第五章
水曜日。
あれからどうにも仕事が手に付かず、五代君に醜態を見せ続けることになった。
「どうしたんすか、まじ目つきがやばいっすよ。まじ病院に行った方がいいんじゃないっすか?」
「いや……大丈夫。ちょっと、寝不足なだけ」
「それじゃあ、今からでも昼寝したらどうっすか? 店番してますから」
「そう? じゃあ、ちょっと……頼むね」
「任せてくださうぃっしゅ!」
私は二階の寝室に入った。
別に眠くもないのに、ベッドに倒れ込む。
あの、まりさとぱちゅりー一家を殺された少女は、一週間、まともに食事を受け付けなかったという。
「わかるよー、わかってしまったよー」
とちぇんの口調を借りて、独り言をつぶやく。
出来ればしばらくは人の顔も見たくないし、饅頭も見たくない。ゆっくりショップの店員でさえなければ。
きめえ丸が消えた後、私は使い捨てカメラを現像してもらった。
写真とついでに、カメラも返してもらった。今となってはこれしか残っていないから。
撮られた写真には、様々な野良ありすの姿が写っていた。動きながら取ったのだろう。
ゆっくり以外の背景は、全てぼやけていた。
思っていたよりも多い。
そこに写っていたありすたちは――
片目のないもの、子連れのもの、体の破けたもの、蟻のたかっているもの、心の壊れた笑みを浮かべるもの――千差万別だった。
あの犯行現場。
まりさとれいむを、れいぷした現場の現行犯写真。今思い出してもおぞましい。
よく見ると、体の割合にきれいなゆっくりもいる。おそらくは元飼いゆっくりだったのだろう。
やがて、きめえ丸のレンズは少し離れた排水溝を見る。
じっと、排水溝かられいぷ現場を見ているものがいる。大きさはサッカーボール程度、そして最大の特徴は、そのぼろぼろになった体。
どれだけの過酷な旅を続ければ、これほどの傷を抱えることが出来るのだろう。私にも想像が付かなかった。
その近くには、気付きにくいが、ピンポン球程度のありすがいた。おそらく、子供だろう。
ボロありすの周囲を落ち着きなく動いているようだ。
そして、きめえ丸の存在に気付いた、そのボロありすが空をにらみつける写真が、一枚。それが最後の写真。
このボロありすが悪魔と契約したんだと言われても、信じざるを得ない。
その片目は、人間の目とそっくりだった。それが、ゆっくりの目と並べられて、非常にアンバランスな顔つきになっていた。
きめえ丸は、ボロありすの鳴き声で、意識を失ったと言った。
そしてあの現場で、ゆっくりの鳴き声が聞こえると、れいぱーたちは極めて統率のとれた動きを見せた。
そのボロありすの鳴き声には、ゆっくり達を洗脳する効果があるのではないだろうか。
そう私は推測した。他のゆっくりたちに、自分はれいぱーありすだと思わせる効果があり、
さらに自分の思うがままに動かせる。ゆっくりの限界を超えた素早い動きも可能にする。
そう考えると、さらに一つの仮説が成り立つ。
最初の事件。れいむ、まりさ、ありす、ぱちゅりーの中で、唯一れいむだけがれいぷの被害に遭っていなかった。
おそらくは、まだそのころ、ボロありすは単独犯だったのだ。
そして、ボロはペットの四体を洗脳して、互いに無理矢理何度もすっきりさせた。
だが、れいむに襲いかかったありすだけは去勢されていたので、れいむを孕ませることが出来なかったのだ。
どうしてかはまだ確認できないが、当のボロありすはれいぷに参加していない。
そして、これまでの調査で、全く指摘されていなかったのが、死骸にはえた茎のことだ。
通常、ありすに襲われた死産であっても、その植物型妊娠の茎には、親の形を持った胎児の死骸がくっついているものだ。
もちろんありすの胎児もある。が、その他の種類がれいぱー化して被害をもたらしたのであれば、
当然、胎児の死骸もその種類に準拠するはずだ。冷静に考えれば、そのことにも目を向けるべきだった。
れいぱー=ありすという単純な等号で両者を結んでいたのが、そもそもの間違いだったのだ。
単独犯なら、目立たないのも合点がいく。犯行現場の状況から、私たちはれいぱーありす達の、集団犯罪であると結論づけてきた。
だが、実際は違ったのだ。首魁であるボロありすは、一体で町中をうろついてきたのだ。
めぼしい家を見つければ、その周辺の地域をくまなく探って進入口や、脱出経路を調べ上げる。
そして、周辺にいる野良ゆっくりたちを洗脳して自分の手駒にする。
目的が達成できれば、ありすであろうが他のゆっくりであろうが、用済みにして切り捨てる。そして次のターゲットを探す。
何とも恐ろしいものだが、ここまで分かったのは、きめえ丸のすくーぷあってのことだ。
仰向けになって、呆然と窓の外の青空を見る。雲がゆっくりと流れているのを見ると、やがて不思議な気分になる。
