経歴
赤尾 敏(あかお びん、1899年1月15日-1990年2月6日)は、愛知県名古屋市東区出身の元国会議員、代議士、政治活動家。大日本愛国党の初代総裁。
愛知県名古屋市東区で金物商を営む家に生まれ、地元の高等小学校時代に教師から「秀吉は草履取りから天下を取った」と聞かされたことで政治への道を志す。その後、堺利彦・山川均・大杉栄の元で社会主義を徹底的に学んでから左翼運動を活発化させるが、ある日に恐喝未遂で警察に逮捕された際に同志の裏切りに遭ったため、獄中で右翼思想に転向する。
1942年に実施された第21回衆議院選挙に立候補してトップ当選を果たし、晴れて国会議員となるが、以前から統率が取れずに反体制的な行動が目立ったために国会議員としての活躍が出来ず、最終的には国会議員待遇(議員を辞職しても国会に入れる権利)を剥奪される。終戦後にはGHQによって公職追放を受けるが、それが解除された1951年に「大日本愛国党」を結成、初代総裁に就任する。また、1952年の第25回衆議院議員総選挙に元国会議員として出馬し、それ以降没するまでに数々の衆議院選挙、東京都知事選挙に立候補、最高で122532票を獲得した。
大日本愛国党の総裁として毎日、東京・銀座の数寄屋橋で辻説法を行っており、大日本愛国党を結成した理由も選挙期間中においても辻説法を行うためだったと後年語っている。1960年10月には脱党直後だった山口二矢が日比谷公会堂で日本社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺する事件が発生したほか、同じく脱党直後だった小森一孝は嶋中事件を発生させている(山口は事件後、収監された鑑別所で自殺している)。山口が浅沼を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。これによって赤尾も威力業務妨害容疑で逮捕され、大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。
街宣車を使用した右翼活動家の先駆けとも言われており、選挙において落選・供託金を没収されても選挙に立候補し続けることから「泡沫候補」という言葉を広めるきっかけになった人物とも言われている。赤尾は東京都知事選挙に計9回出馬しているがいずれも落選している。
1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院で心不全のため死去、91歳没。赤尾の政見放送は主に80年代の古い映像であるにも関わらず、多くの動画が残されている。また彼が憂う日本の未来の姿と現在が一致しているという意見も多く、彼の先見性を評価する声が多い。
政見の特徴
力強く畳みかけるように話す口調が特徴。言いまわしも独特でジェスチャーも激しく交えている場面があり、とても90歳とは思えない。内容は選挙によって様々だが、メディアによる特定候補の贔屓を批判する内容は一貫している。
- しかるに立候補するのはね、立候補して、眠ってる馬鹿達に教えるためだ!
- 怒らずにいられんじゃないかっ!皆腐ってんだからっ!
- これが本当の日本人のやり方なんだ!それが一番悪者扱いじゃねえか!
- 社会党共産党の方がいいと言って入れる奴は馬鹿だよ!罰が当たるよ今に!
- どんなに努力したってね、マスコミに消されたらだめなんだ!
- あんなもの國賊じゃねえか!
- 何回選挙やったってね、世の中よくなりません。
- 僕はそんな気持ちで戦っている。
ニコニコ動画で視聴できる動画
最終更新:2015年03月02日 11:04