project nemo_23

何の夢を見ていたのか、はっきり覚えていない。
よくあることではあったし、それよりも全身を支配する気だるい眠気は、彼女を二度寝へと誘いつつある。一度あの快感を味わってしまえば、抜け出すのは到底困難なことであろう。
現実との区別が曖昧なまま、どこか懐かしい香りのするベッドの上で、しばらくゴロゴロと過ごす。誰かが部屋の扉を開ける気配に気付かねば、本当にそのまま再度、夢の中へ行ったことだろう。
――だが果たして、本当にそれは夢の中だったのだろうか。飛び込みかけた空想の世界に、奇妙な違和感があった。
何故、あたしはここにいるの?
何故、あたしは惰眠をむさぼっているの?
本当は、やるべきことがあったんじゃないだろうか。このまま夢の中に戻れれば、それが分かるような気がした。

「ティアナ、おい。いつまで寝てるんだ」

潜りかけた夢の中から、引きずり戻される。いちいち起きて姿を確認せずとも、声を聞いただけで部屋に誰が入ってきたのかは明確だった。
とは言え、それで素直に起きる彼女ではない。どうせ休みなんだからいいでしょ、と頑なに起床を拒むこととした。
ふ、と起こしに来た人物が、苦笑いを浮かべるのが分かる。どうしたものかなと、妹を眠りから目覚めさせようとあれこれ考えているようだ。無論、掛け布団をしっかり保持した彼女は例えどんな
手段を使われようと、起きるつもりは一切なかった。
そうだ、あの手があった。一方で、彼は妙案を思いついたらしい。

「眠り姫はキスで目覚めるって、昔からよく言ってたよな。よし、試してみよう」

――はい? なんですって?
ちょっと待ってよ、と寝たふりを続けているため表情には出さず、しかし彼女の胸のうちは案の定動揺の嵐に晒されていた。
起こしに来た人物の発言をそのまま受け取るならば、おそらくキスをしてくるだろう。しかも、この場合ほっぺたやおでこなどではない。唇に、だ。
いやいや、まさか本気で行動する訳があるまい。これはきっと計略だ。起きないとキスしちゃうぞーと言う、脅し。動揺して起こすのが目的に違いない。
そう思って気付かれないよう、薄目を開けてみた。血の繋がった兄貴の顔が、そこにある。
ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って、待ちなさいってばもうホントに! 本気? 本気なの兄さん!? 確かに血の繋がった兄妹だし、食器とかコップとか共用してるからどこかで間接キスしちゃっ
てるかもしれないけれど、いや、それとこれとは、話が、次元が違うって言うか、だから、その、あの、ええと!
奇跡的な確率でポーカーフェイスを維持できているものの、内心は大いに取り乱し真っ最中。その間にも兄の、妹だからと言う身内贔屓無しでも整った端正な顔立ちが接近しつつある。

「ティアナ……」

しまいには名前とか呟かれたりして。待って待って、お願いだから気持ちの整理をさせてぇぇぇ!!

「ストッープ! ストップして兄さん! 起きてるから、あたし起きてるから!」

とうとうギブアップ。顔をトマトの如く真っ赤にして、とうとう彼女は寝たふりをするのをやめて、跳ね起きた。
ハッと、そこでティアナ、と呼ばれた少女は我に返る。完全に目覚めた瞳が最初に捉えたのは、ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべる兄、ティーダの姿。
謀られた――羞恥に染まっていた顔が、今度は別の感情で赤くなっていく。すなわち、怒りの炎で。

「おはよう、ティアナ。いい朝だな――とりあえず、寝る時薄着になるのやめたらどう?」
「ひょ?」

今にも枕を掴んでぶん投げようとしていた身体の動きが、間抜けな声と共にピタッと止まる。
兄の指摘を受けて、彼女は恐る恐る視線を下げ、自分の身体を確認。なるほど、指摘された通り薄着であった。上は黄色の半袖Tシャツ一枚で、下は――何と言うか、ショーツ一枚だった。
暑くて寝ぼけたまま寝巻きの短パンを脱いだのか、寝相が悪くて脱げてしまったのか定かではない。とりあえず今言えることは、なだらかなラインをした美しい足が、太ももまでばっちり人目に晒
されていること。それから、可愛らしいリボンのついたショーツが兄に見られていること。まさにリボン付き、見た者全てを震えさせる光景である。ただし、男限定で。