動いているのは雲じゃなく、今こうやって私が眠っている場所なのではないかと。
そして、私は自分の意思と関係なく進まされ、空にあるものは置き去りにされていくのだ。
「すきまに……クッキーは……無いだろうなあ」
店の方は、学校帰りの子供が集まって、ゆーぶつえん状態になっていた。
イケメンのお兄さんが飼育係になっている。賑やかにやっているようだ。
「うわ、きめえ! こいつ、うんこしてやがる!」
「マジで!? さっきしたばっかだぞこいつ! マジやべえ!」
「きめえ」という単語だけで心が跳ねてしまう。そして、そんなわけがないだろう、とがっかりする。もはや病気だ。
「そういや、最近野良のゆっくりって見かけないよな」
「全滅したんだぜ、きっと、全滅」
「まあ、遊び道具にするのも飽きてきたからいいんだけどさー」
ああ、あいつ、やはりここに戻って来たのか。
見ず知らずの他人の言葉だったので、うさんくさく感じてはいたのだが、今のところ、その言葉通りの事態になろうとしている。
あのボロありすは今、手頃な野良ゆっくりを洗脳しているのだろう。
自分の意を達成できるよう、使い捨てるために。
もうすでに、めぼしい家も見つけているに違いない。
そして今のところ、私が見てきた中で、最も狙われる可能性が高い家は、ゆうかを飼っている家だった。
この間、ゲスまりさ一家に襲われて瀕死になったゆうかだ。
たぶん、自分が次の悲劇のターゲットになっていることも知らず、ゆっくりと花を育てているに違いない。
ちゃんと治さず屋内で一ヶ月の安静を強いていれば、狙われることもなかったのだろうが、今そんな下らないことを言っても始まらない。
気付けば、空は朱に染まっていた。
「……寝てたのか」
ひどく懐かしいことを、夢うつつの中で思い出していた。
私が都会に出て、ゆっくりショップを始めるきっかけになった、あるゆっくりのことだ。
それは、山の中でちぇんとらんの一家を見つけたときのことだった。
当時の私は、人里に被害をもたらすであろうゆっくりを、山から完全に駆除するよう依頼を受けていた。
あらかたは片付けて、このちぇんとらん一家を潰せば、依頼は終了するはずだった。そのこと自体は簡単だった。
一家全員が山の中腹に掘った巣穴に戻ったところで、入り口を土で埋めるだけだった。
調査の結果、このちぇんとらん一家は食料調達を山の中で済ませていたことも分かっていたが、依頼には関係ない。
「ちぇええええん!」「らんしゃまあああああっ、みえないよー! わからないよー!」
たばこを吸い、その鳴き声を一通り聞いた後、仕事の報告をしに行こうと山から下りようとした。
ふと、何かとすれ違う。姿形はよく分からなかったが、あれは間違いなく、ゆっくりの形をしていた。
私はたばこを踏み消し、その最後の一体を潰しに戻った。
私はそれを、ちぇんとらん一家の洞窟の辺りで見失った。
「このこたちは、わたしのおしえにしたがって、ひととかかわることもなくへいわにくらしてきたのに……
そのこともりかいできぬおろかなげろうにみつかってしまったものね」
それは、近くの木の根本にある洞から聞こえてきた。私は無言でそこに近づき、手を伸ばしてそれを捕まえようとする。
が、おかしい。木の根本の洞にしては、やけに奥行きがある。木の根があることを考えれば、異常なまでの深さだ。
「くだらない。ほんとうにくだらないにんげん。れいちょうるいのあるじがわらわせる。
ひとつしたのさるですら、まともにしたがわせられぬくせに」
私は、手を引き戻し、その洞の中をのぞき込む。
「うつくしく、ざんこくに、このやまから、ゆっかりといね!」
その言葉とともに、いきなり私の意識がふらりと揺らぎ――
気付けば、恐ろしく寒い、見覚えのない景色に取り囲まれていた。
そこが、東北の白神山地であることを知ったのは、苦労の末に人里に降りてきたときのことだった。
きっとそのとき、私の心から、ゆっくりに対する何かしらの感情が確実に消えたのだ。
そして、ゆっくりの生態を知るものとして、ペットショップを始めて今に至る。
電話の音が鳴り響いている。だるい体を起こす。
「店長! 電話っすよ! ちぇんを飼ってるお宅からっす」
私は一階におり、受話器を受け取る。
「はいもしもし、お電話変わりました」
『店長さん! うちのちぇんが変なんです!』
ああ、ちぇんがタンスの角にぶつかった、おっぱいの大きい女性だ。
「落ち着いてください。変とはどういうことですか?」
『ゆあーん。わからないよー、こわかったよー』
ちぇんは元気良く泣いている。特に体に問題があるようには感じないが。
『何だか変なゆっくりの鳴き声が外から聞こえてきたんです。そしたら、うちのちぇんがベランダから飛び出そうとしたんです!
