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かざした手のひら

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匿名ユーザー

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 ――感じるのは、かすかに漂う甘いにおい。



 キッチンに備え付けてあるオーブンの前で、一人の少女がしゃがみこんでいた。
 額の中心に眉をよせ、心配そうな顔で中を覗き込んでいる。

「本当にちゃんとできるよね?」

 向こうの部屋にいる母親に向かって問いかける。
 そんなに心配しなくても大丈夫よ、と母ののんきな声が返ってきた。

「でも……、だってこれは……」

 目をこらして、中を見つめる。
 オレンジ色の光に照らされたそれは、ガラス越しにはうまくいっているのかわからなかった。
 ひたすら見つめながら、時間が経つのをじっと待つ。
 不安と期待がなんだか変なふうに合わさって、落ち着かなくてしょうがない。
 手に着けたミトンに視線を落とした。
 あの子は……よろこんでくれるかな――。


 ピ――っという音が、オーブンから鳴り響いた。



       ♪



 ――ピピピッ、と目覚まし時計の鳴る音がする。


 布団の中から手を伸ばして、あやのは手探りで時計の位置を探す。
 ふらふらと揺れる手が、うるさく騒ぎたてる時計に触れられ、ようやく音が鳴り止んだ。
 ぼやけた思考のまま、ベッドから身体を起こす。
 綺麗な長い髪が揺れて、シーツの上へと広がった。
 まだ太陽が明るく照らす時間ではなく、室内は少し薄暗く感じる。
 なんだかまだ、ずいぶんと眠かった。
 昨日の夜は確か……、――同じことをしていたんだ。
 それで少し眠るのが遅くなって、寝不足なせいか布団から出るのが少し辛い。
 ふぁ……、と欠伸が出た。
 寝ぼけまなこの目をこする。
 ベッドから降りて、ふらふらしながら部屋を出る。
 眠くたって遅刻はしたくない。
 今日もまた、あの子と一緒に登校するっていうのだから。



       ♪



 また今度ね、とクラスメイトに声をかけられて、あやのは手を振り返した。
 放課後になった教室は、ようやく学校から解放された生徒達によって喧騒に包まれていた。
 これからの予定について話し合う人や、さっそく今日から遊びに行こうとする人など、みんな一様に浮かれているように見える。

 だけどそんな中にも、少し気の重そうな人もいた。
 というより、あやのが今そばにいる机の主がそうだ。
 真っ黒い髪の少女は、陸上をやっている時みたいな真剣な表情で、机の上の紙を見つめていた。
「――おーす、日下部。どうだった?」
 そんなみさおのところへと、同じクラスの少女――かがみがやってきて声をかけた。
 いつもはなんとなく怖い雰囲気(みさお談)な彼女も、今日は機嫌がいいように感じる。
「あー、柊。いやーなんていうか、……まあまあだった、ような」
 直視したくない、といった顔でみさおは答える。かがみはその机の上に広がっている紙――みさおの通知表に視線を落とした。
「……まあ、あんたならそんなもんよね」
 なんとも微妙な顔で、かがみが呟いた。
「それなら柊はどうだったんだよ」
 自分の通知表を閉じながら、みさおはかがみに聞く。
「ん? 見るか?」
 カバンの中から、自分の通知表を取り出し、手渡す。
「………。……あれだ。次がある」
 みさおはそこに書かれているであろう(彼女としては)衝撃的な結果をみて、何かを吹っ切ったような顔でそう言った。

「峰岸は?」
 暗い顔で自分のとかがみのものを見比べているみさおを放っておいて、かがみがあやのへ声をかける。
「私はあんまりだった、かな?」
「別にこいつに気を使わなくてもいいと思うぞ」
 こいつ、と指さしながら、かがみが横から覗き込んでくる。
「……やっぱりさすがね」
「そう、かな?」
 手元にある通知表は、自分的にはまあまあといったところ。
 とういうよりは、いいのかも。
 隣でへこんでいる彼女には、なんだか申し訳なくなってしまう。
 えっと、ゴメンね、みさちゃん。
「別にいいんだよ。どうせ明日からは夏休みなわけだし、こんなこと気にしなくたってー」
 机の上に身体を乗せながら、みさおが口を尖らせる。
「休みの間に挽回しようとか思えよな……。それにあんた受験生だろ?」
 かがみはまったく、といったようにため息をついた。

