(3.ゆっくり馴染んでね!)
朝靄の立ち込める、微笑みの村での初めての朝。
「ゆっくりしていってね!」
やわらかな日差しをまぶたの裏に感じて、姉ゆっくりはうっすらと目を開ける。
実に気分がいい朝焼け。
こんなに無防備に眠ったのは久しぶりだった。
大きくのびをすると、次第に鮮明になっていく意識。
「……ゆっくり?」
訝しげな声がもれる。
そこは、見知らぬ他ゆっくりの巣。
ここはどこだろうと見渡す姉ゆっくり。そして、自らの隣に寝かしつけられた妹と母ゆっくりを目の当たりにする。
「お、おがあぢゃん……」
意識が途切れる前のひどい有様を思い出して声が震える。
しかし、妹も母も安らかな寝息を立てていた。とりあえず命の別状はないようだし、傷口にぺったりと貼られた葉っぱは、何らかの
治療を意図したものだろうか。
そういえば、自分が幼い頃に怪我したとき、母ゆっくりが同じものを貼ってくれた。そのことを思い出して、若干緊張を解く姉まりさ。
そのまりさの顔に影が差した。
日の差し込む入り口をみやると、一匹のゆっくりが入り口からこちらをのぞきこんでいる。
「まだ、ゆっくりしていていいんだよ」
言いながら入ってきたのは、ゆっくりアリス。
「ここはアリスのおうちだけど、気にせずゆっくりしていってね」
言いながら、口から餌を吐き出して並べる。
その理知的な視線に、姉まりさは昨日自分たちを出迎えてくれたアリスだと気づく。
「あ、ありがどう、ありすうううう!」
顔全面に好意をはりつけて、思わず顔をよりよせる姉まりさ。やってしまってから噂に聞くアリスの発情のことが姉まりさの脳裏を
よぎるが、アリスのくすぐったそうな理知的な眼差しに変わりはない。
そもそも、アリス種は本来知性的な種族。親しい友達や穏やかな夫婦という関係を築いていれば、際限なく情欲を爆発させることはない。
アリスの発情は相手との信頼関係を築けないまま、プライドの高さゆえ孤立して情緒不安定になったときに起こりやすい。もしくは、
アリスのプライドを破壊する人為的な発情や、心通い合わせる前に無理やり交尾にされそうになったときの自衛のための発情など、
必ず理由があった。
今のような落ち着いたアリスは、単純に非常に信頼のできる相談相手。
姉まりさはアリスからじっくり話を引き出していく。
ここが、ゆっくりたちの共同生活で成り立っていること、その数はゆっくりゃ4匹にアリス種が20匹、そのほかの種が50匹程度で
成り立っていること、最初はここで暮らしていたのは自分一匹だけだったけど、いつの間にかたくさんの仲間がやって来て、いろいろと
助けてあって暮らしていること。
「ゆっくりゃはまりさたちを食べないの?」
続けて、姉まりさは最大の疑問を口にする。
「うん、最初は大変だったけど、今は群れに他のゆっくりゃがきたら追い出してくれるの! すごいんだよ、ゆっくりフランも
返り討ちにしたんだから!」
自分を食べないことも、逆にゆっくりを守ることも、ゆっくりフランに逃げ出さず立ち向かうこともまりさには驚きだった。
その理由を考えても理由は思い浮かばない。さすが微笑みの村だと勝手に納得するしかなかった。
何より大切なのは、自分たちはもう外敵に怯えなくていいということ。
「すごいよ! ねえ、アリス。まりさたち、この村で暮らしてもいいの?」
先ほどの話によれば、この村で一番の古株はこのアリス。
精一杯の真剣な顔でお願いするゆっくりまりさだが、期待通りアリスに浮かんだのは穏やかな微笑。
「いくつかの簡単な約束をしてくれたら歓迎するよ! あと、まりさの家が見つかるまで、ここにいていいからね!」
アリスの言葉に、まりさは心からあの長旅が報われた思いだった。
そしてその喜びを分かち合いたい家族は、部屋の奥で高いびき。
