ハイエクと自由主義

「ハイエクと自由主義」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ハイエクと自由主義 - (2010/03/06 (土) 04:39:51) の最新版との変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

#CENTER(){&italic(){&sizex(4){「自由の理論のこの発展は主として十八世紀に起こった。それはイギリスとフランスの二カ国で始まった。前者は自由を知っていたが、後者は知らなかった。&br()その結果、我々は今日まで自由についての理論において二つの異なった伝統を受け継いでいる。&br()すなわち、一方は経験的で非体系的、他方は思弁的で、合理的である。-前者は自生的に成長してきたが、不完全にしか理解されなかった伝統と制度の解釈を基礎としており、後者はユートピアの建設を目指すものであり、しばしば実験されてきたが、いまだかって成功していない。」}}} #RIGHT(){&bold(){&sizex(4){F.A.ハイエク『自由の条件』(1960年)}}} <目次> #contents //*■このページの目的 //ここは、オーストリア出身でイギリスに帰化し、またアメリカ・シカゴ大学でも活躍した哲学者F.A.ハイエク(Friedrich August von Hayek 1899-1992)と彼の自由主義哲学を簡単に紹介するページです。 // *■動画:ケインズv.s.ハイエク [[経済の基礎知識]]の動画に登場するF.A.ハイエクは、1980年代の英サッチャー&米レーガン両政権の諸政策に理論的基礎を与えた20世紀後半最大の経済学者・法思想家・政治哲学者です。 #CENTER{&youtube(http://www.youtube.com/watch?v=3EkcQJkudoY&feature=channel){500}} #CENTER{[[ケインズv.s.ハイエク>http://www.youtube.com/watch?v=3EkcQJkudoY&feature=channel]]} ハイエクは、日本ではノーベル経済学賞を受賞した経済学者、という限定した紹介のされ方をする場合が多いのですが、実際には法思想・政治哲学を経済学とリンクさせつつ生涯追求し続けた一代の碩学であり、ナチス・ドイツや旧ソ連・東欧諸国などの全体主義体制に対して激しい闘志を燃やしたことで知られます。 *■動画『隷従への道』 『隷従への道』(1944年)は、第二次世界大戦当時イギリスで強まっていた&color(crimson){計画経済などの設計主義的合理主義}が、&color(crimson){ソ連やナチス・ドイツなどの全体主義に至る危険性}を訴えた名著です。 第二次世界大戦中の1944年にドイツ軍のミサイル攻撃に曝されるロンドンで執筆・出版され、アメリカで大評判になりました。 しかし&color(crimson){社会主義勢力の強かったイギリス}では、この本の出版の反響は芳しくなく、まもなく&color(crimson){アトリー労働党政権が誕生}し、イギリスは(チャーチル率いる保守党の抵抗により)自由主義的な政治形態こそ損なわれなかったものの、&color(crimson){公共企業の大規模な国営化・社会保障の大幅な拡大}(「ゆりかごから墓場まで」)というハイエクの危惧した&color(crimson){社会主義への道}を辿り、1979年に保守党サッチャー政権が誕生するまで「&color(crimson){イギリス病}」とよばれる&color(crimson){長期の低迷状態}に陥ってしまいました。(1976年にはIMFの金融支援を受けるまでに転落) #CENTER{&youtube(http://www.youtube.com/watch?v=XyP1fdE1qxM){500}} #CENTER{[[漫画『隷従への道』要約>http://www.youtube.com/watch?v=XyP1fdE1qxM]]} &bold(){&size(20){[[ダイジェスト版「The Road to Serfdom」の紹介>http://www.liberalism.jp/j/syoukai/syoukai.html]]}} ※上の抜粋 |BGCOLOR(LIGHTGREY):&SIZE(12.5){著者ハイエクは、オーストリアからイギリスに移り住んだ有名な経済学者です。彼は、昔オーストリアに居たときと同じ思想傾向が、イギリスの地で数十年遅れて影響力を増していることに気づきました。そこで第二次大戦の終わりに近い年(1944年)に、この書により人々に警告を発したのです。