白馬事件について

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白馬事件について - (2007/12/01 (土) 23:42:50) のソース

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*白馬事件(しろうまじけん)とは何か。
別名、スマラン事件
**5W1H
|いつ|昭和19年(1944年)2月|
|どこで|インドネシアのスマラン島で|
|誰が|南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が|
|どこから|ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から|
|誰を|オランダ人女性35人を|
|どこへ|将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘という4ヵ所の慰安所へ|
|何をした|強制連行した。|
**その後の年表
|1955年4月|軍司令部が4ヵ所の慰安所を閉鎖させる。|陸軍省から捕虜調査に来た小田島董大佐の勧告による|
|1988年|オランダのバタヴィア臨時軍法会議にかけられる。|12名のうち11名が有罪、うち1名が死刑。|
|1990年|対日道義的債務基金(JES)が設立される。|これにより、総額2億5500万円をオランダ人女性に支払い始めた。|
|2001年|無事、総額2億5500万円を支払い終わる。|――|
*解説
**バタヴィア臨時軍法会議の史料が未公開
 バタヴィア臨時軍法会議の史料はオランダ政府の方針により、未公開となっています。連合国の軍法会議は、東京裁判に似て、実にいい加減な裁判が行われた例が多数あります。特に、被告2人に関しては、以下の疑問があります。

-池田省三陸軍大佐はスマランで慰安所が開設された当時、公用のため東京におり、慰安所開設には一切かかわっていないのに、懲役15年の刑を言い渡されている。
-中島四郎陸軍大尉は将校倶楽部の慰安婦の検梅(花柳病すなわち梅毒の検査)の任にあたっていたのですが、大尉の任務は”検査”のみであって、”治療”には一切責任も権限もなかった。しかも、大尉が検査したなかには梅毒患者は一人もいなかった。しかしながら、後にオランダ人慰安婦の中から梅毒が見つかったので、その責を問われて、16年の刑が言い渡されています。この梅毒にかかった慰安婦は、他所で”商売中”に感染した可能性があるのでは。

 この事件は、肯定派・否定派双方が事実だと認める事件なのですが、軍法会議の史料が公開されておらず、軍法会議で認められた被害事実の内容に、信憑性・正当性があるかどうかに関しては、史料の公開を待たねばなりません。したがって、史料の公開がなされないうちは、「推定無罪の原則」を適用するのが妥当です。

**軍司令部が慰安所を閉鎖させている。
 1944年4月に軍司令部が慰安所を閉鎖させています。ということは、「当初、軍は強制連行そのもの知らなかった」という事になり、「『国家・軍の命令』によって強制連行したわけではない」という事の証明になります。

 にもかかわらず、肯定派は以下の様に主張しています。
> スマラン地区警備司令官である能崎“少将”が強制連行したのに、「軍ではない」。繰り返すが、
> だとしたら軍とはなんなのか。あるいはこれまた空気のようなもの、とでもいいたいのか。
> ※引用元
> kmiura - 言及する時間ないんでクリップだけ
> http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070725/1185369027

 「少将の個人的な意思決定」を、なぜ「軍名義の意思決定」へと昇華できるのでしょうか。組織の構成員の一人に過ぎない者による個人的な意思決定なので、これを組織全体の名義の下での意思決定へと昇華できるはずがありません。 

 また、国家・軍の管理責任ですが、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という史料には「『軍の了解がある』と騙し、強制連行する悪質な業者がいるので、それを取り締まれ」と書いてあります。つまり、軍は常に「強制連行を起こさぬように。」と気を配っていた事が分かります。よって、国家・軍による管理責任に不備はなかったのです。

**すでに処罰が下っている。
 事件の真偽がどうであれ、犯人は処罰され、JESによって、総額2億5500万円ものお金を支払ったのです。むしろ、軍法会議の内容の質によっては、オランダから返還されるべきという事にもなり得るのです。

以上の事から、白馬事件を根拠に「国家・軍による強制連行」を証明することは出来ません。