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『国体の本義』の 第一章「第一 大日本国体」は、国体の定義を、また 第二章「第二 国史に於ける国体の顕現」は、国史の真義を、 それぞれ詳解している。 各章の冒頭部分のみ以下に引用する。 |
第一 大日本国体 |
一、肇国 |
大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事實の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。 |
第二 国史に於ける国体の顕現 |
一、国史を一貫する精神 |
国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。歴史には、時代の変化推移と共にこれを一貫する精神が存する。我が歴史には、肇国の精神が儼然と存してゐて、それが弥々明らかにせられて行くのであるから、国史の発展は即ち挙国の精神の展開であり、永遠の生命の創造発展となつてゐる。然るに他の国家にあつては、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。従つて他の国家に於て歴史を貫くものを求める場合には、抽象的な理性の一般法則の如きものを立てるより外に道がない。これ、西洋に於ける歴史観が国家を超越して論ぜられてゐる所以である。我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、 大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。 と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。国史に於ては維新を見ることが出来るが、革命は絶対になく、肇国の精神は、国史を貫いて連綿として今日に至り、而して更に明日を起す力となつてゐる。それ故我が国に於ては、国史は国体と始終し、国体の自己表現である。 |
【皇国史観】こうこく-しかん (広辞苑) |
国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神(あらひとがみ)である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国として描く歴史観。十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた。 |
① | 大東亜戦争の渦中で、文部省によって、主に高級文官試験用の公定歴史解説書として編纂され、東亜諸地域を包摂する新しい歴史観・国体観を打ち出した『国史概説』(1943-44刊行)及び、その大東亜地域版である『大東亜史概説』(編纂のみで未刊)に代表される「皇国賛美史観(文部省史観)」と、 |
② | 1930年半ばから、東京帝大国史学教授 平泉澄とその門下によって唱えられた日本一国主義の立場に立つ「皇国護持史観」の二種類があり、また |
③ | 大川周明の「東西文明対抗史観」は、①と親和性が高い。 (※①は、大川周明などアジア主義者の東西文明対抗史観の影響下に現出された東アジアの状況を、総力戦体制下で政府が追認したものと捉えることができる。) |
『近代日本の国体論―“皇国史観”再考』
昆野 伸幸 (著) 内容(「BOOK」データベースより) 明治以後の植民地政策によって展開された国体論が近代的学知との激しい相剋を見せた昭和十年代に注目し、歴史認識の次元から大川周明・平泉澄を詳細に分析することにより、従来の国家主義的歴史観とは区別される“皇国史観”固有の特質を解明する。 | |
『「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策』
長谷川 亮一 (著) 内容(「BOOK」データベースより) 戦前の歴史観の代名詞「皇国史観」は、非科学的、独善的、排外的などとして、戦後しりぞけられてきた。しかし、そもそも「皇国史観」とは何であったのか?誰が、何のために提唱し、普及させたのか?本書は、「皇国史観」の成立と流布を、戦中に文部省が行なった修史事業に着目して再検証し、従来のイメージを一新。「皇国史観」の何が、いかに問題であるのかを明らかにする。 |
左は、2009年5月に放映されたNHK特集JAPANデビュー第二回【天皇と憲法】。「皇室廃止」を狙うNHKを始めとする左翼の本音がたまたま表に出た貴重な番組の動画である。 ※動画の平泉澄の「皇国護持史観」は、日本一国主義(非アジア主義)的史観であり、その内容を一言で表現すれば わが国体こそ、寛容で価値多元的な日本的世界(日本的公共性)のコアである。日本国民はこれを護り続けなければならない。 ということに尽きる。 これは『国体の本義』の論旨そのものであって、何ら左翼から中傷される云われはない。 |
丸山眞男と平泉澄 昭和期日本の政治主義 植村 和秀(著) 柏書房 (2004/10)単行本 | |
丸山眞男といえば、進学校の学生が全共闘世代の教師に「夏休み(冬休み)の課題に『日本の思想』(岩波新書) の中の一章を読んで感想を書け」と言われて、面白くも無いヘンテコで拗けた文書を読まされて難儀するのがオチの“戦後日本を代表する政治思想家”なのだが、そうした丸山の思想に半ば洗脳されていた著者(京産大法学部教授、ドイツ政治思想史専攻)が、京都の古本屋でたまたま、丸山眞男と思想的に対極にある平泉澄の戦前の著作を手に取り、その流麗な文体・精緻な論理構成に打たれて、可能な限りの事実検証・文献検証を重ねて両者の思想的対立の根源に迫った好著。 | |
