SENSHI

鋼鉄の戦風

(空白、行間等修正)


  • 大戦前史

第一次世界大戦後、欧米列強は敗戦国ドイツには多大な賠償金の支払いの義務を負わ
せ、共に戦った日本にはこれ以上の日本の拡大化がないよう対日圧迫政策を用いた。そ
してこれに世界恐慌が加わり両国の貧困は度を深めていった。ドイツではそのような状
況下でヒトラー率いる国家主義政党「ナチス」が徐々に民衆の支持を集め政権につき領
土拡張政策をとった。
日本では活路をアジア進出に求める思想が一般的になっていった。
こうして世界の緊張は徐々に増していったのである。

1931年~1933年

1931年9月、中国大陸の満州に駐留していた日本の関東軍は、自ら南満州鉄道を
爆破しそれを中国側の謀略だとし攻撃を開始した。そして1932年3月には満州全土
を制圧しこれを満州国とし皇帝「溥儀」をたて傀儡政権を樹立した。これを国際連盟は
日本の侵略行為と判断し満州国の撤回を求めたが、日本側はこれを受け入れず1933
年3月、国際連盟の脱退を宣言し欧米列強との対立を深めた。同年10月ドイツもライ
ンラントの帰属問題で国際連盟と対立し脱退を宣言するのである。


1935年~1936年

ドイツはかねてからヒトラーが唱えていたベルサイユ条約の打破にとりかかった。
1935年1月、ザール地方の帰属をめぐる住民投票でザール地方をドイツへ取り返し
領土拡張への足がかりとした。そして次にドイツがねらったのは非武装中立状態である
ラインラントのドイツへの帰属であった。まず1935年3月、ベルサイユ条約の破棄
を宣言し同時に再軍備を宣言したのである。
そして1936年3月、陸軍9個大隊をラインラントに進駐させた。こうしてドイツは
ベルサイユ体制に終止符を打ち、それを指揮したヒトラーはドイツの英雄への階段を上
っていくのである。


1937年

1937年6月、日本では明朗内閣と呼ばれた近衛内閣が成立した。同年7月、北京
郊外の廬溝橋で日中両軍の衝突が起こり、これが発端となり終戦まで続くことになる日
中戦争が始まったのである。政府の戦争の拡大を嫌う声の中、陸軍は強硬論をもって派
兵をし12月には南京を占領し中国の民族的反抗運動を刺激し徹底抗戦を決意させ、こ
れに米英の支援が加わりのちの太平洋戦争にまで発展していくのである。さらに同年1
1月、前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが加わり枢軸3国が形成され世界の緊張
はさらに増していった。


1938年~1939年8月

この年ヒトラーはドイツへのオーストリアの併合計画を実行に移した。これまではイ
タリアの反対やイギリスとの外交関係上この計画は実行に移せないでいた。しかしイタ
リアがエチオピアに進軍しドイツの支持を要したことなどが重なりオーストリア併合へ
の障壁はなくなり、1938年3月ドイツ軍は進駐を開始しオーストリア国会で合併法
を可決させた。勢いに乗ったヒトラーはチェコスロバキアにドイツ系住民の多いズデー
テン地方の割譲を要求した。そして解決のため開かれたミュンヘン会談ではドイツの拡
大よりも、ソ連の拡大を恐れる英仏両国はヒトラーを支持しチェコスロバキアはズデー
テン地方を手放すことになるのである。

ヒトラーは英仏は今後もドイツとの対立を避け続けることを確信し、さらに強気の外
交政策を打ち出し続けた。1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアの首都プラハ
に進駐しボヘミア・モラビア地方をドイツ保護領とし、残りの領土には傀儡政権を樹立
させた。この結果、英仏はドイツとの対決姿勢を明確に示し始めた。つづけてドイツは
ポーランドに対しダンチヒ地区の返還を要求したが、英仏の支援を受けたポーランドは
これを拒否した。これに対しドイツは宿敵と見られていたソ連と不可侵条約を結び英仏
を牽制しポーランド侵攻の準備にかかった。
開戦予定日の前日にポーランド・イギリス間に相互防衛条約が結ばれ開戦は延期された
が、8月31日のドイツ・ポーランド間の形だけの交渉のあと攻撃命令が下され、ドイ
ツ軍はポーランド領内に侵入した。9月3日、英仏はドイツに宣戦を布告し第二次世界
大戦が始まるのである。


