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月のピアノソナタ

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匿名ユーザー

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 光は手が届くほどそばにあるけれど、その星々はあまりにも遠すぎて――。

『月のピアノソナタ』



 よく晴れた空が広がっていた。
 雲はぽつぽつと白い点を浮かべているぐらいで、太陽も暖かな日差しを降り注ぎ、洗濯物がよく乾きそうな天気だった。
 なのに、その空がそれほど高く見えないのは、冬だからだろうか。
 こうやってふいに見上げていなければ、こんないい天気だっていうのは気付かなかったかもしれない。

 近場の大きな街までやってきていた日下部みさおは、視線を上に向けながらそんなことを考えていた。

 冬は、なんとなく白いイメージがする。
 もしくは灰色。
 凍えるような寒さが、全てを白色に塗りつぶしていくような、そんな思いを抱かせる。
 目の前の街も、そんな感じだ。

 通りを歩く人々はみな寒さをしのぐために、地味なコートで着飾っている。
 木々もまたあの緑色の衣を落とし、寒々しい茶色の身をさらけ出している。
 アスファルトだって、すぐそこの店の壁だって、空に浮かぶ雲だって、みんな灰色で、まるで自分の存在を消してしまうかのように身を潜めてるみたいだった。

 でも、そんな街角に、ふと目を引くものがあった。
 ときおり訪れる服飾店のショーウィンド。
 キレイな可愛い、少しふりふりしたやつ。
 それも、白色だった。
 なのにそれだけは、周りに埋もれるわけでもなく輝きを持っているみたいに見えた。
 ただ単に照明のおかげかもしれないけれど、確かに興味を惹かれるようなデザインをしている。
 それでも……、まあ自分にはけして似合いはしないだろうけど。

 少しの間それを眺めたあと、特にすることも無かったのでみさおは店内へと入ってみた。
 いつからかよく来るようになった馴染みの店。
 馴れた足取りでみさおは店内をぶらつく。
 クリスマス・イブなんかにこんなところに来る人は少ないんだろうか。休日なのにあまり人がいない気がした。すれ違う人はちらほらと。その中には、数名男女のカップル。

 みさおはいつも通るルートを歩く。
「……ぉ」
 お店の中ほどで、キレイにディスプレイされた一着の服に目が止まった。
 目を大きく開いてみさおはそれに近づく。
 外にあったのとは違う、少しカラフルなデザインのもの。
 みさおはそれをまじまじと見つめる。
 そして腕を組んで目を閉じ想像する。
 彼女がこれを着ている姿。
 ……うん、よく似合っている。
 いいものを見つけたと思い、にっと顔に笑みを浮かべ、それを伝えたくてみさおは後ろを振り返り、声をかけようと彼女の姿を探して。

 気付く。

「………」

 ――そういや、そうだったな。

 「なぁ」と呼びかけようとした口の形を、ゆっくりと苦笑に変える。
 少し広めの店内に、見知った顔は一人もいなかった。
 そうだ、今日は一人だったんだ。
 一人でここに来る事なんてめったに無かったから、思わず勘違いをしてしまった。
 そんな自分に軽くため息をついて、みさおは店の外に向かって歩き出した。

 いったい何度目だろう。
 今日の昼頃からこの街を巡って、何回おなじことを繰り返しているのか。
 少しは学習すればいいものを。
 そう、思う。
 暖かかった店の外はやっぱり寒くて、首にかけたマフラーに顔を押し付ける。
 通りを歩く人もみんなそんな感じだ。
 いや、そうでない人もいる。
 あったかな笑みを浮かべている人の隣には、必ず誰かが同じ笑みを浮かべていた。
 年末の一大イベントにざわめく街並みの中へとみさおは足を向ける。
 行きかう人々のなかを、特に行くあてもなく歩いていく。
 自分もそうか。
 自分も白に塗りつぶされていく。
 雑踏の一部になって、消えていく。