「へぇー。我が妹ながら、なかなかいい美脚してるんだなぁって、ぶぁ!?」
「うっさい! 出てけ、このスケベ馬鹿兄貴ーっ!」

羞恥と怒りがごちゃ混ぜになった、よく分からない感情で顔を烈火の如く赤くしたティアナは、飛び蹴りを敢行。正面から妹のライダーキックをもろに喰らった兄は、そのまま悲鳴を上げて部屋の
外へと叩き出された。ドンッと、日常生活では到底聞くことが出来ないような凄い音が響いた気がする。
見ていて惚れ惚れするような飛び蹴りをかまし、彼女はバンッと部屋の扉を閉めた。まさかあの蹴りを喰らってすぐに起き上がれるとは思えないが、背中を扉に寄せて体重をかけ、再起動した兄が
入ってこれないようにする。

「……いいライダーキックだった。朝ごはん出来てるから、服着たら降りて来いよ」

ッチ、あの兄貴め。意外と頑丈だわ。
扉の向こうでゴソゴソと立ち上がる音がして、兄の案外平気そうな声がした。階段を下りていく足音が聞こえ、人の気配が無くなったところでティアナはハァ、とため息を吐く。
兄の撃退には成功したが、すっかり目は覚めてしまった。渋々着替えることにしたが、気分はあまり晴れない。相変わらず、頬は赤いままであった。
兄さんったら、あたしもう一六歳なんだから。いい加減年相応に扱って欲しいって言うか、デリカシーがないって言うか、いくら家族だからってもうちょっと女として見て欲しいとか――嘘、最後
のやっぱり無し。これじゃあたしがあの人に惚れてるみたいじゃない。
ぶんぶんと首を振って、トレーナーの袖に腕を通す。そりゃあ確かに、幼き頃は「おにいちゃんのおよめさんになるー!」なんて言っていたような気もするが、それは若さ故のなんとやら、だ。
だいたい、自分にはもう好きな人がいるだろうに。未練がましく兄の行動を期待するなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどが――え? 少女の顔が、疑念に染まる。
自分に、好きな人。果たしてそんな人、いただろうか? いつ? どこで? どうして? 誰を?
記憶の奥底まで探っても、答えは見つかりそうになかった。



ACE COMBAT04 THE OPERATION LYRICAL Project nemo



第23話 思い出よ、さようなら


焦燥。脳裏に浮かぶ言葉があるとしたら、今はその一言しかない。
焦っても仕方ないこととはいえ、今は敵大型飛行物体内部に突入したティアナを信じるしかないとはいえ、フェイト・T・ハラオウンは不安と危機感が織り成す気持ちの悪い空を飛ぶしかなかった。
視線の先には、それなりに距離を取っているはずなのになお、巨大と形容出来る黒い翼。XB-0改、彼女が知る由もない名を持つ重巡航管制機は、依然として闇夜の空に浮かんでいる。
バルディッシュ、と彼女は手中にあった黒い杖の名を呼んだ。長い付き合いの相棒は、主の意図するところを察し、答えてみせた。

<<38 minutes>>

三八分、三八分か――敵機内部にティアナが突入し、信号が途絶えてからの時間。連絡は来ず、こちらから通信を試みても応答がない。何かあったのは、容易に察することが出来た。
いっそのこと、助けに行くべきか。信号途絶から今この瞬間まで、幾度となく同じ考えが脳裏をよぎり、黒を基調とした魔導の衣、バリアジャケットを翻して敵機への侵入を試みようとした。
だが、その度に心中を見抜いたのか、傍らを併走する独特のイントネーションを持った同い年の少女が止めに入る。八神はやてからだった。

