シチリア晩祷戦争

シチリア晩祷戦争


この項目ではシチリア晩祷戦争について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。                            



  imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。  この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(140年8月)


System=ダイス


シチリア晩祷戦争(しちりあばんとうせんそう、英:War of the Sicilian Vespers、統一歴140年-140年)は、シチリアの晩祷事件をきっかけに、シェラルド王国がトラキア・ローマ帝国租借下のシチリア島奪還をめざし侵攻したことで、両国が率いる機構のあいだで起こった戦争である。
シチリア晩祷戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. トラキアによるシチリア租借
  2-2. シチリアの晩祷事件
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. シチリアの戦い
  4-2. ナポリ軍団の反乱
  4-3. 神聖ローマ=ビュザンティウム戦争
  4-4. サレルノ・ベネヴェントの戦い
  4-5. 第一次ローマ攻防戦
  4-6. holynation独立戦争
  4-7. イストリア戦線
  4-8. 第一次ティレニア海海戦
  4-9. ペスカーラ上陸作戦
  4-10. 両都攻勢
  4-11. ガリポリ上陸作戦
  4-12. コンスタンティノープル陥落とモレラの離脱
  4-13. モンカリオリの両王決闘
  4-14. 第三次ローマ攻防戦
  4-15. ナポリ撤退戦と第二次ティレニア海海戦
 5. 終戦と講和
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
シチリアの晩祷事件
パレルモ講和会議
戦争:シチリアの晩祷戦争
年月日:2020年08月02日 - 2020年09月05日
場所:イタリア半島、シチリア島、ボスポラス海峡など
結果:戦前回帰。対モレラ、対HNはシェラルド勝利
交戦勢力
シェラルド王国
トラキア・ローマ帝国
アナトリア諸侯
尾鷲帝国
モレラ共和国
HolyNation
指導者・指揮官
エリックⅠ世
ユリウスⅥ世
エルンスト・ロシェシュタール
グナエウス・コルウス・カエサル
オイスタン・コルーメディ
ラエティリウス・ユニウス・キンナ
イーゼット大公
モレラ大統領
シーナン・オニール
モレラ将軍
ヴィットリオ=アメデーオⅩ世
HN将軍

 概要

シチリア島民の反トラキア反乱であるシチリアの晩祷事件が発生し、これをシチリア奪還の契機とみた神聖ローマ皇帝エリックが介入し開。神聖ローマ帝国とビュザンティウム連合との機構間戦争に発展した。
シチリア島民は独立を望み、シェラルドのナポリ軍団と結びつき反抗したが、後により民主的なトラキアへ靡きBU軍をナポリへ率引き入れた。これに対しエリックは大陸軍を引き連れ撃退を図るも、HRE領サヴォイア王国で元holynation王太子ヴィットリオが独立反乱を起こしたため、ローマの救援に失敗しBU軍がローマを占領した。
その後陸海で一進一退の攻防が続き、膠着の打破を図りシェラルド=アナトリア軍はBUの一角モレラ共和国を攻撃した。多大な犠牲を払いコンスタンティノープルを占領すると、モレラとは早期和平が実現した。また、モンカリオリの両王決闘でエリックがヴィットリオを破るとHN戦線も終結し、トラキアが取り残され一転し劣勢となった。
トラキアの背後でアフリカ大戦が発生すると、トラキア軍はシチリアへ撤退したが、シェラルドもまた背後で東欧戦争が発生し、追撃が叶わなかった。両軍はカラブリアとメッシーナで睨み合ったまま膠着し、そのまま和平となった。
パレルモ条約が締結され、シチリアはトラキアへ、ナポリはシェラルドへ。と、戦前の状態へと回帰した。
緑がシェラルド=アナトリア同君連合、黄色がトラキア・ローマ=尾鷲同君連合、橙がモレラ共和国、水色がサヴォイア王国、灰色は教皇領。中央の赤色が争点となったトラキア領シチリア

 背景

トラキアによるシチリア島租借

イタリア半島はかつてのローマ帝国の中心地であり、ローマの後継を自称するトラキア・ローマ帝国、holynation、そして神聖ローマ帝国を率いるシェラルド王国の間で係争地となっていた。
135年、シェラルド王国はスイス継承戦争に端を発するholynationとの戦争(半島戦争)に勝利し、イタリアの大半を手中に収めた。しかし137年、神聖ローマ帝国とレグルス帝国の間に戦争が起こると(第十次十字軍)、その隙にシェラルドの属国となっていたholynationの後継国家であるサヴォイア王国が、イタリアの島嶼や都市を各国に売却してしまった。シェラルド軍や皇帝エリックはアナトリアにおりこの動きを阻止できなかった。
エリックは中華連邦のナポリ、トンガ帝国のカラブリアなどを外交努力によって回収したものの、トラキア・ローマ帝国のシチリア島については交渉がまとまらなかった。両国は106年のトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世とシルビア・イェリングの婚姻以来33年間にわたり同盟を維持していたが、シチリア島及びイタリアを巡り関係が悪化。第三次欧州大戦の勃発時にトラキア・ローマ帝国が参戦要請を拒否すると、遂に同盟は破棄された。
神聖ローマ皇帝エリック1世およびトラキア・ローマ皇帝ユリウス6世と皇后ソフィア・イェリング
 