二階なのに! あわてて捕まえたんですが、どうしちゃったんでしょう!』
「落ち着いてください。ちぇんはそこにいるんですね」
『はい、逃げないように捕まえてます。今胸の中で大泣きしてます』
「うらやま、じゃなくて、そのままでいてください。そしたらきっと逃げません」
そして、電話がひっきりなしにかかってきた。
『ぱちゅりーが! ぱちゅりーがいないんです! あんなか弱い子なのに! 部屋から出ることすら滅多にないのに!』
『うちのれみりゃが、一家総出で窓から出ていったんだ! 窓にはれみりゃの知らない二重ロックをかけていたのに!』
『ふらんがいなくなったのは、あなたの所のしつけが悪いせいです! 謝罪と賠償を』
次々と失踪する街の飼いゆっくり達。
そんな中でも、ゆうかの家だけは喧噪と無縁だったことを確認した。
ボロよ、お前はどこまで恐ろしいやつなんだ――!
どうしてそんなに、幸せを憎まなければならない!
こんなところで悲嘆に暮れている場合じゃない。動き出さなければ。きめえ丸のすくーぷを無駄にしないためにも。
私はゆっくり、という存在に出会ってから今まで、数多くのゆっくりを死に追いやってきた。
遊び半分だったときもある。思いがけずに殺してしまったこともある。思い入れが過ぎて間違ったこともある。
そういった自分のエゴを通し続け、いつしか、一つのモットーが出来て、それが今の私の行動原理だ。
一匹のゆっくりの死も、絶対に無駄にしない。
だから私は、あのときまりさとぱちゅりーの復讐をしたがる少女を止めたのだ。
そこでありすを殺したとしても、結局れいぱーありすは次の事件を起こす。
まりさとぱちゅりーは絶対に戻ってこないし、少女の復讐に何かあの世から感情を示すこともない。無駄そのものだ。
「おい、№7、統計学的に答えてくれ。あんたの見立てなら、次のれいぱーありすは私の店の周辺で起こる可能性が高い、そうだな!」
『何ですか、バイトレベルは今、うんうんの掃除をしてるんです。
れいぱーですか? ええ確かに、次はあなた様の店の近くに出没すると思いますよーだ。
どうやって調べたんです? どうでもいいか。バイトレベルなんかに手伝えることはないでしょ。じゃ』
頼りないが、裏は一応取った。助力など期待していない。大人数は目立つ。
閉店後、五代君にサングラスを借りて、帽子をかぶって出かける。
こんなものでボロに対する変装の役を果たすかは不明だが、念には念を押す。
ゆうかのいる家を訪ねる。私は飼い主に事情を説明する。
「じゃあ、ゆうかはしばらく家の中にかくまっておいた方がいいな」
「そこなんですが、一つ、お願いがあるんです」
私の頼みを聞いた飼い主は、絶句して、猛反発する。
「君は! 私の家のゆうかを囮にして、危険にさらそうというのか!」
「お願いです! どうか、お願いします! れいぱーありす事件を解決する、最後のチャンスなんです!」
土下座までしていた。たぶん、生まれて初めてだ。
「もちろんあなたのゆうかを、毒牙にかけさせることはしません!