ノモンハン事件

1939年5月12日、外蒙軍(ゴビ砂漠より北のモンゴル軍)がノモンハンの西南
方面から満州国に侵入した。これを満州軍国境監視兵が撃退したが関東軍(満州国内日
本軍)司令部はかねてから越境した敵に対して強硬的姿勢を打ち出すことを決定してい
たので、外蒙軍への攻撃を命じた。
日本軍は外蒙軍をハルハ河の左岸までいったんは退けたが、再び右岸に外蒙軍が進出し
てきたため、さらに兵力を投入した。しかしながら重火器を大量に持つソ連、蒙連合に
破れ大敗北を喫した。こうしてノモンハン事件の第一幕は降り、つづいて7月第二幕が
上がるのである。

日本軍の撤退後、ソ蒙軍はハルハ河を続々と越えて満州に進出してきた。これに対し
関東軍の強硬派は軍中央部の事件の拡大化を嫌う意向に反し、ノモンハン方面への兵力
の集中を開始した。6月25日、主力部隊を結集したあと、7月2日攻撃を開始した。
日本軍は左翼、右翼の二軍に分け進撃を開始したが、左翼隊はソ蒙側の圧倒的な機甲部
隊による反撃を受け7月3日午後4時には撤退を開始した。右翼側は当初は優勢を保っ
ていたが戦況の推移と共に状況は悪化して行き最後の頼みの砲兵隊の攻撃も弾薬の不足
、射程距離の不足から成果を上げられなく日本側は持久戦への転換を余儀なくされるの
である。

戦況はしばらく小康状態を保っていたがソ連側は兵力を増強し8月20日大攻勢に転
じた。日本側はなすすべもなく壊滅していき、9月4日ようやく関東軍司令部が軍中央
部に従い兵を退き、9月16日停戦協定が成立したのである。


1939年9月~1940年 
ドイツの電撃戦 

ポーランド侵攻 

1939年9月1日ドイツ軍は雪崩のようにポーランド領内に攻め入った。ドイツ軍
は開戦5日でポーランド空軍を壊滅させ制空権を奪った。混乱したポーランド地上軍を
優秀な機甲部隊を持つドイツ軍は蹂躙し、9月3日にはポーランド回廊を遮断した。ド
イツ軍主力部隊は9月6日にはピリツァ河を渡るというように戦いはドイツ軍ペースで
すすみ、9月10日からのプズラ包囲戦でポーランドの軍事力は尽きた。さらに9月1
7日には独ソ不可侵条約での密約(ソ連とドイツでポーランドを東西で分割支配すると
いう密約)にそってソ連軍が攻め込み、ポーランドの命運は尽き崩壊したのである。


フランス侵攻

ポーランド戦の翌年の1940年4月、ドイツ軍はノルウェー、デンマークに進出す
る。短期間でデンマーク、ノルウェーをほぼ制圧し北ヨーロッパをドイツの影響圏にお
さめた。そして次の目標はフランスであった。

当時フランスは第一次大戦でドイツと戦った苦い経験からドイツとの国境線にマジノ
線といわれる要塞による防御ラインを形成していた。連合国側はドイツはマジノ線を避
け第一次大戦と同じく中立国のベルギーを経由して攻め込んでくると予想しベルギー国
内に戦力を配置した。しかしドイツ軍は当初は連合軍の予想通りの作戦行動をとろうと
したが、ドイツ軍参謀マンシュタインが第一次大戦と同じ作戦では連合国側に対策を容
易にされ、戦果を挙げられないと考え、次のような作戦を立案した。

従来のように北部への攻撃を主攻撃とせず、主攻撃はベルギーとフランスの国境のア
ルデンヌを機甲部隊に突破させ北部の連合軍の背をつくというものであった。この計画
を見たヒトラーはこれに飛びつき実行に移した。