「フェイトちゃん、あかんよ」
「はやて――でも」
「下はもうとっくに陸地や。下手を打って戦力を消耗させられへん」

分かってはいる。はやても、断腸の思いで飛び出そうとしている自分を止めていることは。ギリ、と歯を噛み鳴らし、整った顔立ちにフェイトは、苛立ちを見せた。
XB-0改は現在、すでに洋上からミッドチルダ大陸上空にまで到達してしまった。人口密集地も、そう遠くはない位置にある。相手がその気になれば、もういつだって多数の人命が失われてもおかし
くはないのだ。慎重になるほかない。
何も出来ないことに彼女ら魔導師たちも、戦闘機隊も苛立つようになったところで、黒い巨鳥に動きがあった。ECM防御システム対策として挑んだ正面からの攻撃を受け、現実に黒煙を漏らしている
はずなのに、その挙動にはダメージを負ったと思われる形跡が見当たらない。
敵機は、ゆっくりと翼を翻す。身構える管理局部隊に正対したかと思いきや、背面にあったと思しきハッチが複数開く――フェイトの紅い瞳は、そこに複数の白煙を見出した。

「ミサイル攻撃、来る!」
「っ、全員退避! 戦闘機隊もブレイク!」

警告を飛ばさずとも、はやても同じものを目撃していた。指揮下の魔導師、及び戦闘機にただちに退避命令を下す。夜空の下、鋼鉄と魔法、異なる天翔る翼が蜘蛛の子を散らすようにバッと編隊を
解き、各々進路が被らないよう回避機動に入っていく。
予想は、当たっていた。XB-0改の背面VLSより白煙と共に放たれたのは、空対空ミサイルだった。破壊と殺戮、ただその二点において特化した無慈悲な質量兵器。昼間と違って夜の、黒いキャンパス
の上を白い線が四本駆け抜け、フェイトたちに向け直進してくる。
フェイトちゃん、と名を呼ばれる。いちいち確認せずとも、指揮官殿の意図するところはそれだけで察しがついていた――迎撃。たった四発、誘導方式の魔力弾を当てれば何も怖くはない。

<<Plasma Lancer>>
「ファイヤ!」

バルディッシュの詠唱代行により、浮かび上がる雷を帯びた魔力弾。射撃手の命を受け、文字通りの魔法の弾丸は夜空に軌跡を描き、迫る質量兵器に立ち向かう。

「穿て、ブラッディダガー!」

はやてが放つのは、血のような真っ赤や刃を持った短剣。先に放たれたフェイトの魔力弾の後を追うようにして、空を引き裂くような速度を持って突き進む。
速射性に優れるプラズマランサーで最初の一撃を浴びせ、取り残しを着弾時に爆裂するブラッディダガーで撃墜する二段構えの戦術だった。
熟練、それもエースの領域に達している魔導師たちの迎撃に、ミサイルはなす術がない。物言わぬ彼らはただまっすぐ、指定された獲物に向けて愚直なまで突っ込むほかないのだ。魔力弾は簡単に
質量兵器を叩き落す。そのはずだった。
閃光。最初の一発目が、プラズマランサーに弾頭を射抜かれ、爆ぜた――瞬間、フェイトとはやての表情が歪んだ。爆発の炎が、あまりに大きすぎる。闇を消し飛ばすような勢いで生まれた爆炎は
突っ込んできた魔力弾も、後方に続く仲間のはずだったミサイルすらも飲み込み、さらにさらに力を強くしていく。
ただのミサイルではない。弾頭が特殊な何か、とにかく通常弾頭ではないのは確実だ。でなければ、他のミサイルの誘爆を取り込み、大きな火の玉と化した爆炎が二人の魔導師を襲う訳がない。

「あかん、これは――!」

バリアジャケット、騎士甲冑はそれだけでもある程度の防御力を持つが、この爆風の前では紙も同然だ。咄嗟に防御魔法を展開し、どうにか迫る炎と衝撃の魔の手から逃れようとする。
掲げた左手の手のひらにビリビリと衝撃が伝わり、火炎の熱が二人の少女を焼き殺そうと押し迫る。開かれた魔法の壁は、それでも確かに爆発の炎を防いだ。周囲を酸素を散々喰らい尽くし、よう
やく炎は黒煙へと姿を変えて、収まりを見せる――あっ、と悲鳴。誰の者かと考え、すぐにフェイトはそれが自分のものであることに気付いた。黒煙の影から、ロケットモーター特有の白い光がか
すかに視界を過ぎる。ミサイル、撃ち漏らしがあったのだ。
迎撃を。デバイスを振り回して発動させようとした射撃魔法は、もう間に合わない。退避の途中だった戦闘機隊に突っ込んだ一発の炎と鉄の矢は、己が使命を果たすことに成功する。
カッと、再び夜空を吹き飛ばすような勢いで炸裂するミサイル。生み出された爆発は、荒れ狂う炎の手で運悪く逃げ遅れた鋼鉄の翼を掴み、へし折り、木っ端微塵に吹き飛ばしていく。脱出すらも
ままならないパイロットたちがどうなったか、もはや語る必要すらあるまい。