 ――今日、7月20日は終業式だった。
 明日からは、長く拘束されていた学校という檻から解き放たれる、夏休みへと突入する。
 けれどその前には、この通知表というものを乗り越えなければならないわけで。
 だけどみさおは、完全にそれから逃避することにしたみたいだった。
「はぁ~、ホンット柊はわかってねえなぁ……。“夏に休む”と書いて夏休みって言うんだぞ? それなのに休まなかったりしたら、夏休みに失礼なんだからな!」
「……あのな」
「今年の夏も、私は休む……全力でっ!」
 ぐっとこぶしを握りしめ、みさおは高らかに宣言する。
「ったく、あんたは毎年毎年……。そんなんだから、」
「聞こえない、聞こえなーい。私はこの夏をエンジョイするのー! 夏休みが向こうで私に手を振ってるのー!!」
「おい」
 耳に手を当てて、首を振りながらみさおが声を上げる。
 ほとんど子どもと変わらない態度をとる彼女に、あやのは苦笑する。
「あー、そうかい。そうまで言うんだったら、もし2学期になって手遅れになったとしても私は知らないからな。あと夏休みの宿題も手伝ってやらないし、その後のことも一切関知しないんで」
「な、ええっ……」
 かがみの言葉にみさおは目を見開く。
「夏は受験の天王山って言うしなぁ……。夏を制するものは受験を制す。それなのに日下部は休みまくると」
 すっかり動きを止めてしまったみさおに、かがみが言う。みさおのさっきの勢いもどこかへと消えてしまっていた。
「実際に休みまくった受験生っていうのはどうなるのかしらね。あー、今から来年が楽しみねー」
「うっ……、くぅっ……」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべながら、かがみが言う。
 なんだか今にも冷や汗をたくさん浮かべそうに、みさおが身じろぎした。
「……それで。夏休みは、何して休むの?」
「っ……!」
 勝ち誇ったようなかがみと、すっかり気勢をそがれたみさお。
 結局みさおは、
「あやの~。柊がいじめるよ~」
 あやのに泣きついた。
「せっかく現実逃避してたのに……」としょんぼりする彼女の頭を、あやのはよしよしと撫でてあげる。
「勉強しなきゃいけないことぐらい、私だってわかってるって」
「いや。全然信用ならない」
 きっぱりと、斬って捨てるかがみ。
 そんなんだから凶暴って言われちゃうんじゃないかなと、あやのは思う。
「ようやく夏休みに突入したわけなんだから、ちょっとぐらい現実から目を背けたっていいじゃねえかよ……。それに今日は私の誕生日なんだぞーっ。少しは優しくしてくれよ!」
 ぶーたれながら、かがみに訴えかける。

「あんたのために言ってるんだけどなぁ……。少しは危機感ってものを持ちなさいよ」
「それでも柊は慈愛とか、そういうのを持ったほうがいいって!」
「………」
「なんだよ」
「…………いや、慈愛なんて言葉よく知ってたな」
 何か大変なものでも見たかのような顔で言われて、みさおは声にならないショックを受けていた。
「そういや今日だったわね。元海の日の」
「そうだぞー。だからなんかくれ」
 机の上に身体を投げ出して、みさおはすっかりとふてくされていた。

「そうね。……じゃあ、これでもあげるわよ」
 バッグを覗き込みながらそう言って、
「はい、お誕生日おめでとー」
 やる気のない口調で、みさおの前にそれを置いた。
「お、おお……。柊にもこんな優しい一面が。ありがとう、柊。このポッキーは一本一本大切に食べ、…………ってポッキー一箱かよ!」
 ポッキーの箱を持ち上げて、みさおが叫ぶ。
「一応それ、私のとっておきだから。少しは感謝して食べなさいよ」
 ううっ、とみさおは声を漏らすと、箱を開けてポッキーを口にくわえた。
「あやの、なんだかポッキーが苦いよ……」
「そりゃビターだしな」
 そんな二人のやりとりを見て、あやのはただ困ったように笑うしかなかった。



       ♪



「――はい、みさちゃん」
 結局かがみと一緒にポッキーをつまんでいたみさおに向かって、あやのは一つの袋を差し出した。
「え?」
 突然渡されたそれを反射的に受け取ると、彼女はキョトンとした顔であやのの顔を見返した。
「私からのプレゼント」
 小さく笑いかけながら、彼女に言う。
「………」
「みさちゃん?」
 彼女はジッとそれを凝視しながら、手をわなわなと震わせていた。
 そして、
「あ゛、あやの゛~」
 ひしっ、とその袋を抱きしめた。袋のビニールが、ぐしゃっと音をたてる。
「やっぱりあやのは違うよ。あの優しさを忘れた悪魔とは、ゼンッゼンッ、違うよ! こうだよな、普通プレゼントってこういうもんだよな!!」
 プレゼントを掲げながら、歓喜にむせび泣くみさお。
 ものすごいオーバーリアクションで喜びを表現してくれるのはいいのだけど、少しだけ恥ずかしいような気がして、あやのは困ったような笑みを浮かべた。

