法と権利の本質

「法と権利の本質」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

法と権利の本質 - (2013/05/03 (金) 01:32:01) のソース

|COLOR(WHITE):BGCOLOR(OLIVE):CENTER: |COLOR(WHITE):BGCOLOR(OLIVE):CENTER:歴史主義・伝統主義 (英米法)|COLOR(WHITE):BGCOLOR(OLIVE):CENTER:反歴史主義 (大陸法)|
|BGCOLOR(#CCCC99):権利の本質|BGCOLOR(white):人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として&color(crimson){歴史的権利}を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場|BGCOLOR(white):人間は自然状態において、生来的に&color(crimson){自然権}(natural right)を有していたが、&color(crimson){社会契約}(social contract)を結んで自然権を放棄し、&color(crimson){人定法}(&color(crimson){実定法}:positive law)を定めた、とする立場|
|BGCOLOR(#CCCC99):法の本質|BGCOLOR(white):特定の共同体の中で法が自生(自然に成長)した(&color(crimson){法=自生的秩序説})(※注3)|BGCOLOR(white):法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(&color(crimson){法=主権者命令説})(※注1)|
|BGCOLOR(#CCCC99):誰が法を作るのか|BGCOLOR(white):法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(&color(crimson){経験主義、批判的合理主義})&br()⇒「法は“発見”するもの」⇒&color(crimson){制憲権(憲法制定権力)を否認}|BGCOLOR(white):法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(&color(crimson){設計主義的合理主義})&br()⇒「法は作るもの」(※注2)⇒&color(crimson){制憲権(憲法制定権力)を肯定}|
|BGCOLOR(#CCCC99):補足|BGCOLOR(white):個別性、相対主義、帰納的、保守主義・自由主義と親和的、&color(crimson){法の支配}ないし&color(crimson){立憲主義}|BGCOLOR(white):普遍性、絶対主義(但し価値相対主義)、演繹的、急進主義・全体主義と親和的、&color(crimson){法治主義}|
|BGCOLOR(#CCCC99):実例|BGCOLOR(white):英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。&br()明治憲法も日本の歴史的伝統を重んじる形で熟慮を重ねて制定された|BGCOLOR(white):フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。&br()日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)|
|BGCOLOR(#CCCC99):主な提唱者|BGCOLOR(white):コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトン&br()なお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ポパー|BGCOLOR(white):ホッブズ、ロック、ルソー&br()なお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック|

(※注1)「&color(crimson){法=主権者命令説}」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。
|BGCOLOR(yellow):①|BGCOLOR(yellow):君主主権|BGCOLOR(white):君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。|
|BGCOLOR(yellow):②|BGCOLOR(yellow):人民主権|BGCOLOR(white):君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=&color(crimson){プープル主権説})。ルソーの社会契約説が代表例。|
|BGCOLOR(yellow):③|BGCOLOR(yellow):国民主権|BGCOLOR(white):君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一と見なす者が多い)。&br()なお国民主権の具体的意味については、(1)&color(crimson){最高機関意思説}と、(2)&color(crimson){制憲権(憲法制定権力)説}が対立しており、&br()さらに(2)は、<1>ナシオン主権説と<2>プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。&br()一般的に国民主権という場合は、<1>&color(crimson){ナシオン主権説}(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。|
|BGCOLOR(yellow):④|BGCOLOR(yellow):議会主権|BGCOLOR(white):英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における女王(the queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論|
|BGCOLOR(yellow):⑤|BGCOLOR(yellow):国家主権|BGCOLOR(white):帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」を主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である|
|>|>|⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、&br()&color(crimson){明治憲法}は制定時において明確に&color(crimson){歴史主義}の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば|
|BGCOLOR(yellow):⑥|BGCOLOR(yellow):“法”主権|BGCOLOR(white):つまり「&color(crimson){法の支配}」・・・&color(crimson){歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束する}|
という立場だった。
また大正デモクラシー以降は、美濃部達吉の「天皇機関説」(⑤国家主権説の一種)が通説となっており、それが天皇機関説事件により、いわゆる①君主主権説に転換するのは昭和10年(1935)以降の僅か10年間である。

(※注2)「&color(crimson){法=主権者命令説}」はまた、法を、立法者に有利な特定の価値観のゴリオシ(カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想)や政治イデオロギー(マルクス主義法思想やナチス期ドイツの法思想)に還元してしまう危険が生じ全体主義に接近してしまう。

(※注3)この自生的秩序論を基礎に、①&color(crimson){自生的秩序}を&color(crimson){法以前の「一次的ルール(=pre-legal rule 法以前のルール)」}として持つ社会がさらに発展していくと、次の段階では、そうした社会は、②&color(crimson){一次的ルールを「正式な法」として承認・確定・変更}するための&color(crimson){「二次的ルール」をもつに至る}、とする「&color(crimson){法=社会的ルール説}」がハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の主流となっている。(⇒詳しくは、阪本昌成『憲法理論Ⅰ』[[第二章 国制と法の理論]]参照)

※自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ [[国家解体思想の正体]] 参照