シチリアの晩祷事件

トラキア・ローマ帝国がビザンツ帝国の旧領回復を目指し、エジプトの尾鷲第一帝国に侵攻したビザンツ・エジプト戦争は、139年にアレクサンドリアが陥落し終結した。ヒュペリオン条約によってトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世が尾鷲皇帝を兼ねると、尾鷲帝国はトラキア・ローマ帝国の同君下位国となった。
この戦争中に莫大な戦費、物資を必要としたトラキアは、シチリア総督に任命していたバッシウス・パウリヌスに命じ、シチリア島全土からの徴発を行った。この指示自体は戦争税としては決して他国と比べ多過ぎるようなものではなかったが、パウリヌスは違法に徴発額のを嵩増しし、上前をハネていた。
戦後にこのことが明るみに出るとトラキア議会は紛糾した。しかし時既に遅く、シチリア島住人の間では反トラキア感情が爆発した。各地で抗議デモが起こり、頻繁に暴動へ発展した。トラキアは国家憲兵隊を派遣し沈静化を図ったものの、多数の死傷者を出した。
中でも最大の暴動は3月30日にパレルモで発生した。この日はシチリア島の住人が信仰するC教の復活祭の日であり、多数の市民が教会前で抗議集会を行っていた。そこに現れた国家憲兵隊の一人が集会を解散するよう命じたところ、教会の晩祷の音を合図に暴動が発生した。トラキアの国教はローマ神教であり、憲兵隊がC教の風習に無遠慮な振る舞いがあったことが原因とされている。
シチリア島民を弾圧するトラキア国家憲兵隊

 開戦

神聖ローマ皇帝エリックのシチリア侵攻

トラキア政府は暴動鎮圧の為に正規軍1万人を派遣したが、このときシチリア島の対岸、ナポリのカラブリア市に皇帝エリックと親衛隊、さらにシェラルド軍第4軍団が終結していた。C教徒の保護を掲げるエリックはシチリアの晩祷事件を好機と捉え、シチリア島の再征服に乗り出した。8月3日、エリック及び神聖ローマ帝国はトラキア・ローマ帝国及びビュザンティウム連合に対し宣戦布告し、カラブリアの対岸メッシーナへ侵攻を開始。現地の親シェラルド貴族の手引きでマルシアル元帥麾下の第4軍団に橋頭保を築かせると、続々と上陸。エリック自身もシチリアへ降り立った。トラキア軍は暴動鎮圧の為シチリア全土に広く薄く分かれており、この突然の上陸を防ぐことができなかった。
シェラルド軍のシチリア上陸

 開戦後の経緯

シチリアの戦い

上陸したシェラルド軍は首都パレルモを目指し進軍。また、各地に散らばるトラキア軍を各個撃破すべく、軍を分散させた。トラキア軍派遣軍司令官オクタウィアヌスは水際防衛の為シチリア東部の都市カターニアの部隊を向かわせ、両者はトロイーナで交戦した。本戦争における最初の両軍の本格的な戦闘である。
トラキア軍はトロイーナで時間を稼ぎ、終結を待つ作戦をとったが、しかしシェラルド軍の予想以上の行軍速度の前に破綻した。欧州の機動戦への慣れの差もあったが、トラキア軍は行く先々でシチリア島民のゲリラ戦に苦しんだ。後退したトラキア軍は各都市での籠城戦に切り替えたが、パレルモを除き早期に陥落した。
オクタウィアヌス麾下のトラキア軍はパレルモで籠城していたが、6日には事情が変わってきた。パレルモ市民の抵抗運動が激化し、ただでさえ欠乏している物資に放火されたり、夜間に兵士が襲撃にあうなど、最早籠城など不可能な状況であった。止む終えずトラキア軍はパレルモから進出。前方のコルレオーネに陣を敷いた。
トラキア軍は憲兵隊や警察官まで動員し抗戦したものの、物量差は覆せず敗戦した。士気に限界がきていたところに、シェラルド軍十八番の騎兵突撃は抜群に効いた。トラキアのシチリア派遣軍はその殆どが戦死、あるいは捕虜となり、シチリア島の戦いはシェラルドの完勝であった。
シチリアでの戦闘はシェラルド軍が優位に進めた。
 

