私は悩んでいた。
冬馬先輩からの手紙の中に、一枚の妙な紙切れが紛れ込んでいたからだ。
「彼女は帰れる可能性、大」
たったそれだけ。
筆跡は間違いなく冬馬先輩のもの。
けれど、それが意味する「彼女」が誰なのか、まるで見当がつかない。
(……私じゃない、はず。だって先輩は……)
胸の奥が小さく波打つ。
嫉妬心なんて、自分には無縁だと思っていた。
それなのに「彼女」という文字ひとつで、知らない影を想像してしまう。
苦く、情けない気持ちだった。
そんなとき、春樹から和馬に連絡があった。
「プレゼントがある」と。
誕生日でもクリスマスでもないのに、春樹は時々こうして押しかけてくる。
私は控えてほしいと伝えているのに――甥っ子可愛さで止まらないらしい。
案の定、和馬は朝から落ち着きなく、玄関の方を気にしていた。
ピンポーン。
チャイムが鳴った瞬間、彼はゲームのコントローラーを放り出し、玄関へ駆けていった。
「いらっしゃい、春樹」
「春樹おじさん、いらっしゃい!」
「ほら、これだろ? 抽選に何度も落ちて、ようやく当たったんだからな。絶対に壊すなよ」
春樹が抱えていたのは、大きな箱。
鮮やかな赤と黒のロゴ――最新型の家庭用ゲーム機「スミッチ2」。
しかも入手困難だと噂の『アリオカート』同梱版だった。
「やった、本物だ! ありがとう!」
和馬は歓声を上げ、箱を奪うように受け取ると、リビングへ走り去った。
「……また勝手に。高価なものばかり買ってきて……」
「いいじゃないか、たまには」
「“たまに”だったらね。はい、麦茶」
「ありがと」
ソファに腰を下ろした春樹は、汗を拭うでもなく、一気に麦茶を飲み干した。
白衣ではなく、シンプルな紺のシャツにスラックス。
忙しい救急医のはずなのに、いつも不器用に時間を捻り出しては、こうして和馬に会いに来る。
(……本当に、変わらないな)
私は胸の奥で、ほっとしながらも少し複雑な気持ちを抱いていた。
「あのね、春樹。ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
私はポケットから例の紙切れを取り出した。
冬馬先輩と春樹は、仲が悪いのか良いのか――どこか測りかねる関係だった。
だからこそ、春樹なら何か知っているかもしれないと思った。
「先週なんだけど、冬馬先輩からの手紙をやっと開ける決心がついて。和馬が大きくなったら読んでほしいって、ずっと預かってたもので……」
「それで、その手紙はどうだった?」
春樹の口調は、まるでその中身を知っているかのようだった。
「……うん、手紙を通して久しぶりに会えて。……すごく、嬉しかったよ」
言葉にすると胸が熱くなる。
あの手紙に込められた温かさは、今も私の心を支えていた。
「そっか。良かったね」
春樹は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
その言葉は素っ気ないようでいて、どこか噛み締めるような。
あまり聞いたことのない、複雑な声色だった。
「で、この紙切れはなに?」
「うん。これは、私たちへの手紙じゃなくて、封筒に混ざってて」
私は走り書きの紙を見せた。
「彼女は帰れる可能性、大……?」
春樹は眉をひそめた。
その時だった。
「おじさん、一緒にアリカーやろうよ」
和馬がリビングから顔を出し、春樹を覗き込んでいた。
彼の視線が、ふとテーブルに置かれた紙に落ちた。
「あれ? この紙、よく見るとボコボコしてる。これ、あれじゃない?」
そう言うなり、鉛筆で黒く塗りつぶし始めた。
撫でるように芯の黒鉛が広がっていく。
「ちょっと和馬!」
私は慌てて止めたが、もう遅かった。
その彼の残した大切なものは、光沢のある灰色に染まってしまった。
(せっかく冬馬先輩が私たちに託してくれたものなのに……)
でも──
鉛筆の跡の中から、奇妙な模様が浮かび上がった。
一本の線が、二つに枝分かれし、さらに二つに……。
Yの先端にYがあるような。
それが白く浮き上がってきたのだった。
「何……?」
私の問いに、春樹の声が急に硬くなる。
「フロッタージュだ」
「ふろ……?」
「凹凸の上に紙を置いて、鉛筆でこすって写し取る技法だよ。葉っぱの葉脈を写したりしなかった?」
「学校でも流行ってるんだ。秘密の暗号みたいじゃない? これ書いた人、かなり筆圧強いよね。おじさんの?」
和馬は興味深く覗き込んでいる。
けれど私と春樹は、笑えなかった。
浮かび上がったその記号は、まるで暗号めいていて──
「……彼女。帰る……? 枝分かれした線……」
春樹は腕を組み、深く考え込んみ始める。
静かなリビングに、扇風機の音だけが響いていた。
最終更新:2025年08月27日 01:42