「おともだち」(前編)



  • ゆっくりだけでなく、人間もかなり酷い目に遭います。
  • 何かヤバイと思ったら、逃げてください。


―― 1 ――


ザッ、ザッ

少年は、下を向いて歩いていた。
口に違和感を感じ、左手で拭ってみると、べっとりと血がついた。
特に驚かなかった。見慣れていた。いつものことだったから。
そして、あんな奴らは全員死ねばいいのに、と思いながら赤く汚れた手を右袖にこすりつけた。

“奴ら”から解放されたのは非常に嬉しいことだったが、家に帰った後のことを思うと足取りが重くなる。
右膝と左肘の傷を水で洗い、消毒等の処置を済ませ、それから夕飯の準備、洗濯物の取り込み、部屋の掃除、その他多数。
帰りたくはなかった。でも、帰らねばならないだろう。
家に帰らなければ、村全体を巻き込んだ騒ぎになる。それは、父が最も嫌うものだ。
後々になって自分の首を絞めることになるだろうことは、容易に想像できた。

「……」

口を開いても、声を出す気力がない。
気力がなくても、身体は勝手に動く。家に向かって歩き続ける。
その自動的な歩みを止める気力すら、少年にはなかった。

だが、その日、少年はそこで立ち止まった。

顔を上げて、左を向く。
いつもなら素通りしてしまうだろうその場所には、草を押し倒した獣道みたいなものが見えた。
獣道でないとしても、何かが通った後であるのは間違いない。
少年は、見えない何かに引っ張られるように、その道へと足を踏み入れた。

歩き始めてから間もなくして道はなくなり、少年は両腕で背の高い草などを掻き分けながら歩き続けた。
道がなくなった時点で引き返せばいいものを、肘や膝の傷の痛みを我慢しながら、ひたすら突き進む。

そして、たどり着いたのは―――河原だった。
大小の丸い石で埋め尽くされる視界の向こうに、穏やかに流れる幅の広い川が見える。
誰もいない。何もない。退屈であり、孤独であるが、それは少年に安心を与えた。
しかし、その安心も束の間のものでしかなかった。

「ゆべぇっ!!やべでっ!!だっ、だずげっ…ゆっぐりじでいっでね!!」

耳慣れない声を聞き、少年は左後方を振り返る。
ぽつんと立っている大木の根元。3匹の野犬が何かに群がっている。
最初は生ゴミにでも群がっているのかと思ったが、そうではなかった。
少年が歩み寄って上から覗き見ると、生首が4つ転がっていた。

その正体は、“ゆっくり”である。
人の頭を模した饅頭であるが、不思議なことに勝手に動き回ったり言葉を話したりする上、交尾をし、子を生す。
そのゆっくりが、今まさに、食われつつあった。
いつもなら憎たらしく感じる不貞腐れた笑みは、涙と涎に塗れて酷い有様だ。
ボロボロになった3匹の子供を取り戻そうと、必死に喰らいつく親ゆっくりの姿が、そこにはあった。

「やべでね!!!れいぶのおちびぢゃんをたべないでねぇ!!」
「だぢゅげでぇえぇっぇぇっ!!でいむはおいぢぐないよおあおあおあぉ!!!」
「びぎぃっ!!!ぼぎょあ゛う゛お゛え゛う゛っ!!!!」

親れいむの抵抗も空しく、くっちゃくっちゃと音をたてて子ゆっくりを噛み砕く野犬たち。
だが、少年が近づいてくるのに気づくと、自分より体の大きい生き物を見て警戒したのか、
少年から離れるように後ずさった後、そのまま散り散りにその場から逃げ去った。
……子ゆっくりを咥えたまま、である。

「い゛ぬ゛さ゛ん゛!!!お゛ぢびぢゃんをおいでっでねぇっ!!!
 ひぐっ…びぐぅっ…ゆっぐりい゛い゛い゛い゛いいい゛ぃ゛いい゛ぃぃぃいい!!!!」

非力なゆっくりの足で野犬に追いつくはずもなく、野犬の姿が完全に視界から消えたところで、親れいむはぽつりと立ち止まった。
崩れた笑みを引き攣らせながら、躊躇うことなく涙を流す。
その泣き声が、次なる襲撃者をおびき寄せる引き金になるかもしれないというのに。