「なんなんだろうな」

 思わずため息が、白い息と一緒にこぼれた。
 自分でも判る。
 いつもの自分らしくないと。
 無駄に元気が長所だって、考えなしで、おきらくで。
 ただ真っ直ぐに突っ走っていくのが私らしいっていうことを。
 なのに今日は、心が晴れなかった。
 あのつんけんした親友にこんな姿を見られたら、「天変地異でも起きるんじゃない?」と呆れられそうなくらい、何をやってもおもしろくなかった。

「……なんでだろうな」

 そんなの、決まってる。



 ――あやのがいないからだ。







       ♪





 彼女がいないから、自分はこんなにも白いのか。
 まるで色を失ってしまったかのようだ、という表現は我ながらかっこいいかもしれない。
 ……笑えないけれど。

 相変わらず目的もなく、みさおは街中を歩き回っていた。
 昼前頃からずっと見て回っていたせいか、そろそろ時間を潰すあてが無くなってきていた。
 私は友達とクリスマスを楽しんでくるから、と言って家を出てからいつのまにか4時間以上経っている。
 おやつの時間にも程近い街並みは、さらに活気を帯びてきているように見えた。
 友達と、と言ったけれど実際はそんな予定はない。

 ある人間は家族とパーティーらしいし、部活の仲間やクラスメイトと騒ぐような気分にもなれなかった。
 結局そのせいで、こんな寒い思いをしているのだけど、それも、悪くはないような気もする。
 こんなふうに一人で考える事はあんまりなかったし、たまには一人っきりでのんびりと過ごすのも新鮮な感じがした。
 歩き続けて喉が渇いて、ふらりと訪れた喫茶店の隅。
 いつもと少し違う、この季節特有の空気の中で、みさおはぼんやりと考える。
 今頃彼女は、一体何をしているんだろう――。
 みさおの親友の、クラスメイトの、家が近くて幼馴染の、――そして自分の兄の“彼女”の、峰岸あやの。

『また今年も、一緒に遊びにでも行かない?』
 と、誘われたりもした。
 だけどみさおは、
『あー……、クリスマスは二人で楽しみなよ』
 と、そう答えた。
『高校生最後のクリスマスなんだからさっ』
 その言葉に、嘘はなかった。
 本心から、二人で楽しんで欲しいと思っていた。

 かちゃりと音を立て、カップを持ちあげ注文していたコーヒーに口をつける。
 暖かい。
 そして、すごく苦かった。
 質とかそういうのは分からないけれど、おいしいというのは一口で感じられた。
 でもやっぱりこのままでは、苦すぎて飲めそうにない。
 砂糖を一さじ、中へと落とす。
 白い結晶が、かすかに照明を反射する。
 同じようにミルクを注ぎ込む。
 呑みこまれそうなほど黒かった液体が、色を失い白く染まっていく。
 スプーンでかき混ぜて、もう一度口に含んだ。
「……ふぅ」
 程よい甘さと暖かさが、心に染みこんでくるようだった。

 それから何十分か店内で時間を潰して、みさおは店を出た。
 目の前に広がっている景色が、また賑やかさを増したような気がした。
 少し日が暮れ始めている。
 絵画にでも出来そうな夕日がビルの隙間から街並みを照らしている。
 自然と足が進んでいく。
 まだ通っていなかったルートを歩いていく。
 時折ふらりと店を覗く。
 それは雑貨店だったり、洋服店だったり、スポーツ品店だったり、ジーンズショップだったりと。
 ――いつも、彼女と通った道だった。

 店を出るたびに、徐々に空が光を失っていくのがわかった。
 また一つ店から出て、いつのまにか夕日が隠れきっている事に気付く。
 そして、そういえばもう、この街には行く当てが無いっていう事にも。
 しかたなくみさおは、駅前まで戻ってきた。
 冷たい風が吹いて、体が震える。
 クリスマス一色になっている人の波を縫い、広場までやってくる。
 近くにあった自販機で、またホットのコーヒーを一缶買った。

