お互い仕事が忙しくて会うのは夕方近くになってからだった。
私達は模擬店やクラスの出し物をぐるっと見て周り、中庭のベンチに腰を下ろした。
「さっきのチョコバナナ、美味しかったなー」
「また買って来ましょうか?」
「お腹いっぱい。さすがに食べられないよ」
満腹になったお腹を左右にさする。
スカートがきついから明日からダイエットだ。
「どれも美味しかったけど、一番は修二くんのクラスの焼きそばかな。目玉焼きまで乗ってたよね」
「確かに、とても美味しかったです」
「折角修二くんの姿を見に行ったのに。居なくて残念だったな」
「彼が大人しく模擬店の店番をするとは思えません」
「それもそうだね」
女の子に声をかけながら校内で遊び歩いているのだろう。
ジッとできないのが修二くんらしい。
香織ちゃんと隆はまだクラスのお化け屋敷でお化けになりきっているはず。
一郎くんは委員長として放送の仕事をしているに違いない。
秋の乾いた風が緩く吹き木の葉が音を立てる。
オレンジ色の弱い木漏れ日が足元で揺れた。
もう一時間もすればこのお祭りも終わる。
「文化祭、約束通りまわれて良かったね」
「はい。指切りしましたから」
「私からのお願いは全部守ってくれたね。ほんと、ありがとう」
私のお礼の言葉に冬馬先輩は首を振る。
「軟禁中ずっと力の訓練をし続けていたと春樹さんが言っていました。愛菜の頑張りのお陰です」
「最初の記憶しかないんだけどね」
「愛菜が諦めずにいてくれたから、僕も約束を果たす事ができたのです」
私達は元の時間軸に戻ってきた。
もうループする事はないだろう。
チャララ〜♪
その時、私の携帯の着信が鳴った。
着信のディスプレイが春樹になっている。
「もしもし春樹?」
『姉さん、文化祭はどう?』
「楽しいよ。今、冬馬先輩と露店を見てまわってきたんだ」
『食べ過ぎないでよ。姉さんはすぐ調子に乗るから』
「き、気を付けます」
『まぁ楽しそうで良かったよ』
「あのね、春樹。誰も……殺したりしてないよね」
『当たり前だろ。もう生き返らないんだから』
「家には帰ってこられるよね」
『それは当分無理だと思う。まだやり残した事が山ほどあるからね』
「そっか。なるべく早く帰ってきてね」
『分かった。また連絡するよ』
私は通話を終了すると思わずため息を漏らしてしまう。
「春樹さんはどうでしたか?」
「うん。声は元気そうだったよ」
戻って来る直前のループの世界で、春樹は助けに来ないで欲しいと私達に言った。
自分の父や兄のゴタゴタは春樹自身で決着をつけたいそうだ。
時間は元通り動きだし、お義母さんにアップルティーを飲ませ眠らせた所まで戻ってきた。
そして一部始終を神器のみんなに伝えた。
春樹の願いを尊重して研究所には行かず、今日の文化祭も最初から参加することができたのだった。
「心配ですか?」
「こうやって連絡もくれるから大丈夫だよ」
「一人でやりたいというのも春樹さんなりのけじめなのでしょう」
(春樹なりのけじめか……)
私には言わなくちゃいけない事がある。
私自身のけじめだと思って勇気を出して口を開く。
「あのね、冬馬先輩」
「なんでしょうか」
「今の私の力を使えば……冬馬先輩の寿命を伸ばす事もできるよ」
(言ってしまった)
言いたくても言えなかった。
以前のように思慮が足りないと突き放されるのが怖かった。
力を手にした瞬間、一番最初に思ったのは冬馬先輩の延命の事だった。
この力はそのために使うと決めていた。
「力ですか。具体的にはどうやって伸ばすのですか?」
「私の胡蝶の夢を使うんだよ。冬馬先輩が生まれる前まで戻るんだ」
冬馬先輩の身体が短命の原因なら方法はそれしかない。
学校中、お祭りを惜しむような喧騒と熱気が渦巻いている。
でも私達の周りだけは静寂に包まれていた。
冬馬先輩の答えを待つ間、自分の呼吸まで聞こえた気がした。
「やめておきましょう」
冬馬先輩は静かに言った。
穏やかな言い方の中にも決然とした意思を感じる。
「どうして!?」