「泣き止めよ…」

少年は、れいむに歩み寄り、優しく頭を撫でてやった。
その予想外の動作に、自分自身が一番驚いていた。
うす汚い野良のゆっくりに素手で触れる日が来るとは、想像もしていなかったのである。
だが、心の中の何かが痛み、その痛みを和らげるにはこうするしかないと、少年は何となく理解していた。

泣くのを止めたれいむは、少年の顔を見上げながら悲しげに呟く。

「ゆぅ……でも、れいむのおちびちゃんが……」

おそらく、野犬に連れ去られた子ゆっくりたちは助からないだろう。
遅かれ早かれ、野犬の胃袋の中に収まるのは間違いない。
だが、少年は容易に予見できるその現実を口にはせず、れいむの頭を撫で続けた。

「ありがとうおにいさん……れいむはもうだいじょうぶだよ……これからはひとりでゆっくりするね」

寂しい背中を少年に向けて、れいむはとぼとぼと巣に戻っていく。
少年は、どうするべきか少し迷いながらも、れいむの後をゆっくりとついていった。

先ほど野犬が群がっていた大木の根元。そこが、れいむの巣である。
散乱しているのは、連れ去られた子ゆっくりたちの飾りや身体の破片。
れいむは口を器用に使って地面に小さな穴を掘り、それらを埋めた後、巣の中へもぐりこんだ。

「おにいさん……ありがとうね」

巣の中から、少年に向かって呟く。

「おにいさんがこなかったら、れいむもいぬさんにたべられてたかもしれないよ。
 おにいさんがきてくれたおかげで、れいむはなんとかゆっくりできるよ……ゆっくりしていってね…!」

少年は、返答しないまま、れいむの巣に背を向けてその場を立ち去る。
このれいむも、きっと自分と同じなのだ。

少年は思った。
明日も、ここに来よう。

◆ ◆ ◆ ◆

淡々と、食器類を洗う。
泡を水で洗い流し、水気をふき取り、棚に戻す。
欠けた食器、くすんだコップ。買い換えることなく、使い続けている。

不意に、こめかみが痛んだ。
先程、父に殴られた部分である。
帰宅が遅くなったことを咎められ、罰と称して暴行を受けたのだ。

その父は、今は泥酔して居間に寝転がっている。
周囲に散乱している酒瓶などを片付けるのも、少年の役目だ。

こんな奴、死ねばいいのに。いつも思うことである。
だが、自らの手で人間一人を殺す度胸は、少年にはなかった。
失うものは何もないはずなのに、これ以上何かを失ってしまう気がして、怖かったのだ。

鼾をかいている父を放ったまま、少年は自室に戻り、布団にもぐりこむ。
今日の家事は全て終えた。だが、明日の朝早くからも家事をこなさなければならない。
年頃の男子と同じように娯楽を楽しむ暇など、少年にはなかった。


―― 2 ――


翌日の夕方。少年は再びれいむの巣を訪れた。

「れいむ、出ておいで」

れいむは声の主を覚えているらしく、にっこりと微笑みながら巣から飛び出してきた。

「おにーさん!ゆっくりしていってね!!」

本能に従った元気な挨拶だった。
子供を全て失ったことは辛かったであろうが、それでも強く生き抜こうという意志が感じられた。
昨日負った身体の傷も、殆ど癒えていた。ただひとつ、後頭部のリボンが半分千切れてしまっていることを除いては。

「れいむのゆっくりプレイスでゆっくりしていってね!!」
「うん……そうするよ」

少年を命の恩人だと思っているらしく、それはそれは手厚い歓迎だった。
巣の中から虫の死骸やら摘み取った花やらを引っ張り出し、少年に勧めてくるれいむ。
ご馳走を勧めているつもりなのだろうが、少年にとってはただのゲテモノだ。
それらを丁重に断ると、少年はれいむのすぐ傍に腰を下ろした。

周りには、誰もない。
河原があって、ゆったりと流れる川があって、草木が生い茂っていて。
少年は、何も語らぬまま、沈んでいく夕日が水面に反射しているのを眺めていた。

「ゆ?……おにーさん、ゆっくりしてる?」
「ゆっくりしてるよ。だから心配しないで」
「ゆ!だったらだいじょうぶだね!!れいむもいっしょにゆっくりするよ!!」

孤独とは、少年にとって唯一安らげる要素だった。
その場に誰かが一人でもいるだけで、少年は常に精神的負荷を強いられる。
誰かに見られているだけで、誰かが話しかけてくるだけで、少年の身体は強張り、警戒する。
家にいたくない。でも、寺子屋にも行きたくない。
家には父がいて、寺子屋には“奴ら”がいるから。
少年に、居場所はなかった。