ナポリ軍団の反乱

HRE皇帝エリックは占領したパレルモへ入城した。エリックはシチリアの反乱を異教の支配者に対するC教徒の反乱と捉えており、HREの下に回帰することを望んでいると信じて疑わなかった。しかしこれは大きな過ちであった。反乱戦争の中で、シチリア島民の要求はこれがHRE及びシェラルド王国を窮地へ陥れることとなる。
4日、ノルマンニ宮殿でエリックのシチリア王位の確認と同地のHREへの回復が宣言された。しかし、その帰途エリックはパレルモ市民からの銃撃にあった。銃弾は彼の帽子を飛ばしたに過ぎず、犯人はただちに親衛隊により射殺されたものの、これがきっかけとなりシチリアは再び反乱に包まれた。エリックは鎮圧を軍に命じたが、これは戦場たる島内で軍を分散させる悪手であり、トラキアの二の轍を踏む判断であった。
翌5日、反乱はナポリへ飛び火した。パリの参謀部は、ナポリ人で構成され、自治権と引き換えに現地の守備隊となる、シェラルド軍のナポリ独立軍団に反乱の鎮圧を命じた。軍団長のジュゼッペ・ガルボ将軍はナポリでこの命令書を受け取ると、伝令兵を惨殺し、シェラルド軍を離反し反乱軍へ付く決心をした。彼はナポリ各地の反乱軍を糾合し大軍を作り上げ、市民兵や農民兵の集団だった反乱軍に正規軍の武器を齎した。大パニックと化した参謀本部を尻目に、ナポリ軍団は半島を南下した。
HRE皇帝エリック
 

神聖ローマ=ビュザンティウム戦争

ナポリ軍団は皇帝軍を撃破すべくシチリアへ向かったが、これを猛追したのがローマにいたロシェシュタール元帥麾下のシェラルド軍イタリア方面軍だった。ロシェシュタールはローマを発つと不眠不休の強行軍でナポリ市に到達。半数を包囲に残しさらに南下してナポリ軍団にコゼンツァで追いついた。両軍の戦闘は、歴戦の元帥が巧みな指揮でナポリ軍団を撃破し皇帝を救ったものの、長距離行軍の疲労で追撃が叶わず、ナポリ軍団の大部分は半島東部へ撤退した。パレルモの神聖ローマ皇帝エリックは、情勢の変化を受けて、指揮を執るべくフランス本土へ帰還した。少数の守備隊がシチリアに残ったが、トラキア兵の死体から武器を奪ったシチリア島民の襲撃により、まもなく陥落した。島民はパレルモのマッシモ劇場に戦争遂行のための臨時評議会を立ち上げ、反乱の組織化を目指した。しかし、頼みの綱のナポリ軍団が目前で敗北したことを知ると、協議の末、これを伝えに来たガルボの密使に評議会としての結論を伝え、ガルボの下へ送り返した。
シチリア評議会とナポリ軍団は、共にHRE、BU双方を敵に回すのは困難との結論で合意し、独裁的なHRE皇帝でなく、議会民主制を尊重し尾鷲の統治で実績を示したトラキア軍との交渉を選んだ。ガルボは全権大使としてバーリ市でトラキア使節と会談すると、トラキアのもとでナポリ、シチリアが自治権を有することで合意。ナポリ軍団もトラキア軍へと下り、トラキア軍は尾鷲から集めた義勇兵と共にナポリへ出兵し、モレラ共和国がBU加盟国として参戦した。これを受けてHRE皇帝エリックはモレラと国境を接する、自身が王位をもつアナトリア王国に参戦要請を出し、これにより様相はトラキア率いるBUとシェラルド率いるHREとの、2勢力による全面戦争へと移行した。
トラキアの植林事業は尾鷲人に歓迎され、快く義勇兵派遣に同意した。
 

サレルノ・ベネヴェントの戦い

ナポリ軍団を取り逃がしたロシェシュタール元帥は、トラキア軍のイタリア本土上陸を察知すると内線作戦による機動戦による各個撃破を目指しナポリを直ちに出立し、サレルノの山間でビュザンティウム連合軍に強襲攻撃を仕掛けた。突然の攻撃に連合軍は混乱状態に陥り、戦列の右翼が一時崩壊寸前の状態にまで陥った。すかさず、シェラルド軍は軽騎兵による騎兵突撃を敢行し、片翼包囲を図ったものの、後詰めの尾鷲義勇兵によるファランクスに阻まれ撤退、戦いの趨勢をは振り出しへと戻った。
一方、ナポリ南方に上陸した第4軍団「マルス・インウィクトゥス」は上陸地点近くにに大量のダミー戦車と物資を残し、大軍が集結しているかのように偽装し、シェラルド軍の注意が南へ集中している所を大きく迂回し北方からナポリを強襲した。途中、ベネヴェントでジュノー将軍指揮下の師団級部隊と接敵したものの、物量のものを言わせ撃破、ナポリ目前へと迫った。後背を脅かされる形となったロシェシュタールは不利を悟り戦場を撤退。その後、疲弊した方面軍ではナポリの防衛も困難と判断し、教皇領のローマ市まで後退した。
サレルノの戦い。
 