絶対に、ゆうかの安全を最優先します! これ以上、被害を出したくないんです! お願いします!」
私は、何度も何度も、地面に頭を打ち付けた。
結局、飼い主は、ゆうかの安全を最優先するということで、同意してくれた。
ゆうかに対しても同様、絶対に守りきる、と約束した。今まで育ててきたお花畑も、ちゃんと守る。
その準備を、これからするのだ。
私は、店から一番大きな水槽を持ってきた。人間の子供一人が、優に入るサイズだ。
ゆうかの小さな花畑も、すっぽりと納めることが出来る。だが、すぐにその中にゆうかを隔離するわけではない。
おそらくボロありすは、犯行の直前にもう一度、単独でこの家を確認しに来るはずだ。
その前に、ゆうかの安全が図られては、おそらくボロありすは諦めて次の場所へ行ってしまうはずだ。
それよりも、ボロありすがより確実にこの家を狙うようにし向ける。
私は、ゆっくりれいむの入った籠を持ち出す。籠はピンポン球程度の隙間のある金網で出来ている。
「ゆっくりしていってね!」「いっしょにゆっくりしようね」「おうたをうたうね! ゆーゆーゆー♪」
「むーちゃ、むーちゃ、ちあわちぇー♪」
これらの鳴き声は、全てれいむの中に仕込んであるスピーカーから発せられている。
これまでペットショップで育てていた、子れいむの鳴き声を録音したものだ。
もちろん、襲われている最中に「ゆっくりしていってね」だの「ちあわちぇー」だの言うゆっくりはいない。
もちろん、そのための音声も用意してある。
そう、これは本物のゆっくりれいむではない。ゆっくりを騙すために精巧に作られた人形だ。
ゆうかに見せてみる。多少はとまどっていたが、それでも「ゆっくりしていってね!」などと人形が声を出すと、笑顔を見せ、
「ゆっくりしていってね」と返事した。
こうして、人形れいむと仲良くしているところをボロに見せるのだ。
そうすれば、ボロありすの標的が一つ増えることになるだろう。
私は、その他のゆっくり捕獲に必要な道具一式を持ってきた。
そして、大きな段ボールの中に、水槽を入れ、さらに私も小さく身をかがめてその中に入り込む。
段ボールはちょうど、ボロありすが進入口にするであろう雨水の逃げる穴と、ゆうかの花畑の両方が見える場所に置いてある。
さあ、ここからは根比べだ。
飼い主には、いつも通りに出勤するように告げている。もちろん、気がそぞろではないだろう。
そのため、犯行が行われるであろう火曜日には、家を出たフリをして、近くのコンビニで待機していていいと告げた。
仕事があるだろうが、どちらを取るかは任せた。たぶん、ゆうかの方を選ぶだろう。
そのために、わざわざ携帯電話の契約までしたのだ。くそ、あの女店員め、安くて長く喋れればいいと言っているのに、
余計な機能をごてごてとつけようとしやがって。すぐに解約してやる。
ただし、出来るのは実況だけだ。飼い主が走って帰ってきたら厄介なことになる。
「本当に必要なときはちゃんと呼びますから、絶対に家の周り半径百メートル以内までは近づかないでください」と何度も釘を刺す。
「本当に、犯行は金曜日なのか? どうして分かる?」
「分かるんです。私はゆっくりの生態に関する知識にかけては誰にも劣らないと自負しています。
外せば、自分の店をたたんで野良ゆっくりに墜ちてもかまいません」
まあ、この程度のはったりは許してもらおう。
店の方は五代君に任せっぱなしで、さすがに悪いとは思う。特に、泊まりがけともなればなおのことだ。
これが終わったら、きついだろうが、ボーナスをはずまなければ。
私はあらかじめ、ブラックブラックガムを剥いておいたものを口に入れる。
わずかの居眠りも許されない。例え日中であっても、段ボールの中の暗闇では、一時の油断も出来ない。
私は、ポカリスエットのペットボトルを口にした。生ぬるい液体が喉を潤す。
日に照らされて、段ボールの中の不快指数が上がっていく。しかし、汗をぬぐうことはしない。額に巻いたバンダナに汗が染みていく。
段ボールに針で開けた穴から、進入口の方をじっと監視する。
とっくにガムの味は無くなっていた。それでもゆっくりと噛む。
そして、ちょうど昼頃。
ずず……と物音がした。
先に姿を現したのは、あの小さいありすだ。
「ゆっゆっ」とか細い声を出す。
そして、本命が姿を現す。小ありすを頭に乗せる。
そのゆっくりは歪な顔に、何の感情も浮かべていない。
私は呼吸音を立てないように意識する。ガムは口の中に留まったまま。
体が地面を擦っているはずなのに、音がほとんどしない。
おそらく、足の部分は極めて柔軟で滑らかになっているのだろうが、ここからでは正確なところは分からない。
ボロありすは、私の入っている段ボールを一瞥した。
「天地無用」「ゆっくりショップ」と黒字で書かれた文字の部分に、目立たぬように穴を開けたので、
中から私が見ていることは分からないだろうが、それでもやはり警戒はするようだ。が、すぐにゆうかの庭の方に向かう。
私は、スピーカーのスイッチを入れる。
『ゆっくりしていってね! おねえちゃん、ゆっくりがんばってね!』
「ゆっ。ゆっくりがんばるよ! ゆっくりおはなさんをそだてるよ!」
ゆうかが笑顔を見せる。ゆうかは庭に雑草が生えていないか確認している。
その様子を、家の陰から悪魔が観察しているとも知らずに。
悪魔は、親子共々、無言だった。予想は出来たことだが「ゆっくりしていってね!」という定型句に対して、何の反応も示さなかった。
そして、遠くから見ていたからだろう。そのれいむが人形であることには、おそらく気付かなかったようだ。
ボロありすは、きびすを返して、元来た入り口へと足を進める。
――が。
ぼすっ、
ぼすっ、
ぼすっ!