「しまった――はやて! ミサイルは一発たりとも通しちゃダメだよ! この威力じゃみんな逃げ切れない!」
「言われへんでも分かっとる、分かっとるけど……っ!?」

燃料気化爆弾の応用か何かか。ともかくも、自分たちに襲い掛かってくる質量兵器は普通じゃない。事実に面食らっているうちに、手中の相棒より警告が走る。

<<Master,Missile!>>
「っ、こなくそぉ!」

ブンッと、はやてはシュベルトクロイツを天へと掲げた。消耗を抑える魂胆ではあったが、今はそんなことなど言ってられない。出し惜しみは、すぐ死に直結するのだ。
詠唱開始、術式展開。足元に浮かび上がるのは、三角形の古代ベルカ式魔法陣――もちろん彼女は知る由もないが、敵のミサイルも"ベルカ"公国の技術が発祥だった――眼には眼を。広範囲攻撃に
は広範囲攻撃を。唱えた呪文は、短い言葉。闇に、染まれ。

「デアボリック・エミッション!」

まだ先の爆発から生まれた黒煙も晴れきらないうちに。さらに突っ込んできた複数のミサイルの正面に、黒々とした球状の魔力の塊が立ち塞がる。飛び込んできた質量兵器を迎えるようにして、塊
はその身を大きく、縦にも横にも広がらせ、そして潰す。
空の一角を埋め尽くすような勢いで放たれた広範囲の攻撃魔法は、ミサイルが解き放つはずだった爆発の威力もまとめて消し飛ばすことに成功した。
迎撃成功。咄嗟の広範囲攻撃はそれなりの負担だったらしく、呼吸を荒くするはやてはしかし、勝利の笑みを浮かべていた。

「はぁ、はぁ――ど、どんなもんや。ミサイルがなんぼのもんやで」
「――ダメだ、まだ来る」

されど、フェイトの顔からは緊張が抜けきることはなく。むしろ逆に、表情を強張らせる。
なんやて、と夜天の主が顔を上げれば、はるか向こうのXB-0改の背面より、またしても白煙が上がっていた。邪魔者は、ここで一気に吹き飛ばす。そういう魂胆なのだろうか。
とは言え、後退は許されない――背後には、たくさんの命がある。今はひたすら、迫り来るミサイルを迎撃し続けるほかない。




状況は、限りなく最悪に近いと言えた。
まず、祖国奪還のための切り札が丸ごと乗っ取られた。XB-0改はもはや彼らの手を離れ、あの狂人の意のままに動く操り人形と化している。誇り高きベルカ公国の技術力の粋を結集して開発された
ものが、一介の科学者、それもいくらか感賞が捻じ曲がった者に奪われるとは、屈辱の極みと呼ぶほかない。
次に、アシュレイ・ベルニッツは肩を銃弾で射抜かれ、負傷していた。艦橋からXB-0改の中枢を把握した狂人の手から逃れる際、無人機銃の掃射を受けたのだ。他の者はことごとく皆殺しにされた
のを考えれば、生きているだけでも幸運であったし、一応自分で歩ける程度にはまだ体力も残っている。だが、医者や衛生兵でもない者の手での応急処置。流れ出た血液の量は決して少ないとは言
えず、すでに何度も倒れそうになった。
最後に、いつまで経っても艦内に侵入し、XB-0改の進攻を止めるべく艦橋に昇った女が――名前は聞いていない。変わった拳銃に白いバリアジャケットと言う、この世界では標準とされる防護服を
着た若い女――戻ってくる様子がない。ひょっとすれば艦橋にいるあの科学者を倒し、その隙にXB-0改の奪還を狙えるかもしれないと言う期待があったのだが、どうやら無理だったようだ。