ドイツ軍は自軍をABCの3軍に分けた。それぞれの役割はA軍集団はアルデンヌを
突破しイギリス海峡まで進出して連合軍の後方を遮断する、B軍団はベルギー・オラン
ダを経由してフランス国内に進撃する、C軍団はマジノ線と対峙するというものであっ
た。そして1940年5月10日、まずB軍団がベルギー・オランダに進撃し、連合軍
は予定どおり北部に兵を展開し、そこで手薄となったアルデンヌにA軍団が機甲師団を
先頭に突入した。守備をしていたベルギー軍は大した抵抗もできず13日にはドイツ軍
はフランス国境を越えミューズ河畔に達したのである。ミューズ河畔のセダンに進軍し
たドイツ軍は同日、ミューズ河渡河作戦を開始した。フランス軍はこれに対し増援を送
り対抗したが攻撃の開始が遅れた。この間にドイツ軍は機甲師団の重装備を渡河させる
ことに成功しこの増援軍を撃破しセダン地区のフランス軍を後退させイギリス海峡への
前進を始めた。このころになり連合軍側もアルデンヌからの侵攻軍が主力ということが
わかり、この阻止のために残存部隊をぶつけるが、ドイツ空軍により反対にたたかれた
。5月20日になるとドイツ軍はソンム河流域まで侵攻し連合軍の南北の交通線を遮断
した。この事態を重く見た連合国側は英機甲師団を主戦力としての反撃を5月21日ア
ラスから開始し当初は有利に戦況を進めたが、ドイツ空軍、陸軍の連携による攻撃によ
り大損害を被り後退した。この敗戦により南方との連絡が完全に遮断されたフランス北
部の連合軍はダンケルク港から海路で脱出するしか助かる道はなかった。ドイツ軍はこ
の撤退の阻止を機甲部隊を温存し航空戦力で行うことを決定した。だが雨が降り続いた
め、連合軍への爆撃ができずそのあいだにイギリス軍は多数の艦船をダンケルクへ集め
30万の兵士の撤退に成功した。

この後、大量の戦力を失ったフランスは各地で残存部隊による抵抗を試みたが、いず
れも撃破された。ドイツ軍は6月14日にパリへ入城し、6月24日に軍隊を失ったフ
ランスは降伏するのである。

この列強の一角フランスを崩した大勝利はドイツ国民がヒトラーへの熱狂的な忠誠を
誓うのに充分なものだった。


イギリス上陸作戦

フランスを降伏させたドイツは連合国側に和平を求めた。しかしイギリスはこれに対
しドイツの侵攻した全ての国からの撤退を求めた。当然ヒトラーはこの条件をのまず、
イギリスを屈服させるためイギリス本土への上陸作戦を始動するのである。その作戦名
は「あしか作戦」と名付けられた。この作戦計画ではドイツ陸軍、海軍で意見が食い違
った。陸軍側は39個師団26万名を上陸させ、さらに必要に応じて50万名の予備兵
力を投入するというような大規模な作戦を主張した。これに対し海軍は自軍とイギリス
海軍を比べると制海権の確保は困難という結論に達し作戦の延期縮小化を望んが、結局
陸軍の案に近い形で作戦が実行されることになり、不安材料のイギリス海軍へは空軍が
これに対することになった。そのため海峡の制海権を確保するため後にバトルオブブリ
テンとよばれる航空戦を実行に移した。この航空戦には戦闘機1000機、爆撃機16
00機が動員され1940年7月から攻撃が開始された。9月上旬まではイギリスの空
軍基地レーダー基地等を攻撃し制空権を確保するが、このあと目標を都市部に変更する
とこのためイギリス空軍の体制立て直しを許してしまい、制空権を奪回された。結局、
制空権の確保できなかったドイツ軍は「アシカ作戦」の実行を来年春まで延期すること
を決定したが、作戦の不可能性から二度と日の目を見ることはなかった。