私は全身が不整脈を起こした心臓になったような気がした。
ボロありすが、私の入っている段ボールに、体当たりを仕掛けていたのだ。
「だれかそこにいるの?」とゆうかが声を出すと、ボロありすは素早く退散していった。
そして、夕方が来て、早い目に飼い主が帰ってきた。私は段ボールから抜け出る。
「どうだった?」
「来ました。一匹でゆうかの姿を確認していました」
「一匹で? どうしてこのタイミングでそのボロありすを捕まえないんだ?」
「やつは非常に逃げ足が速いんです。しかも、進入経路、脱出経路も確認している。
私が段ボールから出ようともたついている間に、追いつけない場所へ逃げているでしょうね」
「ううむ」と飼い主はうなった。
「で、次に来るときは、もっと大勢のゆっくりが来るのか? そうだとしたら、どうやって守るんだ?」
私は段ボールの中から、水槽を持ち出した。そして、ひっくり返してゆうかとお花畑の上にかぶせる。
私は、水槽の縁が地面についている部分に、溝を掘って、そこに四辺を数センチ埋めて、土で固める。
ちょうど、花は芽をつけるほどに成長している。水槽の中で光合成をしてくれれば、ゆうかが窒息死することもないだろう。
これで、ゆっくりが体当たりで水槽をひっくり返そうとしても、まず大丈夫だ。
「怖いだろうが、我慢するんだぞ。やつらには指一本触れさせないからな」
「ゆうっ、このれいむのこは?」
「大丈夫。れいむってのは意外としぶといんだよ。れいぱーなんかやっつけちゃうさ」
そうは言っても、やはり恐ろしいのだろう。「ゆう……」と水槽のすぐ外に置いたれいむ人形を気遣うように、ガラスにすり寄る。
れいむ人形には特別の仕掛けをほどこす。まず、顔の部分をいじって、怖がっているような顔つきにする。
次に、中のスピーカーを取り出し、新たなスピーカーを埋め込む。
最後に、特製のゆっくり捕獲用の粘着材をべったりと付ける。
外の空気に長時間触れさせてもなかなか乾かない、山で使っていた秘密兵器だ。
一度くっつけば、特別な剥離剤を使わなければ、まず引っぺがすことなど出来ない。
「いつもは、昼間の飼い主がいない時間帯を狙ってくるんですが、今度ばかりはそう断言できません。
ひょっとしたら、皆が寝静まった夜中を狙ってくるかも知れません。念のため、早いめに家の電気を消しておいてください」
「分かった。もう一度言っておくが、ゆうかの安全が最優先だからな。
私も電気を消してゆうかの方を見張っておく。危険が迫っていたら、すぐに駆けつけるからな」
そう言って、飼い主は家の中に入った。私も段ボールの中に戻る。
私は携帯電話を飼い主にかける。家の中から着信音が聞こえる。
「どうした?」
「携帯はマナーモードにしていてください」
私はそう言って切る。
尿意を催したので、空いたペットボトルに小便をする。外がますます暗くなって、漏れ入ってくる街灯の明かりと、
あと隣家の明かりがわずかに庭を照らす。
それにしても先ほどからうるさい。隣家で、ずっとテレビの音が鳴っている。
私はガムを噛み続ける。夜になって冷えてきた。が、身じろぎしたりはしない。時たま指を口の中に入れて温める程度だ。
時間が過ぎるのが、極めて遅い。今ようやく十二時を過ぎたばかりだ。そうだ、金曜日というのはこの段階から始まっている。
まだ隣家ではテレビを見ているようだ。時々、家の人間のものであろう笑い声が聞こえる。
ゆうかはすでに眠りについている。
私は飼い主に電話をかける。
「隣の家、どうしてこんなにうるさいんです?」
「あー、確か今日は爆笑オンエアバトルの日だったなあ。それを見ているんだと思うよ」
私は舌打ちする。もし、あのボロありすが、この時間帯の隣家のうるささを知っていれば。
そのとき「ゆーーーーっっっ」という音が、テレビの音に混じって聞こえた。
「来た。来ました! 動かないでください! 合図をしたら、家の明かりを全部付けてください!」
私は携帯に向かって静かに怒鳴りかける。
さあ、一世一代の大ばくちの始まりだ!
