに就職した男が、三十を過ぎた頃には欲しがっていそうな庭付きの一戸建てで、麗美はしばしの休憩を取っていた。
カーテンはすべて閉ざしているし、携帯の灯りはタオルケットをかぶって漏れないようにしている。
外から見て見つかる危険はない、はずだ。

逃亡日記にも、マリリンの接近を告げる予知はない。
『向かいの部屋にマリリンがいる』とか、『階段を使ってもエレベーターを使ってもマリリンに見とがめられる』とか、ぞっとしない予知の連続だった時を思えば、ひとまずは安心していいということだろう。
(ちなみに、その時はダストシューターを使って切り抜けた。ゴミの臭いが移ったりしていないと信じたい)

(灯りが見えないからって安心はできないかな……閃光弾のダメージからあんな短時間で回復したヤツだし……案外、もう視力だって回復してるかもしれない)

すこしばかり神経質になっているかもしれない。
しかし、ひとたび余裕を得たことで、麗美の不安はぎゃくにじわじわと広がりつつあった。

(どうも……上手く運びすぎてる気がするのよねえ……)

ここまでの道のりだって、おせじにも安全だったとは言えない。
綱渡りと賭けの連続だった。
その綱を上手く渡ることができたのは、ひとえに逃亡日記の力と、麗美自身の順応性の高さにあるだろう。
しかし、そういう冷静な分析と、『虫のしらせ』とはまた別の話。
総じて物事が成功し続けている人間というのは、どこかで『足元がすくわれる予感』を感じ取ってしまうものだ。

一応、『万が一』の時の為の『備え』はある。
しかし、使う状況が極端に限られるものだ。

(でも、それはそれとして勝利条件まではかなり近づいたと言えるのよね。
あとは、『アレ』が始まる前後に、『あそこ』に到達できればいいだけ。
そうすれば、一応『勝った』と言えるところまで行けるはず。
……ただ、『そこ』までの数百メートルが一番危険なんだけど)

携帯をGPSに切り替えて、今までの逃走経路をおさらいする。
今までは、高級住宅という趣の、高層マンションばかりが並んでいたから、身を隠す場所も逃走経路も豊富にあった。
しかしこの近辺からは、そういったビルが途切れ、『郊外』の住宅地といった景色を見せている。
すなわち、庭つきの一戸建て住宅や小さなアパートばかり――





――ザザッ……





(何もしてないのに……!?)

GPSを『日記』に切り替えたとたん、その更新が来た。

『[玄関口→十字路]
ドアを開けたら、マリリンが待ち伏せしていた。
先回りされた?』



心臓が、とまった気がした。



(え? え? ……ちょっと待って。待ってよ。他の逃走経路は?)

玄関からの逃走案を捨て、他の逃走ルートを考える。
ザザッとノイズが走り、素早く安全な逃走ルートに切り替わる

――はずだった。


『[裏庭の窓]
どうしよう……逃げられない!
マリリンに回り込まれた。


神崎麗美はマリリンに、頭を砕かれて死亡する。
DEAD END』


――神崎麗美は…………死亡する。

DEAD END

たった二文字の英単語が、麗美にずしりとのしかかった。

逃亡日記の説明書はしっかりと読んでいる。
『DEAD END』とは、他の参加者からチェックをかけられた状態のこと。

麗美が未来を覆さなければ――指定された時刻に、麗美は死ぬ。
マリリンに、殺される。



――嫌だ。



(ダメ! 死ねない! あともうちょっとで、『勝てる』ところまで来てるんだもの。
何も残さないまま死ぬなんて嫌! もう4組に帰れないなんて絶対に嫌!)