「はぁ……」

 冷え切ったベンチに座って、みさおはため息をついた。
 陸上で鍛えてるとはいえ、昼前からずっと歩き続けていたせいで、さすがに少し疲労を感じていた。
「何をやってるんだ私は……」
 思わず、ぼやきが出る。
 こんな日に一人きりで。
 高校生最後のクリスマスに一人ぼっちで。
 ただ時間を潰すためだけにこんなに疲れて、身体を冷やして。 
 よくバカだって言われるのも、確かに間違っちゃいないのだろう。

 ポツンと一人ベンチに座り、缶コーヒーで手を温めながらみさおは駅前を眺めてみる。
 すっかり空は青みを帯び始めていた。
 太陽がなくなったために、広場のイルミネーションがよく映えて見える。
 相変わらず、この街には人が行き交っている。
 こんなに寒いのに、人々はこの街を訪れ、この街を出て行く。
 ……むしろ、それは寒いからか。
 寒くて凍えてしまいそうだから、誰かに会いに行くんだろう。
 暖かい我が家に帰っていくんだろう。

「はぁ……」

 吐いたそばから、ため息が真っ白に染まっていった。
 手に持ったコーヒーも熱を失っていく。 
 空はもう、真っ黒に塗りつぶされていた。
 きらびやかな街並みの明るいヒカリのおかげで、星もよく見えない。
 手持ちぶさたで、なんとなくポケットから携帯電話を取り出した。
 ことごとく断っていたからか、友達からの誘いのメールも特にない。
 着信履歴も――少しだけ。
 そのままみさおは、携帯を元に戻した。
 だいぶ冷め始めたコーヒーのタブをあけ、甘い液体を胃に流し込む。

 相変わらずすることのないまま、みさおはボーっとベンチに座って、少し離れた景色を見つめる。
 だが、眉を寄せて少し思案するような素振りを見せたあと、みさおはもう一度携帯電話を取り出した。
 慣れた手つきで、発信頻度の二番目の番号を呼び出す。
 ボタンを押して、コールする。
 ぷるる、というお決まりの音が、耳に当てた端末から流れてくる。
 一回、二回……。
 五回ほど鳴ってから、そろそろ留守電だな……と、ぼんやり思う。

『――もしもし、日下部?』

 ぷつりという電子音のあとに、聞きなれた声が響いてきた。
「ん、ぁ、……あー……」
 もう出ねえんだろうなぁ、と半分諦めていたからかもしれない。なんとなく言葉が続かなかった。
『……日下部?』
 みさおがなかなか喋らない事に疑問を持ったのか、かがみが聞いてくる。
「ん、えっと……、柊か?」
『……あんたが電話してきたんだろう』
 まあ、確かにそうだ。
 分かってて電話したわけなのだが。
『なんか用?』
「あー……えっとな」
 どうして電話したんだろう、とも思う。
 暇だったから? 単純に寂しかったから?
 それもあるかもしれない。
『また忘れたとかじゃないだろうな……』
 向こうから重苦しいため息が聞こえてきた。

「いや、今日はそんなんじゃねぇよ」
『じゃあ何よ』
「んー……、実はな」
 考えれば、理由はいくらでも思いつきそうだった。
 でもここでは、一番あってそうな答えを口にしてみる。
「何も無いんだわ」
『………』
 受話器の向こうが沈黙に包まれた。
「あー……柊?」
『……切るわよ。じゃあね』
「ちょ、待ってくれって!」
『…………なんで用が無いのに、わざわざかけてきたのよ」
 こっちはそんなに暇じゃないのよ、とかがみは呟く。
「じゃあ、ちゃんとした理由を言うからさ」
『何?』
「……実は、な」
『……?』
 突然、声のトーンを落としたみさおに、かがみが様子を窺う気配がした。
「柊の声が聞きたかった。……それじゃ、ダメか?」
『……センター過去問ってどこに積んだっけな』
「わ、私が悪かったから切らないでくれってば!」
 はぁ……、という盛大なため息が耳元で響き渡った。
 『あんたの相手をするとホントに疲れるわ』と、かがみはぼやく。
「でも……、柊の声が聞けてよかったっていうのは、ホントだよ」
『………』
 少し人と喋って、軽口を叩けたおかげだろうか。いつもの元気が、わずかに戻ってきたような気がしていた。