でも、今は違った。
れいむと話し、心を通わすことを心地よく感じる自分が、そこにはいた。
今、確かに自分は孤独ではなく、それでも安らぎを感じている。
孤独を伴わない安心が、少年はとても懐かしく思えた。
少年に、居場所が見つかった。

太陽のような笑みを浮かべるれいむの頭を、少年はそっと撫でる。
れいむはぎゅっと目を瞑り、少年の手の感触を楽しむ。
残念なことに、ずっとこうしているわけにもいかない。
名残惜しく感じながらも、少年はれいむの頭から手を離して立ち上がった。

「ゆぅ……」

もう行っちゃうの?
れいむが、視線で訴えかけてくる。
少年は苦笑いしながら、こう答えた。

「また明日来るよ。れいむとずっとゆっくりしてやる。だからそんな顔をしないで」
「ゆゆっ!!ゆっくりしていってね!!」

れいむは、少年の姿が完全に見えなくなるまで、その場で跳ね続けた。
ゆっくり特有の、見送りの動作である。

◆ ◆ ◆ ◆

帰宅すると、玄関の扉が破壊されていた。
2枚の引き戸はどちらも外れており、ガラスの破片が周囲に散らばっている。
犯人が誰なのかは想像がつく。父だ。大方、少年が帰らないことに腹を立てて暴れたのだろう。
ならば、これを片付けなければならないのは自分だ。

少年は灰色の表情で、ため息を漏らす。
大きなガラスの破片を拾おうとして、その手を何者かが踏み潰した。

「グゥっ!!」

鋭い痛みを感じながらも、その手を踏み潰す足は、逃れることを許さない。
見上げてみると、そこには父の姿があった。
無表情のまま、少年を見下ろしている。

「遅かったな。何をしていた?」

素面の父は、口数が少ない。
最低限の言葉で、必要なことしか問わない。
思考が明瞭な分、泥酔時の父より性質が悪かった。
理性を伴った暴力は、吸血鬼と同じぐらい恐ろしい。

「別に…何も」
「そうか」

少年の足を踏みつける父の足に、力がこもる。
おおよそ良心と呼べるものを、父は持っていなかった。
この男が死んだら地獄に落ちるに違いない。少年は常々思っていた。

「お前はお前のやるべきことをやれ。遊びはそれからだ」

トドメに少年の手を蹴飛ばした後、父は家の中へと戻った。
血塗れな上に打撲も負った少年の右手は、正常に動かなくなっていた。
少年は台所に向かうと、手に刺さったガラスの破片を抜き取り、水で傷を洗い消毒を施す。
そして慣れた手つきで包帯を巻いて、動かぬように固定した。
自分の右手にこうやって処置を施すのが何回目か、少年は思い出せなかった。

少年がその日の家事を全て終えたのは、深夜の3時だった。


―― 3 ――


2週間の間、少年は毎日れいむの巣に通い続けた。
寺子屋から帰る途中、彼は決まって、1,2時間は必ずれいむと共に過ごすようにしていた。
何をすると決めているわけではない。
ただ、れいむと一緒に夕日を眺め、流れる川の穏やかさに耳を傾けるだけだ。

そうしているだけでいい。
ここには自分とれいむしかいない。それでいい。それがいいのだ。
景色が特別に良いわけでもないし、楽しい遊びをするわけでもない。
でも、不思議なことに、まったく飽きない。
れいむ静かに佇んでいるだけで、少年は満足だった。
父や“奴ら”の仕打ちで傷ついた心が癒えていくのを、確かに実感していた。

最近は、家に帰っても父が不在である事が多くなったため、遅く帰っても咎められることはない。
少年は毎日、れいむと思う存分ゆっくりすることで、れいむの笑顔を見ることで、傷めた心を少しでも癒すのであった。



その日も同じように、彼はれいむの巣に向かう。
だが、先日と同じように呼びかけても、れいむは巣から出てこない。
何事かと思い、しゃがみ込んで巣の中を覗き込む。

「ゆっ!?ゆ、ゆっくりこないでね!!ここは…れ、れいむのおうちだよ!!」

怯えるような目つきでこっちを見て、れいむは叫ぶ。
しかし、来訪者が少年であることに気づき、安堵しながらも恐る恐る巣から這い出てきた。

「ゆ……お、おにーさん!ゆっくりしていってね!」

昨日に比べて、幾分か元気が無いように見える。
それもそのはず、れいむは少年以上に傷を負っていた。
両頬の無数の傷。ところどころ引きちぎられた髪の毛。そして、茶色く変色した右の眼球。
痛々しい傷を負いながらも、れいむは気にせず少年に微笑みかける。