――なんたってあたしは、あんた程度には輝けるんだぜっ。ぶいっ。

ほんの半刻ばかり前、高坂に言った言葉が浮かんでくる。

そうだ、諦めるな、神崎麗美。

考えろ。
考えろ。
考えろ。

何故、どの逃走ルートを取ってもマリリンに回り込まれるのか。
決まっている。神崎麗美の現在の居場所が、マリリンにばれているからだろう。
つまり、麗美は今現在、マリリンに見張られている状況にある。

(この闇の中、死角からでもあたしの位置を捕捉してる……。
マリリンは、レーダーか何かであたしの位置を見ている? ううん、それならとっくに捕まっていてもおかしくない。
でも、確かなのは、マリリンは今のところ向こうから突入するつもりはないってこと。
それなら、あたしの方も『対策』を打つ時間はある!)

加えて、積極的な行動に出てこないという事実も、安心材料になる。
それはすなわち、室内への突入を警戒視しているということ。
つまりマリリンも、麗美が家の中で何を行っているか、はっきりとは確認できない可能性が高いのだ。
ならば、多少は何かをやっても、気づかれる恐れは低いと言える。

ディパックの中身を確認する。
麗美の支給品は、逃亡日記と閃光弾とベレッタM92。
閃光弾は使いきってしまった。日記と拳銃だけではこの場を切り抜けることはできない。
しかし、麗美の装備はそれだけではない。
高坂王子がディパックから金属バットを取り出したことで、麗美はディパックの容量の広さに気づいた。
だからこそ、逃走する途中で『使えそうなもの』があれば、回収してディパックに放り込んで行ったのだ。

使えるかもしれないのは、途中の民家でくすねてきた『二つ』。
それが、麗美の『万が一』の装備。
使える状況が限られる為に、あまりアテにはしていなかったが、今現在はそれしか頼れるものがない。

考えろ。
『この2つ』を、最大の効果で、なおかつ『麗美に被害が出ないやり方』で使うには、どう設置すればいい?

記憶を思い出し、そこからデータを抽出する。
少しだけカーテンを開けて、今現在の『状態』も再確認する。

ベランダで感じた風向きと、風の強さ。
今いる建物の立地と、近隣の住宅の位置。
麗美の豊富な知識にインプットされた、『それ』が効果を発揮する時間と速度。
残る不確定要素は、麗美自身の計算能力を使えば補正できる範囲内。

「いけるかも……」

その『二つ』を両手で握りしめ、麗美は緊張と興奮の混じり合った震えを抑えこむ。

「見てなさいマリリン。そっちが戦いのプロなら……こっちだって本職の『授業テロリスト』なんだから」


◆   ◇   ◆


(予想以上に手間を取られましたけど……しっかりとその姿、捕らえましたわよ)

マリリンは、神崎麗美が立てこもる家屋が面した十字路の、その向かい側の電柱の影で待機していた。
時折、支給品である『片眼鏡』を使い、家の中を『透視』する。
透かした壁の向こう側で、携帯電話のあかりがユラユラと揺れる。

(何やら……家の中で動いておられる? 待ち伏せに気づかれたのでしょうか)

マリリンに支給されたそれの名前を、『霊透眼鏡(レンズ)』という。
霊界アイテムがどうとか、マリリンにも不可解な説明書きには困惑したが、信頼性は確かなものだ。
ようするに、壁の向こう側にあるものを透かし見る道具だ。

なるほど、マリリンは確かに一度、麗美の姿を見失った。
だから方針を改め、建物の周囲を徘徊することで捜索をやり直した。
視力の衰えたマリリンだが、流石に『携帯電話の灯り』だけは見落とさない。
そして、いくら灯りが漏れないように気を配っても、霊透眼鏡は灯りを直接に透視する。

だから、透かした壁の向こう側に、『携帯の灯り』さえ見つけることができれば、神崎を捕捉することはできた。
そして、マリリンは運よく、その『灯り』を見つけることに成功した。
まさに、『運よく』という言葉を使うしかなかった。
いくら麗美とて、四六時中に携帯の画面を開いているわけではない。
ちょうど、『麗美が携帯を開いている時に、そこから壁ひとつ挟んだ場所を、通りがかる』必要があったのだから。

(正直なところ、このアイテムが支給されていなければ、完全に見失っていたところでしたわ。
本当に優れた問題解決能力をお持ちの方。先刻の王子さんとの戦いで『一般人だからといって油断してはならない』と学習していましたが……まだまだ、認識が甘かったようです)