「大げさだなぁ」
 と、かがみが呆れたように呟いていた。
「どうせ柊にはこの気持ちなんてわからねえよ。今のこの私の喜び具合なんて。……ありがとう、あやの! さっきの誰かのとは比べられないほどに大切にするから!」
「あ、うん」
 怒涛の勢いで言い放つみさおに、あやのはおされ気味に答える。
「柊も少しは見習えよな?」
「んー? ……ああ、はいはい」
 あんただって私の誕生日、なあなあだったじゃない、とかがみが小さく呟いた。
「なんだ? うらやましいのか?」「峰岸からはちゃんと貰ってたの、あんたも見てたでしょ?」「やっぱコレって愛だよな……。絆の勝利だよな」「……聞いてないし」
 なんだかんだで仲良く話し合っている二人に、あやのはやっぱり苦笑を浮かべた。

 みさおとあやのが彼女と知り合ってから、もう5年目になる。
 随分と長い間一緒だった気もするし、それほどでもないような感覚もする。
 自分とみさおに比べれば付き合いは短いけれど、それでも今では、大切な友達――親友だと思う。
 二人の会話は、見てて飽きない。
 それになんだか、少し心地がいい。
 いつも元気いっぱいなみさおと、呆れながらも、結局世話を焼いているかがみ。
 みさおはよく、かがみは薄情だなんて言っているけれど、今だってすごく楽しそうだ。
 かがみがまた、調子に乗ったみさおへと怒りをあらわにしていた。
 そんな二人の姿は、やっぱり楽しげにあやのの目には映った。

「――お姉ちゃん」
 教室のドアの方から、声が聞こえた。
 声のほうに視線を向けると、そこには一人の少女が立ってこっちのほうを眺めていた。
 あの子は確か――。
「あ、つかさ。今行くから、ちょっと廊下で待ってて」
 かがみがその少女に――かがみの妹へと手を振る。
 彼女はそれを聞いて、うんと頷くと廊下へと出ていった。
 そういえばあの子とも、ずっと学校が一緒だったんだよね――。
 同じクラスになった事はないけれど、こんなふうによくかがみを迎えに来ているのを見かけていた。
 双子の妹だというのだけど、かがみと違って、なんだか可愛らしい感じだ。

「じゃあそういうわけだから、そろそろ私、行くわね」
「あ、うん。またね」
「それじゃあ、今度よろしくな。――柊も最後の夏休みなんだし、少しは楽しんだほうがいいぞ」
「はいはい……」
 かがみはそう言って軽く肩をすくめると、振り返って教室のドアの方へと足を向けて、
「ああ、そうだ日下部」
「ん?」
 何かを思い出したように声をあげた。
「これもあんたにあげるわよ」
 そう言うと、カバンの中から何かの袋を取り出し、
「はい、改めてお誕生日おめでとー」
 やっぱりやる気の無い声で言って、みさおへとそれを差し出した。

「……ほへ?」
 受け取りながら、みさおが変な声をあげる。
「これ、なに?」
「何って……、だからプレゼントよ」
「ああ……。……え……」
「この前少し用事があったときに、あんたも誕生日が7月だったなって思い出して……それでね」
 かがみの言葉を聞きながら、みさおはまじまじと手元のそれを見つめていた。
「ま、というわけだから。――じゃあね」
 そう一気にまくし立てると、スカートをひるがえして、かがみは廊下へと向かって歩いていった。
「………」
 みさおは少しの間それをじっと見つめたあと、顔を上げて、
「柊っ!」
 そう呼びかけ、ドアから出ようとしていた彼女が振り返る。

「――ありがとっ!」
 満面の笑顔で、みさおがそう言った。
「………」
 かがみはなんだか複雑そうな顔をして、
「……声でかいわよ」
 それだけ言い残して、廊下へと出て行った。