「お前、一体何があったんだ?」
「ゆゆ……なんでもないよ!おにーさんはゆっくりしていってね!!」

そんなわけがない。
れいむが誰かに暴行を受けているのは、覆らない事実。

「ゆっくりしていってね!!ゆっくりしていってね!!」

執拗に、少年に呼びかけるれいむ。
まるで何かがやってくるのを恐れているかのように。
少年がいてくれれば、その恐ろしいものはきっとやってこない。
れいむはそう信じているのかもしれない。

「……わかった。ゆっくりしていくよ」
「ゆゆっ!!ゆっくりしていってね!!!」

これ以上問い詰めても、れいむの反応は変わらない。
そう判断した少年は、れいむの言葉に従うことにした。

揃ってその場に腰を下ろし、緩やかに流れる川を眺める少年とれいむ。
水が流れる静かな音。草木の擦れる優しい音。ひとつひとつは意味のない音。
けれど、今この場でれいむと並んで聞くこれらの音は、少年の安らぎのしるしだった。

オレンジ色の光が、眩しい。
目を細めながられいむの横顔を見ると、れいむも同じように目を細めていた。
その目が、以前と違って少し悲しげなのは、きっと気のせいではないだろう。

れいむは未だに、自分の身に起こったことを話そうとはしない。
だから少年はそれと気づかれぬように、周囲を見回す。
れいむに暴行をはたらいた輩が、まだどこかに潜んでいるかもしれないからだ。

おそらく、周辺に生息しているゆっくりの仕業だろう。
子供を奪われた無能な親だとか、飾りがボロボロのゆっくりできないやつだとか、理由はいくらでも思いつく。
それに、野犬など野生生物であれば、そもそもこの程度の傷では済まない。
十中八九、饅頭の残骸となって生涯を終えることになる。
だから、れいむを襲ったのはゆっくりに違いないのだ。

「ゆ?…ゆっくりしていってね?」

少年が立ち上がると、まるで問いかけるようにれいむが叫ぶ。

やはり、そうだ。
れいむは、一人になるのが怖いのだ。
少年と離れ離れになって、再び同族による暴行を受けるのが、怖いのだ。

「ゆっ?いかないでね!!もっとゆっくりしていってね!」

だから、れいむは媚びるような声色で、少年に呼びかける。
一人にされたくないから。一人になって、他のゆっくりに虐められたくないから。
今となっては、少年だけがれいむの唯一の理解者なのだ。

「ごめん」

少年は一言だけ謝って、れいむに背を向ける。

「僕は、家に帰らなきゃ」
「ゆ、ゆっくりいかないでね!!!」

離れていく少年の足元に、れいむが必死に縋りつく。
出せる限りの力で少年のふくらはぎに喰らいつき、行かせまいとする。
少年は軽々とれいむを剥ぎ取ると、そのまま巣穴へと放り込んだ。

「駄目だ。帰らないと……父さんに何て言われるか…」

右手の包帯を、人差し指でなぞる少年。未だ癒えぬ傷が、じくりと痛む。
思い出しただけでも恐ろしく、さらに恐ろしさを通り越して怒りまで湧き起こる。
こんな痛い思いはしたくない。れいむがどんなに叫ぼうと、これだけは譲ることは出来なかった。

「どうして!?ゆっくりしていってよ!!ゆっくりするのはたのしいよ!!」
「楽しくても駄目なんだ。僕は……人間は、楽しいだけじゃ生きていけない」
「そんなことないよっ!!ゆっくりはゆっくりできるよ!!だからゆっくりしていってね!!!」