ただし、霊透眼鏡にも欠陥はあった。
『霊透眼鏡』には、『障害物を透視する機能』はあっても、『衰えた視力を補正すること』まではできない。
つまり、闇の中から『携帯の灯り』を視認することはできても、闇に埋もれた麗美本人の姿までは、はっきりと視認できなかった。
家の中に隠れた麗美がどんな行動をしているか、マリリンには分からない。

(何らかのトラップを仕掛けられている可能性はありますわね……。
あの方の支給品は、閃光弾と拳銃のようでしたから残り一枠……いえ、王子さんから支給品をわけていただいた可能性もありますわ)

トラップの可能性を警戒したからこそ、マリリンは突入せず、神崎が家を出るタイミングを見計らっていた。
『一秒を十秒に変える力』を使えば、たいていの攻撃を避けることはできるけれど、それでも万全をしくに越したことはない。
マリリンは、マニュアルに則った戦闘行動を心がける余り慢心を持つきらいこそあったが、決して油断はしていなかった。

(神崎さんとの『追いかけっこ』は楽しかったですし……この遊びが終わってしまうのが、少し残念ではありますが。勝負とはそういうもの)

いっそ、麗美が何かを仕掛け終わる前に、不意を打って突入してしまおうか。
マリリンがそう決断した時だった。


『それ』は、垣根の植え込み付近から発生した。


マリリンの視界は、未だ完全には回復していなかった。
だからまず、マリリンは『嗅覚』によってそれを察知した。



プールの臭い。



もっともポピュラーな言葉で例えるならば、そうなる。
より正確に言うならば、『プール開きの日に味わう、消毒されたプールの臭い』だった。

その臭いから、マリリンはすぐさま正体を察知する。
理解が驚嘆に変わるには、十分の一秒あればこと足りた。

(これは……塩素ガス!?)

とっさに携帯で路面を照らした。

緑黄色のガスが、路面をむくむくと浸食し、マリリンの鼻先まで近づいていた。

軍事訓練を基礎として戦い方を学んだマリリンは、軍事兵器そのものに対する知識も豊富に持ち合わせていた。
特定の『2種類』の家庭用洗剤を混ぜ合わせただけで発生する、最もシンプルで凶悪な毒ガス。

「不覚、ですわ……!」

『一秒を十秒に変える能力』を発動。
電柱のすぐ隣、手近にあった民家にすぐさま飛び込んだ。
靴をぬぐ手間も惜しんで階段を駈け登り、二階へと避難。
塩素ガスは空気より重い。よって、避難する際には上方へ。

直接の殺傷力がない閃光弾とは違う。
少しでも眼に触れただけで激しい痛みを伴い、場合により失明や炎症を引き起こすこともある猛毒だ。
マリリンが戦うべき相手は、神崎麗美だけではない。
この会場にいる、植木耕助やロベルト・ハイドンたち。
数々の強敵とも片っ端から戦ってみたいのだ。
最初の一戦で、後々まで長引くようなダメージを負うわけにはいかない。

おまけに、マリリンの特技である『能力を発動しての高速移動』も、霧をくぐり抜ける際には使えない。
『一秒を十秒に変える能力』は、あくまで相手から見た自分の時間を引き延ばす能力。
マリリン自身の体感時間では、ちゃんと普通の時間が流れている。
だから、霧の中を常人より短い時間で突っ切ったりすることはできない。

二階の窓を開ける。ガスはそこまでは届かない。
黄色いガスは、未だ十字路を埋めていた。
あそこまでスムーズに路面に広がったのは、西から東にむかって、そよ風が流れていた影響だろう。
霊透眼鏡を除く。
ガスの向こう側を透視。
携帯の小さな灯りが、北西の方角、遊園地に向けて遠ざかって行くところだった。
毒ガスのどさくさにまぎれて、垣根の反対方向から撤収したらしい。