       ♪



 夏といえば、セミの鳴き声だと思う。
 道端の木からその声が聞こえると、夏が来たんだなって実感する。
 今もどこかで鳴いている。
 誰かの家の木の上からも、生い茂った木々の影の向こうからも。
 日差しの眩しさと一緒に伝えてくる。
「にしても今日も暑いなぁ」
 帰り道を歩くあやのの隣で、みさおがそう呟いた。手を額にかざして、眩しそうに太陽を見上げていた。
 不満そうな言葉と裏腹に、その顔は笑顔を浮かべている。
 いつもパワーが有り余ってるような彼女だけど、今はなんだか、すぐにでも走り出してしまいそうだ。

「……良かったね?」
「?」
「柊ちゃんからのプレゼント」
「ああ」
 ふと、思い出したかのようにみさおが声をあげた。
「あいつにしては気が利いてるというか……。なんかあったのか知らないけど、最近機嫌もいいし」
 カバンと一緒に提げた袋に視線を落とし、みさおは言う。
「まあ、良かったのかな?」
 にっと笑みを浮かべる彼女。
 その顔を見て、やっぱり二人は仲がいいんだな、とあやのは思った。

 ずいぶんと長い間、通り続けた道を、二人で並んで歩いていく。
 いつものように、みさおがあやのへと話しかける。
 いままで通り、あやのは彼女の言葉に耳を傾ける。
 彼女はいつでも楽しそうに、嬉しそうに話をする。
 自分はそんな彼女に、相づちを打ち、言葉を返す。
 時に身振り手振りをつけながら、みさおはいろいろな事をしゃべっていく。
 今日は早くに終わったし、これから何をしようか。
 今年の夏はちゃんと宿題を早めに済ましたほうがいいかもしれない。でもやっぱり無理そうだ。
 今度、柊とも勉強会を開こうか。
 勉強もしなきゃいけないけれど、少しぐらい遊びたい。
 祭り、花火、プールにサイクリングにハイキングに。
 でもやっぱり……。
 あやのは、そんなみさおの顔を眺める。
 彼女は本当に嬉しそうに、これからの夏の事について想像を膨らませていた。

「もう、最後なんだね」
「ん?」
「夏休み」
「おぉ、そういやそうだな」
 やっぱり彼女は、あっけからんとした口調で言った。
「まあ、最後っつってもまた来年もあるけどさ。……無事に進学できたらだけど」
 自分の成績を思い出したのか、苦い顔をするみさお。
「ホント今年の夏は大変だよ……」
「………」
 勉強なんて私の性に合わないんだけどなと、みさおはぼやいていた。

「今年もまた、どこかに出かける?」
「んー、そうだなぁ……。でも柊も言ってたけど、実際そんな余裕があるかどうか」
「でも、……最後の夏だし」
「そうだよなー。最後なわけだし、なにかそれにあった思い出ってのが必要だよ」
「……うん」
 もう、高校に入って三回目の夏だ。
 三年生にとっては、本格的に受験の準備を始めなきゃいけない季節となる。
 だけど、勉強だけじゃない。
 この年の、この季節っていうのは、いろいろなものが流れていく。
 例えばスポーツとか恋とか、……友達との思い出とか。
 いまいち、最後っていうのが実感できないけれど、だけどなんだか寂しいって思ってしまう。

 今まではずっと、夏が来るとすごく嬉しかったような気がする。
 夏休みが来るのが待ち遠しくて、早くやってきてほしいと思っていた。
 そしてそんな夏休みは、あっという間に過ぎてしまって、また来年の夏を想像してしまう。
 でも今は――。
「今年は……、何をしたらいいんだろうね」
「ホント、やらなきゃいけないこともあるっていうのに、やりたいこともいっぱいあってさ。せめてあと十日、いや二十日は増やしてほしいよ」
「……そうだね」
 確かにそれぐらいあれば、いろいろなことが出来るかもしれない。
 なにか大切な思い出もできて、もっと楽しい夏になるかもしれない。
 だけどそれでも、季節は過ぎる。
 移り変わって秋が来る。
 冬も、春も、……次の夏も。
 やっぱり思い出が、できるだけ。
 高校生最後の、二人でいられる最後の夏の。
 それならもう、来なくてもいいんじゃないだろうか。
 そんなこと言ったって、何も変わらないかもしれないけれど。
「――あのさ、あやの」
「……?」
 振り返って、あやのは足を止めたみさおを振り返った。
 空の真上まで昇りきった太陽の日差しを受けながら、みさおはこちらをじっと見つめていた。
「どうしたの? みさちゃん」
「……そのさ。どうしても頼みたいことがあるんだよ」
 そう言って、みさおはこちらのほうへと近づいてきた。
 2m、1m…、50cm、30cm…。
 ほとんど目の前へと接近した彼女の顔を、あやのは見上げるような感じで見つめ返す。