第一次ローマ攻防戦

BU軍はローマを包囲した。HRE皇帝エリックはイタリア方面軍に対し、ローマ市の死守命令を下した。方面軍は籠城戦でよく耐えており、この間に大陸軍が援軍に駆け付ける手筈であった。
しかし、情勢は背後で起きたある事件によって急変する。背後サヴォイアでholynationが独立戦争を開始したためだ。北イタリアをローマへ向け行軍中だった大陸軍は、突如として南北の敵に包囲される形となってしまい、HN軍への対処によりローマへの応援は困難となった。
この情報が伝えられたローマでは、教皇庁の脱出作戦が行われた。世闇に紛れての逃避行は、これに気づいたBU軍の総攻撃との激戦となった。この戦闘は方面軍が勝利し、教皇庁はミラノへ逃れたものの、方面軍の余力は尽きていた。続く第二次総攻撃では、トラキア軍が精鋭第6軍団を惜しみなく投入したことで多くのシェラルド兵が戦死した。HREの聖都は遂に陥落した。
聖都は炎に包まれた。
 

holynation独立戦争

かつて半島戦争でシェラルド王国と戦い敗北し滅亡。その後領土もわずかなサヴォイア王国として復活した元holynationでは、シェラルドからの独立運動も盛んであった。追放された元王太子ヴィットリオはこうした動きを耳に入れ、密かにマルタ島を脱出しサヴォイア王国へ密入国した。シチリア戦争が始まると、ヴィットリオは武装親衛隊を率いてトリノの宮廷へ乗り込みクーデターを決行。女王マティルディを殺害し(ヴィットリオの意図に反した親衛隊の暴走であると後に述べている)、HN王として即位を宣言。シェラルド王国に対し独立を求める宣戦を布告した。
このとき、シェラルドの大陸軍は、ローマへむけ山と川とに挟まれたアレッサンドリア街道を長大な縦列で行軍しており、これを好機とみたヴィットリオは、サヴォイア軍や周辺の北イタリア諸侯から集めた義勇兵との連合軍を率いトリノを出立。最後尾を行く大陸軍第Ⅱ軍団へアスティ近郊で奇襲攻撃をしかけた。この戦闘は、第Ⅱ軍団が粘り強く抵抗したことで、準備期間に乏しく寄せ集めであったHN軍の攻勢を挫き退却させた。HN軍はトリノへ退却したが、天然の要塞都市トリノへ逃がしたくないエリックは、止む無くローマを諦め大陸軍を率いて転進した。無理な追撃はトリノへ続く山道でのゲリラ戦にあい被害を出したが、遂にトロファレッロで追いついた。HN軍はやむを得ず少なくない部隊を殿に残し、彼らの活躍によって辛うじてヴィットリオと本隊はトリノへ逃れた。市外戦を制した大陸軍は、トリノ包囲軍を残し再びローマへ進軍した。
第Ⅱ軍団はよく持ちこたえた。
 

イストリア戦線

BU軍はローマを占領したものの、消耗も大きく一時停止した。その後、さらなる北上を試みたが、その間に、かつて教皇庁脱出作戦の際に、密かにこれに紛れ脱出したイタリア方面軍の一部が、市民や聖職者らの協力のもとローマ北部に長大な塹壕線を築いていた。BU軍は止む無く対抗して塹壕線を築いた。エリック率いる大陸軍も到着したが、お互いの強固な陣地の突破は難しく、数度の戦闘の末、膠着状態に陥った。
これを打破するべく、エリックは北イタリアからクロアチア経由でのトラキア本土攻撃の作戦を立て、大陸軍第Ⅳ、第Ⅴ軍団にこれを命じた。これをトラキアは航空偵察で察知し軍団を派遣したため、ストリアで新たな戦線が築かれた。両軍はトリエステで接敵した。
この戦闘は、シェラルドの戦列歩兵や胸甲騎兵とトラキアのローマ・カタクラフトとの、非常に奇妙な対決となった。緒戦は射程に勝る銃兵戦列が、ローマ兵を削りながら漸進した。しかし、鉄の結束を誇るカタクラフトの隊列は崩れず、いよいよ銃剣突撃が必要な間合いにまで迫ったものの、近接戦により優れた相手への突撃は不利と判断され、行われなかった。対するローマ側も、反撃のため少しでも前進し隊列を崩せば、すかさずシェラルド騎兵が突撃してくるため、睨み合うほかなかった。結局、剣俊なイストリアでは迂回もままならず、こちらでも膠着状態となった。
軍事研究科達に「最も奇妙な陸戦」と言わしめた。
 

