『あの日、ほんの少しだけ寂しくなったんだ』
いつものように楽しげに笑いながら佐々木は言ったものだ。
『あの日、ほんの少し寂しくなったんだ。けれど結果からみれば正解だったね』
何気なく言って、あいつはいつものようにくつくつと喉奥で笑っていた。
そんな何気ないある日の出来事。
それは、ほんの少しだけ違った流れの中での出来事………………。
…………………………
…………
「風邪?」
先生の言葉に僕は少し呆れたような声を出してしまった。
周囲からくすくすと生暖かい笑いが届き、赤面をどうにか押し込める。
やれやれ。キョン、キミは休んでしまっている時ですら僕の心を揺らめかすのかい? 困った友人を持ったものだよ。
中学三年も九月に至ったある日、雨に濡れて身体を冷やした、と言う理由でキョンが休んだ。
最初はただそれだけの事だった。
「まったく。今日は中学校生活最後のプールの日なのに」
「あら? 彼に見てもらえなかったのが残念とか?」
「あら? 誰のことかしら岡本さん」
「さてねえ。うふふふ」
最初は翌日には来るものだと思っていた。
いつものようなとぼけた顔で。
「そうそう佐々木さん、進路希望用紙、まだ出してないのあなた達だけよ?」
「ん。解ってるわ岡本さん」
「彼と一緒に出してね?」
「はいはい」
けれどそれが二日続いて。
いつものように喋れないのが心残りだった。
今日も色々あったのに、理屈っぽい方の「僕」が色々と考えていたのに。
ゲリラ豪雨が降る中をバスで塾に向かったその翌々日。
そう、三日目を数えた頃、僕は何故かキョンの家の前に立っていた。
あれこれと用事をこじつけプリントを運ぶ役をかっさらった僕を、岡本さんがこれまた生暖かい目で見ていたのをおぼろげに覚えている。
我ながららしくない、けれどそれでも僕はここに来たかったのだと思う。
たった三日間で僕は少しだけ、あー、いや。入ろうか。
ちょっとだけの緊張を押し隠しながらインターホンを押すと、彼のご母堂が出られた。
これまたちょっとばかり緊張する。ちょっとした話くらいは聞いていたけれど、こうしてちゃんとお話しするのは初めてだったから。
同級生、それも異性の同級生の親御さんなんだ、緊張くらいするものだろう?
何を話したって? いいじゃないか別に。
忘れた? いや覚えているさ。
少しばかり話し込んでプリントを渡そうとしたところ、せっかくだからと寝ているキョンの部屋に通されてしまった。
こうしたおせっかいなところは彼と同、あー、いや別におせっかいじゃない。
別に僕はプリントが渡せればそれでよかったんだしね。
どうも思考回路が脱線気味なようだ。
入るよ、キョン。
「やあ」
返事はない。そっと傍らに寄ってみる。
初めて入った彼の部屋は、普段のイメージ通りシンプルな部屋だった。
まあグラビアポスター、或いはプラモデルでも並んで居たりしたならばご母堂だって僕を入れようとはしなかったかもしれないけれど。
テレビ、テーブル、ベッド、本棚。部活などに入っていた訳でもなし、彼には趣味はないのだろうか。
そんなシンプルな部屋の雰囲気に従い、僕はシンプルに彼の傍らに寄っていく。
三日も休んだから熱は大方引いたのか、安らかなというか、少し間の抜けた寝顔。
前は塾でよく見かけた、けれど九月にもなるとさすがに見かけなくなった、キョンの寝顔。
頬が緩みきった寝顔を見ていると、僕まで頬が緩むのを感じる。だから起こさないように、そうっとそうっと傍らに寄っていく。
この貴重な時間を、もう少しだけ楽しみたいからね。
「ねえ、キョン」
そうして彼の顔を上から覗き込んで、唐突に、自分に異常が起きている事に気が付いた。
と言っても別に不快ではない。むしろ快いというか、体温の上昇を感じるというか、感情が沸き立って仕方がないんだ。
心なしか頬も緩んでいる気がしてぺたぺたと両手で覆ってみたが、体温の上昇をなお感じただけだった。
どうにもこうにも、感情が沸き立って仕方がない。
あれ? おかしい。おかしいぞ。
僕はこんな情動的な人間だったか?