「み、みさちゃん?」
「やっぱりこれは、あやのにしか頼めないんだよ」
 びくっ、とあやのの身体が跳ねた。
 体の前で、みさおが自分の右手をとって、両手でギュッと握りしめていた。
「あやの」
「………」
 彼女の瞳は、ひどく真剣だった。
 黒い黒いその眼差しはとても深く、まるで吸い込まれそうで、意外に長いまつげとか、少し鋭い目尻なんかが、なんだか目に付いて離れなかった。
 握られた手が、熱を帯びる。
 なんだか急に、日差しが熱いような気がしてきた。
 どれくらいそうしていたのか。みさおはたっぷりと一呼吸を置くと、その真剣な表情をそのままに、ようやくその言葉を口にした。
「――今年も、宿題とか勉強とか、……手伝ってくれないかっっ!」
「………」
「………」
「………」


 ――どこか遠くのほうで、蝉の鳴いている声が聞こえていた。


「やっぱダメか?」
「えっ?」
 みさおに言われてハッとする。いつのまにか汗をずいぶんとかいてしまっていた。
 多分かなり思考が止まっていたのだと思う。
「べ、別にいいよ?」
「ホントかっ?」
「そ、それぐらいなら。それに毎年そうだし」
 みさおがあやのの宿題を写すのは、今に始まったことではない。
 8月の終わりになって必死になる彼女の姿は、もはや夏休みの風物詩だ。
「あ、ありがとう、あやの。ホントに毎年毎年助かるよ……」
 みさおはそう言って深いため息をつくと、ようやく手を離してくれた。
 視線を落とすと、そこはすっかり熱くなっていて、じんわりと汗で湿っていた。
「もし一人でやったとしたら、絶対夏休みがつぶれちゃうしさ。これで今年も、安心して……あやのと遊べるよ」
「………」
「覚悟しろよ、夏休み!」
 そう言うとみさおは、太陽を眩しそうに見上げた。
 降り注ぐ光を浴びつつも、不敵な笑みを浮かべながら空を睨みつける彼女のことを、あやのは思わずじっと見つめてしまった。

 どこからそのエネルギーは来ているんだろう。
 なんでそんなに前向きなんだろう。
 そんなふうに、思うときがある。
 いつだって、無駄だっていうぐらい何事にも全力投球で。
 何も考えてないようで、やっぱり本当に何も考えてないように見えて。
 それでもいつだって、やりたいことを、やらなきゃいけないことを、そのままの勢いで突っ走っていってしまう。
 そしていつの間にか――その後をついていきたいと思ってしまう。
 一緒にその道を、突っ走っていきたくなっている。
「……ふふっ」
 こらえきれずに、笑みがこぼれた。
「なっ! べ、別に笑うことないだろ」
「だ、だって……」

 全然、変わっていないんだもの。
 初めて会ったときも、その後もずっと、今みたいな感じで。
 少しは大人になったなってこともあるけど、根本的なとこは少しも変化してないような気がする。
 あの時のまんま。
 いつだって、自分のことを振り回していて。
 夏になるとすぐに、勝手に私の手を引いて、外へ向かって駆け出していた子どもの頃と……。

「いいよ……、どうせこの悩みは毎年宿題に悩まされてる人間にしかわからないもんだし。これでも結構、かなり悩んだりしてたんだからな」
「あ……」
 みさおはそう言うと、しかめっ面のまま、先へと歩いていってしまった。
 その後姿だけでも、拗ねているのがはっきりわかって、そんな子どもっぽい彼女にもやっぱり笑みが浮かんだ。
 どんどん先へ行ってしまうみさおに、あやのは軽くため息をつくと、すっかりいじけてしまった彼女の前へと回り込んだ。

「みさちゃん」
「……なんだよ」
「これあげる」
「……?」
 そう言って、カバンから出したものを差し出した。
「これ……」
「クッキー。みさちゃんの誕生日だから、また作ってみたの。よかったら食べて」
「………。……ありがと、あやの」
 みさおはそう呟くと、ジッと真剣な表情で手元を見つめだした。オレンジのリボンで綺麗にラッピングされた、――昨夜遅くに作っておいたそのクッキーを。