第一次ティレニア海海戦

シェラルド軍がイストリアへの迂回を計画したように、BU軍も膠着打破の計画を立てた。ローマ塹壕線後方のペスカーラへの上陸作戦である。しかし、この情報もまた、ナポリ兵に紛れた間謀によって齎され、シェラルド軍はこれを阻止すべく、マルセイユの地中海艦隊へ出撃を命じた。BU軍も艦隊を出撃させ、両者はティレニア海で衝突した。今戦争発の本格的な海戦となった。
シェラルド地中海艦隊は、戦列艦21隻及び補助のフリゲート艦からなり、指揮官はコルーメディ提督である。対するBU艦隊はトラキア海軍が主体で、その構成はローマ式の三段櫂船であった。シェラルド海軍は陸軍の栄華に対しいまひとつであり評価が低かったが、この海戦では砲性能差を活かし三段櫂船をことごとく撃破する大活躍をみせ、ティレニア海海戦をシェラルド軍の勝利へ導いた。BU海軍はアドリア海へ撤退した。
この報告をうけたHRE皇帝エリックは地中海艦隊を称賛し、コルーメディ提督へアドリア海への追撃を求めた。コルーメディは狭いアドリア海ではガレー船の方が有利とこれを一度は断るも、皇帝命令には逆らえず渋々出航した。
地中海艦隊はアドリア海へ乗り込み、BU海軍とふたたび戦闘を開始した。戦列艦艦隊は無風の内海で機動性を損ない、対照的にローマ・ガレー船部隊は自らの庭を縦横無尽に駆け巡った。ときには四方八方からのラムアタックにより沈没し、ときには接弦からの白兵戦で船ごと拿捕された。またたくまに地中海艦隊は壊滅状態となり、提督を乗せた旗艦含め、わずか4隻のみが辛うじてヴェネツィアへ逃げ込んだ。アドリア海海戦はBU軍の圧勝となり、エリックは落胆した。
軍事研究家達に「最も奇妙な海戦」と言わしめた。
 

ペスカーラ上陸作戦

シェラルド地中海艦隊の壊滅によって、もはやペスカーラ上陸作戦を阻むものはなくなった、BU軍はこれを決行した。大陸軍は止む無くこれの防衛にデレッセル元帥の第Ⅴ軍団を向かわせ、ローマ奪還のための戦力をさらに減少させた。
制海権の確保により、潤沢な海上支援を得たBU軍は、あっさりとペスカーラに橋頭保を築き、第Ⅴ軍団は苦戦を強いられた。それでも老練なデレッセル元帥は沿岸に堡塁を築き、大砲を並べ粘り強くBU軍を押し戻し続けた。しかし、BU軍が拿捕したシェラルド戦列艦から堡塁に一斉射撃を行うと、兵士の士気は大いに損なわれてしまった。元帥は沿岸での防衛を不利と判断し、第55連隊にローマ塹壕線のさらなる延長工事を命じた。
BU軍は激戦の末遂にペスカーラ市を奪取した。しかし、第Ⅴ軍団の抵抗により、このころにはペスカーラ郊外までシェラルド軍の防衛線は伸びており、殆ど徒労に終わってしまった。むしろ、この地点はナポリ方面の本隊から分断されたウィークポイントとして、後々までBU軍の負担となってしまった。
アドリア海で拿捕された戦列艦が牙を剥いた。
 

両都攻勢

ローマ、イストリアでの対トラキア戦線の膠着をうけ、HRE皇帝エリックは攻撃目標の変更を計画した。すなわち、アナトリア軍を動員して敵同盟国モレラを叩き脱落させようというものである。これは直ちにアナトリア王国へ通達され、軍事総督ハシュタウゼンの命でアナトリア軍及び現地に駐留しているシェラルド軍が国境へ動員されギリシャ方面軍となった。司令官にはフィッツカラルド元帥が任命された。
この軍によるコンスタンティノープル攻勢と合わせて、ローマへの総攻撃も決定された。これらは両都攻勢と銘打ち大々的に行われた。しかし、両都ともに一度の攻撃で陥落するほど柔ではない。BU軍は防衛に成功した。
アナトリアとモレラは、コンスタンティノープルやエーゲ海諸島の帰属で揉めながらも、共通的レグルスやShVVsの脅威の前に、お互いに海軍戦力は出し渋った。
フィッツカラルド元帥は猛将で名を馳せた。
 