&br()今、英国において社会主義者が行なおうとしている政策は、かってドイツとイタリアにおいて行なわれて、ナチスとイタリアの全体主義を生み出した政策とうりふたつです。ドイツとイタリアで全体主義が起こったのは、それ以前の社会主義的な政策への反動として起きたのではありません、その社会主義的政策の当然の結果として起きたのです。&br()それは、人々を中世の農奴の地位に引き戻してしまう政策です。まさに『農奴への道』なのです。その道を舗装してはいけません。&br()(中略)&br()『第1次5ヶ年計画』というような、国家によって行なわれる計画は、人々の自由を制限せずに遂行することはできません。だから民主主義を本来の姿のままにしておいては計画は成り立ちません。だから、そのような計画は自由と民主主義を抑圧せずに達成することは出来ません。&br()経済の力が中央に集権化されるとき、そこに奴隷制度とほとんど等しい状態が出現してしまうのです。&br()(中略)&br()19世紀において自由主義は大きく成功しました。人々は、その成功が永続的なものであると錯覚し、それ以上の成功を求めるために、力を結集してより大きな成功を求めようとしました。&br()それは、『社会主義』の形態でドイツにおいて先頭を切って行なわれました。ナチズムが起こるはるか前から、ドイツの社会主義者たちは、『ゆりかごから墓場まで』という政策をかかげていました。また、政党組織の中に青年たちを教育する場を設け、党のクラブを作ってスポーツやレクリェーションを組織化し、仲間同志の独特な挨拶をし、細胞と秘密組織という監視体制を作っていました。ナチスは、ただそれを引き継ぐだけでよかったのです。&br()近くで見た者は、そのことをよく知っています。しかし、遠く離れた民主主義国においては、いまだに多くの人々が社会主義と自由は結合できると信じているのです。&br()かってドイツにおいて国家社会主義を作り出したものは、著述家たちの「保守的な社会主義」というスローガンでした。いま、そのスローガンがイギリスの地を支配しています。&br()社会主義は、早い段階から多くの思索家によって自由に対する最も重大な脅威と考えられていました。社会主義はフランス革命における自由主義に対する反動として始まったのです。それにも関わらず社会主義寄りの人々は、いまだに社会主義と個人の自由とが結合できると信じています。&br()(中略)&br()それは社会主義者たちが『新しい自由』という言葉によって自由を再定義したことによっています。そこでは、富者と貧者との差を埋める社会を目指すことが『自由』であるとされていました。&br()しかし、本来の自由と、新しい自由との間に違いがあるかどうかに注意を払った人は少なく、この二つが結びつくかどうかを問題とした人は、ほとんどわずかでした。このようにして、社会主義へ向かう道が『自由への道』とされていました。&br()しかし、ドイツ・イタリア・ロシアが、たどった道筋は、過去の思索家の『社会主義は自由の重大な脅威である』とする見方が正しかったことを証明しています。自由への道として約束されていた道は、実は『奴隷へのハイウェイ』だったのです。&br()なぜなら社会主義者が考えるような社会は、中央に権力を集中せずに実現することは出来ないからです。たとえ、その権力が民主的な手続きによって集中されようとも、その権力を握った人は独裁的な権力を握ってしまうのです。彼は独裁者以外の何者でもありません。&br()個人の自由は、社会全体が永久に従属させられることとなるような、一つの目的を目指す覇権とは調和できないのです。はっきりとした終点を持つ政策に向かって権力を集中するなら、それも分かるのですが、『平等』という目的は、個人の自由を永久に社会に従属させることとなってしまうのです。&br()この2・3世代の人々によってかかげられた『民主的な社会主義』という『万人の理想郷』は、言うまでもなく、成就できません。}| *■ジョージ・オーウェル『1984年』 #CENTER{&nicovideo2(http://www.nicovideo.jp/watch/sm7026098)} #CENTER{[[【映画】ジョージ・オーウェル『1984年』>http://www.nicovideo.jp/watch/sm7026098]]} #CENTER{&color(teal){コメントを消す場合は、右端のマークをクリック}} ジョージ・オーウェル著『1984年』は、ハイエク『隷従の道』から5年後、アトリー労働党政権下で産業の国有化が進む1949年のイギリスで出版された未来小説である。 当時東欧諸国ではソ連の独裁者スターリンに指揮された政権が次々と共産主義政策を実行し、中国では毛沢東率いる共産党が蒋介石の国民党との内戦に勝利を収めて中華人民共和国を樹立する途上にあった。 