「ずいぶんと、命知らずなことをなさいますのね……」

無茶としか言いようがなかった。

もし逃走の際に転びでもすれば、
もし風向きが狂って、神崎のいる方にガスが流れていけば、
あるいは、ガスの濃度を強くし過ぎて、ガスの拡散範囲がもう少し広がっていれば、
神崎という少女も、確実に巻き込まれていた。
死んでいても、おかしくなかった。

だからこそ、普通こんな状況で塩素ガスを使ったりはしないのだ。
実際に、毒ガスが最初に導入された世界大戦でも、風向きの変化次第で、味方にまで被害を出してしまったという。

その被害を、ギリギリで見切っていて決行したのだとしたら、
あらゆる要素を計算して、神崎自身には被害が出ない範囲で実行したのだとしたら、
その計算能力は脅威に値する。

風速と風向。混合する洗剤の割合。洗剤自体の濃度と量。煙が発生するタイミング。
その他、マリリンに気づかれないよう、わずかに窓のサッシを開けたり、庭にゆっくりと洗剤を垂らしていくプレッシャー。
あらかじめ大量の洗剤をディパックに確保しておく、準備の良さ。

(本当に面白い方がいらっしゃいますのね。
しかし……まだ私の負けと決まったわけではございませんわ。
この先は遊園地へ続く一本の道で、隠れるのも難しいはず。
ガスが拡散してから『能力』を使って追いかければ、充分に追いつけ……)

マリリンの思考に、違和感というノイズ。

(あら?……よく考えたらおかしいですわ。彼女ほど頭を使った戦い方ができる人材が、逃げる方向を見誤るなんて……)



思考に集中していたマリリンは、『それ』の始まりを、少しだけ聞き逃した。



――……うてい! ひょう……

しかし、聴覚の回復が進行するにつれて、耳はその『音』を認識する。

「なんですの?」

その『大きな声』は、神崎が逃げた方向――遊園地から、響いていた。


――氷帝! 氷帝!


――氷帝! 氷帝!


『氷帝』と高らかに叫びあげる、謎の呼び声の集合体だった。
何かに酔っているかのように、その大合唱は響いた。

(なんですの……この歓声は?)

もし、その『大きな声』が、例えば『拡声器を使った参加者の大声』だったならば、マリリンは冷静に対処しただろう。
まず、こんな状況で大声を張り上げる参加者に、呆れただろう。
そして、拡声器の呼びかけを聞いて、殺し合いゲームに乗った参加者が集まるかもしれないと、考えただろう。
そして嬉々として、そいつらと戦うべく遊園地へ急行しただろう・

しかし、ことは『ゆうに百人を超える人間の肉声』である。

録音や加工を施された音声に混じっている、独特のノイズ音は聞き取れない。
間違いなく『百人以上はいる人間の肉声』だった。



(おかしい……このバトルロイヤルの参加者は、私をのぞいて50人しかいないはず……!)



マリリンは、そう考えた。

この殺し合いの会場に、参加者以外の人間はいないはずだ。というか、いたら運営側にとっても困るはずだ。
では、遊園地から聞こえて来る『二百人近い人間の声』はいったいどういうわけなのか。
そして、この状況でそんな大合唱を行うことに、何の意味があるのか。

(落ちつきなさい、マリリン。そう、『クールになる』のですわ)

可能性は二つ考えられる。

ひとつは、あの遊園地に『百人を超える集団』が存在するケース。
もしくは、あの遊園地に『集団が存在するかのように見せかける能力者』が存在するケース。

後者なら一応の矛盾は解決するが『じゃあなぜそんな大声を演出しなければならないんだ、その馬鹿な能力者は』という問題が残る。
集団が存在するように見せかけ、参加者の停戦意志を煽るため?