ガリポリ上陸戦

第一次コンスタンティノープル攻撃が失敗に終わり、ギリシャ方面軍司令官フィッツカラルドは正面突破は不可能と判断し、ガリポリ半島へ上陸しての迂回、そしてコンスタンティノープルの包囲を上奏した。これを皇帝エリックは承認し、作戦は実行に移された。第一次ガリポリ上陸戦は、日の出と共に攻撃が始まり、これは夜間まで続いた。モレラ軍陣地からの無数の砲弾や銃弾の嵐の中、シェラルド第Ⅷ軍団は甚大な犠牲を払いながらも辛うじて僅かな橋頭保を築き、アナトリア軍と共に再三の突撃を敢行した。最終的に、モレラ軍のいくつかの塹壕を奪取したものの、日暮れには天候が悪化し、あまりに消耗も激しかったため最初の橋頭保地点まで後退した。モレラ軍もまた激しい砲撃船により補給の限界を迎えており、大規模な反撃は行えなかった。モレラ軍が奪回した塹壕は身元不明の死体で埋め尽くされており、この日の戦闘は後に「ガリポリの骨ミキサー」と揶揄された。
天候の回復を待ち、第二次攻勢が始まった。この間にモレラ軍は補給を回復し、移動弾幕射撃を用いた反抗作戦に出るも、東部やイズミル方面から続々と引き抜かれ送り込まれて切るアナトリア軍の物量の前に押し返され失敗した。また、この戦闘で予備弾薬を消耗したモレラ軍は劣勢を強いられた。
この日の戦闘で、オドラン大将麾下のアナトリア第Ⅰ軍は、まさに命知らずな突撃を見せた。いくら砲撃の手が緩んだとはいえ、モレラ軍の強固な塹壕と銃弾の弾幕は幾度となく第Ⅰ軍を押し返した。しかし、それでも士気高く突撃を繰り返す第Ⅰ軍の前に、遂にモレラ軍は内地への撤退を決断した。モレラ軍の塹壕内にも死体が積み重なり、最早防衛どころではなくなっていた。
その後、フィッツカラルド元帥は予備のシェラルド軍を率い北上し、モレラ軍の小部隊を撃破しつつ、遂にコンスタンティノープルを包囲した。HRE皇帝エリックは「アナトリア兵。彼らこそ最も勇敢な男たちだ、ということを、臣民の誰もが知らなければならない」とその献身を絶賛した。
強固なモレラ軍陣地への突撃は多くの戦死者を出した。

コンスタンティノープル陥落とモレラの離脱

モレラ軍はアナトリア=シェラルド軍を追い出すべく散発的に攻撃したが、どれも失敗に終わった。遂にコンスタンティノープルへの第二次総攻撃が始まった。
このときの様子を、当時のコンスタンティノープル市民は「大砲の音が三日三晩鳴りやまなかった」と回顧した。そのような猛攻の前に、遂に千年帝国の首都の防壁も陥落した。また、同時期に、フィッツカラルド元帥は先の上陸戦に味を占めエーゲ海諸島への上陸も計画し、手始めにレスボス島へ軍隊を派遣した。この上陸作戦は成功し同島を占領。さらに、停泊していたモレラ艦艇数隻を拿捕するなど大戦果を挙げていた。こうした状況から、モレラ大統領はフィッツカラルドへ休戦協定を求める使者を送った。
こうして、HRE=モレラ間で、コンスタンティノープルの和約が結ばれた。シェラルド=アナトリアは優勢であったが、モレラの早期離脱及び戦後の防共、防レ協力のため、寛大なものであった。モレラに求めたものは速やかなシチリア戦争からの離脱、そして占領したレスボス島と、同島で拿捕した艦艇の引き渡しに限られ、これに同意し両国間の戦争は終結した。これによって、戦線全域にわたり、少なくない数を担っていた同盟国から取り残されたトラキアは劣勢に立たされ、モレラを強く非難した。
コンスタンティノープルの和約。