「それで、どうするんだ?」

乏しい自衛用の火器、拳銃を片手に、アシュレイと同じ旧ベルカ公国空軍の飛行服を着た男が尋ねてくる。ミヒャエル・ハイメロート、志を同じくとする文字通りの、そして艦内では唯一となって
しまった同志。
何もしないまま、ただあの侵入してきた小娘一人に任せる訳にはいかないと言う戦友の言葉に従ったはいいが、XB-O改の中枢は奴に握られたままだ。艦内のあらゆる行動は奴の監視下にあるだろう
し、妙な動きをすれば今度こそトドメを刺される可能性があった。

「手元にあるのは拳銃と予備の弾層が二つ。あとはニッパーやラジオペンチ、どこでも手に入る工具ばかりだ――こんなもので何が出来るって言うんだ」
「いや、充分だ」

繰り返すが、状況は限りなく最悪に近いと言えた。
それでも、それでもである。亡国の戦士の眼からは、眼光が消えていない。むしろ、より鋭い光を放ち、目の前に広げられたわずかな工具を確認する。負傷もしておらず、まだ体力に余裕のあるミ
ヒャエルが監視の目を掻い潜り、艦内を駆け回って集めてきたもの。
彼の言う通り、本当にどこでも手に入るような何の変哲もない工具を手に取り、アシュレイは立ち上がる。

「どこに行くつもりだ」
「VLSの発射管制室だ」

あそこに? と同志の顔が疑問に染まる。
このXB-0改には、以前のXB-Oと違ってミサイルの垂直発射機、VLSが背面に搭載されている。発射コントロールは火器管制と統合されているから普段は艦橋より行うが、万が一艦橋より操作が不可能
となれば、発射機のすぐ近くにある管制室より手動でのミサイル発射が可能なよう設計されていた。

「気付かないか? さっきから艦内が定期的に揺れている。VLSから、ミサイルが発射されているんだ――おそらく管理局の部隊に向けてだろうな」
「それは分かるが――」

あんなところに行って、何をしようというのだ。ミヒャエルの疑問は続く。
ミサイルの発射管制室を抑えたとしても、火器管制システムより発射コントロールの移行が命令されなければ、手動による操作は不可能。仮に手動による操作が可能となったところで、いったい何
をやるつもりなのか。まさかXB-O改を沈める訳じゃあるまいな、と問いかけるが、そのまさかだった。

「もはや我々二人では奪取は叶うまい。あの小娘も、死んだだろうな」
「正気か、アシュレイ! XB-0改は、我々の、祖国奪還の切り札だぞ! それを、自ら沈めるなど!」
「ミヒャエル、だったら他にいい案を考えてみろ」

逆に問いかけられて、彼は沈黙するほかない。確かに、すでに艦内で祖国を憂う戦士は自分を含め残り二名。しかも、片方は負傷で戦える身でもない。残された手は、せめて自分たちの手でベルカ
の黒い巨鳥を沈めることだけだった。

「心配するな」

しかし、アシュレイはさして動揺した様子も見せない。まだ手はある、そう言わんばかりに。ちっぽけな工具をいくらか持って、VLS付近のミサイル管制室へと向かう。
なんてことはない。発射管制室と、艦橋の火器管制システムを繋ぐラインをぶち切ってやるのだ。それだけでは発射コントロールはまだ火器管制側にあるが――発射機そのものとのラインを、つい
でに切ってやる。配線位置は、もともとこの艦を建造したのは彼らだ。手に取るようにとはいかずとも、おおむね理解していた。
残すは時間との勝負だ。長引けば長引くほどあの科学者はいよいよ自分の目的のためにXB-0改を使うだろうし、ぐずぐずしていて見つかれば配線を切るどころではなくなるだろう。
痛む身体に鞭打って進む彼は、道中で呟く。認めよう、我らの失敗を。この世界での敗北を。だが、ただでは負けない。祖国再興のために、こんなところで死ぬつもりもない。
次の戦いへと繋げる一手、それはすでに手中にある。




違和感を感じたのは、ティアナが下着一枚も同然だった寝巻きから着替えて、リビングのある一階に降りてきた時だった。
鼻腔をくすぐるいい匂いは、焼き立てのトーストだろう。実際テーブルの上を見てみれば、こんがりと美味しそうな焦げ目をつけたトーストが皿の上に並んでいた。色とりどり、豊富な種類のジャ
ムが、見ている者の食欲を掻き立てる。