落ち着け。こういう時は深呼吸、そして視点を自分から外すんだ。
他人事として認識しようと肩から力を一旦抜き、ここ三日の自分を再確認してみると、一つの感情が引っかかった。
解ってしまった。
ああ。そりゃ岡本さんが心配するわけだよ。
ああそうとも、僕はすごく、あー、そう、僕はすごく、……寂しかったんだ。
たった三日間だけだけど、キミが視線の先に居ないだけで、日常の中にキミがいないだけで、僕はとても寂しかったんだ。
悪いかい? 僕にだって人の心があるのだから。
けど僕とキョンはまだ出会って半年ほどしか経ってない。
彼が居ない日常の方が、僕にとっては「日常」のはずなんだ。だからこんなに寂しくなるだなんて思わなかった。
こんなに嬉しくなるだなんて思わなかった。
自分は変わっていないって思ってた。
ぞくりとする。
自分は変わっていないから、だから「こんな関係」なんて振り切るべきだと、振り切れるのだと、そう思っていたからだ。
受験先を隔てようと、こんな弱い私なんて振り切ろうと思っていた自分が、怖くなった。
この寂しさがずっと続くと思ったら、怖い。
いや、それだけじゃない。
僕の視界からキミが消えるという事は、キミの視界からも僕が消えるという事だ。
するとどうなる? キミの視線の先に、誰か別の人がいるようになって、そうしてキミは別の誰かを好きになって…………。
そんなの、いやだ。
自分はとっくに変わっていたことをようやく認める気になれた。
ああそうとも、今の僕は、とても幸せなんだよ、って。この幸せを絶対に失いたくないんだって。
視界の中にキミがいるだけで嬉しくなる。
けれどキミと語り明かすのは
「もっと楽しいんだよ?」
そっと指先で彼の額に触れると、ぬくもりが伝わってくる。できたばかりの傷口を、手のひらで包んだ時の様な感触を感じた。
流れ出ていたものが止まって、暖かくなってくるような感触。
そっと指を滑らせ、彼の頬を手のひらで包んでみる。
どうしようもないほどに頬が緩んでくる。
「ねえ、キョン」
思えばこれが失敗第二弾。我ながら「やってしまった」と思ったものだ。
だって何気なく触れただけなのに、とてもとても心地良かった。とてもとても、あーそうだ、そうとも。……とても、幸せだったから。
視線の先にキミがいる、言葉で二人が繋がる。けれどそれだけじゃない、こうして触れるのも心地良い。
心地良いのだと、そう知ってしまった。
思えば僕はずっとキョンの部屋に来た事がなかった。
夏休み中も、塾以外ではずっと別行動をして、交流を増やそうとしなかった。
そりゃそうだよ。キミの部屋に来たなら、こんな感情になるだろうって、僕はきっとどこかで知ってたんだ。
ああそうだ幸せなんだよ! 悪いか「僕」!?
キミが居ない日常、キミに触れている今。ふつふつと胸の内に湧き上がる気持ちに理性が必死で抵抗を試みようとする。
けれど、ただ素直に「寂しい」、「嬉しい」と言える自分も時には必要だと思うんだ。
僕は強くあれると信じていた。けれどそうでもなかったんだねって。
僕だって、ただの人間なんだから。
だからそっと覆いかぶさるのさ。
この温かさを、もっともっと独占したくなったから。キミとの壁を、打ち壊してみたくなってしまったから。
強くあろうとした理性的な僕が、激情家な私に言い負かされてしまったきっかけの一つさ。
……………………………
…………
「あの日はびっくりしたぞ」
なんか重いと思って目を覚ましたら、佐々木が寄っかかっていたんだからな。
「くっくっく、キミのすっとぼけた寝顔を覗き込んでいたらつい、ね」
「だからって年頃の男子中学生に対してだな」
「キミにならいいだろう?」
帰り道、佐々木は面白そうに覗き込んでくる。
中学指定のこれまたやぼったい冬服の上に、やたらめったらと眩しい笑顔を乗せたまま覗き込んでくる。
「キョン、キミになら良いだろう?」
「まあそうだけどな」
俺は、俺の聡明で、どっか無防備な彼女の頭をくしゃくしゃと撫でると
佐々木はくすくすと笑顔を浮かべて非難してきた。
「こらこら止めたまえキョン」
「いやだね」
「まったく酷い人を彼氏に選んでしまったものだ」
口で抗議しながらも佐々木の頬はゆるみっぱなしにしか見えない。
改めて、付き合い始めて改めて知ったことだが、こいつはいつでもこんな奴だ。
言葉と態度がどっか矛盾している、そんな奴だ。けれどそれも、これまた最近徐々に鳴りを潜めている。そして
「くく、まったくなんでこんな酷い人に惚れてしまったのだろうね?」
「こっちの台詞だ」
「やれやれ」
そして、ちょっとだけ佐々木の言葉は前よりも直截的になった。
前よりも腹を割って、解りやすくなった。
「こっちこそなんでこんな理屈っぽい変な女に惚れちまったんだろうな?」