巣穴から飛び出し、再び縋りつこうとする。
だが、少年の怒鳴り声を聞いて、れいむは硬直してしまった。

「いい加減にしろよッ!!!」
「ゆひっ!?!?」

怒りのこもった目つきで、少年はれいむを見下ろす。
今まで優しい表情しか見せなかった少年の、恐ろしい顔つきに……れいむは言葉が出なかった。

「何も知らないくせに……僕をお前と一緒にするなッ!!!」

明らかな敵意。今にも襲い掛かってきそうな、獣の目。
その怒気は、れいむだけでなく、この場にいない誰かにも向けられているようだった。

「お前もなのか?……お前も僕がそんなに憎いのかよッ!? 僕が苦しむのがそんなに楽しいのかッ!?」
「ゆっ……ゆっくりして…」

れいむは、それ以上言えなかった。
ついさっきまで優しかった少年が、今はあまりにも怖かったから。
これ以上少年の怒りを買おうものなら、何をされるか分からないから。

しばらくして少年は、はぁっとため息をつく。
蛆虫を見るような目でれいむを一瞥した後、れいむに背を向けた。

「勝手にゆっくりしてろ。クズ」

冷たく言い放って、荒々しい歩調でその場を立ち去っていく。
腰の高さまで伸びている草を押しのけ、砂利の音を響かせながら……

れいむはその場に立ち止まったまま、少年の姿が小さくなっていくのを見届ける。
少年に聞こえぬよう、弱々しい声で呟いた。

「お、おにーさん……ゆっくりぃ……」

◆ ◆ ◆ ◆

夕方。
その日も、父は不在である。
少年は自室の机に向かい、寺子屋の宿題を進める。

ただし、6人分である。

そのうち一人分は自分のもので、その他の5人分は“奴ら”が押し付けてきたものだ。
もちろん断ることも出来た。だが、それが良い結果をもたらさないということを、少年はよく知っていた。
鉛筆や教科書を隠されたり、椅子を泥塗れにされたり、机を女子トイレの個室に移動されたり……
そんなことと比べれば、ずっとマシだと思っていた。

自分の分の宿題を終え、2人目の分に取り掛かる。
淡々と、自分の宿題をコピーするだけの、殆ど無意味な作業。
重なるのは疲労と眠気。そして、問いの答えは記憶したくなくても定着していく。

6人分の宿題を終えるのに、一体何時間かかるだろうか?
どんなに時間がかかるとしても、やり遂げなければならない。
やり遂げなかった結果、一番痛い目に遭うのは自分なのだから。

たとえ宿題を終えたとしても、安息はない。
父の機嫌を損ねぬよう、家事を完璧にこなさなければならない。やるべきことは山ほどある。

宿題を全て終え、壁掛けの時計を見上げる。

11回、鐘が鳴った。


―― 4 ――


父が帰ってきたのは、翌朝だった。
隣村から徒歩で帰ってきたにもかかわらず、その顔に疲労の色はない。

その理由は、父が受け取ってきた手紙にあった。

少年は無言で、その手紙に目を通す。
手紙の主は、隣村の名士。
内容は、端的に言えば『少年を養子として迎えたい』というものだった。

その名士は50歳を超えているが独身であり、子もいない。
将来のことを考えたときに後継者の必要性を感じ、適格な男子を探していたのだという。
ところが、年頃の男子といえば農村においては貴重な働き手である。
名乗り出る者はなかなかいなかったそうだ。

そのため、名士は養子を迎えるにあたって、新たな条件をつけた。
それは、『謝礼として、その男子が一生涯働いて得られる程度の金額を、実の親に与える』というものだった。

それに対し、一番に手をあげたのが少年の父である。
彼は見事に養子としての資格を勝ち取り、こうして帰ってきたのだ。

少年は、二つ返事で受け入れた。
断る理由などない。願ってもないチャンスだ。
忌々しい父から離れられるし、暴力を振るうしか能のない“奴ら”からも離れられる。
さらに、今のちっぽけな寺子屋ではなく正式な教育機関で勉強できる。
ゆくゆくは、名士を継いで村一番の金持ちになるのだ。
少年は、生まれて初めて父に感謝した。

金が欲しければくれてやる。そんなものに興味はない。後にその数十倍の大金が得られるから。
それに今は、自分に害をなす人間から離れられればいいのだから。

約束の日時は、明日の朝。
あと24時間、耐えればいいのだ。



しかしただひとつ、気がかりなことがあった。
これは、噂でしかないのだが……

その名士は、大のゆっくり嫌いらしいのだ。
人間に媚を売るゆっくり、人懐っこいゆっくりが何より嫌いで、それを受け入れる人間も同様に嫌いだとか。
単純な話、ゆっくりをペットにするような人間は、養子にはしたくないらしい。

そのことが、少年の心に引っかかった。
あわよくばれいむも連れて行ってやりたかったが、どうやらそれは出来そうにない。
確かにれいむには心を救われたと思っている。だが、心を救われるだけでは生きていけないのだ。
れいむには悪いが、連れて行ってやることは出来ない。