目覚めたら喜びのゆっくりしていってねの言葉をかけよう。そうして、アリスのもってきてくれた朝ごはんを一緒に食べよう。
ほくほくとした笑顔で家族の寝顔をのぞきこむゆっくりまりさだった。
アリスの教えてくれた、この村で暮らすための条件。
それは餌を取ってきたら、村の一箇所に集めて分配することだけだった。
さすがに無条件でゆっくり暮らせるわけではなかったが、外敵のいない餌集めはゆっくりたちにとって、気楽な遊びの延長線。
餌集めの間は疲れた草原でお昼寝することも、姉ゆっくりと妹ゆっくりで追いかけっこして遊ぶことも自由。案内役でついてきた
ゆっくりちぇんも何も急き立てることなく、にこにこ満面の笑みではしゃぐ子供たちを見ている。
看病の甲斐あって体調が復活した親まりさは、昔の巣穴にいた頃はとてもさせてあげられなかった娘のゆっくりぶりを、心の髄から
堪能する。
「もう一度、娘たちがゆっぐりでぎで、うれじいいい」
思い浮かべるのは、自分の怠慢で助けることができなかった娘たちの姿か、じんわりと涙を浮かべる。
「わかる、わかるよー!」
母まりさにも、ちぇんはやさしい。
そのまま、和やかな餌集めが終了しようとしてときだった。
妹まりさが跳ねながら何かを追いかけ始めた。
「ばったさん、ゆっくり待ってね! 小腹の空いたまりさのために、ゆっくりしてね!」
いいながら、大きなばったを丸呑みにしようとしたする。
途端に、ここまで静観していたゆっくりちぇんが動き出した。
母まりさの頬にふわりと風が舞ったかと思うと、妹ゆっくりの前に躍り出るゆっくりちぇん。
「ゆ!?」
突然の出現に、驚き慌てふためく妹まりさ。
だが、その勢いに反してちぇんの顔は相変わらずの笑顔。その表情に少しほっとする妹まりさに、ちぇんは苦笑まじりに話しかける。
「お腹すいたのはわかるよー! でも、取ったものは全部みんなのところに持っていってね! 自分だけまんぷくで、びょうきで
動けない別のゆっくりが食べられないと、困るよね!」
正直、ちぇんがわかるよ以外の言葉を話すのを初めて聞いて、驚愕する母と姉。
しかも、なにやら言われてみればその通りだった。
その間にバッタが逃げていき、妹ゆっくりの顔には残念そうな涎が一筋。
でも、母と姉は何も言わない。きっと、ちぇんは大切なことを教えてくれたんだ。何より、満面の笑みが善意を裏付けている。
「わかったよ!」
「わかってくれて嬉しいよー!」
あくまでも和やかな微笑み村の一幕だった。
そうして集められた食料は、村の中央付近、広場のようなスペースに集められていた。
「たくさんあるよ!」
妹ゆっくりの歓声が示すとおり、うずたかく詰まれた食料はかなりのもの。
ここに集う70匹ほどのゆっくり全員に十分いきわたる量だった。
姉ゆっくりまりさも思わず生唾を飲み込む。
「全員集まったね! 食事のじかんだよ!」
まりさ一家が最後のゆっくりだったのだろう。各々、集めてきた餌を食料の山に吐き出すなり、最古参のゆっくりアリスが声をあげた。
妹まりさがキラキラと輝く瞳で顔を上げる。
「ゆっくりいただきまーす!」
にこやかに宣言。
そのまま餌の山に頭をつっこんで飲み込もうとするが、かみ締めた歯は空をきって自分の歯をかちりと鳴らす。
「ゆゆーっ!?」
食事を邪魔された苛立ちをこめて見回すと、後ろからゆっくりちぇんがその髪をかみしめて下がっていく。妹まりさの小さめの体は
抗うこともできず、引かれるがままに餌から遠ざかっていった。
その様子に、後に続こうとしていたまりさ母子の動きも止まっている。
ゆっくりちぇんに十分に引き離されてようやく開放された。
「ゆゆっ! どうじで、まりさがご飯食べるの邪魔するのおおおおお!」
食欲が絡むと必要以上に怒気が刺激される。
そのものすごい剣幕に、しかし微笑みの村先住者たちはにこやかな微笑みを向けていた。
「だめだよ、最初はアリスの番なんだよ! わかってよー!」
ちぇんの言葉に振り向くと、餌の小山にゆっくりアリス20匹がまとわりつくように食い漁っていた。
50匹を越える他のゆっくりたちは、みんな笑顔でゆっくりアリスの食いっぷりを見守っている。
そんな有様を見せ付けられては、腹を空かせて戻ってきたゆっくりまりさたちはたまらない。
「まりさも一緒に食べるね!」
様子を伺う母と姉が止める間もなく、妹まりさはちぇんお静止を振り切って食料へ向かう。
「ゆぐーっ!」
だが、すぐに戻ってきた。目の前に立ちふさがった成人れいむの体によって。
勢いをつけすぎて、ぎゅうとのびる妹まりさ。
慌てて姉と母がかけより、母の介抱にも白目をむいて悶絶していた。
ここまでやらなくてもいいのにと、姉まりさの心に怒りの炎が燃え上がる。すぐさま、立ちはだかるゆっくりれいむに食って掛かる。
「妹にひどいことしないでね! ゆっくり反省し……あれ、れーむ?」
が、その勢いも相手の顔を見るなり、驚きにまぎれた。
それは、ご近所に住んでいたゆっくりれいむ一家のお母さん。まりさ一家よりも先にこの村を目指して旅立ったれいむたちだった。
あの苦難の道のりを無事乗り切った顔見知りに、怒りも忘れてぱくぱくと言葉を失う姉まりさ。
続いて、母まりさが旧友の姿に気づく。
「れーむ、会えてうれじいよ! でも、まりさの子供にひどいことをしたのは謝ってね!」
感激と怒りと、忙しく変わる母まりさの表情。一方、ゆっくりれいむたちのにこやかな笑顔は揺ぎ無い。
「ごめんね、まりさ。でも、アリスが食べているから邪魔をしちゃだめだよ!」
言いながら、アリスたちが食料をむさぼる様子を目じりを下げて見つめるれいむ。
その視線を受けて、最古参のアリスだけが申し訳なさそうに、控えめに自分の量を確保して下がっていく。
他のゆっくりアリスは生存に必要な量を超えて食事にむしゃぶりついて止まる様子もない。
「どうしてええ!?」
妹まりさが、まりさ一家に浮かんだ疑問を叫ぶと、母れいむはとろんとした笑顔を返す。
「だってえ、一生懸命食べているアリスは可愛いからね!」
まったくもって、理解できない理由だった。
特に姉まりさは、この母れいむから「アリスみたいなゆっくりできない子には、絶対近づいたらだめ」と忠告を受けたことがある。
この村に来て、宗旨を180度変えたのだろうか。
確かに今朝会った最古参のアリスは控えめで優しく、まりさの先入観の誤りを正してくれた。でも、それだけでそこまで心酔できるものだろうか。
何よりゆっくりれいむの頬がこけているのが気にかかる。
あの持ちきれない程食べ物を溜め込んでいた食いしん坊のゆっくりれいむが、よく我慢できるものだ。
「ゆっくりごちそうさましたよ!」
そんな姉まりさの疑問を中止させたのは、ゆっくりアリスたちの声。
ぱんぱんに全身が膨れ上がるほど食事をとったゆっくりアリスたち。
あれほどの食料の山が崩され、散らばる食料は50匹のゆっくりたちには物足りないが、あそこから確保するしかないのだろうか。
「それじゃあ、みんな。ゆっくり食べてね!」
アリスのうち、一匹の声が合図だった。
一斉にぴょんぴょんと食料に群がるゆっくりたち。
母まりさと姉まりさも駆け寄るが、ゆっくりたちの表情は相変わらずの笑顔。
和気藹々と分け合うのかと姉ゆっくりが暢気にかけよろうとしたとき、視界がぐるんと回った。
「ゆっくりしないでね!」
満面の笑顔のゆっくりれいむの体当たりに、吹き飛ばされていた。
ちらりと、吹き飛ばした姉まりさを横目でみて、一瞬すまなそうな表情を浮かべかける成年れいむ。だが、すぐにぶるんと身を
震わせて何事もなかったかのような満面の笑み。
何がなんだかわからないうちに、ごろごろとと転がって餌に群がるゆっくりみょんの元へ。
どすんと振動とともにようやく止まると、くるりと振り向いたのは寛容な笑顔。
「邪魔すると、ちーんぽ!」
全力で弾き飛ばされた。
「まりざのこどもに乱暴じないでえええええ!」
自らは家族の食料を確保するために、その体格を生かして押し合いへしあいしている母まりさの悲しげな声が響く。
もとより、笑顔の先住民の目的は食料の確保。
誰も追撃するものはいなかったが、姉ゆっくりはショックと恐怖でゆっくりたちの輪に入ることはできない。
そのまま震えていると、鬼気迫る生存をかけたバーゲンセールから親ゆっくりたちが疲れた足取りで這い出してきた。
餡を垂れ流しなら、ふらふらとその親ゆっくりの子供の元へ。今にも倒れそうなようすだが、やはりその顔は笑顔。
「おがあざあああああん!」
半泣きの声で心配そうな言葉で駆け寄る、その親ゆっくりの子供たちも笑顔。
これは、なに?
姉まりさは妹まりさの傍に寄り添いながら、心に芽生えた途方もない違和感を飲み込もうと沈黙を守っていた。
そんなまりさに声をかけてきたのは、先ほど妹を吹き飛ばした顔見知りのゆっくりれいむ。かけよる一匹きりの子供に餌を与えながら、
その変わらぬ微笑を向けてくる。
「だいじょうぶだよ! 慣れればすこく天国なんだよ、ここは! アリスたちも幸せそうだし!」
姉まりさに疑問が浮かぶ。アリスの幸せが、自分たちの幸せにどう関係があるの、と。
だが、陶酔しきったその顔を見て、姉まりさは何も言うことができなかった。
(4.ゆっくり脱走してね!)
「おなが、ずいだよおおおお!」
妹ゆっくりの鳴き声がアリスから間借りした部屋に響く。
不慣れな餌争奪戦で、ろくな戦果を挙げられなかった母ゆっくり。
かろうじて口に含んだアリスの残飯を家族でわけてみたものの、腹が膨れるには到底及ばない。
かえって、半端に口にいれたことでますますの食欲を刺激されただけだった。
姉ゆっくりも空腹に目が回りそうだったが、母の奮戦を間近に見て体験した身だけに文句は言えない。
ただ、黙って時間が過ぎ去って朝食になるのを待っていた。
到底、微笑みの村と言い難いまりさ一家の様子。
母まりさは、あと少し我慢してゆっくり姉妹が大きくなれば、楽になるかもと考えていたが、その発想にげんなりする。
そんなゆっくりできないことをするために、この村にきたわけではない。
「はやく、まりさの順番がこないかなー」
不満を口にしていた妹まりさが、ぽつりともらした一言。
「順番?」
何のことだろうと姉が聞くと、妹はキラキラした目で応じる。
「今日はアリスの順番だから、いつかきっとまりさの順番がくるんだよ!」
なるほどと、姉まりさと母まりさの目に一瞬輝いた希望。
「まりさ、ごめんね。そういうのはないの」
だが、すぐさま家主によって消火されてしまった。
振り向けば、心底気の毒そうな表情で最古参ありすが近づいてくる。
残念な事実だが、姉まりさにはありすが笑顔でないことでなぜかほっとしていた。
「一度、みんなに日ごとに変えようと提案したことがあるのだけど……ありすだけでなく、全員に反対されて」
そのときの様子を想像したのかしゅんとなるアリス。
最古参とはいえ、意見を押し通せる立場ではないのだろう。
だが、ありすのみならず、全種からの反対というのが姉まりさにわからない。
「その代わりに、これ……最初は食べられないと思ったから」
言いながら吐き出された食料は、アリスが自分用に確保したと思っていたあのときの残り。
不信感が芽生えつつあったまりさ一家。だが、その気遣いは単純に嬉しい。
喜ぶ妹ゆっくりの顔を見て、母まりさの顔にも自然な笑みがこぼれる。
「ありすが、優しくしてくれてうれじい!」
そのまま、頬をこすりつけて親愛をあらわすと、アリスはやはり気恥ずかしそうな表情を浮かべながら、優しげな眼差しをまりさ一家に向けていた。
翌朝、再びの餌集めが始まる。
集めたところでほとんどがアリスの腹に収まることは知っているだけに、一家の士気は上がらないが案内役のゆっくりちぇんは笑顔で
「今日もも頑張るんだね! わかるよー!」と、寝ぼけ眼の妹ゆっくりを無理やり揺り起こす。
なんとなく、ちぇんの笑顔に居心地の悪さを感じ始めた姉ゆっくり。疲労のためか、全身が気だるさに包まれている。
一度案内してもらったのに、なぜ今日も案内役がつくのか、疑問が募っていく。
その疑問が確信に変わったのは、揃ったまりさ一家にかけた、ちぇんの笑顔の号令。
「ご飯を昨日と同じぐらいか、もっと集めようね!」
間違いなく、監視役だった。
母も気づいたようで、疲れた笑いを返す。妹だけが「ゆっくりー!」と気合の声をかけて先頭きって森の奥へ。
そして、唐突に立ち止まる。
「おばさんたち、何しているの!?」
妹ゆっくりが見つめる先から、荒い息遣いが聞こえてくる。
その視線を追って、母と姉は凍りついた。
「ありすうう、かわいいよおおおお」
「れ、れーむったら、もう……」
最古参ではない通常のアリスに、一匹のれいむがまとわりついている。
体をこすりあわせて、上気した顔でアリスの全身を舌で愛撫するそのだらしない顔は、顔見知りのお母さん霊夢のものだった。
「ゆー! はしたないから、隠れてしてね!」
慌ててその体で姉まりさと妹まりさの視線を遮りながら、注意するまりさ。
交尾にいたる姿を誰かに見られるのを、たいていのゆっくりたちは非常に恥ずかしがり、罪悪感を覚える。
交尾中ともなるともう止められないだけに、事前に他のゆっくりを遠ざけたり、森の木陰に隠れたりするのが一般的。
特に子供に悪影響を与えて、真似事をされてはたまらない。
アリスに誘われたのだろうか。それにしても、その程度の分別はあるだろうにと、母まりさは呆れ顔。
すると、母れいむに愛撫されていたアリスがすっと身を話す。
「そ、そうだよ、れーむ。気持ちよかったけど、みんな見ているからやめようね!」
発情していないゆっくりアリスの当然の反応。
一方、名残惜しそうな母れいむに、思わぬ援軍が入る。
「お母さん、ありすをきちんと気持ちよくさせてあげてね!」
母れいむの連れてきた娘だった。
満面の笑顔で一部始終を見て、母親の性交にエールを送っている愛娘。
そのことに、呆れをとおりこしてまりさ一家におぞけが走っていた。
「ゆ! そうだよ、れーむは大好きなアリスに気持ちよくなってほしいの! だから場所を移そ♪」
「れーむったらあ……」
はしゃぎながら森の奥へ消えていく三匹の後姿。
かつてご近所であり、困難を共に乗り切ったその知人の変貌をぶりを見届けて、母まりさは覚悟を決めた。
今日の夜、ここから去ろう、と。
その日もろくに食事を手に入れることはできなかった。
争奪戦において相手が場慣れをしていることもあるが、何より相手の笑顔の攻撃が怖くて、踏み込むことができないまりさ一家。
今日も最古参アリスのおいていった食料で糊口をしのぎ、脱走のための体力を養う。
村から去る提案について、あれだけの大移動をした後だけに妹ゆっくりは少しぐずってはいたが、姉ゆっくりが強く賛成して
妹ゆっくりを説得してくれた。
今では一致した意思を持つまりさ一家。
問題は、空から連れてこられたために外に通じる道がわからないこと。
その問題は、昼間に聞いた「わからないことは人に聞く」というちぇんの言葉を実践した妹まりさによって解決した。