そして、前者だとすればより問題となる。
集団の正体と、その目的とは。
何より、どういう意図で、人を集めようとしているのか。
もし、『殺し合いを止めようとする集団』ならば大きな障害だ。
数とは、分かりやすい力なのだから。

ならば、マリリンはそちらを早急に確かめる必要がある。
第一に優先すべきは、それだ。

ならば、遊園地には慎重を期して向かわなければならない。
他の参加者――というかあの『集団』――に見つからないように、用心して近づく必要がある。
呑気に追いかけっこに興じている場合ではない。



残念ながら……神崎麗美の追跡は、断念せざるを得ない。

「仕方ありませんわ……この場は負けを認めましょう。」


【F-1/G-1との境界付近の民家/一日目 深夜】

【マリリン・キャリー@うえきの法則】
[状態]: 視覚、聴覚はほぼ回復
[装備]: 霊透レンズ@幽遊白書
[道具]:基本支給品一式、不明支給品×0~2 、
基本行動方針:装備を整えつつ状況に応じて行動
1:慎重を期して遊園地に侵入し、謎の『氷帝コール』の正体を突き止める。
2:他にも『氷帝コール』を聞いて集まって来た実力者がいるならば、戦いたい。
3:神崎麗美と高坂王子は諦める(ただし、彼ら2人が同行者を連れていた場合、その同行者については適用しない)

[備考]
※参戦時期は三次選考開始直前です。


『[遊園地手前の駐車場]
マリリンが追って来る気配はなし。
計 画 通 り!』


今度こそ、勝った。
安堵しながらも、足だけは止めなかった。
マリリンからは逃げた。
ならば次にすべきことは、あの『アレ』を行った人間――そのなかのリーダー格の奴と接触することだ。



なぜ『アレ』を麗美は正確に予期していたのか。
そして、示し合わせたように遊園地の方角へ逃げていたのか。

タネを明かせば簡単だ。
とにかくマリリンから『距離をとる』ことだけを考えて、逃げ回っていた時、


『遊園地の方角から、『氷帝! 氷帝!』と叫ぶ、人間二百人分相当の大声が聞こえてくる。
そっちの方に逃げれば、助けを求められるかもしれない?』


この予知が、既に確定未来として存在していたのである。

『逃走ルート』しか予知されない『逃亡日記』にそれが予知されたのは、それが麗美の逃走ルートに大きく影響していたからだ。

マリリンのような傭兵タイプの人間が、この会場で『百人を超える人間の大声』などを聞いたらどうなるか。
間違いなく困惑し、慎重に大声の正体を探ろうとするだろう。
遊園地には、迂闊に侵入できなくなるだろう。

ならば、遊園地に一度逃げ込めば安全だ。
そこへ逃げれば、マリリンも『勝負の中断』をせざるをえなくなる。
だから麗美は、『氷帝コールが起こる時間』に、遊園地の内部かその近くにいられるよう、F-1に向かって逃げていた。

そして、きわどいタイミングながらも、それは成功した。

麗美は、未だ『氷帝!』と叫ぶ合唱団に向かって、全身全霊で感謝していた。

(どこの誰だか知らない人たち! バカだけど助かった!!)


【F-1/遊園地手前の駐車場/一日目 深夜】

【神崎麗美@GTO】
[状態]:健康
[装備]:携帯電話(逃亡日記@未来日記)、ベレッタM92(残弾13)
[道具]:基本支給品一式
基本行動方針:菊地たちと合流し、脱出する 
1:遊園地で謎の『氷帝コール』を行っている人物と接触し、そして遊園地から脱出
2:高坂王子とビルで待ち合わせ。


【霊透眼鏡(レンズ)@幽遊白書】
マリリン・キャリーに支給。
霊界七つ道具のひとつ。
壁を透かし見るなどして、隠されたりなくしたものを見つけることができるルーペ。
作中では岩本先生(男)のスーツを透視した際に、スーツのポケットに入っていた万年筆を見つけただけで先生の裸を見ずに済んでいる。
つまり、使用者の見たいものだけを限定的に見ることも可能らしい。
霊界七つ道具は使うたびに霊的なパワーを消費するらしいが、霊透眼鏡はその中でも負担が軽い道具らしい(負担の度合いは書き手さんに任せます)。



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Wake up! dodo 神崎麗美 プライベート・キングダム
Wake up! dodo マリリン・キャリー TRIP DANCER


最終更新:2012年03月17日 20:54