青年期に左翼・社会主義思想に強く共鳴したオーウェルは、第二次世界大戦の少し前に勃発したスペイン内戦(1936-39)で、スペイン人民解放戦線に義勇軍として参戦した。 スペイン内戦とは、ソ連やフランスの人民戦線政権(左翼連合政権)の支援を受け、スペイン王室を廃止して発足したスペイン人民戦線政権に対して、モロッコ駐留スペイン軍を掌握するフランコ将軍がドイツ・イタリアの支援を受けて叛旗を翻したもので、左翼(ソ連・フランス)v.s.右翼(ドイツ・イタリア)の国際的な対立を内包した地域戦争である。 フランコ将軍を支援するドイツ空軍がスペインのゲルニカを空襲したことはピカソの絵でよく知られているが、ソ連も多数の義勇軍をスペインに派遣しており、オーウェルは戦場でソ連の将兵達と共に戦いまた生活したのであるが、その時彼は、ソ連の将兵の言動が非常に奇妙であることに気付いた。 彼らは、「自由」という言葉を「隷従」の意味で、また「平和」という言葉を「戦争」という意味で使用していたのだ。 こうして、オーウェルの頭に、有名な「ニュースピーク(既存の意味を置換された新言語)」という概念が生まれた。 この概念は、『1984年』の中で、次のように説明されている。 |BGCOLOR(lightgrey):&size(12.5){『ニュースピークの諸原理』&br()ニュースピークはオセアニアの公用語であり、元来、イングソック(Ingsoc)、つまりイギリスの社会主義(English Socialism)の奉じるイデオロギー上の要請に応えるために考案されたものであった。1984年の段階では、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、コミュニケーションの手段としてニュースピークだけを使う者は、まだ一人としていなかった。&br()・・・(中略)・・・&br()ニュースピークは2050年頃までにはオールドスピーク(即ち我々の言う標準英語)に最終的に取って代わっているだろうと考えられた。&br()・・・(中略)・・・&br()ニュースピークの目的はイングソックの信奉者に特有の世界観や心的慣習を表現するための媒体を提供するばかりではなく、イングソック以外の思考様式を不可能にすることでもあった。ひとたびニュースピークが採用され、オールドスピークが忘れ去られてしまえばmそのときこそ、異端の思考-イングソックの諸原理から外れる思考のことである-を、少なくとも思考が言葉に依存している限り、文字通り思考不能にできるはずだ、という思惑が働いていたのである。&br()・・・(中略)・・・&br()「自由な/免れた」を意味するfreeという語はニュースピークにもまだ存在していた。しかしそれは「この犬はシラミから自由である/シラミから免れている」とか「その畑は雑草から自由である/雑草を免れている」といった言い方においてのみ使うことができるのである。「政治的に自由な」あるいは「知的に自由な」という古い意味で使うことはできなかった。なぜなら、政治的及び知的自由は、概念としてすらもはや存在せず、それゆえ必然的に名称が無くなったのだ。&br()・・・(中略)・・・&br()ニュースピークは思考の範囲を拡大するのではなく縮小するために考案されたのであり、語の選択範囲を最小限まで切り詰めることは、この目的の達成を間接的に促進するものだった。&br()・・・(中略)・・・&br()イングソックに有害な思想は言葉を伴わない曖昧な形で心に抱くしかなくて、また、それを名指そうとすれば、様々な邪説全部を一括りにし、それらを明確に定義づけないまま断罪だけする実に雑駁な用語を使うより他ないのだった。&br()・・・(中略)・・・&br()1984年段階では、オールドスピークがまだコミュニケーションの通常の媒体だったため、人がニュースピークを使うときにその元々の意味を思い出すかも知れないという危険が理論上存在した。&br()・・・(中略)・・・&br()しかし二、三世代も経てば、そのようなふとした過失を犯す可能性すら消失してしまうはずであった。&br()・・・(中略)・・・&br()ひとたびニュースピークがオールドスピークに取って代わられると、過去との最後の絆も断たれることになったはずである。歴史は既に書き直されたが、検閲の目をくぐって過去の文献の断片がここかしこに生き残っており、オールドスピークの知識を保持している限り、それらを読むことは可能だった。しかし将来においては、こうした断片がたとえたまたま生き残ったとしても、判読不能で翻訳不能なものになっているだろう。&br()・・・(中略)・・・&br()これが現実に意味するところは、およそ1960年(※注:『1984年』の革命の年)より前に書かれた書物は全体を翻訳することが出来ないということである。