「この体も僕の一部。僕であるために必要なものですから」
「冬馬先輩であるために必要なもの……」
「僕はこの体で生まれてきた。辛い事の方が多かった気がしますが、便利な事も良かった事も沢山あります」
「………」
「もし胡蝶の夢で普通の体を手にしたとすれば……それはもう僕では無い気がするのです」
「…………」
「命が尽きる瞬間まで僕は僕でありたい。だから、愛菜の提案は受け入れられない」
(そんな)
誰だって死にたくないはずだ。
延命のチャンスがあるなら飛びついて掴みたいと思うに決まってる。
(私への気持ち、もっと強いと思ってた)
今回の件で希望を失いかけても、先輩のために頑張れた。
絶対に失いたくなかった。
でも冬馬先輩は違う。
チャンスがあってもそれを掴みさえしない。
「そう……」
「せっかくの申し出ですが」
「先輩が嫌なら仕方ないよ」
「すみません」
「謝らないで、余計に悲しくなるから」
私は涙がこぼれないように目を伏せる。
目の裏が滲んだように痛み出す。
(泣いちゃだめ。先輩を困らせちゃう)
その時、蓄積された記憶の一部が瞼の裏で甦る。
「この仏教というのは、興味深い教えだな」
帝はしみじみと竹簡を見ながら、呟いている。
「どういった内容なんですか?」
「うーん。色々なことが書いてあるな」
「色々……」
「一言でいうと、心の在り方を説いている……というところだ」
「心の在り方?」
「個である意識の問題かな。たとえば、思うようにならない苦しみがあるだろう?」
「はい」
(災厄に疫病……思うようにならないことばかり)
「なぜ苦しむのか。それは、比べているんだ。思い通りになった自分と。そして嘆く」
「なんとなく……わかります」
「苦しむことも嘆くことも比べる事自体が無意味なんだ。自分自身も原因と結果の一つに過ぎないのだから。その大きな流れの中で自分は生かされている。けれど、自分の行いもまた原因を作り結果を生む。だから、身の丈にあった出来ることを精一杯すればいい。要約すればそんな感じだろうな」
その記憶は目の前からフッと消えた。
(どうしてこの記憶が……)
私は瞼を開く。
「どうされましたか?」
固まっていた私を心配そうに覗き込んでいた。
「ごめん。今……壱与の記憶が不意に出てきたんだよ」
「壱与の記憶ですか?」
「うん。仏教についてお話をしていたよ」
「そうですか。帝は渡来人が持ち込んだ仏教に強く傾倒していましたから」
「冬馬先輩は宗教とかは詳しいの?」
「僕ですか……教科書での知識程度ですし、そもそも興味もないです」
「私も。お経なんてお墓参りとか法事くらいだよ」
私達のような学生は勉強や部活に忙しくてそれどころでは無い。
どっちかというと年配の人の方が熱心というイメージだ。
(でも……この考え方、冬馬先輩そのものなんじゃ……)
冬馬先輩は他人を見下したり羨む事はない。
だから間違った事をしてしまっても絶対に責任転嫁しない。
それは自分の過ちも全て自身で受け入れる。
とても勇気がいることだ。
目の前のことを投げ出したりせず、いつも真剣に取り組んでいた。
ありのままを受け入れて、その中で答えを探す。
冬馬先輩そのままだ。
「身の丈に合ったできる事を精一杯すればいい。そう帝は言っていたよ」
「とてもいい言葉だと思います」
「やっぱり冬馬先輩の心に響くんだ」
「響くかどうかは分かりません。ただ、僕はいつもそう在りたいと思っていたようにも感じます。漠然とですが理想に近いと感じました」
(冬馬先輩と帝はやっぱり同じ魂なんだね)
冬馬先輩の理想と私の願いは交わらない。
悲しいけど仕方ない事だ。
私の願いを押し付けるのはただのエゴだ。
冬馬先輩の命は冬馬先輩のもの。
他人があれこれ指図する事はできない。
「それが冬馬先輩の答えなんだね」
「はい」
「わかった。さっきはごめんね、取り乱して」
「いいえ、大丈夫です」
「じゃあ気を取り直して残りの文化祭を思い切り楽しまなくちゃね!」
(あとたった5年。せめて笑顔でいなくちゃ)