1941年
アフリカ戦線

ムッソリーニ率いるイタリアは1940年6月、英仏に宣戦布告した。しかしながら
これはドイツの成功を目の当たりにしたムッソリーニがイタリアもそれに習おうと戦争
準備も整ってない自国を急に戦争に引きずり込んだものであった。そして早速ムッソリ
ーニはエジプトに侵攻した。当初イタリア軍は順調に進撃したが、補給に対する不安か
ら進撃は停滞し始めてしまった。そして1940年12月イギリス軍の機甲部隊を中心
とした反撃が始まり、近代装備を殆ど持たないイタリア軍は総崩れとなった。イギリス
軍はイタリア軍を追いエジプト国境を越えリビアにまで侵攻し、バルディアに立てこも
るイタリア軍を包囲した。そして年が明け1941年1月イギリス軍はバルディア総攻
撃を開始した。バルディアは3日で陥落し、撤退したイタリア軍はその後も敗走を繰り
返しベダ・フォムの地で侵攻当初20万人いたイタリア軍は全滅した。この事態を重く
見たヒトラーはイタリアの戦争からの脱落を防ぐためにロンメルを指揮官とするドイツ
  • アフリカ軍団の派遣を決定した。戦闘は3月30日から始まりドイツ・イタリア軍は
イギリスからリビアを奪回するためにアシェダビアを攻撃しこれを占領した後、ベダ・
フォム、ムスス、ベンガジ、メキリと進撃した。つぎにドイツ・イタリア軍はトブルク
へと駒を進めたが、イギリス軍の5日間の必死の抵抗により占領できずにいた。ロンメ
ルはトブルクを迂回しさらに東に進撃していった。

5月半ばにはいると、イギリス軍の反撃が始まりリビア・エジプト国境付近では、は
げしい防戦が繰り広げられた。イギリス軍は緊急に本国より300両もの戦車と50機
の戦闘機を海上輸送で戦線に投入し、反撃の準備を固めていった。そして6月15日に
バトルアクス作戦を始動し、トブルクで包囲されている友軍を救おうと進撃を始めた。
イギリス軍はカプッツォを占領することに成功したが、ドイツ・イタリア軍の戦車隊に
後方に展開され攻撃を開始されると戦線は崩れ大損害を出し撤退した。イギリス軍は再
び戦力の補充を行い次の作戦に備えた。ドイツ・イタリア軍は大した補充もされない中
トブルクへの攻勢計画を実行に移そうとしていた。1941年11月18日、イギリス
軍はドイツ・イタリア軍を急襲しトブルク包囲網を突破したがドイツ・イタリア軍の各
個撃破戦術により大きな損害を被った。ドイツ・イタリア軍はイギリスの士気の低いう
ちにその補給線を断つためにエジプト方面に軍を動かした。この間に兵力の再編成を行
ったイギリス軍はトブルクのドイツ・イタリア軍を攻撃した。ロンメルは急いで引き返
しこれを迎撃したが徐々に押されはじめ、補給の面でも欠乏してきたため、西方への撤
退を始めた。退却するドイツ・イタリア軍をイギリス軍は追撃したがドイツ・イタリア
軍の巧みな防御戦術で戦力を削り取られていった。このころドイツ・イタリア軍には増
援が加わり次の年の戦闘に備えるのであった。


バルカン制圧

前年1940年10月よりイタリア軍はギリシャに攻撃を開始していた。しかしなが
ら戦いはギリシャ軍が主導権を握っていた。そしてギリシャ政府はイタリアがドイツに
助力を求めるだろうと言う判断から、イギリスに助けを求めた。それにこたえ、イギリ
ス軍はギリシャ国内に駐留しドイツ軍に備えた。これはドイツの生命線ルーマニアのプ
ロエシチ油田がイギリス軍の爆撃範囲に入ってしまうことから、ドイツにとって軽視で
きない事態になった。さらにルーマニア、ハンガリー、ブルガリアに続き、枢軸国側に
つくはずだったユーゴスラビアがクーデターのため反旗を翻した。これらに対しヒトラ
ーは従来兵を進める必要のなかったはずだったこの地への攻撃を命ずるのである。ドイ
ツ軍はオーストリアとブルガリアの二方面からユーゴスラビアに侵攻した。ユーゴスラ
ビア軍は近代化されておらず、次々と主要都市を占領された。4月13日にはユーゴス
ラビア軍は壊滅し4月17日降伏した。一方ギリシャには東部国境より10個師団が進
行を開始し、4月9日サロニカを占領し、さらにユーゴスラビア方面からも進行を開始
した。ギリシャ軍は撤退を繰り返し4月23日に降伏した。イギリス軍はドイツ軍の追
撃をかわしギリシャ本土を脱出することに成功した。ドイツ軍はさらにギリシャ・イギ
リス軍の立てこもるクレタ島に攻撃を加えた。クレタ島攻略戦にはパラシュート・グラ
イダーによる降下猟兵の攻撃が主力となった。攻撃は5月20日に開始されパラシュー
ト部隊に大きな被害が出たものの飛行場を見おろす位置にある107高地の占領に成功
し、マレメ飛行場を手の内におさめた。ドイツ軍は空輸で軍を増強し5月27日には島
の南はじの港スファキアまでイギリス軍を追いつめ、イギリス軍をスファキアから海軍
艦艇で撤退させたのである。