『なんでかわかんないけど、あんたに言われてもちっとも嬉しくならないわ』
「……それはちょっと酷くないか?」
『だってあんたの声を聞いた途端、急にお腹が痛くなってきたし、頭痛もしてきたような気がするし。はっきり言って重症だわ』
「柊……? よく聞こえないよ」
『冗談よ』
 ネタだとしても、かがみが言うと冗談に聞こえないから困る。
『で、あんた……、今一人?』
「………」
 なぜかその言葉で、ちくりと胸が痛んだ。
「……うん」
『そう』
 かがみの感想はそれだけだった。それっきり何も言ってこない。
「いや……、さ」
 なんでもないことのはずなのに、心がざわめく。
「部活のやつらからいろいろ誘われてたりとか、クラスメイトからもなんか言われたりもしてたんだけど、なんか行く気しなくてさ。それにクリスマスだからって誰かと騒いでないとおかしいとか決まってるわけじゃないし、一人で過ごすのも悪くないかなぁ、とか思ってたりとか」
 喋りながら、自分でもわけわかんないこと言ってるなぁ、と思った。
 必死になってどうでもいいことを言って、いったい何に言い訳をしているんだろうか。
「それに柊だってあれだろ? 家族となんかやるとか楽しそうに言ってたから、誘えなかったしさー。だから、まあ……」
 電話の向こうは、相変わらず無音だった。
「そういうわけで……、今は一人で寒空の下のわけよ」
『ふーん……』
 かがみは特に興味がないような返事をする。

『じゃあさ、……峰岸は何をやってんの?』
「……え」
 短距離走を全力で走り終わったときみたいに、息が苦しい。
「……なんで、私に聞くんだよ」
『いや、なんとなく。……そういや彼氏と過ごすとか言ってたわね』
「………」
『あんたのお兄さんと、だっけ』
 自分の口から、声にならない声が漏れた。 
「………」
『………』
 受話器の向こうの彼女は、黙ったままそれ以上何も聞いてこなくなった。
 どうして知ってんだ? とか聞きそうになったけど、多分あやのから聞いたんだろう。
 かがみが言った事は、別になんでもないことだ。
 ただ「そうだよ」と答えれば、それで終わってしまうような、ただの事実。
 だけどそれなのに、頭がぐるぐるしてしまう。
 胸が締め付けられるような感覚がする。
 息が苦しい。
 喉が渇いて、唾を飲み込む。
 固い感触がする左耳からは何も音は聞こえてこない。冷気にさらされたちぎれそうな右耳には、車や人の喧騒や、いろんな店から聞こえてくるクリスマスソングが煩わしいほどに鳴り響いている。
 別に泣いてもいないのに寒さで鼻先が湿ったのを、右手で拭いた。
 ふと見上げた空は本当にキレイに晴れ渡っていて、ポツンと満月が、一つだけ光り輝いていた。

「……たぶん私は、あやののことが好きなんだと思う」
 自然と、そんな言葉が口から漏れた。
「たぶん、って言うよりかは……。うん……。好き、なんだ」
 そこまで言って、ようやくわかる。
 じっと黙りこんだ電話の向こうの彼女は、本当にいいヤツで、やっぱり私の親友なんだって。
「あやのとは昔からずっと一緒にいて、気付いたときにはもう好きになってた。自然な関係、だったよ。だから……あんまり好きだっていう感覚は、気になったりはしなかった。一緒にいるのは当たり前だったし、あやのも特別私に気を使うなんてこともなかったし、友達以上になりたいとかそんなのは全然思わないんだよ」
『………』
「恋人同士の関係とか想像したけど、それはなんか違うっていうか、今のままが一番理想っていうか。恋人とか結婚とかそういうのじゃなくても、“一緒にいる”ってことが続けばそれでいいって思ってた」
 一気にそこまで喋って、みさおは軽く息をついた。
 白い、雲みたいなやつが空気に消えていく。