今日中にお別れの挨拶でもしてやろうか、と思いながら、少年は生涯最後となるであろう寺子屋へと出かけていった。

◆ ◆ ◆ ◆

寺子屋では、少年のためにお別れ会が開かれた。
全員が集まっているので、“奴ら”は露骨な嫌がらせをしてこない。
教室の隅で悔しそうな表情を浮かべ、少年のほうをじっと見つめている。

そうだ。“奴ら”とは明日以降会う事はないのだ。
そう思うと、『名士の養子となる』という実感が沸いてくる。
無限に続くと思われた地獄も今日まで。明日からは、まったく別の世界が少年を待っている。
そこでは誰もが少年を認め、少年に暴力を振るったり汚い言葉を投げつけたりしない。
少年は一人の人間として認められ、適切な義務と適切な権利を与えられる。

その事がどんなに素晴らしいことか。
少年は、よく知っている。
だから、ワクワクが止まらない。
楽しみで楽しみで、心がどうしてもそわそわしてしまう。

そのせいか、最後に皆に対しての別れの言葉を求められ、自分が何を言ったか、少年は覚えていなかった。
けれど、その言葉を聞いた“奴ら”がどんな顔をしたかは、よく覚えていた。
でも、そんなどうでもいいことは、明日には忘れてしまうだろう。少年はそう思った。

◆ ◆ ◆ ◆

夕方。
少年はれいむの巣の前までやってきて、昨日れいむと喧嘩別れしたことを思い出した。
あの時はついカッとなって酷いことを言ってしまった。
まずは、そのことを謝らなければ。
少年はそう思い、巣の中のれいむに声をかける。

「れいむ。出ておいで」

薄暗い巣の奥で、何かがびくっと動いた。
音を出さないように、その物体はゆっくりと巣の中から出てくる。

「ゆっぐ……ゆっぐりしでいっでね…!」

れいむは泣いていた。その姿は、昨日にも増してボロボロだ。
そして、頭上に子供を実らせていた。
れいむ種を3匹、ありす種を4匹の、合計7匹。
少年は即座に理解した。交尾を強要され、孕まされたのだと。

「おにいざぁん……びい゛い゛い゛や゛あ゛あ゛あ゛ぁあ゛あ゛ぁぁぁあ゛ぁっぁ゛あ゛!!!!」
「れ、れいむ…」

涙と涎を撒き散らしながら、少年の足元に縋るれいむ。
あまりにも哀れなれいむの姿に、少年はかける言葉を見つけられなかった。

「もういやだぁ!!!みんなれいぶのごどいじべるぅっ!!!!」

河原一帯に響き渡るほどの、心の叫び。

「れいむ゛なにもわるいごどじでないのに゛ぃ!!!れ゛い゛ぶゆっぐじし゛でだだげな゛の゛に゛ぃ!!!」

周囲に生息するゆっくりたちが、草木の陰からこちらを見ている。
れいむを虐めていたゆっくりも、虐めに無関係のゆっくりも、皆こちらを見ている。

「れ゛いむ゛ゆ゛っぐり゛しだい゛っ!!!ゆっぐりじだいのぉ!!!ゆっぐりさせでよお゛おお゛お゛お゛ぉお゛ぉぉぉ!!!!」

今度こそ離れまいと、れいむは少年のふくらはぎに齧りつく。
その力は、昨日の比ではなかった。

頼れる者は誰もいない。自分の周囲は、みんな敵。
そんな状況下で、れいむがゆっくりできるただ一つの方法。
それは、圧倒的な力を持つ強者に助けを求めること。
れいむにとっては、それが少年だったのだ。

少年さえいれば、誰もれいむを虐めない。
少年さえいれば、れいむはゆっくりできる。
だから、今ここで少年を帰すわけにはいかないのだ。
今少年と離れれば、一体何をされるか想像もつかない。

ひしひしと伝わってくる、れいむの心の叫び。
少年は簡潔に応えた。


「ごめん」


「……ゆ?」

れいむの表情が、固まった。
少年の応答を、頭の中で処理できずにいるのだ。

『ごめん』

その言葉が意味するのは、ただひとつ。
れいむの要求を、何一つ受け入れる事が出来ないということだ。

「僕は、もうここには来ない。明日からは、隣村で暮らすから……ごめん」
「どう…して……おにーさん……?」

信じられない、という表情。
これだけ頼めば、お兄さんは自分と一緒にゆっくりしてくれる。
きっと、そう思い込んでいたに違いない。
そう思い込まなければ、心が耐えられなかったのだろう。