「おはよう、ティアナ。いや、おそよう、かな?」

リビングには、先客の姿もあった。朝に相応しい爽やかな笑みを見せる兄が、遅れてやって来た妹に早く座って食べなよ、と促してくる。言われるがまま、ティアナはティーダの隣の席に座った。
誰が言わずとも、歳の離れた兄貴の隣は自然と彼女の指定席となっている。
そこまではいい。朝はドタバタしたけども、なんだかんだで仲の良い兄妹は朝食を口に運びながら、その日の予定や仕事のこと、日常のありふれた話題で一日の始まりを幸せに迎えることだろう。

「やぁ父さん、母さんも。早く食べようよ、ティアナに全部食べられちまうよ」

ちょっと兄さん、あたしそんな食い意地張ってないわよ。いつもなら、そうやってすかさず突っ込みを入れるところだ。おそらく、兄は笑って受け流すに違いない。
そのはずは、ティーダが目の前に現れた二つの奇妙な人影を"父さん"と呼び、"母さん"と呼んだことで潰えた。
人影に、少女の視線が向けられる。間違いなく人間の形、片方は明らかな男性、もう片方はエプロンをつけた女性らしきもの。
しかし、ティアナの瞳に映ったものは決して、人と呼べるものではない。

「どうした、ティアナ?」

兄の怪訝そうな声も、今は耳に入らない。無理もない話ではあった。
彼が父と呼び、母と呼んだ二つの人影に、"顔"は存在しなかった。白いペンキで上から塗り潰したように、眼も鼻も口も、輪郭さえもが存在しない。まるで妖怪ののっぺらぼうだ。
ティーダは、両親の姿を見ても何も感じていないらしい。呆然とする妹の目の前で手のひらをヒラヒラさせて、おーいとともすればのん気とすら受け取れる呼び声を上げていた。

「――兄、さん?」
「ん?」
「父さんと、母さん……顔が、ないんだけど」

ひょっとしたら、それは望みだったのかもしれない。どうか兄だけは、自分が見えているものが見えますようにと。違和感を共有出来るようにと。

「何を言ってるんだ? あぁー、父さん、母さん。ちょっと我が妹君はまだ寝ぼけてるようだ」

無論、ティーダの返答は分かりきっていた。ははは、とおかしな反応をする妹を笑い、彼が両親だと言う人影も肩を揺らして笑っている"らしい"。笑い声は、聞こえない。首から下だけの動作で
どうにか、笑っているということが予測できたに過ぎなかった。
寝ぼけている。兄はそう結論付けた。違う、寝ぼけてなどいない。あたしは、至って正気のはず。どうして。どうして気付いてくれないの。
ザザッと、その瞬間である。少女の脳裏に、壊れたテレビに映る砂嵐がよぎった。瞳の奥に浮かび上がる奇妙なビジョン、ノイズに紛れ込むようにして時折映る、どこか見覚えのある映像。


両親の死亡通知。

自分も含めて二人だけになった家族。

男手一つで育ててくれた、大好きだった兄。

見知らぬ男が部屋にやって来て、兄の死亡を知らせに来た。

変わり果てた唯一の家族の遺体。

埋められる棺。

ひそひそと、しかし確実にティアナの耳に入っていた兄を罵倒する声。

強くなろうと、心に決めた。兄の名誉を、取り戻すため。


ふとリビングの中で眼についた、玩具の拳銃。兄が子供の頃から大事にしていた、今でも妹の前で自慢するようにガンマンよろしく器用に回してみせるもの――唯一の、兄の遺品。

「違う」

ティアナは、呟く。席を離れて、家族からの妙な視線も気にせず、玩具の銃を手に取った。
あたしは、こんな幸せ望まない。こんな見せ掛けだけの、"夢"なんて信じない。
"過去"に縛られた人間に、"未来"などあるはずがない。いくら幸せだったからって、昔に戻るなんてことは出来ない。
だったら、立ち向かっていくしかない。逃げ込む場所なんて、どこにもないんだから。

「クロスミラージュ!」

呼ぶ、相棒の名を。
纏う、魔導の衣、白を基調とした身軽そうなバリアジャケットを。
握る、自分の力を。
バチバチと電光のような光が手のひらに浮かび上がり、姿を現すのは拳銃型インテリジェントデバイス――クロスミラージュ。魔導師ティアナ・ランスターにとっての、魔法の杖とも言うべき存在。