バルバロッサ作戦

かねてからのヒトラーの考えと、戦争物資不足からドイツは豊富な資源を持つソ連へ
の侵攻を開始した。
ドイツ軍はポーランドに300万もの兵力を集め北方、中央、南方の3つの軍集団にわ
け1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻を開始した。バルバロッサ
作戦の始まりである。

中央軍集団は戦争準備をしていなかったソ連国境から数日で100キロもの距離を前
進して、国境のソ連軍を包囲した。さらにヒトラーはミンスクの包囲を命じた。これら
のドイツ軍の行動に対しソ連軍も反撃に出た。6月24日ソ連軍は占領されたグロドノ
に向い、1500両を越える戦車でドイツ軍を追い込んだがドイツ陸空軍の連携により
敗北した。そして6月28日ドイツ軍はミンスクを占領しさらなる戦果を求めてスモレ
ンスクに進出した。東進するドイツ軍に対しソ連軍は何度か反撃するが、全て撃退され
7月16日スモレンスクもドイツに奪われた。一方ドイツ南方軍集団は中央軍集団と同
じく6月22日ソ連国境を越えソ連南西戦線正面軍と戦闘を開始した。ソ連は多数の戦
車でドイツ軍を圧倒していたが、その指揮のまずさから、戦果は上がらず撤退した。ド
イツ陸軍は空軍の支援を受けながら、前進していき8月7日にはウマーニの包囲に成功
した。さらにヒトラーはキエフへの侵攻命令を出し、南下した中央軍集団の機甲部隊と
北上した南方軍集団の機甲部隊がキエフを包囲するのに成功し、ソ連軍の何度かの反撃
を退け9月26日キエフを占領した。このころ北方軍集団はレニングラードを包囲しな
がらも決め手にかけ占領できずにいた。そして10月に入り雪が降り泥濘化が激しくな
り、キャタピラ以外の移動手段がなくなり補給が途絶えがちになったが、1944年1
月まで包囲を続けるのである。


モスクワ攻防戦 

キエフを占領したドイツ軍の矛先はとうとうソ連首都モスクワへと向けられた。「タ
イフーン」作戦の始まりである。ドイツ軍は快進撃を続け各地でソ連軍を包囲せん滅し
ていったが、北方軍集団と同じく雪のため泥濘に苦しめられ、モスクワまで80キロの
ところで進軍がとまってしまった。ドイツ軍は地面が凍り付き固まるときを待って進撃
を再開したが今度は寒さのため兵士が凍傷にかかり、エンジンも凍りモクスワの直前で
再び進撃が止まった。ソ連軍からは反撃が開始され、防御力をもう残していないドイツ
軍は総崩れとなり次々と後退していったのである。



真珠湾攻撃

日本は前年1940年9月、日独伊三国同盟を結び枢軸国側につく態度を明らかにし
た。さらに1941年4月にはソ連と中立条約を結び、ソ連の脅威を排除し南方へ軍を
派遣し、1941年7月には仏印に進駐した。これに対しアメリカ・イギリス・中国・
オランダは対日経済封鎖を行った。(ABCD包囲陣)これらの悪化していく状況を打
破するため日本側は外交努力を繰り返すが交渉は進展せず、11月26日にはアメリカ
の国務長官ハルから最後通牒のハル・ノートを送られてきたが、その内容は中国からの
撤兵を求めるなど日本には受け入れがたいものであった。そして12月1日の御前会議
で開戦を決意し12月8日開戦に踏み切るのである。

日本機動部隊はまず12月8日ハワイのオアフ島の北およそ350キロの地点に達し
た、そして日本時間午前1時30分、183機の航空隊を空母から発艦させた。航空隊
は真珠湾に係留されている米太平洋艦隊、地上の滑走路等に攻撃を行い。そしてこの攻
撃の30分後には第二次攻撃隊167機が更に追い打ちをかけた。