「……みさちゃん?」
「え? あっ」
 声をかけると、ハッとしたようにみさおは顔を上げた。
「いや、その……、あやのが初めてクッキーをくれたのも誕生日のときだったな、って思い出してさ」
「……そうだっけ」
「うん」
 と、何かを思い出すようにみさおは手元を見つめる。
「その時あやのはさ、なんでかすごい泣きそうになってて……。『これあげる!』ってすごい勢いで私に押し付けて、その後私が『食べてもいいか?』って聞いても、ずっとうつむいて顔を上げてくれなくて」
「………」
 そんなことも、あっただろうか。
 それは確か、――こうやってお菓子作りをするようになったきっかけでもあった。
 ずいぶんと古い記憶すぎて、今までちゃんと思い出したこともなかった。

「で、しょうがないから私は勝手に一ついただいてね、ちょっと形はいびつだったけど、それはもうおいしかったわけよ。……それでさ。私がそれを言うと、あやのは……」
 そこまで言って、みさおは言葉を切った。
「?」
 ふいに口をつぐんでしまった彼女に、あやのは首を傾げる。
「ん、あっ、いやなんでも」
 ハハハ、とみさおが手をぶんぶんと振る。
「ま、とにかく懐かしいなって思い出しちゃってさ」
 「ありがたくいただくよ」、とみさおは笑顔を浮かべる。
「よく覚えてるね」
「ん?」
「そんな、昔のこと」
「ああ、そりゃあ。……なんか、すごく嬉しかったんだよ。本当に私のために作ってくれたんだっていうのが、伝わってきてさ」
 その時を懐かしむような顔で、みさおは言う。

「あれからかな。あやののクッキーが、私の大好物になったのは。味ももちろんだけど……、やっぱりあやのが焼いたクッキーが一番好きかなぁ……」
「………」
「だから、さ」
 みさおの真っ直ぐな瞳が、すぐそこにあった。
「また今度。……いや。これからもずっと、作ってもらえないかな?」
「………」
「ま、まあできたらでいいけどさ」
 クルッと後を向いて、みさおはガシガシと頭をかいた。


 ――そういえば、さっきはなんで悩んでいたんだろうか。
 いつか離れてしまうこととか。
 きっとこれからは、二人でいられる夏は来ないだとか。
 今までの記憶と、思い出と。
 そんなものまで、全部終わってしまうような、そんな気がしていた。


「いいよ」
 彼女の右手に、手を伸ばす。
「また作ってあげる」
 少し驚いた顔でみさおが振り向いた。
「……ホントか?」
「うん。……これからも、ずっとね」


 影を揺らして、風が吹きぬける。
 焼けつく熱を帯びたアスファルトが、夏を迎えた空気を焦がす。

 季節は巡る。
 夏はいつか終わりを迎える。
 凍えるような冬が来て、春になればまたこの熱い日を思い出す。


「んっ……、よろしくなっ!」


 そう言って、にっと笑って手を握り返された。 


 彼女のその手はあまりにも力強くて。
 今にもこの手を引いて走り出してしまいそうで。
 これからまた夏休みが来るっていうのが、楽しみでしかたないと、――そう思えた。



 夏の日差しは、まだ空高くて――。





       ♪





 ――眩しく照らす太陽が、印象的だった。


『食べていいか?』
 玄関の前で黙り込んでしまった彼女に、私は問いかける。
『………』
 泣きそうな顔を下に向けて、彼女は何も答えない。
『もらう、から』
 一言断りを入れて、袋の中に手をいれた。
 いびつな形。
 でもそれは、確かに一から作った手作りであるという証拠。
『ぁ』
 口の中に、甘さとどこか香ばしいような味が広がる。 
『おいしい』
 ポツリと正直な感想が口から漏れた。
『……ホントに?』
 消え入りそうな、声が響いた。
 相変わらず今にも泣きそうな顔で、彼女は見上げる。
『うんっ。すっごいうまいよ!』
 そんな彼女を元気付けたくて、私は思いっきり笑顔を浮かべた。
 でもそれ以上に、本当にこの贈り物がおいしいと感じたことのほうが大きかったのだけれど。
『……よかった』
 そう言って、彼女は涙をこぼした。
 泣きながら、嬉しそうに笑みを浮かべた。


 その笑顔があまりにも眩しくて、私は思わず目を細めていた。




 ――思い出したのは、かすかに漂う甘いにおい。





 fin.

















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コメント:
  • 同じ境遇に立たされてると
    もう、あと少しなんだなと思ってしまって
    泣けてくるな・・・ -- mkl (2009-04-26 00:15:13)

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