<<Kept you waiting――Master>>

待たせたな、と。相棒からの言葉は、どこまでも力強い。付け加えて、電子音声が響く。ちょっと、あるお方に手伝ってもらいました、と。
"あるお方"? いったい誰だろう――疑問の答えは、すぐに返ってくる。先ほど脳裏に浮かんだ砂嵐の中で、男の声が響いた。

まったく、リボン付きといいお前さんといい。どうしてこう、メビウスの名前がつく奴は手間をかけさせる。もっとも、お前さんは自分で気付けただけ楽だったが――。

「あなたは……っ、確か」

余計な詮索は後回しだ、"メビウス2"。今は、眼を覚ますことを優先しろ。

なるほど、彼の言うとおりだ。さっさと、こんな夢からはおさらばすべきだろう。
手中にあるクロスミラージュを、銃口を幻影に過ぎない家族に向ける。もはや、躊躇はなかった。一発、二発と引き金を引いて、顔のない両親もどきを撃ち倒す。
最後に、残った一人――さすがに、この相手ばかりは引き金にかけた指も動きが鈍る。視線の先にいるのは、突然の妹の発砲に驚くしかない兄の姿。

「やめるんだ、ティアナ」

兄は、ティーダはそう言って銃口を下ろすよう促す。このまま、お兄ちゃんと一緒に幸せに暮らそう。何も恐れることはない。何も不安に思うことはない。このまま、静かにここで――

「ごめん、兄さん」

しかし、銃口は下ろされない。代わりに口にしたのは、小さな、吹けば飛ぶような声での謝罪の言葉。
引き金を引く。銃声が響き渡り、放たれた魔法の銃弾が標的を吹き飛ばす。直後、懐かしき我が家は視界から消え去り、白い世界に彼女は一人放り出される。
思い出よ、さようなら。過去の記憶に別れを告げて、彼女は自分の足で歩き出した。
まだ、なすべきことが残っている。夢を見るのは、その後だ。




「これは――どうしたことかな」

さしもの無限の欲望も、あらゆる事態を笑って飲み込み受け入れてしまう狂人も、露骨に驚くほかなかった。
"エレクトロスフィア"と呼ばれる古代ベルカの遺産は、同じベルカの名を持つアシュレイ率いる『灰色の男たち』がこのミッドチルダの地で見つけ、発展させたものだ。
人の魂を現世に留め、なお肉体を維持できる一種のこの分離システムは、対象の精神に干渉し記憶を操作し、本人にとってもっとも都合の良い夢を見させることが出来る。かつてのリボン付き、メ
ビウス1も、この毒牙にかかっていた。安定した精神状態の下、彼のコピーを生み出すために必要なデータをダウンロードするのが狙いだった。
人は、幸せから逃れられない。心地よい夢から、目覚めることは出来ない。
そんな予測は、これで二度も打ち破られた。それも、今度は極めて短期間のうちに。突きつけられた銃口が、それを証明している。

「あいにくだったわね」

眠りから目覚めた少女、ティアナは、クロスミラージュを敵に向けて構える。敵、ジェイル・スカリエッティへと。

「あたしは、両親の顔を覚えてないのよ。役者を増やしすぎたのが、かえって仇になった」
「――フムン。なるほど、エレクトロスフィアは記憶を利用するからね。記憶にないものは、どうあっても投影できない、と。勉強になったよ」

そりゃどうもと、投げやりな感謝の言葉を吐き捨てる。少しばかり時間はかかったが、やっとスカリエッティを取り押さえることが出来そうだ。
もちろん、相手も簡単に捕まるつもりはないだろう。白衣の下に、何を隠し持っているのか。ティアナには見当もつかない。
ぽん、と優しく誰かに、肩を叩かれたような気がした。怖がるな、お前ならいける。耳元で囁かれた言葉は幻聴かもしれないが、それでも構わない。

「兄さん――ちょっとだけ、力を貸して!」

聞こえた声は、プログラムされた虚像のものではない。どんな時も見守ってくれる、優しい兄の声だった。
戦闘開始。自分は、孤独ではない。








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最終更新:2010年12月06日 18:38