モンカリオリの両王決闘

コンスタンティノープルの和約と同じころ、HN暫定首都トリノでは、続く包囲戦により飢餓が発生しはじめていた。包囲にはリュッシュモン元帥麾下の大陸軍第Ⅰ軍があたっていたが、トリノの攻めづらい立地、また戦力の多くをローマやイストリアの戦線に引き抜かれていたこともあり、攻めあぐねていたため、包囲戦は長期化していた。
ヴィットリオはBU軍の奮闘を頼りに籠城していたが、日に日に悪化する市民の健康に心を痛めていた。そこにモレラ離脱の報が届くと、限界を察し、最後の可能性に賭けることを決断した。翌日、トリノとポー川を挟んで対岸の都市であり、シェラルド軍陣地であったモンカリオリへ、ヴィットリオが単身で現れた。彼が指揮官リュッシュモン元帥に要求したのは、HRE皇帝エリックとの一騎打ち、つまり決闘であった。
決闘の条件は、ヴィットリオが勝利すればHN(サヴォイア)はシェラルドから独立し、和平を結ぶ。エリックが勝利すれば、サヴォイアはシェラルドへ併合される。というものであった。いずれにせよHN戦線を早期終結させられる。という打算とは関係なしに、エリックはこの気概を買い決闘を受けた。場所はモンカリオリ城の中庭に決まった。
エリックは愛用のサーベル、かつて初陣であったポーランド戦争において、彼が初めて殺した敵兵であったコサックから奪った記念すべき戦利品を手に。ヴィットリオは追放の際唯一携帯が許された、父の形見でもある、サヴォイア家に代々伝わる宝剣を手に向かい合った。公証人ド・フルーリ枢機卿のピストルの音を合図に両者の愛馬は歩みを始め、10歩を数えた頃には最高速度に達した。その瞬間、両者は交錯した。宙を舞うは二つの影。それが方やエリックの帽子であり、方やヴィットリオの頭部であることを観衆が理解するのに、時間はかからなかった。
エリックは13歳の頃から騎兵として最前線で戦ってきた生粋の軍人皇帝であり、優勢は明らかだった。それでも臣民の為に、自らと同じように命を懸けた若き青年の勇気を湛え決闘を受け、一撃で苦しむ間もなく首を飛ばした。
エリックはフルーリにミサをあげさせると、遺体を丁重に包み、ヴィットリオの従者へ引き渡した。トリノ市は降伏したが、ヴィットリオの勇気に敬意を払い、HN軍人は望むならばナポリのトラキア軍陣地へ逃れることが許された。
グロ注意

第三次ローマ攻防戦

長らく膠着が続いたローマ戦線だが、ここにきてシェラルド軍はトリノの降伏により第Ⅰ軍がローマ戦線に合流したのに対し、トラキア軍はモレラ軍の撤退によって戦力が減少した。これを好機とみたエリックは、ローマ戦線銭機に対し総攻撃を命令した。今戦争三度目となるローマ攻防戦が始まった。
ローマ占領以後も同地で戦線を支えた歴戦のトラキア第Ⅵ軍団はここでも粘り強い抵抗を見せ、ローマ市を防衛した。しかし、長大な戦線に対し戦力が不足しはじめ、遂にデレッセル元帥の第Ⅴ軍団がペスカーラを、ウールップ元帥の第Ⅶ軍団がティボリを占領し、戦線に穴が開いた。ローマから戦線の指揮を執っていたトラキア軍スカエウォラ大将は、遂にローマの防衛を断念し全軍へナポリへの撤退を命じた。
長大な戦線からの総退却は、トラキア軍を追撃戦による殲滅という未曽有の危機に曝したが、大陸軍はこれを追うことができなかった。同時期に中華連邦社会主義共和国率いるシルカグラード包括軍事協定軍が、HRE領であるドイツへ侵攻したためだ。皇帝エリックはこれを迎え撃つべく大陸軍を率いドイツへ転戦せざるを得ず、追撃の為皇帝からイタリア戦線の指揮権を引き継いだウールップ元帥には、わずかに二個軍団とイタリア方面軍の残余、そして北イタリア諸侯からの徴兵軍のみが残された。足並みの揃わない追撃戦はあまり成果が出なかった。
しかし、こうした事情はトラキアの背後でも起きていた。レグルス帝国が引き起こしたアフリカ大戦の勃発により、同君連合下のエジプト国家尾鷲帝国が攻撃を受けた。イタリア戦線との二正面作戦は困難と判断され、軍部は第Ⅵ軍団はじめ主力軍をまわすべく、彼らをナポリから撤退させる判断を下した。半島のトラキア軍は、一路上陸地点バーリ市への撤退を開始した。
遂にローマは奪還された

ナポリ撤退戦と第二次ティレニア海海戦

ウールップ元帥はローマから南下しナポリを占領したが、既にトラキア軍は既にナポリを発っていた。しかし、このとき両軍の距離はそこまで離れておらず、撤退戦を指揮するスカエウォラ大将は、ウールップ軍の予想以上の行軍速度をおそれ、愚直にバーリへ向かうのはリスクが高すぎると判断した。トラキア軍の進路はカラブリアへ変更され、目指すはシチリア島となった。
ウールップは追撃にあたり充分に偵察を送り出してはいたが、これらはナポリ人ゲリラたちによって阻害され、トラキア軍の性格な居場所や退却先がなかなか掴めなかった。それでもバーリ方面にトラキア軍がいないことがわかると、カラブリアへあたりを付け強行軍で追いすがった。
次第にトラキア軍のシチリア退却が各所に伝わり始めると、シェラルド地中海艦隊は再び出撃要請を受ける。カラブリアとシチリアは海峡を隔てており、退却には海上輸送が必須であった。これを巡り、シェラルド地中海艦隊とトラキア艦隊は、最後の海戦へ臨んだ。第二次ティレニア海海戦である。
地中海艦隊は先のリベンジにこそ燃えてはいたものの、時間が足りず戦力を回復できていなかった。艦隊はアドリアの敗残艦と、サヴォイアから徴収したわずかな戦列艦、そしてジェノバやニース、マルセイユらで徴発した漁船まで含まれた寄せ集めであった。これでは第一次ティレニア海海戦のような華々しい戦果はあがらず、順当に敗北しツーロンへ逃げ込んだ。しかし、この間はトラキア軍はカラブリアで待機せざるを得ず、ウールップ軍はすぐそこまで迫っていた。
トラキア艦隊は大急ぎで軍の輸送を開始した。全兵士の収容が完了した頃、郊外から大砲の音が轟いた。トラキア殿軍とウールップ軍とが接敵し、戦闘を開始した音だった。彼らは奮戦し、辛うじて輸送船が安全に港を離れるまで時間を稼いだ。彼らは全員が戦死か捕虜となったが、ウールップは勇敢さを湛え彼らを厚遇したという。このときの捕虜の一人は後に回想録を残し、「ウールップは港を去り小さくなってゆく船影を見つめ、悔しさから帽子を叩きつけていた。」
と綴った。
帽子を叩きつけるウールップ元帥