「こっちの台詞だよ」
「やれやれ」
だから、俺も前より意図的にバカっぽくなった。
前からバカだった? うるせえよ。
そろそろ受験も近い。
けど佐々木なら北高なんて余裕だろうし、俺の受験対策もバッチリだ。
だからきっと俺達はまだ一緒に歩けると思う。
歩きたいと、思う。
「ねえ、キョン」
「なんだ佐々木」
キョンの隣を僕は歩く。
ほんの少し、夏ごろよりもほんの少し近く、歩いていると時々手の甲と甲が触れ合う距離で。
高い高い、青い青い空の下を歩く。
そうとも、アレはきっかけ。
人の心はたった一つの事件で様変わりこそするかもしれないけれど、深く馴染ませていくのはやはり時間という奴なのさ。
九月にあんな事件があって、それから少しずつ僕らは距離を縮めていった。
少しずつ、少しずつ、その度に小さな発見と喜びがあった。
自分の心の中ですらロクに知らなかった事を知った。
もっと知りたかったから、僕は進路に「北高」と書いた。
僕にだって夢がある。
けれどそこへ向かうにも、キミと一緒に居た方がずっと楽しいんだって気付いたから。
夢と希望と両立をできるって信じたくなったから、だからぎゅっとキミの手のひらを握り締めるんだ。
握り返してくれると信じられるから、もう恐れることなんてないんだ。
夢も、希望も、僕は掴み取って見せるんだってね。
「ねえキョン、知っているかい? 砂漠の空はこちらよりも藍色に近いそうだよ?」
「ほう、つうか藍色ってどんな色だっけか?」
「より濃く、重めな青だね」
空気中の水分が少ないからだそうだけど、なら空気中の水分が凍り落ちているであろう局地の空も、そんな色なのかな?
逆に湿気が高いという東南アジアの空はどんな色をしているのだろうね?
「ねえキョン、いつか、一緒に見に行かないか?」
いつものように覗き込むと、彼の顔がいつもより一歩分だけ僕に近付き、ほんの一瞬だけ柔らかい感触が唇をふさいだ。
「それもいいな」
「ん」
耳を赤くして明後日を向く彼の手を、ぶんぶんと振り回しながら二人で歩く。
ホント、子供っぽいよね。
けどそれでもいいのさ。
二人で通学路を歩き、キョンの家に二台止まった自転車を引き出して、二人並んで塾へ行く。
これじゃ彼の荷台には乗れないけれど、代わりに二人で一緒に帰る事が出来る。そうさ、彼に家まで送ってもらうことが出来る。
塾のある日、朝はキョンの家まで自転車で行って、それから二人で学校へ登校することも出来る。
そうして放課後、また二人並んで自転車で塾まで向かうんだ。
キミの背中を堪能は出来なくなったけれど、時には僕が前を、時にはキミが前を、広い道では並走して、僕らは自転車で駆けて行く。
ねえキョン、受験が終わったらツーリングしようよ。定番だが植物園、動物園、水族館と言うのもいいね。
ああそうさ、まだ僕らはボーイズ・アンド・ガールズに過ぎない。
だから自転車にしか乗れないけれど、いつかは自動車に乗ろう、いつかは飛行機に乗ろう。
いつか二人で肩を並べて、藍色をした空を見に行こう。
「そうだな。そういうのも悪くねえ」
キョンはいつものダルそうな顔で笑う。
「思ったよりも悪くなさそうだ」
「そうかい?」
いつかキミは世界が不思議ならば良いと言った。
僕は世界は現実的だと返した。
けれど世界は現実的であっても、決して退屈ではないんだよ。
空の色が一つではないように、僕らの想像を越えた世界があるんだ。多様な世界と人が居て、先人が残した知識・概念・本もある。
世界は映画・ドラマ・小説・漫画とは違うけれど、そも僕らだってそうしたフィクションを全て読んでいる訳じゃない。
僕らが知っているのはフィクションの中でさえごく限られた世界でしかないんだ。
現実が楽しいかどうかと評するには僕らはまだまだ若すぎるのさ。
もっと広く世界を見よう、現実にだって、半端なファンタジーじゃ敵わない、不思議で素敵な世界がある。
けれど僕らはボーイズ・アンド・ガールズ、今は僕らの市内を一緒に歩こうじゃないか。
明日の為に学ぼうじゃないか、いつか遠い明日に、ずっと遠くへ行く為にね。
けれど一人じゃ物足りないだろ? だから
「さあ、キョン」
「おう佐々木」
だから二人で世界を一緒に見よう。
世界を共有出来る人、同じ目線で何だって話せる人がいる事、二つの信号が重なる事、それは本当にとてもとても幸せな事なんだ。
だから二人で世界を一緒に歩こう。二人でなら、どこへだって、どこまでだっていいさ。
どこまでも、ずっと、ずっと。
)終わり
)涼宮ハルヒの憂鬱に続く……?
)作者補足、Rainy Dayと分裂P241は同日の出来事なのを踏まえたifルート。
最終更新:2012年06月29日 02:11