「ずっと一緒だったよ。そりゃあ部活が違ったり友達が違ったり別々の行動を取ることだってあったし、あやのにもあやのの生活があるし、ケンカすることだってあったよ。でもそれでも……私とあやのはずっと一緒だった気がする」
 私しか思ってないかもしれないけどな、となんでか笑みが浮かぶ。
 電話の向こうのかがみは、やっぱり何も言わずに話を聞いてくれていた。
「でも判るんだ。ずっと一緒だったから、ずっと……見てたから。あやのは、違うんだって」
 幼い頃に、手を差し出した少女。
 ずっと手を引き、手を引かれて、ここまで来た。
 でも、ある人間とある人間が永遠に会えなくなることは、とても簡単に出来てしまう。
 それならこの関係も、終わりが来てしまうかもしれない。
 大学に入って別々になって、少し疎遠になったら、たったそれだけでなくなってしまうかもしれないんだ。
 だから私は決めたんだ。
 あの日、あの時。
 そう、思えばあれも、今みたいに――。

「だから私は……、今ここにいるんだ。寒くても、寂しくても、凍えてしまいそうでも」
 白く、塗りつぶされたとしても。
「私が、望む関係のために」
 それが、本当の理由。
『……そう』
 かがみの返事はやっぱりそっけないものだった。
 だけどさっきよりは、あったかいような感じがした。
「悪ぃ、柊。……変な話しちまって」
『いんや』
「……ありがとう」
 少し、肩の荷が下りたような気がした。
 肌を撫でる空気は相変わらず冷たいけれど、心はわずかに暖かくなったように思った。
「これで二度目だな」
『そうだっけ?』
 すっとぼけたような声でかがみは言う。

『まあ、でもね。……やっぱりあんたは、峰岸のことを話してるときが一番楽しそうよ』
「………」
 そうなんだろうか。自分では意識した事はなかったから、少し気恥ずかしい。
『それに、あんたは強いわよ』
「……そうか?」
『うん。だってちゃんとわかってるもの。……自分自身の望みを』
 何か思うことでもあるのか、あまり聞かないような声をしていた。
『それに、私には何もできることがないし』
「……そんなことねぇよ」
『そう?』
 ならいいけど、と彼女は言う。
「……柊はそんなこと言うけどさ。実際は……そんなに甘くないよ」
 自分は強くなんてない。
 今だって、すぐにでも折れてしまいそうなんだから。
「だからまたそのときは……」
 弱さに負けてしまいそうなときは。
「頼んでも、いいか?」
『………』
 かがみはしばらく黙り込んだあと、観念したように『しょうがないわね……』と呟いた。
 どんな幸せでも逃げてしまいそうなほど、大きなため息とともに。

『ったく……、なんで私の周りには手間のかかる人間しか集まらないのかしら』
「そりゃぁ、柊がそれだけ頼れる存在ってことだよ」
『……私にもそんな人間がいれば、あんたらみたくおきらくに生きれるんだろうに』
 早死にしそうよ、とうんざりした声でかがみは言う。
 そんな彼女にみさおは笑う。
 でもそう言いつつも、かがみもどこか楽しそうにしている感じがした。
 ふいに、電話の向こうの後ろのほうから、『お姉ちゃーん?』という声がかすかに聞こえてきた。
『あ』
 ――ごめん、もうちょっと待ってて、とかがみが誰かに向かって声をかけていた。
「柊の妹か?」
『うん、……えっと』
「こんなに長い間話し込んじゃって悪ぃな」
 広場の時計を見上げたら、いつのまにかかなりの時間が経っていた。
『ううん。別に』
 そう言ってくれるのが、本当にありがたいと思った。
『それじゃあ、日下部。………。……よいお年を』
「………。……柊も」
 それで、彼女との通話は切れた。
 白い息を吐き出して、携帯をジーンズのポケットに戻す。
 本当に自分はいい友達に会えたと思う。