 終戦と講和

シチリア撤退戦以降、両軍は海を挟んでの睨み合いが続いた。お互いに戦争での消耗が激しく、さらに背後での戦争に忙殺されていたため、これ以上の戦闘に消極的になっていた。かねてよりローマ戦線の膠着を受けてトレントで停戦案をめぐる協議が行われており、折り合いがつかず難航していたが、ことここに至り、戦線が戦前へ戻ったことで両国は和平に前向きになった。
両帝の意向を受け、トレント会議で作成された和平案は合意に至り、条約締結にふさわしい地へ届けられた。今戦争の契機となったシチリアの晩祈祷事件の地、パレルモである。トラキア皇帝が東欧戦争の指揮で出席できないエリックに代わり全権使節として訪れたヨーデリンゲ主席国務大臣を迎え、パレルモ講和会議が開かれた。
条約の内容は戦前回帰で合意された。すなわち、シチリアはトラキアへ、ナポリはシェラルドへ、というものである。8月25日、正式にパレルモ条約が締結され、シチリア晩祷戦争は終結した。
また、トリノ降伏後にトラキア軍へ合流し、シェラルドとの戦争を続けていた残存HN軍は、トラキア艦隊保護の下、マルタ島へ逃れた。彼らはマルタに亡命HN政権を立ち上げシェラルドに抵抗した。シェラルド=亡命HN政権間の休戦は遅れて9月5日、ナポリ=マルタ間の海上で、シェラルド戦艦プリオール艦上で締結された。この後にサヴォイアはヴィットリオの遺言に倣いシェラルドへ併合され、HN独立戦争も終結した。
パレルモ条約調印式

 影響

戦後、トラキア領シチリアでは、汚職疑惑により罷免された前総督パウリヌスに代わり、新たにアンナエウス・プブリコラが就任した。新総督は反省からシチリアへ寛大な自治権を与え、島民の懐柔に努めた。
これとは対照的に、シェラルドはナポリの反乱勢力を徹底的に弾圧した。ナポリ軍団兵はトラキアへ逃れたが、残された反乱へ協力した市民などは、逮捕されたり、財産を没収されたりした。かつて独立ナポリ軍団への兵力供出と引き換えに与えられていた自治権は剥奪され、新たに送られたナポリ総督の統治下で冬の時代が続いた。後にメーレンカンプ元帥がマクシミリアーノⅠ世としてナポリ王位を与えられてからは彼の下で独自の政府が創設されたものの、シェラルドの隷属下にあることは変わらず、散発的に反乱が続いた。
マルタの亡命HN政権は、変わらずイタリアの支配権はHNにありと主張し続けたが、肝心の担ぐべき主君も王朝も失っていた。これはイタリアへ野心を向ける周辺諸国の、イタリアへの請求権をめぐる継承戦争の火種として残った。
戦争の結果は、講和内容を鑑みて痛み分けの引き分け、という見方が主流である。しかし、ナポリの奪回や対HN、対モレラにおける戦勝を理由にHRE、シェラルド=アナトリアの勝利と見る者もいれば、エリックの当初のシチリア奪回という目標を果たさせず、長期にわたりローマを占領した点から、BU、トラキアの勝利だ、と見る者もいる。かつて33年間にわたり続いたシェラルド=トラキア間の蜜月は、今戦争で完全に終わりをつげ、後のクリミア戦争などでも、両者は対立を続けることとなった。
戦後イタリア統治はミラノ勅令で定められた。

 関連項目

● 東欧戦争
● アフリカ大戦
● クリミア戦争
 

 参考文献

● ページ名
● ページ名
 
最終更新:2020年10月06日 02:59