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仮ページ45 - (2010/09/27 (月) 23:29:30) の編集履歴(バックアップ)


個人主義(individualism)は今日では悪いことを意味する言葉となってしまっており、利己主義(egoism)や自己中心主義(egocentrism)といつも結び付けて語られる。けれども我々が社会主義やその他全ての形の集産主義(collectivism)と対比させながら主張する個人主義とは、これらの利己主義や自己中心主義とはどんな必然的な関係も全く持っていない。
~ F.A.ハイエク(オーストリア出身・英国に帰化したノーベル賞経済学者・政治/法思想家)『隷従への道』(1944年)

自由主義のコア理念である個人主義(individualism)と反対理念である集産主義(collectivism)のまとめページ

<目次>

■1.初めに

本来は「自由主義(=国家からの強制がないという消極的自由を志向する立場)」を意味した liberalism という言葉が、19世紀末から20世紀初めにかけて、社会主義を志向するその反対者たちによって著しくその意味を歪曲され、今では一般に「リベラル」といえば「(自由ではなく平等により価値を置く)マイルドな社会主義者」のことを意味するようになってしまった事情については、ハイエクと自由主義リベラリズムの真実で説明しました。
※なお、本来の「自由主義者」は現在では「ネオ(=再興)リベラル」または「新保守」と呼ばれています。

同様にして、本来は
一人一人の考え方や嗜好を、例えそれが狭い範囲のものであっても、その個人の領域においては至高のものと認める立場 であり
人はそれぞれに与えられた天性や性向を発展させることが望ましい、とする信念 (F.A.ハイエク)
を意味した「individualism(個人主義)」という言葉が、その反対理念である「collectivism(集産主義)」を志向する者達によって著しく意味を歪曲され、今では専ら「利己主義」「自己中心主義」という否定的な意味ばかり含意するものになってしまいました。

例えば、保守の有力論客である藤井厳喜 (国際経済学者)氏や、mixiの有力右派コミュニティ主宰者である細川一彦 氏においてすら、この「個人主義」という言葉に関しては全面的に否定するニュアンスの見識だけを示している状態です。

このページでは、
本来の「自由主義」と密接に結び付き、そのコア理念を形成してきた 「真の個人主義(true individualism)」と
「自由主義」と対立する「全体主義」と密接に結び付いた 「偽の個人主義(false individualism =ルソー的・原子的個人主義)」
及び「集産主義(collectivism 集団主義とも訳す)」
について、概念的な整理を行います。

■2.個人主義・集産主義とは何か

※まず、一般に余り使用されないが、意味自体は明確な「collectivism」という言葉の辞書的定義を説明し、次により混乱を招きやすい「individualism」という言葉を説明します。

◆辞書による説明1(collectivism:集産主義、集団主義)

(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(collectivismの項)より全文翻訳
個々人が所属するグループ(例えば、国家・国民・民族集団・社会階級)に、中心的な重要性を帰属させるあらゆるタイプの社会的組織(social organization)。
集産主義は、おそらく個人主義(individualism)と対照的である。
ジャン-ジャック・ルソーは、近代において最初に集産主義を論述した思想家である(1762年(『社会契約論』))。
カール・マルクスは、19世紀における最も強力な集産主義の唱道者であった。
共産主義、ファシズム、社会主義は、おそらく全て集産主義的システムと呼ぶのが相応しい。
共同体主義(communitarianism)、キブツ、モシャヴを参照の事
(2) オックスフォード英語事典(collectivismの項)より抜粋翻訳
<1> 各々の個人が所属する集団に、個人を超える優先権を付与する行為形態または原理。
<2> 国家(state)または人民(people)による土地(land)及び生産手段(means of production)の所有を意味する政治的原理またはシステム。
(3) コウビルド英語事典(collectivismの項)より全文翻訳
集散主義とは、国家の産業とサービスは国家(state)または国家の全ての人民(all people in a country)によって所有され、管理されるべきだ、とする政治的信条である。社会主義・共産主義はともに集産主義の一形態である。

◆辞書による説明2(individualism:個人主義)