「僕はね、隣村のお金持ちの人の子供になるんだ。
 これからは、誰にも虐められない。誰も僕を悪く言わない。幸せに……幸せに暮らすんだ」

少年は、一抹の罪悪感を抱きながらも、穏やかな笑みを浮かべていた。
れいむに与える精神的な苦痛よりも、これから自分に訪れる幸福の方が勝っていたから。
彼は、何よりも自分の幸福を優先したのだ。

確かにれいむには悪いことをした。れいむには可哀相なことをした。
でも、それとこれとは別じゃないか。僕にだって、幸せになる権利はあるんだから。

少年は、あまりにも残酷だった。
れいむの手の届かないところにある幸福を、自分がこれから手に入れることを宣言したのだ。
不幸のどん底から見上げる“それ”は、どれほど眩しいものか。
その眩しさを、少年は忘れてしまった。
もう、その幸福を手に入れたつもりでいるから。

「いやだ!!!れいむといっしょにゆっくりして!!!」

れいむは叫ぶ。駄々っ子のように。
頭上で揺れる赤ちゃんゆっくりを気遣うこともせず、少年の足元に体当たりを繰り返す。

「ゆっくりしていってね!!!ゆっくりしていってね!!!ゆっくりじでいっでねぇっ!!!」

伝わらない。
れいむの叫びは、少年には伝わらない。

少年の心は、ここにはないから。
少年が見ているのは、れいむではなく未来の自分だから。

「ゆっぐりじでぇっ!!!れ゛いむ゛どい゛っじょにぃっ!!!ゆ゛っぐり゛じでっ!!!ゆっぐり゛ぃ……ゆ゛っぐりじよ゛う゛よ゛ぉっ!!!」
「じゃあね、れいむ。悪いけど……これからは僕なしでゆっくりしてよ」

れいむの声も、れいむの涙も、伝わらない。
どんなに願っても、伝わらない。

背を向けて、砂利の音をたてながら立ち去っていく少年。
れいむがもう一度少年の足に噛み付こうとした……その瞬間。


ズドンッ!!!


「ぶぎゅえ゛え゛ぁあ゛ぁぁぁお゛え゛お゛え゛あ゛お゛っ!!!!」

少年の踵が、れいむの眉間を抉った。
その威力は偶然のものではない。明らかに、攻撃の意思があった。
攻撃の意思。それは、決別の意思でもある。

れいむは口を強く閉じて、吐き気を我慢するが……

「おぶっ……おびゅぅっ…フヒュッ!…ブッ!…オ゙ォ゙エ゙エ゙ェエ゙エ゙ェ゙ェ゙ェエ゙エ゙ェエェ!!!」

数秒ともたず、決壊した。
口の中からあふれ出す、大量の餡子。あまりの気持ち悪さに、目に涙が浮かぶ。
れいむが苦しそうに中身を吐き出す様子を、少年は見届けずに立ち去っていく。

「ンイ゙ッ!!……ゼハッ!……ゼェゼェッ!」

待って。
そう叫ぼうとしても、声が出ない。
少年はどんどん離れていく。
幸せを掴んだ少年は、どんどん遠くへ行ってしまう。

ゆっくりしたい。
ゆっくりさせて。
お願いだから、一緒にゆっくりして。

「オ゛ォ……お゛に゛ーざん……ゆ゛っぐり゛…じでい゛って……」

その願いは、ついに伝わらず……少年は一度も振り向くことなく、姿を消した。

しかし、れいむは諦めない。
少しずつ、少しずつ、ボロボロの体に鞭を打って進んでいく。
少年と共にゆっくりする自分の姿を思い描きながら……草を掻き分けて這いずり進む。

「おにーさん……ゆっくりぃ…しようね……」

れいむは、少年の後を追うようにその場から姿を消した。


―― 5A ――


翌朝。

少年は目覚めてすぐに、今まで一度も着た事のない高級な服に身を包む。
父はというと、少年より2時間は早く起床して、隣村からやってくる名士をもてなす準備をしている。
こんなにも活動的で爽やかな表情の父など、少年は見たことがなかった。

この家でとる最後の朝食。
いつもと同じ味気ない食事だが、いつもより美味しく感じられた。
味覚というものは、本当にいい加減だ。気分一つで感じ方が変わってしまう。

約束の時間まで、あと30分ほどある。
少年は玄関の前に立って、胸に手を当てて待ち続ける。

何もせずに突っ立っているだけなのに、気分がとても清々しい。
もう二度と父と会うことはない。もう二度と“奴ら”と会うことはない。
それがどんなに素晴らしいことか。そう考えただけで、淀んだ空気すら美味しく感じる。