辛かった事が多かった分、楽しい思い出を沢山残してあげたい。
それが私に唯一できる事だ。
「愛菜」
「どうしたの? 冬馬先輩」
「無理して笑わなくてもいいですよ」
冬馬先輩は私をジッと見つめて言う。
その声はいつになく優しい。
「無理なんてしてないよ」
「しています。僕の前では肩の力を抜いてください」
そう言うと、冬馬先輩は私の肩をそっと抱いた。
引き寄せられて、隔てていた空間がゼロになる。
「と、冬馬先輩」
「神にも等しい存在ですが、愛菜は愛菜です。だから、もっと甘えてください」
制服越しからでも先輩の体温が伝わってくる。
どちらともなく手を重ねた。
「冬馬先輩、暖かいね」
「愛菜は僕より冷たいです」
「それは体温が低くなったせいだよ。私、もう人じゃないから」
指先でベンチの周りに遮断の結界を張る。
そして冬馬先輩の薄めの唇にそっと触れた。
「これは印ですか」
冬馬先輩も自身の唇を触って気づいたようだ。
「そうだよ。冬馬先輩が甘えていいって言うからお願いしようと思って」
「この印は……封手ですね」
「私は弱虫だから、きっとまた胡蝶の夢を使いたくなってしまうと思う」
5年後、また先輩に会いたいと願ってしまうだろう。
でもそれは冬馬先輩の意思に反する。
「冬馬先輩に封じてもらいたいんだ」
胡蝶の夢をうまく扱える自信がない。
かといって自分自身で封じてしまうとなると、その勇気も無い。
(違う……)
封じてもらいたいなら別の手段だってある。
こんなのただの言い訳だ。
「私、冬馬先輩にキスしてもらいたい。この方法なら封印してもきっと後悔しないと思うんだ」
「愛菜」
「冬馬先輩、大好き。だから……お願い」
先輩はうなずくと、私の両頬に手を添えた。
「……愛菜、少し震えています」
「初めてだから緊張しちゃってるんだ」
「僕も初めてで……やり方がよくわからないです」
(冬馬先輩も初めてなんだ)
恋愛の経験値は冬馬先輩も私と同じようなものらしい。
肩を抱いたり手を繋いだり自然体でしてくる冬馬先輩。
まるで恋愛の手練のような大胆さだけど、単に人との距離感がわからなくて心のままに言ったり行動しているだけな気もする。
(そういえば恥ずかしいって感情もよく分からないって言ってたっけ)
「もしかして、キスの意味が分からないって事?」
私の言葉で、先輩は頬に触れていた手を離す。
「唇同士の接触だろうと考えていました。違ったでしょうか」
「正解だけど……そういえば以前冬馬先輩とキスについて話したよね。覚えてる?」
「はっきり覚えています。あれは愛菜がまじないにキスが必要なのかと質問をした。だからそれに答えました」
「確か、粘膜が……とか言っていたよね」
「口腔内の歯以外は全て粘膜で覆われています。口と口が触れ合えば少なからず粘膜の接触があるかもしれないと言ったのです」
(どうしよう)
わかってくれてはいる。
冬馬先輩の解釈は間違ってはいないけど、圧倒的に想いが足りない気がする。
だったら方法を変えてみるしかない。
「じゃあ、唇でおまじないするのはどう? だったらやり方も分かるよね」
「契約も唇でするので要領はわかります」
「前回教えてもらったおまじないは生霊に取り憑かれないための魔封じだったよね」
「そうです。ファントムが襲ってきたので愛菜の家族に被害を出さないように教えたのです」
「今の私に魔封じは必要ないから、別のおまじないがいいね」
おまじないは自然現象を利用した術のようなはっきりした効果は出ない。
特に訓練を積んでいなくてもできるのが特徴だ。
約束や祈りに近いかもしれない。
「別のまじないですか」
「冬馬先輩は何を願う? なんでもいいよ」
「何でも……」
「うん。冬馬先輩がこうしたいなって事でいいよ」
冬馬先輩は考えていた。
太陽がもう少しで沈む。
藍色の東の空から夜が訪れ始めている。
しばらくして、うつむいていた顔を上げる。
「僕は……決めました」
「私も決めたよ」
おまじないは叶うまで心の中に留めておくと効果が高い。
せっかく込めた念が言霊に乗せると霧散してしまう事がある。
(私は冬馬先輩の幸せを願おう)
先輩を待つようにゆっくり目を閉じる。
すると両肩にそっと手を添えられる。
そして温もりが遠慮がちに触れる。
『僕の愛しい人が末長く幸せでありますように』
冬馬先輩の切ないまでの想いが私に流れ込んでくる。
この瞬間、胡蝶の夢は使えなくなった。
(大丈夫。冬馬先輩となら絶対に幸せなはずだから)
ありったけの気持ちを込めて、私は冬馬先輩の幸せを願った。
#####
原稿とゲラ刷りを見比べて赤ペンでチェックを入れていく。
最初は本当に未熟で仕事を斡旋してくれるお義母さんや出版社の方々にたくさん迷惑をかけてきた。
出産を期にフリーになり、校正校閲だけで親子が暮らせていけるほどの収入を得ることができるようになった。
専門学校に入ってすぐ適性がないかもと後悔した事もあったけど、子供を抱えての在宅ワークはありがたい事だと度々気付かされる。
(お義母さんには足を向けて寝られないくらい。本当に感謝しかないよ)
「ただいま、母さん」
元気のない声で息子の和馬が帰ってきた。
学校で何か嫌な事でもあったのかもしれない。
「おかえり、冷蔵庫にプリンがあるからね」
声だけかけてまた仕事の続きをしようと鉛筆を持つ。
(少し声に元気がなかったような……)
私は立ち上がって、ダイニングに向かった。
「ねえ、学校で嫌な事でもあった?」
対面の椅子に腰掛けて私は尋ねる。
「別に、いつも通りだけど」
11歳になって色々隠す事が増えてきた。
ほんの少し前までは聞いて聞いてと学校での色々な出来事を喜んで話してくれのに。
成長を感じられる反面、できた距離に戸惑ってしまう事もある。
「いつもより元気がないような気がするんだよね」
「まぁ学校で少しね」
「何があったの?」
「大げさなものじゃないんだ。ただ今日、社会の時間に親の仕事をレポートにする授業をやったんだ。僕はもちろん母さんの仕事をレポートにして提出したよ。でも母親より父親のことを書く友達の方が多くてさ。なんだかなぁて」
食べかけのプリンをスプーンでつついてそのまま置いてしまった。
(好きなプリンを食べ残すなんて、やっぱり落ち込んでる)
「お父さんがいないのは、やっぱり寂しい?」
「小さい時は寂しかったけど、今はあんまり感じないかな。実際、写真でしか見た事ないから」
冬馬先輩は和馬がお腹の中にいる最中に息を引き取った。
だから親子で直接会った事はない。
「そうだよね。写真でみてこの人が父親かって思うしかないもんね」
「本当に寂しいとか悲しい訳じゃないよ。春樹おじさんは色々な所に連れてってくれるしゲームも買ってくれるから好きだし。おじいちゃんとおばあちゃんも家に遊びに行けばお菓子もジュースも食べ放題だしね」
(みんな和馬に甘すぎなんだよね)
チェストの上には写真立てがある。
お腹の大きくなった私とお腹に手を添える冬馬先輩。
先輩の顔は誰が見ても笑顔だ。
「和馬のお父さんね。笑顔を作るのがすごく下手だったんだよ」
「そうなの? あの写真はいつも笑ってるのに?」
和馬は写真立てを眺めて呟く。
普段は日常に追われてなかなか父親について話すこともなかった。
案外、いい機会なのかもしれない。
「出会った頃なんて無表情で何しても笑わないんだよ。くすぐっても平気だったんだって」
「変わってるね」
「確かに変わり者だったかも」
「へんなの。母さんはそんな父さんのどこか良かったの?」
「優しくて強くて、カッコ良いところかな」
「ふーん」
「恋人にして欲しいって告白したのも結婚したいって言ったのも全部お母さんからだった」
当時の出来事に思いを馳せる。
あの頃の私はまだ若くて、とにかくがむしゃらに追いかけていた。
冬馬先輩は情緒が乏しかったり知らない事も多かったけど、精神的には私よりずっと大人だったと思う。
研究施設生まれの冬馬先輩に戸籍が無かった、なんてトラブルもあったけどいまでは良い思い出だ。
「そうだ。ちょっと待ってて」
隣室の和室に向うと小さな仏壇の前に正座する。
静かに目を閉じて手を合わせた。
そして引き出しから細長い封筒を取り出す。
「きっともう分かってくれると思うから、持っていくね」
あの写真立ての写真を撮った日、この封筒を渡された。
子供に渡して欲しいと頼まれたのだ。
(11歳なら読めるし、理解できるよね)
テーブルに戻って、和馬に何も書かれていない真っ白な封筒を手渡す。
「何、これ」
「多分手紙だと思う。大きくなったら子供に渡して欲しいってお父さんから頼まれたの。和馬も高学年だし、もういいかなって」
「父さんからの……」
不意に渡される父親からのメッセージ。
「僕が読んでいいの?」
「もちろん」
和馬は慎重に封筒を開ける。
緊張しているのか、顔がこわばっている。
「怖かったらもう少し大きくなってからでもいいよ」
まだ小学生には早かったかな、と思い声をかけた。
「大丈夫。僕、読んでみたい。父さんがどんな人なのか知りたい」
封筒から便箋が一枚出てくる。
意外と枚数は少ないようだ。
「『和馬へ』って書いてある。すごく綺麗な字だね」
「ものすごく記憶力がいい人だったから綺麗な字を模倣して書いたんだと思うよ。普段の字はあんまり上手じゃなかったから」
「どういう事?」
「見たもの、聞いたものを簡単に記憶できたみたい。すごいよね」
「本当に?」
「うん。お母さんも最初は驚いたもの」
「それ、完全なチートじゃない。なんで僕は父さんに似なかったのかな」
「ごめんね。平凡なお母さんに似ちゃったね」
冬馬先輩の特殊な身体の事はずっと言わないつもりだ。
実際、和馬は小学生の頃の私より断然優秀だった。
運動も勉強も苦労しているのを見たことがない。
父親がいなくても周りが大切にしてくれるから真っ直ぐ素直に育っている。
もしも冬馬先輩が普通の環境で育っていたら、和馬のように明るく誰からも愛される子供だったのかもしれない。
和馬は便箋を開いて、静かに読み始めた。
黒目が横にスライドして、それが左右に動いている。
真剣に読んでいる様子がこちらにも伝わってきた。
「読んだよ」
「どうだった?」
「和馬って名前、父さんがつけたんだね」
「そうだよ。お腹のエコーで男の子って分かったから。お父さんの冬馬の馬っていう字。それを一文字入れたかったんだって」
親の文字を入れると親より出世できないと言われたりするけど、冬馬先輩はせめて自分の一文字を子供の名前として刻んでおきたかったのだろう。
「最後にお母さんをよろしく頼みますって書いてあった。すごいドラマみたいな感じかと思ったけど、案外、普通だった」
和馬は読んだ便箋を封筒にもどそうした所で「あっ」と声を出した。
「まだ便箋が入ってる。『愛菜へ』だって。母さん、愛菜って呼び捨てにされてたんだね」
父と母のプライベートを始めて覗き見たのが嬉しかったのか、和馬はニヤニヤと冷やかすようにこちらを見た。
「うるさいなぁ。いいでしょ、別に」
「耳まで赤くなってるし」
「少しだまっていなさい。お母さんはこれから大切なお手紙を読むんだから」
母の威厳を使って無理矢理息子を黙らせる。
便箋に書いてある『愛菜へ』の文字を指でなぞる。
それだけで胸が一杯になってしまいそうだ。
「母さんのそんな嬉しそうな顔、始めて見たよ。本当に父さんが好きだったんだね」
「だった、じゃないよ。今も大好きだから」
「大好きね。まさか僕より……とか言わないよね」
和馬は遠慮がちに上目遣いで尋ねてきた。
身長も私に近づく勢いだけど、まだまだ幼さも残っている。
「どっちも一番だから比べられないよ。お母さんは欲張りだからね」
「なんかそれ、ズルくない?」
「ズルくて結構です。ところで、これ別の部屋で読んできてもいい?」
「いいよ。僕、プリン食べてからここで宿題やってるね」
和馬は残したプリンを勢いよく食べ出す。
冬馬先輩からの手紙のおかげで父親の姿を再確認できたようだ。
普通だったなんて言っていたけど、嬉しかったに違いない。
憂いが晴れて食欲が出てきたのだろう。
私は和馬を残して和室に移動する。
後ろ手でふすまを閉めると、ふぅと息をついた。
(まさか私にまで手紙を残してくれていたなんて思いもしなかった)
「愛菜へ……か」
11年ぶりに名前を読んでもらえた、その喜びを噛み締める。
私は深呼吸すると、便箋をそっと広げた。
『親愛なる愛菜へ
この手紙を読んでいる頃、もう僕はこの世には居ないと思います。
いくつか死ぬ前に伝えなければならないので筆を執りました。
まず愛菜のご両親には感謝しかありません。
愛菜のご両親には就職するつもりだった僕に大学に行く事を勧めてもらい、大学院の費用まで援助して頂きました。
お陰で恩師や友人、沢山の素晴らしい人達に出会うことができました。
愛菜にはその感謝の意をぜひご両親に伝えてもらいたいのです。
よろしくお願いします。
それに関わる事ですが、高校の文化祭で3年の有志でデリバリーをした時のリーダーを務めていた男を愛菜は覚えているでしょうか。
名前は友山と言うのですが、偶然にも大学も研究室も同じになったので僕が死んだ後の事後処理を頼むことにしました。
というのも兼ねてからの研究対象だった固形化電池の特許申請の際、僕の名前を末席に記載して頂けることになったからです。
その友山と特許事務所の方がみえたら相続の話なので、愛菜が相続人となってください。生まれてくる子供の養育費の足しになればと思っています』
私は便箋から一旦顔を上げる。
(何で、今更こんな)
もっと早く読みたかった。
それしか言えない。
前半のうちの両親の話は良しとするにしても。
問題は後半だ。
さかのぼる事、15年前。
「愛菜、何か困っている事はありませんか?」
文化祭も終わり、一週ほど経った時に突然そう聞かれた。
ちょうど携帯が古くなってきたから携帯のバッテリーがヘタって困っていると答えた。
すると冬馬先輩は工学部のある大学を受験し合格した。
そして月日は経ち、お葬式から数日経った頃、友山という冬馬先輩の友人から電話がかかってきた。
何も聞かされていなかった私は仰天するばかりだった。
友山さんから冬馬先輩の事を色々教えてもらった。
先輩が実はとても優秀な研究者で教授や企業から何度も留学を勧められていた事。
それを全部断っていた事。
次々と私の知らない冬馬先輩の姿を知らされることになった。
「あいつは常識の通じない変人でしたが天才でした。冬馬の発案した固形化電池はこれからの未来をもっと明るくするでしょう」
友山さんは冬馬先輩をそう評した。
今の私のスマホには冬馬先輩の研究していた電池が入っている。
そしてうちの両親に学費も返すことができ、マンションも購入することができた。
(養育費のだけじゃなく私が働かなくてもいいほど経済的に余裕あるよ、冬馬先輩。それにしてもこの手紙、亡くなる直後に読んで欲しかったんじゃ……)
私は再び便箋に目を落とした。
『ここからは僕の過去を振り返りながら書きます。
自叙伝というか覚え書き程度なので、流し読み程度に読み飛ばしてください。
僕の人生を振り返っていくと、最初の思い出は幼少期の頃の事です。
現実を直視できず心を閉じていたのでハッキリとは思い出せませんが、あの頃の僕は常に死を考えていたように思います。
死んで楽になりたい、ただそれだけを祈っていました。
次に思い出されるのは愛菜のお母様のことです。
死を望み、人を憎み続けていた僕を救ってくれた大切な人です。
僕が言葉を覚えたのも彼女のおかげです。
本当の母親ではありませんが、幼い僕は心の中だけで「お母さん」と呼んでいました。
人生で恩人と呼べる人は沢山いますが、彼女こそ人間らしさを与えてくれた僕の原点です。
僕は能力そのものが本当は嫌いです。
でもずっと、なぜ嫌悪してしまうのかはっきりしませんでした。
それでも宿命には従うつもりでした。
理由はごく単純なものです。
自分で考える事を完全に放棄していたからです。
剣だから戦えるはずだ。神器だから巫女を守れるはずだ。
そう言われるから従う。