(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(individualismの項)より全文翻訳
個人の自由を強調する政治的・社会的哲学。
近代個人主義は。英国でアダム・スミスとジェレミー・ベンサムの理念と共に出現し、そのコンセプトはアレクシス・ド・トックヴィルによってアメリカ人気質にとって根本的なもの(fundamental to the American temper)として描かれた。
個人主義は、①価値体系、②人間本性に関する理論、③一定の政治的・経済的・社会的・宗教的組み合わせ(arrangements)に関する信条を包摂している。
個人主義者によれば全ての価値は人間中心的であり、個人には至高の重要性があり、そして全ての個々人は倫理的に平等である。
個人主義は、個人の自立独行(self-reliance)、私生活の保全(privacy)、相互尊重(mutual respect)に大きな価値を置いている。
反対に個人主義は、権威(authority)や個人に及ぼされるあらゆる態様の統制(control)、ことに国家によって遂行される場合に否定的立場をとる。
人間本性(human nature)に関する理論として個人主義は、普通の成人の利害関心は、本人に自己の目的と目的達成の手段を選択する自由及び責任が許容される場合に最もよく追求される、とする考えを内包する。
個人主義の制度的具体化は、これらの原理から導かれる。
全ての個人主義者は、政府が、①法と秩序を維持し、②個々人が他者に干渉することを防ぎ、③任意に締結された同意(契約)に強制力を付与すること、に自己の役割を厳しく限定して、個々人の生活に対する介入を最小限に保つべきである、と信じている。
個人主義者はまた、各人または各家庭は所有物を獲得したり、それを彼らの思うままに管理し処分する便宜を最大限に享受する所有システムを含意している。
経済面での個人主義と、民主制(democracy)という形式の政治面での個人主義は、しばらくの間歩を揃えて前進したが、19世紀の成り行きの中で、新たに選挙権を付与された投票者が経済過程に対する政府の介入を要求するに及んで遂に、その二つは不適合であることが判明した。
個人主義は19世紀末から20世紀初めにかけて、大規模な社会的組織の勃興と、個人主義に反対する政治理念-特に、共産主義とファシズム-の出現によってその地歩を喪失した。
個人主義は20世紀後半に、ファシズムの敗北、ソ連と東欧の共産主義の崩壊、そして代議制民主制の世界規模の拡大によって再浮上した。
自由至上主義(libertarianism)を参照の事。
(2) オックスフォード英語事典(individualismの項)より抜粋翻訳
<1> 自立(independent)・独立独行(self-reliance)的である習性または原理。
自己中心的(self-centred)な感情または行為、利己主義(egoism)
<2> 集団的または国家による統制(collective or state control)よりも、個々人の行為の自由(freedom of action for individuals)を選好する社会理論。
(3) コウビルド英語事典(individualismの項)より全文翻訳
<1> 他者を模倣するよりも自分独自で物事を考えたり行動したりする事を好む人の振る舞いに対して「個人主義」という言葉が使用される。
<2> 「個人主義」とは、経済や政治は政府によって統制されるべきではない、とする信条である。

◆自由主義思想家による説明

(1) K.R.ポパー(オーストリア出身でナチス支配期に英国に帰化した科学哲学者)『開かれた社会とその敵』(1945)
「個人主義(individualism)」という言葉は(『オックスフォード辞典』によれば)二つの異なった仕方で用いることができる。
<1> 即ち(a)集団主義(collectivism)の反意語として
<2> また(b)利他主義(altruism 博愛主義)の反意語として
前者の意味を表す他の言葉はないが、後者の意味での同意語は幾つかあり、例えば「利己主義egoism」「自分本位selfishness」などがそうである。
私はこれ以降「個人主義」という言葉を専ら(a)の意味で用い、もし(b)の意味を表わしたときには「利己主義」や「自分本位」を用いることにする。
・・・プラトンは個人主義を利己主義と同一視することによって集団主義擁護と個人主義攻撃のための強力な武器を手にすることになる。
集団主義を弁護する際には、彼は自分本位を排するという我々の人道主義的感情に訴えることが出来、攻撃の際には、全ての個人主義者を自分本位で自分以外の何者に対しても献身できない人というレッテルを貼り付けることが出来る。
(2) F.A.ハイエク(オーストリア出身・イギリスに帰化した経済学者・政治/法思想家)『市場・経済・自由』所収「真の個人主義と偽の個人主義」(1945)
個人主義の意味について世に流布している混乱を次の事実ほどよく示す例はないと私は思う。
即ち、私には真の個人主義の最高の代表者のひとりと思われるエドマンド・バークが、ルソーのいわゆる「個人主義」の主たる敵だと通常は(そしてそれは正しいと)考えられている。
バークはルソーの理論が国家を急速に解体して「バラバラの個人の粉末にしてしまう」ことを恐れたのである。
・・・バークは、最初はルソーをその極端な「個人主義」のゆえに攻撃し、後にはその極端な集団主義のゆえに攻撃したのだが、バークが首尾一貫しなかったのでは決してなくて、ルソーの場合にも他の全ての者の場合においても同じように、彼らの説いた合理主義的個人主義が不可避的に集団主義に到った結果に過ぎなかった。
(3) M.オークショット(イギリスの政治思想家)『政治における合理主義』所収「自由の政治経済学」(1949)
集団主義といえば管理社会を意味するし、その別な名義は共産主義であり、国家社会主義、社会主義、経済民主主義であり、中央計画である、といった具合である。
集団主義と自由は全く二者択一的なものであって、一方を選べば他方を持つことは出来ないのである。
集団主義的社会の政府は、その計画に対して極めて限定された反対派しか許容し得ない。実際、反対派と反逆者の厳密な区別(それは我々の自由の一要素である)は否定され、服従でない行為はサボタージュだとみなされる。
政府以外の社会的産業的統合の手段を全く無力化してしまっているので、集団主義的政府はその発した命令を強制するか、さもなくば社会を無秩序状態に陥るままにしておくしかない。

■3.「真の個人主義」と「偽の個人主義/集産主義」

真の個人主義 偽の個人主義/集産主義
主な提唱者 ソクラテス、バーク、A.スミス、ヒューム
アクトン、トックヴィル、ハイエク、ポパー、オークショット
プラトン、デカルト、百科全書派、ルソー、マルクス、ベンサム
制度・秩序の捉え方 自生的秩序(spontaneous order)論
即ち、自由な人々の自然発生的な協力が個々人の知性が完全には理解できないほどの偉大な制度や秩序など社会的構築物を創り出すこと(A.スミスの所謂「神の見えざる手invisible hand」)を肯定し、そうした特定の人物・組織の設計に依存しない自生的秩序形成が正常に機能する仕組みを維持育成することに重点を置く立場
設計主義的合理主義(constructivist rationalism)
即ち、発見できる全ての秩序は特定の個人や組織の計画的な設計の産物であるとして、個人の理性を買いかぶり、個人の理性によって意識的に設計されたものでないもの・理性にとって完全には明瞭でないものに対しては、何であれ重視しない立場。
個人と国家の捉え方 中間団体による個人の自由の保障
本質的に自由な個々人によって自発的に結成され歴史的に継続・発展してきた種々の中間団体(例えば、宗教共同体・職能組織・地縁集団・血縁集団)の存在によって個人が保護され、権力(power)がこうした中間団体や個々人に広く分散されるために全能の中央集権的政府の出現は阻止され、個人の実質的な自由は保障される。
アトム化された個人の国家への隷従
①各種の中間団体から切り離され原子化(アトム化 atomized)された裸の個人と、②全能の中央集権的政府が直接対峙し、政府(=国家)が全ての個人の生活の責任を負うという建前の下に社会的な絆を剥奪されて(ルソー的な意味で)「自由」となった個人は結果的に全体主義的政府に隷従する。
政治機構の捉え方 人間や制度の不完全性の前提
この主義の主たる関心は、①人間が最も良い時に時折成し遂げられるかも知れないことよりも、②人間が最も悪いときに害悪を及ぼす機会を出来るだけ少なくすることにある。
その体制は機能の良し悪しが、それを操作する人間を我々が見つけ得るか否かに依存しないし、全ての人間が現にあるよりも善くなることにも依存しない。
従ってこの体制は、その下にあるある全ての人間に自由を許容することが出来、現にあるがままの人間をその多様で複雑な姿のままで(本人が利己的な動機で動くにも関わらず)社会のために役立たせ得るシステムである。
社会契約論的個人主義と「自由への強制」
この主義は個人を出発点とみなし、個人が彼の特殊意思と他人の特殊意思とを形式的な契約において結合させることによって社会や国家を創ると想定する。
その体制は、プラトン「哲人王」、ルソー「立法者」、ナチス「指導者」etc.の育成/出現を前提とするが、「権力は必ず腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」(アクトン)ことを免れない。
この体制は自由を「善良で賢明な個人」のみに許容し、その他の人々は「自由へ強制される」。