やつが勝つのか、負けるのか。ここがまさしく境界線だ。
物音がした。あの進入口の方から。例によって、斥候はあの小ありすだ。
そしてボロありすが姿を現す。そして自らの来た場所に向かって「ゆーっ、ゆーっ」と規則正しく鳴き声を上げる。
ぞろぞろと、入り込んでくるゆっくり達。野良もいれば、バッジを付けたものもいる。
その辺りは暗くて分かりにくいが、見覚えのある形のものもいる。
ただし、ありすはほとんどいないようだ。
ようやく、そろったようだ。その数は両手では数え切れない。
と、ボロありすがこちらを向いた。
「ゆーーーーーっっ、ゆゆっ!」
何かが段ボールにのしかかってきた。
「う~♪ とかいはなこーまかんのおぜうさまどえれがんとすっきりするんだど~♪」
この声は――れみりゃだ。しかも一体ではない。のしかかった感触からすれば二体、いや、三体いる。
それだけではない、他にも数体のゆっくりが、段ボールの周りに集まってくっついてきている。
のぞき穴が塞がれた。くそ!
だが、昔の経験が、動くなと体に告げる。
月明かりすらない、山奥の夜をじっと動かずに過ごしたことだってあるのだ。
私は、ふさがれたのぞき穴から目を離さず、外から聞こえる音に耳を澄ませる。
おそらく今までの例を考えれば、ボロありすは一番逃げやすい場所にいるだろう。
そして、そこからゆっくり達に指示を出して、犯行をそそのかすのだ。だが、その場所から犯行現場を直接見ることは出来ない。
「ゆっゆっ! ゆっゆっ!」
始まった。
「うはあああああっっ、ゆうううかあああああ~~~~っ」
「とかいはなまりさといっしょにすっきりしましょおおお」
「ゆゆっ! ゆうっ、なに!? ちかづかないで! おはなさんが!」
「おはなさんがあるなんて、とかいはなものをたべてるのね~~~!」
「ちがうよ! おはなさんはたべものじゃないよ!」
「いっしょにおはなさんをむーしゃむーしゃしながらすっきりしましょうねええええ!」
「うっはあああああっ! もうだまらないいいいっ! るぱんだいぶべっ!!」
「なにごれええええええっ、ぢがづげないいいいいっっっ!」
「どがいはなずっぎりがでぎないいいいいいっっっっ!」
「こっちにもれいむがいるわああああああっっっっ」
「でぼやっばりぢがづげないいいいいっっっ」
「ゆっ!? ゆゆゆっ!?」
最後の一匹――おそらくボロありすが、異常に気付いたようだ。私の段ボールの前を跳ねていく音が聞こえる。
「ゆゆっ!? ゆーっ! ゆぎいいいいいいいイイイイイイイッッッッ」
ゆうかの方を見てその水槽に気付き、怒りの声を上げている。
そして、こちらに向けて鳴き喚いた。
「ゆーっ! ゆーっ! ゆびっ!」
「う~?」
段ボールにくっついていたゆっくりたちが、次々と離れていった。のぞき穴も開放された。
ずっと暗闇の中だったので、わずかな光でも外の様子がよく分かる。
ボロありすは、かなりゆうかのいる水槽に近づいていた。水槽の周りにはゆっくりたちが集まっている。
全ての個体が発情しているようだ。
そして、胴付きのれみりゃ三体が、水槽の周りにとりついた。手でガラスをつかんで、水槽を持ち上げようというのだ。
「「「う~っ、う~っ、う~っ」」」
ぶふっ、とそのとき、くぐもった音が響いた。
これは確か、れみりゃのおならの音だ。
「ゆ、ゆびいっ、ぐざいいいいいいっ」
運悪く真後ろにいたゆっくりと、風下にいたれみりゃとゆっくり数体が悶絶した。
思わずちょっと吹き出しそうになったが、何とか我慢する。
「ゆうううううっっっ! ゆぎいいいいいっっっ!」
おそらく、れみりゃを操ったのは今日が最初なのだろう。怒りにまかせて、ボロありすはさらに水槽に迫った。
小ありすを脇におろして体当たりをする。自分の思い通りにことが進まず、逆上しているのだ。
そして、水槽の近くにあるれいむ人形には目もくれない。