}| イギリスに戻ったオーウェルは、第二次世界大戦を経験したあと、社会主義・共産主義体制のもたらす非人間的な国家と社会の様相を描く二大小説『動物農場』『1984年』を執筆した。 ここで注意すべきは、オーウェルが、単に共産党支配下にあるソ連や東欧諸国の風刺しているのではなく、特に後に執筆された『1984年』において、共産主義・社会主義の邪悪さを示す見違えようのない膨大な証拠を前にしてもなお、現実無視の社会主義路線への忠誠を示す英アトリー労働党政権、その支持母体である労組、ラスキ教授などの理論的指導者を激烈に批判している事である(Ingsoc=Eonglish Socialism=イギリス社会主義を「オセアニア」の指導理念をして描いている)。まさに当時のイギリスは、『隷従への道』を自ら辿っていたのである。 *■参考図書 |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1078&file=hayek2.jpg)|[[『隷従への道―全体主義と自由 (単行本)』(F.A.ハイエク:著)>http://www.amazon.co.jp/dp/4488013031]]&br()計画経済と生産手段の共有という社会主義政策が、なぜ全体主義に至ってしまうのか。自由を守るために心に留めなければならないことは何か。「法の支配」の真の意味と重要性とは。&br()後年のハイエクが、自己のエッセンスが全部詰まっているとして一般の読者に薦めた一冊。&br()第二次大戦末期にアメリカで好評を得たあと、1989年にベルリンの壁が崩れ91年までにソ連が崩壊していった時期に、その恐ろしいまでに的確な全体主義社会の分析によって、この本は再度、西欧世界で熱心に読まれ初めました。&br()全体主義を厳しく排撃するハイエクを、戦後長く意図的に無視し続けてきた日本の出版界にも1980年代の終わり頃から漸くハイエクの著書を出版する動きが出てきました。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1078&file=watanabe2.jpg)|[[『自由をいかに守るか―ハイエクを読み直す』(渡部昇一:著)>http://www.amazon.co.jp/dp/4569696651]]&br()上記『隷従への道』を各章毎に日本での事例を含めて細やかに解説。本家をいきなり読むよりは、こちらを先に読んだ方が日本人には取っ付きやすく理解し易いかも知れません。なおアマゾンの読者コメントには渡部昇一氏を不当に貶してしるものが幾つも見受けられますが、サヨク的心情の抜け切らない半可通の根拠のないコメントと見なすのが妥当でしょう。&br()自虐史観から抜け出せていない人は所詮自分の色眼鏡でしか物事を理解できない、というケースの一つです。| |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1078&file=ikeda.jpg)|[[『ハイエク 知識社会の自由主義』(池田 信夫:著)>http://www.amazon.co.jp/dp/456969991X]]&br()上記『隷従への道』に限らずハイエクの全著作・全思想を一応概観した好著。&br()但し、この本はあくまで池田信夫氏のハイエク観を述べたものであり、ハイエクに興味を持った方は、ご自身で図書館などでハイエクの2大名著『自由の条件(3巻)』『法と立法と自由(3巻)』を順に読み進められるのが良いでしょう。&br()なお英サッチャー元首相は、保守党党首に就任時の記者会見で「『自由の条件』が今後の我が党の政策の指針である」と明言しています。| *■ハイエクから更に先へ |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1078&file=nakagawa.gif)|[[『保守主義の哲学―知の巨星たちは何を語ったか (単行本)』(中川八洋:著)>http://www.amazon.co.jp/dp/4569633943/]]&br()ハイエクの思想を機軸に西欧哲学の正統保守主義(真正自由主義)の系譜と、それに対立する邪悪な全体主義思想の系譜を峻別して分かり易く解説。&br()エドマンド・バークを初めとする正統保守思想の概略をこの一冊でマスター可能。&br()後は本書で紹介されている興味の湧く各思想家の書に挑戦しましょう。| *■ご意見、情報提供 #comment ---- 【関連】 [[経済の基礎知識]] [[法学の基礎知識]]
&include_cache(リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜)

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: