中編より



戻っていくと、まりさの走る姿を見つけてほっと胸を撫で下ろした。
だがよくその姿を見て、慌ててまりさの方に駆け寄っていった。
まりさは道しるべの置石を完全に無視してあさっての方向へと全力疾走していた。

なんとかまりさに先回りして、何度か声をかけた。
しかし一向にまりさは返事をせずに直走っている。
「ばか!こっちよいなかもの!!」
お互いに見える場所まで来てもこちらに気付かないで走り去ろうとするまりさの髪を引っ張って無理やり止まらせる。
心が痛むが、混乱している相手にはこのくらいで丁度いい。
「!?……ゅひぃー、……ひっゅっぃ……」

「にげるときはおきいしをめじるしにっていったでしょ!?
いまぜんぜんちがうほうににげてたじゃないの!!
なんでちゃんとめじるしをみながらあるかないの?ばかなの?しぬの?
いつまでもぴくにっくきぶんでいるんじゃないわよこのごみくず!!」
流石に命に関わる大きなミスにありすも声を荒げた。

「うぇ……ぁっひぃ……ゅぅ……おげぇうげぇぁぇろぉ……!」
まりさは息切れしながら涙と鼻水とよだれを顔から垂れ流して
さらには吐瀉までし始めた
「……!?な、なにしてるのよこれだからいなかものは……!」
これはまずいと思ってありすは慌てて背中を擦り始めた。

それから数分の間、ありすがまりさを擦っていてやると
やっとまりさは落ち着いてくれてありすはほっと胸を撫で下ろした。
「ここは……だいじょうぶ、なの……?」
意識の落ち着いてきたまりさはそう尋ねてきた。
「しらないわよ、まあさっきよりはましなんじゃない?
どちらにせよすこしやすまないと」
そもそもこの永夜緩居に安全な場所などあるのだろうかと疑問符を浮かべつつ
ありすはそう答えるしかなかった。
とにかく今は襲われないことを祈るしかない。
不安で表情が強張るのを自覚して落ち着かない。
しかしまりさも、そして自分自身も少しでも休ませたかった。
今の疲れきった体でのろのろ移動していては逆に狙い撃ちだろう。
とにかく少しでもここで休息をとろうとありすは考えた。
「あ、そうだ
さっきのふくろもってる?」
ありすはまりさがみょんから薬草を入れた袋を渡されていたなと思い出してまりさに尋ねた。
「ゆ……?あ、うん、えーっと、あるよ」
まりさは帽子の中から袋を取り出してそれをありすに渡してくれた。
ありすは、その中から一枚、見覚えのある葉っぱを取り出して傷口に貼り付けた。
多分、殺菌効果のある葉っぱだと聞いたような覚えがある。
「……それであってるの?」
心配して聞いてくれたまりさを安心させるよう、ありすは落ち着いた口調で話した。

「たぶんね、まえにたようなはっぱさんをおいぼれのゆっくりが
きずぐすりっていってるのみたことあるから
なにかきずぐちにはるだけでもだいぶらくになるし
あ、これもたぶんきずぐすりだからあしにぬっときなさい」
正直、これが薬の入った袋と分かってい無ければ
確かな知識のあるものに判別させてからでは無いなら絶対に使わない。
こんなうろ覚えな知識で治療などしたくなかった。
それでも虚勢で自分を言いくるめて不安を吹き飛ばすように
辛うじて知っている知識を総動員して傷薬を選んでまりさに渡した。
まだ頬の傷口は熱を持ってジンジンしたが、それでも気分的には大分楽になったとありすは感じた。

「これからどうしよう……」
まりさの呟きに、ありすは考えるまでも無いと思いながら答えた。
「にげるのよこんないなか、とうぜんでしょ?
きずのてあてもおわったしもうちょっとしたらすすむわよ」
「え、でもみょんがまだ」
まりさは大事なおもちゃを取り上げられた子どもみたいに泣きそうな顔をしながら言った。
ありすはその子どもっぽさを愛らしく思いつつも
今はそんな猶予は無いことを自覚して厳しい現実を突きつけてしまうのを覚悟で告げた。

「もうしんでるにきまってるじゃない」

まりさの表情は、まるで熟れ過ぎて地面に落ちてつぶれた果実をそのまま凍らせたみたいに
ピクリとも動かず、そしてとても痛々しくて
ありすは自分は取り返しのつかないことを言ってしまったのではないかと後悔して思わず目をそむけてしまった。
優しすぎるまりさには、やはり身近な人が死んでしまったなんて事実を告げるのはまずかったか
それが例えまりさを怯えさせたあのいけ好かないみょんのことであっても。
硬直していたまりさが、何かを言おうと息を吸い込む音がした時
遠くの方から場の空気にそぐわない素っ頓狂でマヌケな声が聞こえてきた。

「おーい、だいじょうぶかみょーん」
みょんだった。
「……あら、いきてたみたいね
ざんねん」
ありすは正直言ってほっと胸を撫で下ろした。
いけ好かない奴なのだが、さっきのことがあったし生きていればきっとまりさは喜ぶだろう。
それにやはりこの危険な永夜緩居から脱出するにはこのいけ好かないゴロツキの様な荒事が得意なみょんは頼りになる。



その後、怪我をしたみょんの要求どおりに薬袋を渡すと、舌を使って器用に傷口に薬を塗り始めた。
「みょーん、だいぶやられたみょん」
「じごうじとくよ」
傷薬を塗りつつ自分の怪我の様子を見ながらみょんはそう呟いた。
ありすは憎まれ口を叩きつつも、怪我の程度は酷くは無くみょんが元気そうなのを見てほっとした。
こいつが健在ならそれだけまりさやありすが助かる確率は高くなるのだ。

「まったくだみょん」
まったく堪えてない様子で笑い出したみょんに対して
ありすはふん、とそっぽを向いた。
「あ、そうだありす」
「なによ?」
「これむすんでほしいみょん」
そう言ってみょんは紐を結びつけた木剣をありすに舌で渡した。
別に千切れたわけではなく単に体から外れただけらしい。

「みじたくぐらいじぶんでやりなさいよいなかもの」
ありすは不快そうに眉を顰めて呆れながら言った。
「じぶんでやるとなんかゆるくなるんだみょん」
しょんぼりと困ったようにみょんが言う。
「しらないわよじゃあずっとおくちくわえてればいいじゃない!?」
いい加減痺れを切らしたありすが怒鳴り散らした。
「べろがつかれるみょん」
めげずに、いや表情的には大分めげているのだが懲りずにみょんはありすに懇願した。
「ゆ、それじゃまりさがむすぶよ」
まりさが久々に明るい表情を浮かべながら申し出た。
「みょん、たすかるみょん」
みょんはありがたそうにまりさに木剣を手渡した。
その光景はなんだか癪だったが、まりさが笑顔で何かする気力が湧いているならそれでいいか、と自分を納得させてありすは嘆息した。


「で、どうするかみょん?」
身支度も終わり、すこし挑戦的に笑うみょんに対して
ありすは観念して溜息をついて言った。
「わかったわよかえるかえるおうちかえります
くそっ!だましたのねゆかりんめ!」
最後は怒りで顔を歪めつつ言った。
いい加減夢見ていた永夜緩居での生活を頭の中からドブに捨てる。
「みょんにもまあわるいことしたわね、しつこいくらいちゅうこくしてたのにきかなくて!」
ヤケクソ気味にありすはみょんに言った。
「べつにいいみょん、こっちのがおもしろいしもとからひとりでもくるつもりだったみょん」
私たちを皆殺しにしてでしょうが、と内心毒づくが今更まりさにみょんを怖がらせてチームワークが崩れてしまうのもあほらしい。
必死に胸のうちにとどめた。
「ふん、このいなかもののものずきが」
「ものずきはよくいわれるみょん」

辛うじて三匹の瓦解だけは防いで
三匹は置石を目印に永夜緩居脱出に向けて歩んでいった。




「ゆびいいいいいいいいいいいい!!!」
「どぼぢでどがいばのありずがごんなべにいいいいい!!!」
「いいからだまってはしるみょん」
それから、ありすが多少順調に進んでいると思った次の瞬間には
三匹はイナゴの大群に追われていた。
何故こんな場所にイナゴの大群がと思いつつも
そんな常識ここでは通じないのだと腹立たしくも認めてひたすら走る。
あんな奴等に捕まったら、跡形も残さずに食い尽くされる。
今度こそまりさのことを離さないようにまりさの髪をしっかりと咥えてありすは走った。
多少ありすのスピードは遅くなるが、それでまりさと一緒に死んでしまうのなら本望だと思った。



ありす一人で生き残る未来はいらない、ありすとまりさの二人が生き残れる方法をありすは考え続けていた。

最悪、どちらも死んでしまうかもしれないがありすだけが遺される未来はごめんだった。
嘲るように口元を歪めて、そんなことも頭の隅に置いた。



「あがっえうあおううううううう!!!」
とりあえずみょんにわかってるわよ、と返事をしつつ
ありすは生き残るためにがむしゃらに走った。
「あ、やっぱとまるみょん」
その時みょんが場違いなことを言った。
止まったら追いつかれるだろう。
「ゆ?」
「ゆゆ?」
何をほざいていると言おうとした次の瞬間
ありすはすぐ目の前に潜んでいた崖と見間違いそうな急な下り坂にダイブしてゴロゴロと転がっていった。


「ゆったぁ~」
全身から痛みを訴えてくる肉体に返事しつつ
ありすはうまく働かない頭のギアを少しずつ上げていった。
辺りを見回し、自分の状態を確認し、とりあえずそこには問題が無いことを確認してから
重大な問題に気付いて愕然とした。
「ま゛り゛ざああああああああああああああああああああああああ!?」

あれだけもう離さないと誓ったのに、と心中で呻いて
ありすは苦虫を噛み潰したような顔をして自分の迂闊さに歯噛みした。
辺りを探すが、どこにもまりさは見当たらなかった。
すぐに探しに行こうと、擦り傷だらけの体に鞭打って走り出そうとして
ありすは、どんどん大きくなるけたたましい羽音に気付いて身を翻した。
木々のごとく土色の光沢を放つ何かが素早くありすのすぐ傍を疾駆して
葉っぱを貼っているほうとは逆の頬を切り裂かれて、たらりと餡子汁が流れた後
文字通り鋭い痛みがありすを襲った。

「か、かぶとむしさん!?」
ソイツの正体に驚愕しありすは叫んだ。
角で相手を切り裂く甲虫など聞いたことが無かったが
しかし現実にソイツは居て、ありすに向かって放たれた矢のように一直線に向かってきていた。
「ゆぅ!!」
この永夜緩居でそんなことを疑問に思って反応が遅れたことにありすは自分の失策を恥じた。
横に転がって避けたものの、足の裏を切り裂かれて立っているだけで激痛が走る。
跳ねるたびに痛みで体が強張り思うように動けないで、ありすは着々と追い詰められていった。
「……まりさっ」
祈るように呻いてそして後ろを木に阻まれたありすは観念したように木にもたれかかった。

まっすぐにまっすぐに、愚直なまでにまっすぐにありすに向かってくる。
後少しで、あの角がありすの体に突き刺さるというその瞬間。
「ぶぁ~か」
ありすは痛みに喘ぎ辛そうだった表情を一変させ口許を吊り上げ嘲るような笑みを浮かべて横に跳んだ。
ガチリ、という妙な音を立てて甲虫は一瞬前までありすの居た場所を通過し、トップスピードで木に激突した。
そうして跳ね返って、地べたに落ちて枯れ葉がガサリと音を立てた。
すかさず上から乗って叩き潰してやる。
未だ動けずに地上で痙攣する甲虫の上にありすは飛び乗った。
「まりさ!こいつを!やっつけたら!いますぐ!いくからね!」
二度と飛べないようにぐりぐりと踏みにじった。
これでトドメがさせなければもうおしまいだという自覚があったから念入りに念入りに踏みにじった。
足の下の甲虫が蠍の時と同じような音を立てると思ったが
この甲虫の殻はそれ以上に堅く、殻が割れることはなかった。
それでも、脆い間接部分、甲殻のつなぎ目は折れて砕け
ソイツの体はありすの体の下でバラバラになっていった。
勝利の恍惚が、踏みにじる度に足に走る激痛と

そして接近する羽音の存在を忘れさせた。

「ゆ゛っ!?」
何か堅いものが背中に突き刺さる感覚にありすは喘いだ。
そしてそれが引き抜かれる寒気のするような痛みに
その後やってくるくすぐるような感覚。
ああ、刺されて中の餡子を食べられているんだとありすは悟った。
「ゅ゛ぐがぁ!!」
ソイツを押しつぶすように後ろに向かって倒れこむ。
が、地面に背中が触れた時には既にソイツは空高く飛んで居た。
茶色く光沢のある甲殻に包まれた体。
ああもう一匹いたのかとありすは呻いた。

背中から餡子が染み出していく。
思ったより傷は浅く、その場で絶命するほどの致命傷ではなかったが
気が遠くなるほど痛みで体が動かない。
放っておけば、近いうちに体の中の餡子を失いすぎて絶命するだろうし
その前にこの甲虫に食われるだろう。
ありすは最後を覚悟した。

最後にまりさに助けられなかったこと、あの時髪を離してしまったことを謝りたいと思った。
しかしその時間は残っていそうに無かった。

これでトドメ、と木々枝々の間を飛びかう二匹目の甲虫がありすに向かって直進した。


「みょ――……んっ!!」
バシィ、という激しい音と共に甲虫の体が弾かれた。
「みょ……ん……?」
「だいじょうぶみょんかありす!?」
みょんはこちらを振り返らずに尋ねた。
「ばか……まりさをさきにたすけなさいよ……」
「それだけいえればだいじょぶみょん!」
弾ける様に飛び出してみょんは甲虫にいつもの奇妙な太刀筋で斬りかかった。
ガッシリと角と木剣が火花を散らすのではないかというほど激しくぶつかり合う。

勝負は一進一退にありすの目には見えた。
埒のあかない勝負にケリをつけるために二匹は距離を取り
触れれば割れる薄氷のような一瞬の間の後に
助走をつけ決壊した水門のごとく速く、激しく飛び出した。

バキリ、という音を立てて
細長い土色の何かがクルクルと宙を舞った。
「――みょッ!」
折れたのは、みょんの木剣だった。
みょんは慌ただしく左頬に挿したもう一本の木剣を抜いた。
しかしその太刀筋はまるで剣と共に自信まで折られたかのように生彩を欠いた。
「みょ……みょん……!」
ありすはこのままではまずいと、体を起こし加勢しようとした。
荷物袋に入っている紐付きの石を使えば、牽制くらいは出来るはずである。
しかし体に刻まれた傷はありすの気持ちとは裏腹にその動きを縛り付けた。
「ゆぅ……!」
歯がゆい思いでありすは呻いた。
何か、何か出来ることはないかとその戦いを食い入るように見つめた。

みょんは甲虫の突進を何度も木剣でいなしていたが
防戦一方で新たな攻めへのきっかけが作れずに居るようだった。
あのまま打ち合っていれば、やがてまたさっきと同じように木剣の方が折れる。
まりさのこともあるし時間もかけられない。
何かそのきっかけを作れないかとありすは思案する。
さっきと同じてはどうだと思ってみょんの方を見る。
すると丁度みょんも木を背にして甲虫と向き合っていた。
そのみょんに甲虫が突進していく。
それに合わせてタイミングよくみょんは飛退いた。
ありすはやったかと思って口をきゅっと閉じた。

みょんの饅頭皮に驚愕がぴったりと貼り付けられた。
甲虫はは直前で回頭して障害物の木を避けてみょんの頬を切り裂いていた。
絶望さえ感じさせる苦々しい表情を浮かべてみょんは木剣を構えなおした。


みょんは手も足も出ず、ありすに至ってはもう体を動かすことさえ辛かった。
ここまでか、もっとゆっくりしたかった。
そんな弱気な言葉が脳裏に浮かぶ。

少し気の早い走馬灯がありすの脳裏を過ぎっていく。
優しい両親の笑顔に迎えられてこの世に生まれ出でたこと。
両親との楽しい日々。
ピクニックに行って、自分のことを野犬からかばって食い殺されたこと。
幼いにも関わらず一人で孤独に生きていかなければならず
何度も死ぬような目に遭いながら僅かな狩りの成果で食いつないでいた頃のこと。
そんな荒んだ生活で世の中全てを恨んで周りに当り散らしたこと。
やっと一人でまともに生きていけるようになった頃には
本当に誰も話す相手もおらずに孤独になってしまっていたこと。
それでも周りの誰にも狩りの腕だけは負ける事は無くて
それを心の支えにして周りを見下して自分をなんとか保っていたこと。

そして、まりさに出逢ったこと。
まりさの寝顔に孤独が癒されていくのを感じたこと。
まりさが部屋を綺麗にしてくれて嬉しかったこと。
まりさと初めてすっきりした時天にも昇るような気持ちだったこと。
まりさと必ず生き残ろうと心に誓ったこと。
まりさを今一人で残していること。

記憶の濁流が頭の中で弾けた。
「ゆぐぅぁああああああ!」
ありすは咆えた。

もう一度弾けた記憶のピースを繋ぎ合わせて打開策を考える。
ありすがあの甲虫を倒せたのは障害物を背に相手を衝突させたから。
それはさっき失敗した。
その後はどうしたのだったか。
そうだ、踏み潰そうとしたけど殻が割れなかった。
それでも相手を倒せたのは押しつぶされて殻の繋ぎ目から相手が千切れていったからだ。
繋ぎ目は脆いはずだ。
間違いない。
だがどうやって高速で飛び回る相手に対してそんな繋ぎ目を狙えるのかありすには思いつけない。
思いつけないが、だがみょんは違うかもしれないと思ってありすは叫んだ。
「うちあっちゃだめ!からのつなぎめをねらって!」

「みょ!?」
みょんは打ち合いながら苦々しい困った表情を浮かべた。
そんなこと言われてもどうしようも無いというのが本音だろう。
「からとからのあいだのとこよいなかもの!!」
一応注訳を付け加えてみたもののやはりみょんは眉を顰めて難しい顔をしていた。
みょんはその内意を決したのか構え直すと、大きく構えを開き守りを捨てて飛び掛った。
しかし角度が悪い。
飛び上がった角度は相手から大分ずれている上にその先には木。
あのスピードでは恐らくぶつかるだろう。
さっきありすが甲虫に対してやったことが今度はみょんに起こるのだろうか。
そんな姿を想像して耐え切れずにありすは目を瞑った。

何かが潰れるようなそれまでの木と角の激突とは違う音を聞いてありすは目を開いた。
まずぜぇぜぇと息をするみょんが見える。
体から餡子を流しているのを見てかなり危険な状態ではないかと思われた。

やはり負けたのか、と観念してありすは視線を伏せた。
その視線の先には胴と頭が泣き別れした甲虫の姿があった。

「やった……の」
「かみひとえみょん」
そう言ってみょんはその辺に落ちている葉っぱを自分の傷に貼り付けた。
そして泣き別れした甲虫の頭に目をやって言った。
「あいつ、ぜんしんかたいのかとおもったらほんとにつなぎめはたいしたことないみょんね
はじめてしったみょん」
「……むしさんはだいたいそういうものだとおもうけど?」
「かりとかあんまりしたことないみょん」
「まあなんとなくそうだとはおもってたけど、どうやってごはんたべてたの?」
「おてつだいみょん」
何の手伝いかはゆかりんの下で使いでこんなところに来た時点で何となく想像はついたし聞くまい、とありすは思った。


みょんは木剣を留めるのに使う紐を使って器用にその葉っぱを押さえた。
「ありすもはるみょん」
そしてみょんはありすに近寄ると
緑の綺麗な葉っぱを探しだして、その傷口に貼り付けてどこからか紐を取り出して舌を器用に使って結んで止めた。
多分腰に結んでいる紐の予備だろうとありすは思った。
どうやらかちゅーしゃの下に仕込んでいたらしい。
溜息をつきながら普段から半眼の瞳をさらに半分ほど閉じてありすは言った。
「あなたひもちゃんとむすべるんじゃない
このほらふき」
ありすはみょんが紐をうまく結べないからといって頼んできたことを思い出していた。
「ばれちゃったみょん」
ぺろりと舌を出して下唇に触れさせてからみょんは笑った
ありすはイライラしながらみょんに問いただした。
「なんでありすにひもむすんでなんてたのんだのよ」
「ありすにむすんでほしかったみょん」
馬鹿にされたと思ってむっとしつつ、ありすはそっぽを向いて歩き出した。
「ゆたっ」
背中に走る激痛にありすは思わず喘いだ。
「……っ、ま、まりさ……!」
だが一刻も早くまりさを助けにいかなければならない。
ありすは歯を食いしばり痛みを堪えながら進もうとすると
先を歩いていたみょんが振り慈しみ笑みを浮かべたように見えた。
「そのきずじゃあしでまといだみょん
ありすはさきにおきいしをおいてたみちにまでもどってそこでまってるみょん
みょんがまりさをつれてすぐにおっかけるみょん」
「っ……わかったわ」
ありすは労わる様なことを言われても意地でもまりさの所に行くつもりだったが
面と向かって足手まといと言われては反論できずに渋々とみょんの提案に従った。
みょんの腕なら絶対に大丈夫なはず、と胸の内で繰り返しながら。


「まいごのときはじっとしてなさいっておかあさんいってたのに……まるでこどもよね」
そう一人ごちて自嘲しながらありすはまりさと転げ落ちた坂の方へと向かっていた。
合流するならその辺りでも問題無いだろうし
傷の痛みも多少引いてきたので足手まといにはならないはずだという自負もあった。
何より少しでも早くまりさの無事な姿が見たかった。

草むらを体で掻き分けながら進んでいくと、坂の下の方から
草の合間からでも目立ってよく見えるみょんの銀髪とまりさの金髪がちらりと見えた。
ありすはほっと胸を撫で下ろすと同時に
堪らなくなって口元が緩むと同時に目を潤ませながらまりさに駆け寄っていった。
離れ離れになってしまった時はどうなるかと思った。
ここに来るまで何度も何度もそのことを悔いた。
それがこうやってまた出会えたことでその喜びは一押しだった。
再開したらなんて言おうかとありすは頭をフル回転させて考え始めた。

と、その時ありすはみょんの方に不思議と目が行った。
違和感というか、何か様子がおかしかった。
ちらりちらりと後ろの方を気にしている。
いや、後ろを歩くまりさの方だろうか。
それも違う、そのもう少し後ろだ。
まりさの後ろの草の間から、緑色をした蟷螂が覗き込んでいた。
「ゆ?」
怪訝に思ってありすは眉間に皴を寄せた。
みょんはその様子から間違いなく気づいている。
なのに何故放っているのだろう。
間合いじゃないからだろうか。
それともタイミングが合わないのか。
何故、何故と心の中で繰り返すと共に胸が高鳴り焦りがありすの内に満ちていく。
一歩、また一歩と蟷螂は背後からまりさの方へと近づいてくる。
まだなのか、いつになったらみょんはあの素晴らしい剣の腕前であの蟷螂を一刀の元に両断するのか。

まだかまだかまだか。
ありすはまりさ達に近づきながら、みょんの腕を信頼して声は出さないように我慢した。
早く早くもう蟷螂がまりさのすぐ背後にいる。
もう蟷螂がその鎌を振り上げた。
みょんはいつになったら剣を抜くのか。
今もちらちらと蟷螂の方を見るだけで何もしない。

ありすは遂にたまらず飛び出した。
他に方法が無くてまりさに向かって体当たりをする。
まりさのいた場所に振り下ろされた鎌がありすの髪に絡まり皮の表面ごと引きちぎった。
「みょっ!」
やっと、みょんが動いた。
遅すぎる。
何故今になって動くのか。
まりさの後ろに蟷螂が現れてから何十というチャンスがみょんにはあったはずだ。
出来ないわけが無い。
それが出来る実力があることをこの永夜緩居の中で嫌というほど見てきた。

なのに何故こんなまりさを見殺しにするようなことをしたのだ。
見殺す、見殺し。
殺す気だったのか。
疑問がぐるぐるとありすの頭を駆け巡る。
どうする、どうすればまりさを守れるだろうか。
ありすはそのことで頭が一杯になった。
直接尋ねるか。
ありすは馬鹿な、と自嘲した。
それではいそうですと言って自分ごとまりさを殺されてしまえば話にならない。
せめて、まりさの安全だけは確保できる方法を考えなくてはならない。
少しの間、それが確認できるまでの間だけでいい、みょんを無力化しなくてはならない。
ありすは思考の迷路を腹をすかしたねずみのように駆け回った。

逸る気持ちを抑えて、みょんのことは頭の片隅に押しやりまりさの方を見た。
「……まりさはぶじみたい、ね」
まりさはありすの体当たりを受けて呆然としながらその場に転がっていた。
まりさに大きな怪我が無いことを確認して思わず歓声でも上げたい気分だったが
気付いたら全力で走っていたので息が切れて掠れるようにそう言うのがやっとだった。


「ああありすのほうからきたみょんね
とりあえずあそこでまっててくれてよかったのにみょん」
みょんが軽い口調でありすの方によってきて話しかけた。


「まりさがしんぱいでね、ところでみょん
そういえばおれいいっていなかったわよね?」
「なんのことみょん?」
「これのことよ」
そう言った瞬間みょんの側頭部を、ありすの振り抜いた縄付きの石が捉え打ち据えていた。

信じられないくらいあっけなく、どさりと音を立ててみょんはその場に倒れこんだ。
「きづかないふりしてまりさをころそうとしたってわけね、みょん?」
違うと言ってくれ、ありすは祈るような気持ちでそう胸中で呻いた。
みょんの力はこの先でも有用だから
ずっとみょんと旅をしてこれたのはそのためだからとありすは思っていたが
最後の最後でこの質問をした時、そしてその時漏らした自分の胸の内の声に気付いた時
意外とこの田舎者なゆっくりを嫌っては居なかったということにありすは気が付いた。

「ははバレちゃったみょんか」
舌を出して悪びれなく言ったみょんに対して湧き上がる思いは寂寥。
思えばありすがこれまで生きてきて深く関わってきたのは両親とまりさ
そして、その次に来るのがこのみょんだろう。

ありすはゴミでも見るみたいに冷たい目で蟲達が追いすがる坂の下へと叩き落した。
あれだけ強かったみょんが、何の抵抗も出来ずにゴロゴロゴロゴロと転がっていった。
結局、ありすにはまりさしか居なかったのだ。

寂しげにそれを認め、力強くまりさの方へと向き直った。
きっと驚いているまりさにちゃんと事情を説明してあげなくてはならない。
「ああまりさ、もうだいじょうぶよ
わるいやつはもういないの」
そう言ってじっとまりさの顔を見た。
もう彼女しか居ないのだ。
その髪も、帽子も、そしてその顔の傷も、心も
その全てが愛しくて仕方がなかった。


「まりさ、ありすは」
そこまで言って、なんだか間抜けな音を聞いて視線を下にやった。
腹に深々とみょんの使っていた木剣のカケラが突き刺さっていた。

「ま……りさ……?」
何が起こったのか理解できずに顔を上げてまりさを見た。
そこには、今まで見たことも無いような怒りに目を歪め歯を食いしばる悪鬼のような表情のまりさが居た。

「よくも……よくもみょんをごろ゛じだな゛ぁ……!!!」
まりさは怒りに震えた声でそう低く獣の様に唸った。
そのことを驚き、ありすは必死に弁明しようと力を振り絞った。

「ちが、ありすは……がっ、ま、まりさを……」
『みょんから助けようと思ってみょんを、全部まりさのために!』

「ちがうっ!……そうじゃないよね……!」

まりさはありすが最後まで言うのを待たずにその言葉を否定した。

ありすははっと目を見開いた。

本当にそうなのか?
自分はまりさのために頑張ってきたんじゃないのか?

死の間際の集中力がありすにそれを振り替えり考えるだけの時間を与えた。
この怒り狂うまりさの表情を見ながらこれまでのまりさとの生活を振り返る。
思えば、うまく行かずに酷いことばかりしてしまっていた。

初めて自分のことを振り返ってみて、なんて独りよがりだったのかと思う。
これまではそれがわからなかった。
全て相手のためだと思ってやってきた。
だがその先の答えを、終点を示された今なら理解できる。

自分はなんとまりさのことを傷つけてきたんだろうと。

今のこれは全てありすが招いたことだ。
それを認めて、ありすはまりさに向かって口を開こうとした。

「ゆ゛あ゛あ゛あ゛ああああああああああああああ!!!」

「……まりっ」
最後にただ一言、まりさに伝えたいというありすの願いは
深々と刺さった折れた木剣が奪い去ってしまった。

怒りと、そして涙でぐちゃぐちゃになったまりさの顔を見ながらありすはどさりと後ろに倒れた。
急所を貫かれた。
もうどうにもならない。
呼吸はもう出来なかった。

『まりさ……

さいごに、これまでのことをごめんなさいってあやまりたかったよ……

もし、たぶん、きっと、まりさが永夜緩居からでられなければ

そこでありすとあって、そこで…………さいてい』




本当にどうしようもない自分の身勝手な願いに心底失望しながらありすの意識は途絶えた。

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最終更新:2022年05月18日 22:48