 彼女は、『メリー・クリスマス』とは、言わないでくれた。







       ♪





「……さて」
 どうしようか。
 寒空の下に長時間放置されていたため、すっかり『つめた~い』になってしまった缶コーヒーをみさおは口に流し込む。
 たとえ友人と話をして元気をわけてもらったとしても、相変わらず行く当てがないという事実に変わりようはなかった。
 またどこかの飲食店で時間を潰すにしても、どこも混んでるだろうし一人で行くものでもないだろう。
「寒みぃ……」
 手がかじかむ。
 ほっぺのあたりが冷たくなっているのが感じられる。
 ベンチに触れてるお尻も熱を失ってきていた。
 はぁ……、と吐いた息の白さも、もう見飽きてしまった。
 そういや子どものころは、この白さが不思議でしかたがなかった気もする。
 自分の口から、雲みたいな物体が生まれてくる。
 いつもは見えない空気ってヤツが、目に映る形で自分の前に現れる。
 でもそれも、すぐに消えてしまう。
 なんど吐いても、どれだけ濃い息を吐いたとしても、いつかは空気に溶けて消えてしまう。
 まるで、雪みたいに。

「しゃあない……」
 そう呟いて、みさおは立ち上がる。
 そのまま駅に向かって歩き出した。
 手をコートのポケットに突っ込んで暖める。
 ちらりと上を見上げると、こんなに騒がしい街の喧騒も、一人で寒い思いをしている人間の気持ちも、全部自分には関係ないよと言わんばかりに――、金色の満月が夜空に浮かんでいた。
 それは自分の光なんかじゃないっていうのに、我が物顔で、空のなかで輝いていた。
 でもたぶん、そんなことは知っているんだろう。
 自分が輝けるのは、彼女がいるからだって。
 彼女は、自分の全てを照らしてくれてるわけではないんだって。
 吐き出される人々の合間を縫い、みさおは他の人と同じように駅へと吸い込まれていく。
 どこかへ帰るのか、これから向かうのかも知らない人々と、一緒に電車をホームで待つ。
 はぁ……、と冷たい手に息を吹きかける。
 この周りは暖かいのだろう。あの白いかたまりは生まれてこなかった。
 でも別に、それは消えてしまったわけではない。
 ただ見えてしまったものが、また見えなくなっただけで、それはいつでもそこに存在している。
 白い雲だって、雪だって。
 あとには必ず、何かが残っている。

 みさおの立つホームの中へと、電車が滑り込んできた。
 人の波の一部になって、巨大な箱の内部に乗り込んでいく。
 ぎしっと音を立てて、さっきまで誰かが握っていたかもしれないつり革に手をかける。
 電車が動き出した慣性の力で、人々の体が横にかたむく。
 こうやって、あの場所に足が向いたのは、少し子どもの頃のことが懐かしくなったからだ。
 それと、かがみとの会話で思い出した、3年前のこと。
 窓の向こうの、色とりどりの光が輝く景色眺めながら、みさおは思う。
 あれも、今日みたいな日のことだった。
 子どもだった自分には、クリスマスというイベントほど心がうきうきするものはなかった。
 高校受験の勉強に煮詰まっていた自分にとって、クリスマスなんて楽しんでいる余裕はなかった。
 どうしてあんな場所に向かう事になったんだろう。
 あれは確か、あやのに誘われたんだ。
 自分の勉強の実力に思い悩んで、部屋に閉じこもっていたところを連れ出され、相変わらずな12月の寒空の下を歩かされていた。