「お母さん」の本当の娘、神託の巫女と契約することを決めました。
夢でみる壱与という夫婦同然だった相手の生まれ変わり。
大切な恩人の娘。
ある意味、因縁の塊です。
失礼があってはいけないといつも気を張っていました。
それでも侮られると契約に障りがあるので、常時平静を装っていました。
ですが至る所でボロが出ていたようにも思います。
それと同時に落胆したのも覚えています。
考えが浅く、そのくせ首を突っ込みたがる性格に苛立ちさえ感じていました。
苛立ちを覚える一方で親しみのようなものが次第に芽生えていきました。
契約の時に一部心を共有したせいもあり、愛菜の感情が色となって流れ込んで来ることがあったのです。
色とりどりのそれらを見るのか好きで、興味を持ちました。
そして僕自身も知らぬ間に、愛菜の感情に感化されていったのです。
まるで自分が自分ではなくなるような不思議な感覚がしました。
苛立ちは焦燥や嫉妬に。
親しみは愛情になっていく。
ぼやけて白黒に霞んでいた世界に、差し色が少しずつ足されていったのはとても刺激的でした。
先程も書いたように、本当は能力そのものに嫌悪していました。
今ならその理由が分かります。
何にも縛られる事のない自由が欲しかったのです。
僕は多くの能力者である仲間を無秩序に殺戮していった罪人です。
そんな僕が幸せになってもいいのか。
家族を持っていいのか。
自由を謳歌していいのか。
その度に自問自答してきました。
死の足音が大きくなってきた最近ですが、それほど恐怖は感じていません。
ただ妻の愛菜とまだ見ぬ和馬という名の息子を置いて先に旅立たなければならない事は、身を引き裂かれる思いです。
感情が希薄な頃に僕はよく愛菜に「守る」という言葉を使っていました。
でも「守る」と上辺をなぞって言っていただけだったに過ぎません。
むしろ僕の方が愛菜に守られていたような気がします。
僕は無責任な男です。
そして未練がましい男です。
愛菜と和馬を最後まで「守る」ことさえできなかった男です。
それでも渇望していた自由を手に入れた。
惜しみない愛情を妻から貰った。
沢山の人達が支えてくれた。
僕は僕の生に意味があったと胸を張って言えます。
愛菜、今まで僕を好きでいてくれてありがとう。
笑えない僕に笑顔を教えてくれた人。
あなたは僕の希望そのものでした。
僕の愛しい家族が末長く幸せであることを祈ります。
御門冬馬』
(ずるい……今更、もっと好きにさせてどうするの?)
会いたい。
今すぐにあの大きな胸に飛び込みたい。
薄い紙切れを抱き締める。
クシャと音が鳴り、慌てて畳の上で伸ばす。
(こんな紙切れじゃ頼りなさすぎるよ……)
畳の上に涙がこぼれ落ちる。
ポタポタと丸いシミが増えていく。
「もう終わった? 宿題の答え合わせしてよ」
和馬が和室のふすまを開けて入ってくる。
そして驚きの顔に変わっていく。
「母さん、泣いてるの?」
子供の前で泣いていた事に気付いて、焦って涙を拭う。
それでも次々と溢れ出て、止める事ができない。
「ごめ……ん。びっくり……させ……ちゃったね」
すると和馬が私の目の前に立つとギュッと手を伸ばしてきた。
まだ薄い肩に額がぶつかる。
「さっき父さんの手紙に書いてあったんだ。母さんは泣き虫だから僕の代わりに抱きしめてあげてくださいって」
「……お父さんが?」
「泣いた母さんなんて見た事ないのに……って思ってたけどこうなる事が分かってたのかな。まるでエスパーみたいだね」
(冬馬先輩、心配しないで。私も和馬も幸せだよ)
本当は人間に能力なんて必要ない。
心を動かす強さは術を使った力なんかじゃない。
そう冬馬先輩は言っていた。
(確かに、その通りだよ)
私は力の限り和馬を抱き締める。
私と冬馬先輩、二人の宝物。
「母さん、ちょっと苦しい……」
「愛してる、和馬」
(そして愛してるよ、冬馬先輩。また来世で)
きっとまた会える、そんな気がした。
冬馬ルート完
最終更新:2025年08月27日 06:18