仮ページ34

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仮ページ34 - (2010/06/09 (水) 00:09:26) の編集履歴(バックアップ)


1. 古典的リベラリズム(自由主義)の誕生
(1) イギリスで自由主義思想が発生した背景 欧州大陸では、ルネサンス運動~宗教改革が行われた15-17世紀にかけて王権が次第に伸張し、封建諸侯や自由都市が中世期から享受していた特権(個別的な権利・自由)を破壊して絶対君主化していく傾向が強かった。特にフランスでは王権神授説 に基づく君主主権がJ.ボーダン、ボシュエなどによって理論化された。
これに対してイングランドでは、ジョン王がゲルマン法に基づく封建諸侯の特権を承認したマグナ・カルタ(大憲章:1215) 以来の中世期の伝統が生き続けており、国王も諸侯も共に“法”(制定法ではなく慣習から発見され人の手によって変更することができない祖法=コモン・ロー )を遵守する慣行が16世紀後半のエリザベス女王の盛時に至るまで行われた。そして貴族のみならず庶民も次第にコモン・ローの適用を受けて不当な干渉から自身の権利・自由を保障されるようになっていった。※これを「法の下における自由」(法が個人の権利・自由を守る防波堤となるという考え方)という。
(2) E.コーク卿 (1552-1634)による「法の支配」の確立と『権利請願』(1628) エリザベス女王没後に縁戚のスコットランド国王を招いて王位を与えたイングランドでは、新国王ジェームズ1世がコモン・ローの伝統を理解せずフランス流の王権神授説に基づく君主主権を唱えたため、法律家であったE.コーク卿 が「国王といえども神と法の下にある」という中世期の法律学者ブラクトンの法諺を引用して国王を諌めた。
コーク卿は医師ボナム事件判決においてコモン・ローに反する法律(制定法)は無効であるとする判決を示して、立法権に対する司法権の優位(のちのアメリカ型の司法審査権の原型)を確立し、更に晩年には庶民院の指導的議員となり中世のマグナ・カルタ以来イングランド国民に保障されてきた権利・自由の再確認を国王に求める『権利請願 』を起草して国王の承諾を獲得した(その際、貴族院が庶民院の草案に「国王の主権者権力」(Sovereign power)という文字を入れるよう要求したがコークは拒否し、これによってイギリスではフランス流の「国王主権」ではなく「“法”主権」すなわち「法の支配 」(rule of law)が確立された)。
こうしてコークは、①コモン・ローを基礎とするとするイギリス法体系と、②イギリス臣民の近代的自由の確立者、として後世に長く記憶されることとなった。