『――なんで……、教会なんだ?』
 思えば随分と沈んだ顔で、隣に並んだあやのに問いかけていた。
『うーん……。これが本当の神頼み……なんて思ったからかな?』
 首を傾げておかしそうに言う彼女に、ちっとも笑える気がしなかったのを覚えている。
『本当は、なんとなく……なんだけど……。……みさちゃんは覚えてる?』
『……?』
『子どものときも、クリスマスに教会に来たことがあったんだよ』
『………』
 覚えている……ような、覚えていない……ような。
『まあ、本当に小さかったころのことだから。……私もほとんど覚えてないんだけど』
 じゃあそんなこと聞くなよなぁ、とか、言わないまでも思っていたような気がする。
『ただね、ちょっと凄く印象に残ったことがあったから』
『……なんだ?』
『んー……、確かね。教会だから、結婚式の話になったの』
『……あの教会は式とか挙げられるようなとこなのか?』
 目の前のややさびれたふうのこじんまりした教会を見つめて言った。
 さあ、どうなんだろう? と、あやのは苦笑していた。
『それで私が……そういうのいいなぁ、みたいなふうになったんだと思う』
 女の子らしいあやのなら、子どものころそんなこと言っていてもおかしくはないだろう。
『そしたらね、……みさちゃんが言ったんだよ?』
 こっちのほうを向いて、瞳を覗き込んできながら彼女が言う。
 澄んだ空気の中で街灯に照らされるその顔が綺麗に見えて、心臓が高鳴る。
 それに、そう言いながら見つめてくるその目は、……なんだかなにかを期待しているようだった。
『……なんて、言ったんだ?』
 目を逸らして、聞き返した。
 小さな声で彼女は『覚えてないよね』と呟いたような気がした。
『みさちゃんはね……、《じゃあ私たちが結婚するときは教会にしようなっ》って……すごい勢いで私に言ってたんだよ』
『……な、ぇ』
『ホント、子どもだよね』
 ふふっ、と心底おかしそうにあやのは笑みを浮かべていた。
 こっちは逆に顔が急に熱くなってきて、居心地が悪くて仕方がなかった。
『…きたらいいのにね』
『え?』
『……みさちゃんならきっと、合格できるよ』
『………』
 そういって微笑む彼女をちゃんと見れなかったのは、胸のドキドキのせいだったのか。それとも、なぜかその姿が儚げに見えたからなのか、よく判らなかった。


 その願掛けみたいなののおかげか、春になってあやのとみさおは無事に同じ高校に進学することができた。


 そしてまた、それから1年ほどたった春。


『やっぱりみさちゃんには、ちゃんと話しておこうって思って……』
 そう切り出されて聞いたのは、あやのとみさおの兄のことだった。
『んー……まあ、そんな気はしてたから』
 さすがに自分でも、それくらいのことには気付いていた。
 だから、少し安心した。
 もし自分の存在が何か影響でも与えてしまったらイヤだと、その頃になって思っていたから。
 だけど、

『本当に……?』

 今年のクリスマスは二人で楽しめばいいよと言ったみさおに、そんなことを聞いてきたあやのを見て、胸がざわついた。
 なんでそんな、失くしてしまいそうな顔をするのか。
 不安を押し隠すように、笑うのか。
 そんな顔をする必要なんてないのに。
 自分はその顔を、……笑顔にする資格は持っていないのに。

 それから今日になるまでは、あっという間だった。
 あやのが自分へのクリスマスプレゼントを買えなくて大笑いしたり。
 かがみが自分たちの予定を聞いて、あやのに彼氏がいることに驚いたり。
 宝くじ買ったり、かがみに跡が付くくらい引っぱたかれたり、ちびっ子とかがみを取り合ったり、ガキ認定されたり。
 そんな間も、ずっと考えていた。
 だけどやっぱり、この思いは変わりそうになかった。
 そりゃ、3年も前から決めてたことだから。
 だからそれが変わってしまわないように、自分の思う道のために、……これからも私は走っていくんだろう。


《……次は…………駅……。次は……》


 自分が降りる駅名のアナウンスが聞こえて、みさおは顔を上げた。
 見慣れた風景が、窓の外に流れている。
 電車は減速しながらホームへと吸い込まれていく。
 駅に到着した事を知らせるアナウンスを聞きながら、揃って飛び出していく人々と共にみさおはドアを出た。
 自分がよく見知った地元の駅。
 洪水のような人の波に流されて駅を出る。
 車内のよくきいていた暖房のおかげで温まっていた身体が、外の寒さで震えを起こす。

 誰もかれも早足で駅を去っていく。
 どこかからクリスマス特有の曲が流れていた。
 派手とも地味ともつかない、やや中途半端なイルミネーションがちかちかと視界に映る。
 ケーキ屋の売り子さんが、今夜が稼ぎ時だと声を張り上げていた。
 何度も見てきた駅前は、ただ聖夜が来たことに浮かれているように見えた。
 少しみさおはそんな街角を見つめて、こんなときぐらいしか向かわないだろう方向へと足を向けた。

 いつもよりかは、少し活気のある商店街を抜けていく。
 現金なもので、こんなときだけはここも特別な街に見えてくるから不思議だ。
 聖夜っていうやつはいろんなものを輝かせてくれるらしい。
 でもそれも、たった一晩だけ。
 本当は明日が本番だっていうのに、来る前が一番はしゃいでいるように感じる。
 明日の夜になればすぐにみんな次はお正月だな、と西洋の文化を脱ぎ捨てる。
 みさおの歩く道が、段々と静かな風景に変わっていく。

 きらびやかなのも、駅前近くだけだ。
 それを抜けてしまえば、閑静な住宅街が広がるだけで、特別おもしろいものが有るわけでもない。
 いつのまにか、こんなところでも流行るようになった民家のイルミネーションが視界に映る。
 オレンジ色の明かりが暖かそうに見えるけど、どこか寒々しさを感じてしまうのは自分の心のせいだろうか。
「はぁ……ぁ……」
 もうため息をつくという行為すら、めんどくさい。
「なんでこんなところに来てんだろ……」
 家を出たのが、遠い日のように感じる。
 あんなところに行っても何もないのに。
 特にすることもないのにな……。
 ついでだから、ありがたいお言葉でも聞いていこうか。
 いや……。そんな柄でもないし、余計に寂しくなるだけだ。

 これが終わったら、家に帰ろうか。
 暖かい我が家で、何もせずにだらだらとテレビでも見ていようか。
「……それも、いいかもな」
 勉強しろよとか、おせっかいなヤツに言われそうだけど。
 歩き続ける道の家々も、窓から光が漏れている。
 そういえば、お腹も空いた。
 ずっと歩き続けで、喫茶店で軽く食べたきりだし。
「……ぁ」
 かすかに、風に混じって歌声が聞こえてきた。
 なぜか誰もがどこかで聞いたことのある、クリスマス・キャロル。
 聖なる歌。
 祝福の歌。
 誰かにささげるために歌う詩。
 視界の向こうに教会の明かりが見える。
 記憶の中にあったあの日の景色。音。空気。匂い。
 そして――、
「……は……」
 よくわからない、ため息だかなんだかが、白い軌跡を残す。
 ……どうせだったなら。
 今日だけ、消えてしまえればよかったのに。
 どこにもいない存在になって、本当に白く染まってしまえればよかったのに。

 目の前に広がるその風景は、どうしようもなく、あの時の記憶そのままだった。
 光のなかに浮かび上がる教会も。
 建物の中から響き渡るあの歌も、鐘の音も。
 澄み切った空気も、夜空も、凍えそうなこの寒さも。

 あの時自分の隣にいた、私が一番会いたかった――彼女の姿も。

「……みさちゃん」 

 耳に響いたその声は、まるで鈴の音のように感じられた。





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