「筆者には丸山眞男も平泉澄も、その支持者の多くのように、無条件に支持することはできない。丸山には心情的には共感できるが、しかし論理的には納得できない。平泉に論理的には共感できるが、しかし心情的には納得できない。それにもかかわらず、丸山と平泉の思想史的な意義の重さと、人間的な偉大さとは、素直に承認したい。」(著者:植村氏)…丸山眞男的あるいは進歩派文化人的な「戦後民主主義」思想にドップリ漬かった人への解毒剤としてお勧め。また昭和初年~昭和40年頃までの日本の思想状況の本当の所を知りたい人にもお勧めしたい。 | |
「生きて皇室を守るべし。雑草を食っても生きよ」終戦前後の混乱期における平泉同学の知られざる奮起、まさに大日本帝国の殿(しんがり)としての貢献、阿南惟幾・下村定の陸軍最後の二人の陸相と平泉博士とのエピソードも興味深い。 | |
相当にハイレベルだが、“理論派保守”を目指す人は是非挑戦してほしい。西洋の保守思想に留まらず、日本の保守思想への扉を開く貴重な一冊 | |
昭和の思想
植村 和秀 (著) 講談社選書メチエ(2010/11)単行本 上記『丸山眞男と平泉澄昭和期日本の政治主義 』が内容的にハイレベルすぎて、初心者のみならず中級者でさえ中々に読みこなせないという難点に答えるかのように2010年秋に出版された簡潔な昭和期政治思想の概略本。 内容(「BOOK」データベースより) 「戦前=戦後」だけでなく、昭和はつねに「二つの貌」を持っていた。皇国史観から安保・学生運動まで、相反する気分が対立しつつ同居する昭和の奇妙な精神風土の本質を、丸山眞男・平泉澄・西田幾多郎・蓑田胸喜らの思想を元に解読する。 <目次> 第1章 日本思想は二つ以上ある 第2章 思想史からの靖国神社問題―松平永芳・平泉澄 第3章 思想史からの安保闘争・学生反乱―丸山眞男 第4章 思想史からの終戦と昭和天皇―阿南惟幾・平泉澄 第5章 思想史からの世界新秩序構想―西田幾多郎・京都学派 第6章 思想史からの言論迫害―蓑田胸喜 第7章 二〇世紀思想史としての昭和思想史 |
(1) | 政治的「国体」観念の前面化(創出) | (メルクマール)大日本帝国憲法(1889年 発布、1990年施行)、教育勅語(1890年 煥発) |
江戸期には、文化的「国体」観念(天皇は日本という文化的共同体の結晶核であるとする観念)が主流であり、政治的「国体」観念(権威者たる天皇は、権力者たる征夷大将軍の任命、条約勅許、元号制定など政治的意義をも有することの認識)は一般には希薄だった | ||
欧米列強の脅威に反応して興隆した後期水戸学(会沢正志斎『新論』1857が代表)の普及により、政治的「国体」観念が自覚されるようになった | ||
「君権ヲ機軸」として政治体制を整備する必要性→政治的「国体」観念の前面化(政治的共同体の結晶核へ「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス、天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ・・・) | ||
明治維新の性格規定→「一揆」史観、国民国家の創出の必要性(エトニethnieからネイションnationの創出へ) | ||
L正統(Legitimacy 治統)とO正統(Orthodoxy 学統)→西洋はO正統(キリスト教会)の権威からL正統(皇帝権・王権)を創出したが、日本はL正統(皇統)の権威からO正統(政治的「国体」観念)を創出 | ||
政治的紛糾を呼びやすい思想・哲学的な国体論ではなく、天皇と国民の協同による国家の発展という「国史」に重点を置いた国体論の強調 (西洋のような保守思想の発達とは対照的に、日本では「国史(歴史)」が保守思想を代位する顕著な傾向・・・100の理屈よりも1つの事実の方が説得力がある。日本は奇跡的に万世一系が続いている国であり、西洋の様に抽象的な理屈・思想で国家の正統性を確保する必要は薄い⇒「保守-思想」ではなく「皇国-史観」が前面に出て皇統と国体を護持) | ||
(2) | 雑多な国体論の容認 | (メルクマール)『国体論史』(1921年 内務省神社局刊) |
国民各層の幅広い団結を促す必要性⇒「国体」観念の習合思想化(雑居性) | ||
国体の雑居性の伝統(融通無碍) | ||
(3) | 国体論の帰一化 | (メルクマール)『国体の本義』(1937年 文部省刊) |
マルクス主義は日本史上、ほとんど初めて「国体破壊」を強烈に志向した思想であり、第1次世界大戦中のロシア革命、ドイツ・オーストリアさらにはトルコの4大帝国の崩壊(それ以前の辛亥革命=清朝の崩壊も併せて)に刺激を受けて、共和制や社会主義・共産主義への移行が歴史の必然であると確信する学生・知識人が大量に発生し、コミンテルンが干渉してこの趨勢を助長。 | ||
こうした マルクス主義の思想侵略の脅威への対抗思想としての役割が「国体」に期待される⇒『国体の本義』編纂・刊行へ。 | ||
日本主義(国体の本義に則って西洋思想の益々醇化摂取し、より一層わが国を発展させるとする「開かれた社会」の思想) | ||
(4) | 国体論の変容と自壊 | (メルクマール)『臣民の道』(1941年 文部省教学局刊) |
アジア主義(東西文明対抗史観の影響)の追認 | ||
総力戦体制 | ||
八紘一宇(大東亜共栄圏の根拠づけ) | ||
敗戦後は再び、文化的「国体」観念が主流へ(「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって・・・」) |