約束の時間になると、聞き慣れない機械音と共に、名士を乗せた乗り物が玄関の前に停止した。
4つの車輪がついているが、馬にも牛にも引かれずに勝手に走る不思議な乗り物。
その乗り物は“自動車”と呼ぶらしいが、少年はそれを生まれて初めて目にした。

後部座席から降りてきたその人は、ちらりと少年に視線を向ける。
本の中でしか見たことのない豪華な衣装を着て、上品な動作で歩を進める。
蓄えられた髭は整えられていて、目には優しさと力強さがこもっている。
少年は、この人がそうなのだと確信し、深々と頭を下げた。

「発つ前に、少し挨拶をしてこよう」

そう告げると、名士は少年の家の中へと入っていった。
挨拶と言ってもそれほど長くはかからなかったらしく、1,2分ほどで戻ってきた。
玄関からは、父が喜びの涙を浮かべて少年を見ている。ふざけた野郎だと少年は思った。

「もう行こうと思うが、いいかね?」
「……はい、僕は構いません」

この薄暗い世界から這い出ることに、何の躊躇いがあろうか。
自分の人生は、ここから始まるのだ。今日から始まるのだ。
昨日までのことはすべて忘れて、新たな幸せな生活をスタートするのだ。
誰にも邪魔させない。煮え立った底なし沼から這い出て、絶対に幸福を手にするんだ。
少年は表情を固くしながらも、僅かに微笑んだ。

運転手が後部座席のドアを開き、洗練された動作で乗車を促す。
名士が自動車の後部座席に乗り込み、続いて少年も乗り込もうとした……その時だった。



「ゆっくりまってねっ!!!!」



背後からの声。

名士の眉が、ぴくりと動く。
ズキン。少年の胸を襲う激痛。
瞬間、全身に浮かぶ冷や汗。

誰だ。『ゆっくり』なんてふざけた声を上げたのは。
少年は、一変して不安感に押しつぶされそうになった。
吐き気を伴うほどの、恐ろしい予感。現実でなければいいのだが……



「おにーさんをゆっくりつれていかないでっ!!!」



言うな!!
この人の前で!!
その言葉を言うんじゃない!!!

少年は声のする方向を振り向いた。
そこには、例のれいむがいた。土ぼこりで全身が汚れ、ボロボロの饅頭と化している。
頭上に7匹の赤ん坊を実らせたまま、驚くべきことに一晩かけて少年を追いかけてきたのだ。



その姿を見た瞬間、頭を金槌で殴られたような衝撃を、少年は受けた。
同時に襲ってくる、頭と胸の激痛。心が、体が、目の前の現実を受け入れようとしない。
受け入れてはいけないのだ。もし受け入れれば、その先にある“嫌な予感”も現実になってしまう。

「君。“アレ”が呼んでいるぞ」
「ち……違います。あれは、僕じゃありません…!」

少年は弁解するが、れいむの目は確かに少年の目を見ている。
静かな怒りに満ちた名士の目。言い逃れできる状況ではなかった。



「おにーさんをつれていかないでっ!!!おにーさんはれいむとゆっくりするのっ!!!」



うるさい!!!
これ以上『ゆっくり』なんて言うんじゃない!!!
僕を邪魔するなっ!!! 僕はお前とは違う!!! お前にないチャンスを、僕は手に入れた!!!
だから……僕の足を引っ張るなッ!!! 僕の幸せを奪うなッ!!!

ふと、少年は名案を思いついた。
そうだ、これ以上喋らせないためには…潰してしまえばいいんだ。
この人はゆっくりを嫌っている。ここであいつを殺しても、何も問題はない。
そうだ、そうしよう。あいつを……僕を邪魔するあいつを、殺すんだ。

すっと立ち上がり、れいむへと歩み寄る少年。
だが、その決断が、ほんの少しだけ遅かった。
その遅さが、最悪の結果を生み出すことになる。



「おじさんおねがいだよ!!!れいむの“おともだち”をつれてかないで!!!おともだちをかえしてよーっ!!!」



その言葉を発する隙を、与えてしまった。
その言葉が、あの人に届いてしまった。


それが、“終わり”だった。


後編に続く)


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最終更新:2022年05月03日 16:11