この攻撃でアメリカ側は戦艦の損失5隻、中・小破3隻など17隻が被害を受け、航
空機231機を失い、さらに2402名の戦死者と4784人の負傷者を出した。日本
側は航空機29機、特殊潜航艇5隻を失ったのみであった。

実はこのとき日本のアメリカに対する最後通牒はハワイ攻撃の30分前にハル米国務
長官に手渡されるはずだったが、駐米日本大使館は本国から暗号文で送られてきた最後
通牒の解析、英文化に手間どり、ハルに手渡されたのは攻撃が佳境に入った時であった
。このような経緯からアメリカ側はこの攻撃をだまし討ちだと受け取り、アメリカ国民
の厭戦ムードを一気に吹き飛ばし「リメンバー・パールハーバー」の声のもと参戦して
いくのである。


マレー・シンガポール攻略

真珠湾攻撃と同じく12月8日、山下中将率いる部隊によりマレー半島東海岸への上
陸作戦が開始された。この作戦は海上の備えの堅いシンガポールをマレー半島を縦断し
て背後から攻略するというものであった。一方海上では12月10日、日本陸軍上陸部
隊を攻撃するために英国が派遣した東洋艦隊の新造戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ
」と巡洋戦艦「レパルス」が日本海軍サイゴン航空隊により撃沈された。これは航空機
の海上戦闘での有効性を世界に知らしめた戦いでもある。そして海上からの攻撃を受け
る懸念がなくなった上陸部隊はタイ国を通過し武器・弾薬は自動車に積み、歩兵は自動
車の不足から自転車に乗り南進を続けた。日本軍は北部マレー最大の防衛線ジットラ・
ラインをわずか2日で突破し、クアラルンプールの手前で激しい抵抗を受けるもこれも
突破した。そして上陸から55日後の1942年1月31日シンガポールの対岸ジョホ
ールバルに達した。日本軍はジョホールバルからシンガポールを砲撃し、爆撃機が空襲
を繰り返した。2月15日、英シンガポール守備隊から降伏の申し出があり、これを受
け入れ日本のマレー・シンガポール攻略戦は成功をおさめたのだった。


1942年
アフリカ戦線

1942年1月21日ロンメル率いるアフリカ軍団は攻勢を再開し、キレナイカの奪
回後さらにトブルク西部のガザラ地区に進出した。その後3カ月間をドイツ・イタリア
軍は次の戦いに備え再編成に費やした。

イギリス軍はガザラ地区の防御に地雷原と監視、防御拠点を組み合わせた「ボックス
」を多数連ねて防衛ラインを形成していた。5月26日ドイツ・イタリア軍はガザラの
防衛線に攻撃を開始した。イギリス軍は当初豊富な火力でドイツ・イタリア軍に大きな
被害を与えたが、ロンメルの巧みな指揮によりイギリスの防衛線を破りガザラへの攻撃
を再開した。消耗しきっていたイギリス軍はこの攻撃に耐えられず撤退し、さらにガザ
ラばかりかトブルクまでも奪還されエジプトへ撤退した。トブルクには大量の物資や車
両がありドイツ・イタリア軍はこれを手に入れ次の作戦への糧とした。さらにロンメル
はイギリス軍を追撃していき、エル・アラメインでイギリス軍残存兵力と戦闘状態に入
った。しかし、補給線が長く補給の受けられないアフリカ軍団に対しイギリス軍はアレ
クサンドリアからの物資と増援の到着によって強化されていった。ロンメルは8月31
日これ以上の事態の悪化を避けるべくアラメイン突破を試みるが失敗し、攻撃を断念す
るのである。イギリス軍は10月24日エジプトからドイツ・イタリア軍を排除するた
めに、「スーパーチャージ作戦」を開始し豊富な物量をたてに攻撃を繰り返しドイツ・
イタリア軍を圧倒した。そのためドイツ・イタリア軍はエジプトからの退却を余儀なく
された。さらにアメリカ・イギリス連合軍がアルジェリアとモロッコに上陸しチュニジ
ア方面に軍を進めた。これに対しドイツ・イタリア軍は降下猟兵を派遣しチュニスに迫
る連合軍を阻止し、各防御拠点でドイツ・イタリア軍は奮闘しこの戦いは翌年へと続い
た。
最終更新:2022年08月26日 02:38