それでも、残りのれみりゃの力が予想以上に強かったのか、水槽がずっ、とわずかに持
ち上がる。
「ゆううううっっっ! おにいさああああん! たすけてえええええっっっ!」
私は、れいむ人形のスイッチを入れる。
『ゆっくりこないでね! れいむをたすけてね!』
「「「「「ゆ?」」」」」
ゆっくり達の視線が、突然喋り出したれいむに向く。
あまりにもゆうかが哀れに鳴くものだから、そちらに対する嗜虐心が強くて、半ば無視されていたのだ。
れいむの方なら、まだ体が入り込む隙間はある。
そう、そしてその近くにいるのは、ピンポン球程度の大きさの小ありすだ。
小ありすが無防備に近づいていく。そして、金網の隙間を体をよじって通り抜けた――が。
「ゆ? ゆうっ!!!」
とボロありすが小ありすに気付いて声をかけた。小ありすの動きが止まる。まだれいむ人形に触っていない!
『おねがいだからゆっくりさせてね! ちかづかないでね!』
小ありすは金網の外側に戻ってくる。その間に、水槽が土から抜け出て、ゆっくりたちが入り込む隙間が出来る。
あと少しなのに! 失敗したのか……
私は思わず目をつぶりかける。
そのときだった。
「んほおおおおおおおっっっっっ! れいみゅうううううううっっっ!
ずっぎりじまじょおおおおおお! むっぎゃぎゃああああああっ!」
金網の背後から、ぱちゅりーが体当たりを仕掛けた。そして金網がかたんと小ありすの方に転がって――
「かかったな! アホがっ!」
私は目の前の段ボールに拳を突き込んだ。差し込み式の箱の蓋がばりっと外側に開ける。
「電気を! 電気を付けてくれ!」
二階の部屋の電気が付く。ゆっくりたちの姿が照らされる。
「ゆうううううっっっ! まぶしいいいいっっっ」
暗闇になれていたのは、私だけではなかった。ゆっくりたちもまたいきなりの強い光を見て、思わず身をすくませる。
とはいえ、二階の光だけでは足りない。
「ゆううううっ!!?? ゆーーーーーーっっっっ、ゆゆゆっ!」
段ボールから這い出てきた私に、何かが覆い被さってきた。
「う~~~~れみりゃど~~~ずっぎりいいいいいい」
うわーやわこい! やわこいよこの子! しかもあったかい! そして肉まんくさい!
私は顔にくっついてくるでかい胴付きれみりゃをひっぺがした。
ゆうかの水槽の近くにあった、れいむ人形を入れた金網がない。
進入口を見る。金網があちこちにぶつかる音が聞こえる。そして遠ざかっていく。
やった。やったんだ。私の体に、達成感とともに虚脱感が訪れる。
ついに、ボロありすのしっぽをつかんだ。
おそらく、れいむ人形は、きちんと小ありすにくっついたのだろう。そうでなければボロありすがそれを持って逃げるはずがない。
一階の、庭に面した部屋の明かりもついて、窓が開いた。飼い主が体を乗り出す。
「やりましたか!」
「ええ」
私の返事は、思ったよりも力がなかった。
「ゆうかは!?」
ゆうかの水槽にとりついていたゆっくりたちは、突然の事態に何が起こったのか全く分からず硬直している。
飼い主は裸足で出てきて、他のゆっくり達をどけて、ゆうかの無事な姿を確認する。
「良かった……」
と、安心したのもつかの間だった。
「う~? ここはどこだど~?」
「ゆう? なんでこんなにいっぱいゆっくりがいるのぜ?」
どうやら、ボロありすの鳴き声が聞こえなくなって洗脳が解けたようだ。
「…………う?」
「……………………う」
互いに顔を見合わせるゆっくり達。
「「「う~♪ あまあまがいっぱい~♪」」」
「「「「「うわあああああああっっっれみりゃだあああああああっっっっっ!!!!」」」」」
「「「ふらんもいるうううううううっっっっっっ」」」
「ぎゃ~お~、た~べちゃうぞ~♪」
別の意味での阿鼻叫喚が始まった。
「ゆううううっっっっ、まりさはおいしくないのぜ! あっちのれいむがおいしいんだぜ!」
「うそだっ! まりさのほうがおいしいからかわいいれいむをたべないでね!」