「ねえ、アリス。この村って外に出る道があるの?」
直球過ぎるその言葉を聞いて、少し驚いたようなアリスの顔。
だが、すぐに苦笑を浮かべて小さく頷く。
「村を流れる川を下流に沿っていけば、木を倒した橋があるの。橋を渡ればもう村の外。でも、気をつけて。そこは村のれみりゃが
見回っていないところだから、お母さんとお姉さんの言うことを聞いて、慎重に進むのよ」
求めている以上の情報と、気遣いをもらって、まりさ一家の支度はますます万全となった。
寝静まる深夜を待って、行動を開始するまりさ一家。
「すうーすうー、気をつけてー、すうー」
寝入っているはずのアリスの激励を背に夜の闇へと飛び出す。
夜空にはくっきりと浮かぶ半円のお月様。
ほのかな月明かりに目を凝らして、ゆっくり一家は移動を開始した。
そのまま、川のせせらぎの音を探して歩くと、涼やかな流れと川の音に出くわす。
落ちないように川べりを慎重に歩く。
しかし、さすがは村の中。外であれば夜行性の獣の、光る目に怯えながら立ちすくむしかない闇も、単なる見えづらいだけの障害でしかない。
思えば、外敵に襲われないだけでも、有り余る幸福な世界だったのかもしれなかった。
「お母さん、急ごう!」
心にわきあがるその未練を、姉まりさの声がやんわりと断ち切る。
そうだった。
母まりさの願いは、子供たちが心の底からゆっくりできる場所。
少なくとも、それはここではなかった。
子供のためと、川沿いにひたすら下っていくまりさ一家。
やがて、月明かりに照らされた橋が見えてくる。
「もう一息だね!」
母まりさの明るい声。あの村から離れたことでなぜか急速に心が軽くなっていく。
「うん、ゆっくり急ごうね!」
出る前は渋っていた妹まりさの返事も朗らかだった。
だが、姉まりさの返事はない。
「ゆ?」
代わりに、闇の中で戸惑ったような姉まりさの呟き。
どうしたんだろうと母まりさが覗き込むが、暗がりに表情が沈み、うかがい知ることができない。
「とりあえず、行こうよ!」
妹まりさが不思議そうに急かすと、姉まりさは思い切ったように口を開いた。
「ゆー……やっぱり、アリスのところに戻ろうよ」
母まりさはあっけに取られていた。
一番強硬に主張していた姉まりさの翻意。
「どうしで……もどるの?」
帽子とか、何かとんでもない忘れ物をしているのだろうかと確認するが、暗がりの中でも姉まりさから譲り受けた黒い帽子が
しっかりと頭におさまっている。
姉まりさはぼそぼそと呟いていた。
「……戻ったほうがいいよって、話しかけられているの」
沈黙の幕が下りた。
この場にはやはり自分と妹まりさと姉まりさ、三匹しかいない。
「誰が、何を、言っているの? 進まないと、だめだよね」
母まりさが悪寒を押しつぶして、たどたどしく尋ねると姉まりさは淡々と語り続ける。
「うん、頭ではさっきから走り出したいぐらいなの。でもね、さっきからずっと話しかけられているの」
妹まりさがそっと、姉まりさから離れて母まりさに寄り添う。
伝わってくるその震え。
「はやぐ、いごうよおおおおお!!!」
母親の渾身の絶叫は、しかし無視された。
「ごめん、戻るよおかあさん。そうしないと、だめなの」
くるりと振り向くなり、躊躇なくかけだす姉まりさ。
一直線に村の入り口へと。
「おがあざん、おねえぢゃんっがあああああ!」
妹まりさの悲鳴が聞こえるまで、一瞬氷ついていた母まりさ。
ほんのわずかにこのまま進むという選択肢が頭をよぎるが、これ以上誰も失いたくない、そのために生き抜いてきたまりさ一家。
二匹はわき目もふらず、異様な速度で戻っていく姉まりさの背を、必死の形相でおいかけていった。
最終更新:2022年05月03日 18:11