「う~、どっちもいただきますだどお~」
「食べちゃ駄目えええっっっ! 後ででっかいプリンあげるからあああっっっ!!」
「う~? ぷっでぃ~ん?」
「「ゆう! じじいたすけるのがゆっくりしすぎだよ!」」
「何だ野良か、じゃあ食べていいぞ。ゆっくり食えよ」
「「どぼじでええええええええっ?」」
「うーっ! よぐもふらんをどじごめだなー! せきねんのうらみ! くりゃえ、ればてぃん! ゆっぐりじね!」
「うううううう!? だずげでざぐや~!」
「かべさん! ゆっくりおりてきてね! れいむをたすけてねゆべっ」
「ふん! すべてのゆっくりはこのまりささまがにげるためのいしずえとなるのぜ! ってぜんぜんとどかないのぜえええ!?」
「おにいさんだずげでえええっっっ!」
「すいません、手を貸してください!」
「怖かっただろ、ゆうか、でももう大丈夫だぞ。勇気を出してよく頑張ったな。今日は一緒に寝ような」
「でもおはなさんが……」
「お花さんはまた世話すればいい。でもゆうかがいなくなったら、もう二度と私はゆうかの世話をしてやれなくなるんだ」
「ゆう……わかったよ!」
「じゃあ、後はよろしくお願いしますね」
「逃げないでえええええええっっっ」
その日の朝からは、捕まえた飼いゆっくりの返却作業に追われた。五代君がいなければ、確実に過労死していた。
「この子、どこで見つけたんですか?」と飼い主の一人に問われた。
「ええと、それはですね。ゆっくりたちには何年かに一度、一カ所に集まって一緒にゆっくりしようとする習性があるんです。
一説によれば、月のウサギ光線に導かれるらしいですね。私たちはそのゆっくりの集いを「れいたいさい」と呼んでいるんですよ」
と適当なことを言った。
昼前には、あらかたの返却作業が終わった。
「五代君。ちょっと昼飯を食いに行ってくるけど、よろしく」
「ういっしゅ!」
昼飯は、近くのコンビニでおにぎりを買って、歩きながら食った。
向かう先は、神社だ。そこから、れいむ人形に仕掛けた発信器の信号が届いている。
私は、その神社の境内に入る。そう言えばここで、女の子がうちから買ったありすを虐待しかけたのだった。
奇妙な縁があると思わざるを得ない。
私は、神社の本殿に近づき、れいむ人形のスイッチを入れる。
『ゆっくりこないでね! ゆっくりあっちいってね!』
「いるんだろう? ありす。小さいありすも。まさか小さいありすを置いて逃げるなんてことは出来ないはずだ。
だってお前たちはずっと一緒にいたんだもんな」
そう私は本殿の下に向けて語りかける。
「もし、このまま返事をせずに、そこに居座るというのなら、しょうがない。
毒ガスを持ってきてるんだ。それでお前たちを殺して、後で引きずり出すしかない」
もちろん嘘だが、出てきてもらうためには仕方がない。
「そんな無様な格好を、私はお前にさらしてほしくないんだ。お前は手強かった。
今まで会ってきたどのゆっくりよりも遙かに賢かったよ。お前は許されない悪いことをした。それでも、いいゆっくりだった」
足下から、微かに地面を擦る音が聞こえた。
「小ありすの治療も必要だろう、どうだ」
ずり……ずり……と音が近づいてきて。
それが弱々しく姿を現した。
小ありすの捕まった金網を口にくわえて。
その左右非対称の目から、ぼろぼろと砂糖水の涙をこぼして。
まるで「自分はどうなってもいいからこの子を助けてください」と言わんばかりに、金網を私に向かってつきだした。
「良かった」と私はつぶやいて、そのぼろぼろの体を抱き上げた。
「お、おかえりなさうぃっしゅ! ってどうしたんすかそのぼろぼろのゆっくり」
「そこの神社で拾ったんだよ」
「はあ~、物好きっすね。そんなぼろぼろじゃ、全然売り物にならないっすよ」
「いいんだよ。売り物じゃない。それに、ぼろぼろなのは表面だけだよ」
最終更新:2009年02月28日 23:09